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ミラ・コウン





 赤煉瓦橋の下。それが私のいた場所で、橋の下の子、が私だった。昼でも薄暗い橋の影で残飯を漁って、寒い夜は他の子供と身を寄せ合うようにして暖を取る。子供はいつのまにか増えたり減ったりして、いつ死ぬかもわからない日々。


 ある日、五歳くらいの子供全員が、突然教会に連れて行かれた。教会の中はひんやりと静かで、窓から差し込む光が床に広がる影を描いていた。祭壇には黒ずんだ枝が、一本置かれていた。

 よく分からない言葉の後に、綺麗な服の子供、どこにでもいそうな服の子供、孤児の順に枝を握らされる。他の子が枝を握ると、ほのかに光るだけだった。でも、私が握り込んだ瞬間、枝は白い輝きに包まれた。それは他の子の光より力強く、熱くなく、柔らかく揺れる。


「なんだ、こいつ? 光にしては形が……」


「違うぞ、炎だ! こいつはいとし子だ!」


 赤でも青でもない、純粋な明るさ。その炎に視界を奪われているうちに、教会の人間に手首を強く掴まれた。


 橋の下の仲間たちとの別れは、あっさりとしたものだった。寒い時は身を寄せ合ったけれど、空腹の時にはパンを奪い合うような間柄だ。赤煉瓦橋がカミドニアのどの領にあったのかも覚えていないし、誰の顔も思い出せない。けれどどこかで、どうにか生きてくれていればいいと思う。


「こんな小汚い孤児がいとし子だとは……」


 吐き捨てる声と共に、水で髪と体を乱暴に洗われた。窓のない馬車に押し込まれ、がたごとと揺られながら連れて行かれたのは、王都の教会本部。その中庭にそびえる、聖樹の根元だった。

 屋根のない、丸い庭の中心に堂々と存在する大きな樹。聖樹は大の大人が10人手を繋いで円を使っても届かないくらいに幹が太く、青々とした葉が光を反射していた。


「聖樹のいとし子」


「恵まれていることに感謝を」


「樹に祈りを」


 高価そうな服を着た大人たちの言葉が降ってくる。言われた言葉の意味は分からないけれど、とりあえず冷たい土に跪いた。祈りの言葉なんて知らなかったけど、樹が揺れ、葉がカサカサと音を立てた。その姿を見て、成功だと彼らはざわめく。

 それから数日は、窓のない石の部屋に閉じ込められていた。パンは貰えたから文句はなかった。また馬車に乗せられて、連れて行かれたのが、コウン子爵家だった。




   ∮




 コウン子爵家の当主は、白髪混じりの髪をした男だった。馬車から降りた私の顔を見ることもなく、教会の人間に媚びるように両手を揉む。


「コウン子爵。あなたのすべきことは分かっていますね?」


「ええ、もちろん! いとし子であるこの娘を、その時まで責任をもって養育します。ですからどうか、教主様によろしくお伝えください」


 ええ、と返事だけして、教会の人間は私の名を一度も呼ばず、振り返ることなく去っていく。

 馬車の影がなくなるとコウン子爵も、お前のことは従者とあいつがなんとかする、感謝して全て従え、と吐き捨て、屋敷に消えた。

ついて行ってもいいのだろうか。玄関の前に立ち尽くし、2階建ての建物を見上げる。

 その時、子爵と入れ替わるように、一人の少年が屋敷の扉を開けて現れた。黒髪が柔らかく輝き、紺色の瞳が私をまっすぐに見つめた。彼は膝をつき、私の目線に合わせて微笑んだ。


「こんにちは。君の名前は?」


「ミラ。ミラ…………。苗字は、ないの」


「そうか。とても良い名前だね。……俺はゼノン。ゼノン・コウンというんだ。今日から君も、ミラ・コウンになるんだよ」


 ずっと兄妹が欲しかったんだ、どうぞよろしく、と差し出された手。その温もりに、なぜか泣きそうになった。


 彼は私の手を握り、屋敷の中を案内してくれた。侍女に浴室で髪と体を丁寧に洗うことをお願いしてくれたし、好みが分からなくてごめんね、といいつつ、柔らかい生地のワンピースを用意してくれた。

そうして屋敷の2階、陽光が差し込む部屋に連れて行かれる。

……風に揺れる青いカーテンと、角の丸い木の机。大きなベッドの白いシーツが、目に染みるような、そんな部屋。


「必要なものや欲しいものは、明日揃えよう。――ようこそ、ミラ。コウン家へ。」


 彼の笑顔は、陽射しそのもののようだった。




 ∮




 数えることもできないほどに、たくさんのものを、彼から貰った。眠れない夜の蜂蜜入りのハーブティー、文字も本の読み方も、歌も、馬の乗り方も。おやすみと言われると嬉しくなることも、頭を撫でられると心臓が跳ねることも。

 綺麗な人だった。線が細い顔立ち、といえば良いのだろうか?とびきり綺麗な、自慢の兄。優しくて格好いい、世界で一番大好きな兄さま。

彼も私を可愛がってくれて、どんな髪型も似合うね、と髪を編んでくれた。最初は不器用だった指先はどんどん上手になって、複雑な編み込みだってしてくれた。お揃いの、鯨という生き物を模したペーパーウェイト、贈ったあとに何年も使い続けてくれた、押し花の栞。兄さまの部屋と私の部屋、両方に大事なものが増えていく。


 あの人の、あの日々の、何もかも覚えている。

 かさついた指先、考える時に顎に手をやる仕草、笑う時に突っ伏す癖。領中の人に好かれて、近所の歳の近い女の子全員に熱い視線を向けられても6歳年下の面白いことひとつ話せない、ぴよぴよついて回るだけの子供においでと手を伸ばしてくれた。

 俺たちは家族だから、と抱きしめてくれるその温もりに、目を閉じて甘えた。


―――寂しかったのだろう。兄さまと、一応は私の養父であるコウン子爵は権力欲が強く、母親はそんな夫に見切りをつけて家を出ていった。子爵は商売や地位の高い人間に媚を売るばかりで、息子を顧みなかった。


「ミラ様が来てくれてからこの家は明るくなりました」


 そう侍女が言ったように、彼はずっと一人だったのだろう。そんなことを察しもせず、頭を撫でてくれる手に甘えきった子供は、読み聞かせをせがんで、毎日のように彼の肩に頭を預けて寝落ちしていたけれど。


 大好きな人がいる日々は日常になり、そんな日々は、ずっと続くと信じていた。

 それは罪だったのだろうか。自分がなぜコウン子爵家に連れてこられたのか、考えなかった罰が、今なのだろうか。




   ∮




 私が9歳、兄さまが15歳の時、彼は王都の学園に入学した。寂しかったけど休日には必ず帰ってきて、王都のお土産を渡しながら、楽しそうに学園の話をしてくれた。だから帰ってくる日は朝から窓辺で馬車の音を待ち、ただいまの声を心から待ち望んだ。


 そのころから、兄さまは何か考え込むことが増えた。瞳に影が差し、笑顔が少し硬くなった。


「大丈夫だよ、ミラ。……ミラには、俺がついているからね。」


 頼りないだろうけど、もう9歳になった。碌に家に帰らない子爵よりずっと近い、唯一の家族が悩んでいる。兄さまがそんな顔をするのはどうして?力になりたいの。そう何度も訴えたけど、彼はいつも大丈夫だよ、と笑い、頭を撫でるだけだった。



 自分の生まれた日は分からないけれど、彼はいつも、おそらく誕生月の最初の日に、私を祝ってプレゼントをくれた。

 12歳のその日が近づいた時。この家を出ていくんだ、と言われた。


「ミラ、まず、この話は誰にも言ってはいけない。馬車の乗り方は分かるね? 10日後、朝一番の馬車でコウン子爵領を出て、アルドゥールの方向に向かうんだ。このメモにある地図の場所に行けば、母さんの遠い親戚が面倒を見てくれる。そこから―――」


「……どうして? 兄さま」


「…………それが、必要だからだよ」


 膝をついて、2人っきりの部屋で、そういわれた。

 言うことを聞いて、ミラ。そう話す彼の顔を、思い出せない。なんで出ていけなんて言うの? 兄さまは私のことが嫌いになったの、兄さまと離れるなんて絶対に嫌、と。そう泣きじゃくり、彼に縋りついた。ごめんと呟いたけれど、その手はもう、頭を撫でてくれなかった。

 もう知らない兄さまの馬鹿、と愚かな子供は叫び、その場を逃げ出した。

 あの人がいなくなったのは、その10日後のことだった。


 あの10日間の記憶は、霧のようにぼやけている。頭が真っ白になって、なにも考えたくなくて、本当に、なにも覚えていないのだ。

 その日の陽が登るより早い時間、言葉もなく兄さまに手を引かれ、馬車に乗せられた。納得できなかったから、馬車が速度を落とした瞬間幌から飛び降り、屋敷に走った。息が切れ、足が震え、昼前にようやく戻った時、彼はもういなかった。

 屋敷には、子爵の怒号が響いていた。


「ゼノンを捕まえろ!……あぁ、もし種が見つからなかったら、教主様になんと伝えればいいか……!」


 立ち尽くすことしか出来なかった。誰も今帰ってきた私に気づかないほど必死で、慌てていて、顔色が悪かった。

 数日しても、兄様は見つからなかった。


「なんてことだ……種を奪われるなど、お前、何をしたのか分かっているのか?!」

 

 さらに何日かして、ついにコウン子爵が隠しきれなくなったのだろう、教会の人間が家を訪れた。怒号と謝罪の声が繰り返されるなか、日常が壊れたことだけは、よくわかった。




   ∮




 誰にも言ってはいけないと言われたから、手紙と地図を隠し、誰にも見せなかった。どうして兄さまがいないの?その問いに、返事はない。誰よりも問いたい、あの人もいない。


「陸路も検問でも、ゼノン・コウンは見つからない!」


「種を飲んだなら、既に木になっているかもしれない。領中、特に山や森を探せ!」


 壁に耳を当て、そんな会話を盗み聞いた。彼らは兄さまを心配しているのではなく、ただ「種」の行方を追っていた。


 しばらく経っても、ずっと待っても、兄さまは見つからなかった。養父だった子爵はどこかに連行され、私は王都の教会に送られた。窓のない部屋に閉じ込められ、湿った石壁に水滴が伝う。聖樹の前に何度も連れて行かれ、もう一度種を賜れないか、と跪かされたけど、無駄だったらしい。明日こそどうだ、もっと祈れ、とため息を繰り返される日々。


 兄さまはどうして、いなくなったのだろう。そればかりを考えた。大好きな、優しい兄さま。私はなぜ、あんな酷い言葉をかけてしまったのだろう。兄さまは種を奪ったらしい。種とはなんなのか。それが分かれば、もう一度あなたに会える?

 教会が知っていて、私が知らない何か。兄さまに繋がる何か。それを知らなければいけない。知ろうとしないなら、そんな私に生きる資格も、価値もない。




   ∮




 どうか教会で、祈る以外のお役目をください。そう頼めば最初は渋られたけど、信仰心を高めるためと言えば、雑用を許された。黒い面をつけ、窓拭きでも芋の皮剥きでもなんでもやった。それは召使、と呼ばれる身分らしい。

 教会には多くの召使がいた。年嵩の者も若い者もいて、15歳頃になると王都の学園に派遣される。兄さまがいた場所だ。どうか私も15になれば学園で働かせてください、と願うことに躊躇いはなかった。

 学園の仕事は忙しかったけど、兄さまの手がかりを得られる喜びの方がずっと大きかった。彼がよく通った場所、彼のレポートや成績表の写し。それらを探して、貸出カードを頼りに彼が図書室で借りていた本を探すうち、本に挟まれた栞と、描かれた暗号を見つけた。


 賢い人だった。私が辞書片手に5日かかった暗号を、彼なら数分で解くだろう。図書室前の甲冑の剣の柄を回すと、ガチャリと音がした。心臓がバクバクと鳴った。

 まだ、期待していたのだ。兄さまは生きているのではないか。この石の階段の下にいて、久しぶりと頭を撫でてくれるのではないか。あり得ないと分かっていても、あまりに急に失ったから、なにも納得できなかったから。

 たくさん聖樹に祈れば、たくさん働いて教会のことを知れば、学園に来れれば、もう一度、兄さまに会えるんじゃないかって。それだけが、生きる意味だったから。



 地下室に、兄さまはいなかった。

 聖樹の、真実を知った。



 聖樹は人を喰い、種はいとし子を操る。洗礼の儀はいとし子を見つけるためのもの。18歳になれば、種を飲んだ人間は死ぬ。私は、樹に捧げられるためにコウン子爵家で育てられたらしい。


―――地下室のベッドの下、隠された資料を読めば読むほど、笑いが込み上げた。コウン子爵は、教会に恩を売るため、私を引き取った。その日まで養育し、樹に差し出すためだ。そして、なぜ兄さまがいなくなったのかも、分かった。


「にい、さま」


 種はいとし子が12歳前後になると、樹から授けられる。実際私が12歳になったとき、種は生まれて、私に死の運命を背負わせるために、コウン子爵家に渡されたのだろう。それを兄さまが持ち去った。私に種を飲ませないため。このままでは殺されるからと私を外国に逃がし、自分も種と共に失われた。

 かつて、いとし子ではない者が種を飲むと、体は木に変わったという。木を隠すなら森の中。人間が木に変わっても、誰も気づかないだろう。あんなに優しく、賢く、綺麗な人が。私のために、一人きりで、人ですらなくなって。

 妹ひとり切り捨てれば、幸せになれたのに。幸せになって欲しかったのに。


「どうして、あなたは」


 どうして、なんて分かっていた。家族だから。大事な、誰よりも大切な家族だからだ。

 実家に隠した地図とメモには、どの馬車を乗り継ぐか、行ったことの無い外国でどうふるまえばいいか。そんなことが詳細に、本当に細かく書いてあった。私が確実に逃げられるように、もう一緒にいられないからと、丁寧に。


 知っている。分かっている。あなたが私を愛してくれたこと。そうして、だからこそ、手を離してくれたことを、今知った。




 あのね、兄さま。私、あの時もう、1人で馬車に乗れたんだよ。

 それとね。

 あなたの役に立つなら、あなたが生きていてくれるなら。

 殺されたって良かったんだよ。




 埃と黴の匂いに満ちた地下室で、喪失を知る。

 その穴は、簡単に憎悪になった。




   ∮




 教会の不正の証拠を集めた。樹を滅ぼす方法も。兄さまに生かされた命だ。兄さまを殺したものを殺すために、使い潰さなくてはいけない。

 誰も信用してはいけない。教会にはまだ、私が樹を信仰していると信じ込ませる。学園の他の召使たちにも本音を漏らしてはいけない。なにも知らないけれど、結局は彼らは教会の人間だ。私が無知なままでいるか、教会は他の召使を使って確認している。


 昼は仕事をこなし、夜は本や資料を読み解いた。この地下室は、教会派が力を持ち始めた頃に作られた、反教会派が学生に聖樹が神でないと教えるためのものだった。こういった資料庫は他にもあるらしいが、出掛けることは許されておらず、確認することは叶わない。

 この地下室を私と兄さま以前に使っていた人間もいたのだろうが、痕跡はない。―――万が一この場所が教会派にバレれば、知りすぎた罪で処分される可能性もある。当然と言えば当然だった。


 この国の言葉で書かれているものでも、紙や文字が劣化していたり、単語の意味が分からない、古語で書かれているなど、読み解くことが大変なものも多かった。とくに外国の言語なんて到底お手上げだったけれど、分かったこともある。

 

例えば、樹は、魔法の力でしか傷つけられないことなど。

 その事実を知った時、床に伏せ、喉の奥で笑った。私は火の魔法を持っている。洗礼の日、白い炎は私の手を燃やさず、枝を焦がした。

 早く自分が18歳になればいい、樹が新しい種を作ればいい、と心から願った。飲み込まれる瞬間に、私ごと教会の聖樹を燃やし尽くす。教会の信仰もろとも、すべて。

 殺してやる。世界を殺されたのだから、お前たちの世界など、滅ぼしてやる。




   ∮




 18歳になる日、樹に差し出される日を、ひたすら待ち望んだ。なにも惜しくなかった。なにも欲しくなかった。


 そうして、エレノアに出会った。


 美しい子だった。空色の瞳に銀色の髪、美女と美少女の合間のような女の子。風に飛ばされた紙を、一度拾ってもらっただけの女の子。


 すべきことがある。なさなければいけないことがある。なのに怯えた瞳を見れば、身を隠せる場所がある、と口走っていた。

 彼女が隣の大国の王子様の想い人だったとか、もう一人のいとし子だったとか。彼女の洗礼の儀から察した、彼女の魔法とか。想定外しかなかった。アルドゥールが介入して私が探るよりよほど多く教会の不正が暴かれたことも、ラインハルト殿下が持つ剣が聖樹に有効な魔道具だったことも。夢にも思わなかった事態にどうしようか、と無い頭を毎回振り絞ることになったけれど、間違いなく僥倖だった。


 なにより、エレノアと過ごせた時間は、素晴らしいものだった。

 どうしてこんな目に、と憎んで当然なのに、閉じ込められて食事も身の回りのものもずっと粗末になっても、私に一度も恨む言葉をかけなかった、綺麗で優しい子。あんな目に遭ってなお、国を憎むより召使の待遇改善を願える、誰かの幸福を願えるような、世界で一番素敵な女の子。

 ただいまと言えば、おかえりと返されるのが嬉しかった。彼女の想い人の話を聞くのは、兄さまの妹だった頃、領の女の子とした恋の話のようで楽しかった。

 助けてくれてありがとうと何度も言われたけれど、救われたのは間違いなく私だった。世界も教会も貴族もすべてを憎み、嫌い、呪ったなかで、彼女だけは日常に帰してあげたいと思った。そんな気持ちを持てたことそのものが、奇跡だった。


 何も伝える気持ちはなかったのに、あまりに彼女が優しかったから、あの新月の夜に兄がいるの、と口走った。誰もが忘れた、もう誰も名を呼ばないあの人のことを、彼女にだけは伝えたくなった。

 友達とは最後まで呼べなかったけれど、あなたに出会えて良かった。早く、あなたを愛する人たちとアルドゥールに行って、幸せになってほしい。

 あなたを傷つける樹を、私がこの国で焼き殺せたら。貰った素敵なハンカチの、お返しくらいにはなるだろうか。


そう考えて、あの夜、彼女の部屋をでていったのだ。




   ∮




 ピチャリ、と水滴が頬を叩き、目を覚ました。鉄格子越しの薄暗い景色。窓がないから、外の時間も、どれほど経ったのかも分からない。木が喰ったと判断したエレノアが生きていて、アルドゥールが教会に介入しようとしていると知った時の、教会の人間たちの顔は見ものだった。あの焦りと憎悪、長く道具と思っていた人間に裏切られた瞬間の、訳がわからない、と言わんばかりの顔!


 あれだけ私のことも憎々しげに睨みつけていたのだから、牢に入れる前に足の腱を切るくらいはするかと思ったけど、手足すら自由なままだ。

 早く樹のもとに連れていけばいい。エレノアに手出しできないお前たちには、それしかないのだから。


 水滴がひとつ、目尻に落ちる。

ーーー本当は、エレノアにちゃんと、離れる理由を伝えるべきだった。何でもいいから、納得させてからいなくなるべきだった。言えなかったのは、私の弱さだ。

 嘘をつきたくなかった。ありがとうも、さようならも言いたくなかったから、なにもいえなかった。どうか早く、私を過去にしてほしいと祈る。雫が、ゆっくり顔を伝う。


 かつかつ、という足音に瞳を上げる。地下牢に続く階段からだった。


「……寝ているとはいいご身分だな、この裏切り者が」


 現れたのは、男二人だった。教会の一定以上の権力を持つ人間が身に纏う、カソックにつけられた装飾。憎々しげな声と表情。ーーーようやく、私に用事のある人間が来たらしい。

 ふ、と笑って応えた。


「あなた達、誰?」


 男二人の表情が変わる。赤黒く染まった顔、憎悪と怒りの眼。笑えて仕方なかった。檻の鍵が開き、黙らせてやる、とそのうちの一人が呟く。


「どうぞ、ご自由に。……やってみれば?」


 もう何も失うものはない。あの学園の地下室で、魔法は、込められた思いが強ければ強いほど、力も強くなると知った。憎悪が強ければ強いほど樹を燃やせるなら、どうか手も足も切り落とせ。その恨みで、お前たちの大事な樹を、燃やし尽くしてやるから。


 笑う。笑う。そのなかでまた、音がする。男たちが近づく音と――もう一つの足音に、 顔を上げた。丁度階段を降り切った、黒い人影。召使の服に、黒い面。


「は、怯えて声も出ないか? お前の―――」


 ゴツリ、と。鈍い音とともに教会の男の声が止まった。召使の服の人物が2人の男のうちの1人、その太った背に、鉄の燭台を振り下ろしたからだ。


「ヨゼ……誰だ、おまっ!?」


 言葉を言い切ることもできず、もう一人も殴られ、あえなく床に沈む。かがんで2人が動かないことを確認してから、背の高いその誰かは、穏やかに私に話しかけた。


 

「………ここにいるのは、種を飲んで、その魔力で聖樹を焼き尽そうと思ったから?それは、上手くいかなかったと思うよ。歴代のいとし子のなかにも真実を知って、同じことをしようとした人間はいた。けれど、上手くはいかなかった。種を飲んで魔力を増やしたところで、それは所詮あの樹によって増えた魔力だからだろうね」


「あなた、は」


「種の事もあるしね。―――なによりも。もっと自分を大事にしてほしいな、ミラ」







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いとし子でなければ兄さまに会うことはなかった 愛情と喪失 復讐の過程で出会った友 兄さまのことを言葉に出せる相手がいたことに救われます 更新ありがとうございます
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