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エルシーの花

 



「あの……。ご迷惑をお掛けして、本当に申し訳ないと思っています。けれど、お伝えしたいこともあって……。こちらの資料を、地下室で見つけました。それと、トレエさんと中庭で話した時に、彼女は気になることを話していたんです」


 おそるおそる地下室から持ち出した歴代のいとし子の研究書を差し出し、次いで中庭で、トレエさんと交わした会話を反芻します。


 彼女は私が生まれるのを待っていた、番である、といいました。そうして、これでやっとふえられる、とも。ふえる、とはどんな意味を持つのでしょうか。そうして何よりも、どうして彼女は燃えて植物にその身を変えたのでしょうか。


 ぱらぱらと角の擦り切れた紙束に目を通し、難しい顔で私の話を聞いた後、ラインハルト様は難しい顔で仰いました。


「トレエ・グランツはかつて人で、今はそれ以外の何かである。それは間違いないだろう。……その正体は、おそらく聖樹だろうな。あれを燃やした後の地面を見たか?彼女を中心として木の根が生え、地面が盛り上がっていた。あれ自体も、自らが人間ではないような物言いをしていた。この資料の、500年前の魅了を使えたというトレエ。彼女を吸収し、その姿と名前、魅了の魔法を使えるものがトレエ・グランツであり、聖樹だろう」


「それ、は……」


 聖樹が人の姿を取るなんて突拍子もないこと、先ほどまでの燃える木人形を見なければ、決して納得は出来なかったでしょう。けれどもう、ありえません、とは言えませんでした。


「……ではラインハルト様は、どうして聖樹は、トレエさんの姿を選んだのだと思いますか?この国の歴史の中で、その資料にあるだけでも、多くの方がいとし子になり、聖樹に命を奪われました。聖樹がいとし子の姿を模すとしても、どうしてトレエさんだったのでしょうか」


 ふむ、と呟いて、ラインハルト様は顎に指をあてました。


「これは推論だが……。500年前のトレエが、魅了魔法の使い手であることが関わっていると思う。あの女が学園にいたころ、王子や君の友人は彼女に夢中になっていたのだろう?君の周囲がそうなるということは、それだけトレエは君の近くにいた、あるいは距離を縮めていた。つまり、聖樹は―――」


 長い指がトン、とテーブルをたたきました。


「君に、好意を抱かれたい。さっき言っていた、ふえるために」 


「そん、なの……。魅了で心を奪っても、そんなものに、なんの価値が」


 アルヴィン様に微笑みかけられて、大きな宝石などのプレゼントを手渡されて、微笑んでいたトレエさん。アルヴィン様は心から彼女を愛していたように見えましたが、ほんとうに彼女はアルヴィン様が好きなのかしら、と思ったことは、確かにありました。美しい声でお礼を述べて、周囲の人に微笑みかけていましたが、彼女の瞳はいつも透明で、うつろなようにすら見えましたから。トレエさんをもてはやす周囲に対して、操られているのではないか、と疑心を抱いたこともあったのです。……自分の心が意のままにならないなんて、魅了で、好きでもない相手に好意を抱いてしまうなんて。とても恐ろしいことに思えました。


「なんの価値、というよりも、魅了は手段なのだろうな。君を手に入れるために、周囲から篭絡しようとした。それだけトレエに近づかれていたのに君がトレエに魅了されなかったのは、君の特性が理由だろう。洗礼の儀の時に、君の手に聖樹の枝が絡みついたことが。……君がいとし子なのかは分からない。けれどとにかく、聖樹にとって君は特別なんだろう。魅了は掛からなかったのにこの夜に君がおびき出されたのは、樹による何かの力なのか……」


 言葉にしながら、彼自身の思考を整理しているのでしょう。ラインハルト様の低い声を聴きながら、私は自らの服の裾を握りしめました。

 トレエさんに不可思議に関心を持たれている、というのは、ずっと感じていました。けれど神に近い信仰の対象だった聖樹が人を殺すだけではなく飲み込んだ人間を操るような、故人の尊厳を奪いつくすようなものだったことも、自分がそれに狙われていることも。とても受け入れがたく、恐ろしいことでした。私自身が、操られてしまったことも。


「そ、れで、も……。あなたにご迷惑を、お掛けして。本当に、自分が、信じられません」


 考え込んでいたラインハルト様は、私の震えた声に、エレノア、と落ち着いた声を掛けます。


「俺も、怒りは覚えている。けれどそれは、自分の不甲斐なさにだ。───聖樹を碌でもないとは思っていた。けれどあれほど悍ましいものとは、予想もしていなかった。正直なところ、君の父上の考えは正しいと思う。俺も、今すぐ君をこの国から連れ出したいと考えているよ」


「私、は……。ミラを置いて、この国を離れることはできません!」


「分かっている。けれどならば、君がこの国にいることを選ぶなら、せめて、俺も巻き込んでくれ。……地下室に行ったことは、ほんの少しも文句はない。けれど次は、頼むから俺も連れて行ってくれ」


「……ラインハルト様は、どうして、ここまでしてくださるのですか?」


 大国の王太子様で、小国の、対岸の火事でしかない、この件にここまでしてくださるなんて。愛していると言われました。けれど好意だけで、あなたはここまでしてくれるのですか?あなたの命は何よりも重いのに、それを、ラインハルト様自身が、誰よりもよくご存じなのに。


 彼は少し、目を細めました。銀色の瞳に、燭台の光が映ります。


「そうだな。アルドゥールの王族として考えるなら、愚かなのかもしれない。けれど俺は一度、君とそれ以外の全てを天秤にかけて、君を選んだことがある。……君がいなくなったと聞かされた時、君の父上もそうであったように、善悪すらどうでも良くなった。君一人幸せに出来ない世界なら、滅びればいいと思ったよ」


 言葉とは裏腹に、穏やかにラインハルト様はおっしゃいました。唇はうっすらと緩んでいるようにすら見えます。

 その、銀色の美しい瞳は、揺れていました。

 優しい人。そうだ、この人はずっと優しく、けれど無茶をしてしまうところがありました。なのに落ち込んでも顔には出さず、ひとりで抱え込んでしまうような方でした。


 ───私が十二歳でアルドゥールの王城にいた頃、王城の庭の隅にいた子犬を、彼が拾ったことがありました。

 子供でも片腕で簡単に抱きかかえられるような、黒い子犬。裏庭の小屋に匿って、自らのおやつや食事をこっそりと与えていた彼は、秘密だよと呟いて、私にだけその小さくふわふわの子を見せてくれたのです。


 私にもよく懐いて、頭を撫でるとはち切れそうなくらい尻尾を振ってくれた子犬はしばらくの後にメイドに見つけられ、ずっと娘が犬を飼いたがっているから、と王城の庭師の家に引き取られることになりました。あの庭師はちゃんとした人だ、あの犬が良い家族を見つけられてよかった、とラインハルト様は穏やかに言いましたが、その瞳が揺れていたことを覚えています。

 本当は、彼はちゃんと、彼の自室や王家のための庭に、あの子犬を連れて来たかったのです。王家に相応しい血統を持たないあの子を、ちゃんと家族にしたいのだ、と頬を舐められて喜ぶ顔を見れば、すぐにわかりました。

 彼は大国の王族で、アルドゥールの王子であることの重みと責任を、誰よりも分かっている人でした。近くにあるものは相応しいものでなければいけなかったから。それだけで、あんなにも愛おしそうな瞳を向けた生き物を手放して、良かったと言えてしまうような人なのです。


 そっと手を握ることしか出来なかった、十四歳の男の子。銀色の瞳の震えが、今の精悍なラインハルト様の姿に重なりました。



 瞳を伏せました。

 私は、クロレディア公爵家の一人娘のエレノア・クロレディアは、カミドニアの王家の方と結ばれるもの、とずっと考えていました。けれど、家のことも、国のことも、何も考えず、望みを言うならば。

 ───私はずっと、彼が泣き出しそうな時、その手を、握って差し上げたかったのです。


「……ラインハルト様」


「どうした?」


「私、あなたが好きです」


 あなたの抱えてくださる感情とは、わずかに形が違うかもしれないけれど、多分、ずっと。あなたのことを考えると、心が温かくなったのです。

 ラインハルト様の瞳が見開かれました。何かを言おうとして、言葉を失ったかのように唇が動きます。誰が見ても美しいと、精悍と評すであろうお顔。その耳は、赤く染まっていました。


「そう、か。エレノア。嬉しいよ、凄く。……………………………抱きしめても?」


「っ!………………は、はい」


 頷くと、ゆっくりとラインハルト様はこちらに歩み寄って、そっと私を抱きしめました。力強く、けれど決して痛くはない、壊れ物を扱うような優しい腕。暖かいと思いました。けれどお父様に無事を喜ばれ、抱きしめられた時よりも心臓はずっと跳ね、痛いほどでした。


「エレノア、俺も君が好きだ。だから、君のために力を尽くすことを、どうか許してくれ。───今度こそ、君の隣にいたいんだ」


「……ありがとうございます、ラインハルト様。あなたの下さる優しさの一欠片だって、私ではとてもお返しできるかわからないほどの、大きなものです。……けれど、どうしても今は、アルドゥールには行けないのです」


 あなたに釣り合うものを、私はなにも持っていません。けれどあなたが好きで、そうして彼女のことも、大切なんです。

 震える私の言葉に、ラインハルト様は分かっている、と頭を撫でて下さいました。


「六年、抱えていたんだ。君のその言葉をもらえるなら、なんだって出来るよ」


 愛している、といわれて、なぜか泣き出しそうになりました。こんなに心臓は跳ねるのに、まだ彼女のことを思い出すのです。

 ───兄がいるの、誰よりも大切な人よ、ととびきり美しい顔で微笑んだミラ。彼女にとって、私にとってのラインハルト様のような、大切な存在だったのでしょうか。


 この方がカミドニアにいることは危険だと分かっています。ラインハルト様を失うことを考えるだけで、心臓が凍てつくほどに恐ろしく思います。


 ……お兄さんを失ったという、ミラ。あなたはこの想像するだけで恐ろしい喪失を、知っているのですか。






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