見張り番
一歩進むごとに床板が軋む寮を出て、学園の隅にある離塔へと向かう。この時間にいるのは召使くらいのはずなのに、門や低い塀の近くには、王家の紋章をつけた兵士の姿があった。第三王子は欲しいものを買ってこいとか鼻で笑うような理由で王家の兵士を使う、というのは有名な話だったけれど、エレノアの監視のため、わざわざ呼びつけて学園を見張らせているのだろうか。
湿った土の匂いは、どこか重苦しい。
貴族階級が大半であり、王家直属の兵である彼らは、すれ違う召使なんかに興味を示さない。離塔の扉はかんぬきで閉ざされている。立ち入る必要はないから、扉の前に立っていればいい。そう思っていた、のだが。
「はは、王子も馬鹿だよな。それとも、こうなることも計算に入れてクロレディア公爵令嬢を閉じ込めたのか?」
「どっちでもいいさ。あんな美人を好きにできる機会なんて、これを逃したら二度とないんだ。扉はどうせかんぬき……うわ! なんだ、召使か!」
二つの影とその言葉に、足を止める。離塔に向かう途中の校舎の物陰に、制服を着た学生らしい男が二人いた。
向こうも驚いた声を漏らしたが、草木も眠る丑三つ時に、学生がこんな場所にいるはずがない。なぜここにいるのか。話の内容から、すぐにその理由に思い至った。
途方もなく、胸糞悪い答えに。
「こんなところに何の用だ……クロレディア公爵令嬢の見張りか? おい、召使! 離塔の番なんかしなくていいから、さっさとどこかへ行け!」
「……そうして、あなたたちは離塔に向かうのですか?」
男たちはたじろいだ。その顔には緊張と焦り、そして、隠しきれない興奮が浮かんでいるように見えた。
「お、お前には関係ないだろう!」
そうですか、と呟き踵を返す。
人を呼ぶべきかと考えて、すぐにその考えを打ち消した。兵士も貴族も教師も、第三王子の意に逆らってまで公爵令嬢の味方をしてくれる者がいるかわからない。召使が塔の見張りをしろと言うなら、王子は連れてきた王家の兵士に彼女を守らせないということだ。呼んだ相手が彼女を助けてくれる保証は、どこにもない。
拳を握りしめ、代わりに物置へと向かう。目的のもの―――仕舞われていた火かき棒を見つけ離塔に戻ると、学生二人はちょうどエレノアがいるはずの地下へと続く扉を、開けたところだった。
美人を好きにするとか、見張りを追い払うとか。男たちの脂さがった顔。囚われた少女に何をしようとしているのか、それだけで十分わかった。
……クソったれ、人間以下のゴミ野郎ども。
後ろ手に握りしめた火かき棒を、きつく握りしめる。
まだ間に合う。背に隠した武器を見られず立ち去れば、まだ忠実な召使でいられる。同じ場所にいても、貴族と召使の地位の差は計り知れない。これがバレたら、私は無事では済まない。
けれど、召使である前に私は人間だ。―――お偉方をぶん殴って罰せられるかも、なんかより、優先すべきものがあるでしょう?
男たちは恐る恐る階段を降りようとしている。その背後に忍び寄った瞬間、床から何かが飛び出し、彼らは大きくのけぞった。
「な、なんだ今の!」
「……ネズミですけど」
チュウ、と鳴き声。
「は、なんで、お前――ネズミ?! 汚ねえ!」
私に気づいた男たちは、もう一度聞こえたチュウという鳴き声に、まるで熱した鉄板の上にいるかのように跳ね回った。高貴なお貴族サマには、ネズミ一匹すら我慢できないらしい。バッタのようにはね、手の平ほどの大きさの脅威を警戒する。今日、彼らの残飯を捨てた廃棄場なんて、ここの比じゃないほどのネズミや虫がいるというのに。
「たった一匹で何を騒いでるんです? あなたたちが行こうとしている地下なんて、ネズミどころかそれ以外のものも、うじゃうじゃいますよ」
「なっ……! か、帰る! いいか、オレたちがここに来たことは誰にも言うなよ、絶対にだ!」
もちろん、と答える前に、男たちはあっという間に姿を消した。
吐息をつき、辺りを見回す。後ろ手に隠していた火かき棒は、気づかれなかったので近くの壁に立てかけた。
大きく、本当に大きく息をつく。
―――潔癖症のやつらで、これを使わずに済んでよかった。武器を持っていたとはいえ、女一人で勝てる保証はなかったし。腹立たしいことに、彼らが誰にも言うなと言った通り、今まさに行われようとしていた最低な行為を告げ口する相手もいないし、裁けもしない。それでも顔は覚えたわよ、と暗闇を睨みつけ、扉に向き直る。
……本当に第三王子は、何を考えているんだろう。そうして、私はこの扉の向こうの少女を、どうすればいいのかしら?
私がここにずっと立っているだけなら簡単だ。だが、次に来る誰かが、さっきの二人と同じような下衆で、しかもネズミ程度には怯まなかったとしたら?
あの美しい銀髪の少女は、私が何もしなかったせいで、酷い目に遭うかもしれない。想像するだけで胸糞悪い、尊厳を奪うような行為を。
「……………………はぁ」
もう一度吐いた息は、嫌になるほど重かった。そうして、懲罰牢の扉にゆっくりと足を向ける。
想像よりは―――あくまでより、というだけで、まったくいないわけではないが、懲罰室に向かうまでにネズミや虫を見ることは少なかった。
かつかつと石畳を進むと、最奥にその部屋はある。
扉を開けるため、傍に掛けられた鍵を差し込む。うまく回らずガチャガチャと音を立てていると、扉越しに鋭い声が響いた。
「だ、誰ですか……? クロレディア家の人間ですか? そうでないなら……殿下に命じられて私を私刑にかけようというなら、私は……!」
怯えも孕んだ声。ようやく扉を開くと、黴臭い匂いの中、一筋の月光に照らされた銀髪の少女の姿があった。
か細い光の中では瞳の色はわからない。だが、緊張と恐れに染まった瞳が、大きく瞬いた。
「あなたは……召使?」
「……第三王子の手下ではない、ということだけは確かね」
肩をすくめて答えると、彼女の瞳の鋭さが抜け、ぽかんとした表情に変わった。部屋には彼女以外誰もおらず、衣服がはだけている様子もない。そのことに安心した。
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「ご、ごめんなさい、大きな声を上げてしまって……! あなたは?」
「ミラ。この学園の、ただの召使よ。……でも、クロレディア家に命じられてここにいるわけでもない」
ずっと顔を隠していては不気味がられるだろうと、面を外してから気まずさに視線を逸らす。こんなところにいるべきじゃないと思ったから来ただけ、とは、さすがに言えなかった。ついさっきまであなたに最低なことをしようとした馬鹿が二人いて、しかもそんな馬鹿が三人、十人と増えるかもしれないからここに来た、なんてことも、当然言えない。
―――暗がりでも目を奪われるような、美しい女の子だった。埃まみれの地下には到底似合わない。腰まで届く銀髪は暗闇の中でもつややかで、大きな青い瞳と人形のような唇が愛らしい。顔だけで、こんな美しい子との婚約を破棄するなんて王子は何を考えているんだろうと思ってしまうほどの女の子。
「そう、なんですか? でも、あなたは私に酷いことをするような人には見えません。……助けてくださいませんか? この婚約破棄の件を、お父様に相談しなければいけないんです。家に帰るために、学園を出ないと」
「今すぐ学園を出るのは難しいかもしれないわ。王子サマはあなたを学園から出さないよう、兵士に門や塀を見張らせているみたい。ここに来るまで、いろんな場所で兵士がうろついていたし、きっと気づかれる。……でも、あなたはこんなところにいるべきじゃないとも思う」
そんな、と少女は呟き、膝を抱えた。
「どうすれば……どこに行けばいいのでしょう」
「……兵士だって、ずっといるわけじゃない。とりあえずここを出て、しばらく身を隠せる場所なら、心当たりがあるわ」
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―――召使は学園で働く間、仕着せと面の着用が義務付けられている。自室から服一式と面を持ってきて彼女に着替えさせ、召使い二人で移動しているように見せかけるのは簡単だった。公爵家のお嬢様が召使の服なんて嫌がるかしら、絶対嫌だと言い張ったらどうしよう、とこっそり思っていたけど、彼女は迷わず面まで被って、案外視界は悪くないんですね、と感想を漏らす。
夜会でも身につけていた彼女のドレスは、適当な布に包んで運んだ。兵士を見かけるたびにエレノアは体を震わせるから、落ち着いて、深呼吸して、と何度も声をかけなければならなかった。召使い全員に与えられている鍵を使って、学園東棟の図書室前の談話スペースまで歩く。
そこに飾られている甲冑の、模造刀の剣の柄。それを決められた角度にすると、敷かれた絨毯の下にある地下室への扉の鍵が開くと、知っているからだ。
「着いた。屈んで、入口が狭いから頭をぶつけるわよ」
「わぁ……! 驚きました。学園にこんな場所があるなんて」
ランタンをつけた先の光景に、エレノアは感嘆の声を漏らした。
明かりを掲げると、オレンジ色の光が揺れながら地下室の輪郭を浮かび上がらせた。埃っぽい空気が鼻腔にまとわりつき、喉の奥が苦い気さえする。
その部屋は、図書室の地下であろう片隅に、ひっそりと存在していた。壁一面を覆う本棚は、長い年月を経て傾ぎ、ところどころ板が反り返っている。棚に収めきれず床に置かれた古書は革の表紙がひび割れ、ページの端が黄ばんで脆そうに丸まっている。部屋の隅には使い古された大きな書斎机が鎮座し、その隣のベッドとともに、薄暗い光に浮かぶ。
天井近くの通気口―――細長い鉄格子が嵌められた小さな窓から、かすかに夜風が漏れて埃を揺らす。古書のにおいとも混ざり合って、独特な雰囲気を作り上げていた。
「秘密基地みたい……!」
エレノアがはしゃいだ声を上げる。彼女のキラキラした瞳がランタンの光を映し、暗がりの中で一瞬だけ鮮やかに浮かんだ。私の腕を掴んでいた彼女の手はまだ震えていたが、怯えは好奇心に負けたらしい。
こんなお嬢様でも秘密の地下室にはドキドキするのね、と内心で苦笑する。床に落ちた古い紙切れが、足音でかさりと動いた。
「……とりあえず、この部屋について説明するわね」