炎の魔道具
「これを、早くラインハルト様にお伝えしないと……!」
急いで地下室を飛び出しました。
冷たい石の階段を駆け上がり、東塔の出口へ進みます。ランタンの光が、壁に揺れる影を投げかけました。本館に向かうための中庭を抜けようとしたとき、月明かりに照らされた芝生の先に、ひっそりと人影が立っていました。
「―――ひとりなのね?」
「あなた、は……」
その声に、私は足を止めました。
そこにいたのは、長く艶やかな黒髪が夜風に揺れる女性でした。底知れぬ深さを持つ緑の瞳が、月光の下で不気味に輝いています。可愛らしい容姿は、誰もが心を奪われるような魅力を湛えていました。
彼女は、紛れもなく、トレエ・グランツ男爵令嬢でした。
「トレエさん……。どうしてここにいらっしゃるのですか? どうやって牢から出られたのですか?」
私の声は震えていました。心臓が早鐘のように打ち、冷や汗が背を伝います。トレエさんはいつもと変わらない、誰もを魅了するような笑顔を浮かべ、ゆっくりと答えます。
「牢? あんなの、人間の作ったものじゃない。……やっと。やっと、迎えに来れた」
一歩、彼女がこちらに近づいてきます。足元は柔らかな芝生で、彼女の足音はまるで響きません。なのに、ぞわりと背筋が凍るような感覚が襲います。月光が彼女の白い肌を青白く照らし、笑顔の裏に隠れた何か不穏な気配が漂っていました。
「ずっと、あなたみたいな子が生まれるのを待っていたの」
「こ、来ないでください!」
彼女の笑顔は変わらず、まるで私の拒絶に興味がないかのように、また一歩踏み出してきます。言葉を紡ぐ間も、歩みを進める間も、一切揺らがないその笑顔が、かえって不気味でした。
「ずっと、ずっと、ずっと待っていたの。これでやっと、ふえられる。だから、早く、同じになろう?」
甘えるような、蕩けるような、愛らしい声。
彼女の手が私の手首を掴もうと伸びてきます。私は悲鳴を上げそうになりーーー。
「エレノアに、何をしている?」
低い声が、中庭に響きました。
闇を切り裂くようなその声音に、私は振り返りました。
「ラインハルト様……!」
ランタンと月の光しかない薄暗い中庭でも、心強いその姿。
トレエさんの指がぴたりと止まりました。彼にエレノアこちらへ、と呼ばれて、急いで背後に隠れます。
「トレエ・グランツだな? 牢から逃れて学園にいるとは……。お前、エレノアに何をするつもりだった?」
「……………………ふぅん?」
彼女の声が、先ほどまでとは打って変わって低く響きます。ひ、と私の喉から小さな声が漏れました。
ーーー彼女は身体の向きを一切変えず、首だけを不自然にグルンと動かし、ラインハルト様と私を見据えたのです。
その動きは人間のものではなく、まるで操り人形のようでした。表情を変えずに私たちを見つめる緑の瞳は、底知れぬ闇を宿し、ぞっとするほど恐ろしいものでした。
そしてトレエさんは再び、私に向かって手を伸ばそうとします。
「動くな。それ以上は斬る」
ラインハルト様の声は淡々と、しかしだからこそ事実だと分かる重みを帯びていました。彼の手は剣の柄に触れ、明確にそれを握り締めます。
「……人間のくせに」
トレエさんの返事は、それだけでした。ですが、その声はぞっとするほど低く、もはや先ほどの鈴のような声でも、人間が発する音でもありません。例えるなら、雷鳴や嵐の突風ーーー天の災いそのもののような、身体の奥底を震わせる響きでした。
そして――ぞわりと。地面が揺れます。
「ね、エレノア。エレノア、エレのア、エレのあ。あなたも、同じになりなサい」
「黙れ」
トレエさんの手が再び伸び、ラインハルト様は一瞬も迷わずその手を切り落としました。
ごう、と炎が上がります。
「ラインハルト様! トレエさんが……!」
ラインハルト様の剣は魔道具で、斬ったものに炎を宿すと聞いていました。このままでは彼女が死んでしまいます! そう叫ぼうとした瞬間、言葉が喉に詰まります。
「下がってくれ、エレノア。……君には、あれが人間に見えるのか?」
「エれ、ノあ……」
手首から炎が、舐めるように彼女の全身を包みました。ですが、彼女は悲鳴一つ漏らしません。皮が剥けるように、ペロリと皮膚が溶け落ち――その下に現れたのは、樹でした。
どろりと、まるで樹脂のような液体が滴り、焦げる匂いが鼻をつきます。彼女の身体は、蔦と枝が絡み合った、異形の姿へと変わっていました。
「エレのア、えレノア、わタしの、つがイ……」
燃え盛る炎の中、彼女はなおも私に手らしきものを伸ばそうとします。ですが、それはもはや人間の手ではありませんでした。
煌々と燃える炎に照らされた、灰と焦げ臭さが生々しい、大量の蔦が絡まった枝ーーー人の形を模した、樹の人型。それが燃えているのです。
「どうして……こんなことが……」
私は全身が震え、動くことすらできません。ですが、ラインハルト様は淡々と、まるで目の前の光景に動じることなく、トレエさんだったものに声をかけました。剣を握り直し、鋭い視線を向けます。
「……聞こえなかったのか? エレノアに近づくなと言った」
そして、迷うことなく、炎を恐れることなくーーー樹の塊に、剣を振り下ろしました。
「えレ……」
その声は途切れ、人型は崩れ落ちます。パチパチと枯れ枝が燃える音、火種が跳ねる音が夜の静寂に響きました。
確かにトレエさんだったものは、もう動くことはありませんでした。
「…………消火の必要があるな」
臣下を呼ぶ。君も来てくれ。―――その後に、これの話をしよう。
ラインハルト様は、そうおっしゃいました。
月光の下、赤々とした炎から溢れる煙が、冷たい夜気に溶けていきます。
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火はすぐに消し止められたようでした。
ラインハルト様の自室に案内されると、臣下の方が温かなハーブティーを差し出してくださいました。ティーカップから立ち上るミントの香りが、震える心を少しだけ落ち着けてくれます。部屋の暖炉では薪が赤々と燃え、柔らかな光が壁に揺れていました。
「エレノア、まず、君は東塔の地下室に行っていたのか?」
「はい、そうです」
小さく頷きます。地下室で少しでも書類の解読を進めようと、部屋を出たのでした。
そういえば、どうしてそんなことを思いついたのでしょうーーーその考えに辿り着いた瞬間、寒気が走りました。
「ご、ごめんなさい! 私、一人にならないとお約束したのに……! ラインハルト様にご迷惑をおかけしてしまいました!」
慌てて頭を下げます。ですが、ラインハルト様は静かに首を振りました。
「謝らなくていい。……君が呼び出されたのは、おそらく何か、人間を操る力が働いたのだと思う。地下室の資料の解読を任せていた臣下にも、似た現象が見られた」
彼が部屋にいる側近の方に視線をやると、その男性もうなずきました。……本来、ラインハルト様の家臣の方々は、6人ほど地下で、交代で解読を進める予定だったそうです。しかし気がつけば地下室から出て、適当な部屋で全員眠っていたと。木の幹に捕らえられて拘束され、誰かに邪魔はいらないと囁かれる、そんな夢を見たのだとか。
たまたま別の業務を任されていた方が彼らの様子を確認に来て、それからすぐに私の部屋の扉が開いており、不在であると分かった、と彼は言いました。
「先ほどのあれは魔法が深くかかわっている。聖樹が種を飲んだ人間に幻覚を見せるだとか、トレエ・グランツが学生や君の家の人間にやたら好かれていたとかな。君や臣下が操られたのも、同じような魔法の何かによる可能性が高いだろう」
ラインハルト様の言葉に、私はただ頷くことしかできませんでした。暖炉の火が小さく爆ぜ、部屋に一瞬の明るさを投げかけます。手に持つティーカップの温もりが、かじかんだ指先を温めました。