自分よりも、世界よりも
王都のクロレディア公爵家のタウン・ハウスに着いた時、先に訪問を伝えていたゆえに、使用人達は速やかに、私とラインハルト様を書斎へと案内しました。お父様は書斎のソファで、暖炉の火を眺めていました。いつもの通り背をしゃんと伸ばされて、けれどぎこちないような、緊張したような面持ちでした。
私が生きている、と知ってすぐに、お父様は学園を訪れ、よくぞ無事で、と私を抱きしめました。それからはラインハルト様と王城にいたので顔を合わせる機会は多くありませんでしたが、そのような顔をされることは、少しだけ意外でした。
人払いの後、手のひらを握りしめます。
「お父様、急な来訪をどうかお許し下さい。そうして、教えてください。……聖樹とは、いったい何なのですか 」
私の声は、薄暗い書斎の空気をそっと揺らしました。暖炉の火がパチパチと音を立て、部屋の隅の影もまた、小刻みに揺れました。
急になにを、と言われることも、当然覚悟していました。けれどお父様は深く息をついたあと、低い声で答えました。
「お前がそれを望むのは、樹について、何かしらを知ったからだな?ならば、私の知る全てを教えよう。……聖樹とはこの国の建国以前よりある巨木であり、長くこの国で神と同等に呼ばれる存在であると、もう知っているだろう。だがエレノア、そうしてラインハルト殿下。ビアンコベルディウムという寄生虫を、ご存知ですか?」
私は首を振りました。ラインハルト様に視線を向けると、彼も首を振ります。
「そうでしょうな。……ビアンコベルディウムとはほんの小指の先ほどの大きさの芋虫に似た寄生虫で、遠い国の、ごく狭い地域でのみ生息しています。その特徴は、宿主を操ること。体躯の通り卵もごく小さいものですが、その卵をカタツムリが食することで、孵化した幼虫はカタツムリの頭に寄生し、宿主の脳を操り、捕食される危険の高い、日当たりの良い場所へ移動させるのです。それにより鳥に捕食されることで、鳥の体内で成虫となり卵を産み、その卵入りの鳥の糞をカタツムリが食すことで、個体数を増やす。そんな特徴を持った虫です」
お父様の言葉は低く、節くれだった両手は固く握りしめられ、指が白くなるほどでした。
「聖樹とビアンコベルディウムに直接関わりはありません。だが、あの樹はその寄生虫に性質が似ている。……聖樹は、魔力を持つものが祈ることで、そのものの魔力が一定以上になった時に、種を生み出します。その種を飲み込んだ者は、聖樹の枝や、ラインハルト殿下の持つその剣のように、魔道具がなくとも魔法を使えるようになる。だが、代わりにその者の魔力が最も強くなる18歳になると、聖樹はその者を操り、木の根元へ連れていき、飲み込むのです」
「は……?」
言葉が喉に詰まり、足元がふらつきました。背筋に冷や汗が伝い、書斎の空気が急に冷たく感じられました。
「では、この国の者が五歳になると受ける聖樹の洗礼とは……」
声は、震えていました。
お父様は目を細め、深い溜息をつきました。
「ああ。多くの者が聖樹を握ったときの、光の強さなどどうでもいい。あの洗礼の真の目的は、魔法使いの素質を持つ、聖樹に捧げられる者を探すことだ」
「どう、して、そんなことを……」
「何百年と続けられてきたことだ。……そうしなければ国が滅ぶのかもしれない。あるいは、教会の権威を守るため、無駄に犠牲を出し続けているのかもしれない」
絞り出すような、低い声でした。
「エレノア。かつてこの世界には、魔力を持つ生き物が多く存在していた。時と共にそれらは失われたが、残っているものもある。特に生命力の強い、しぶといものがな。聖樹と教会は呼ぶが、あれはそんな神聖なものではない。……あれは化物だ。人間を、その魔力を喰らう、木の形をした化物だ」
お父様は一瞬言葉を切り、窓の外を見ました。敵を見るような、厳しいまなざしで。
「そん、な……」
樹はいとし子に種を飲ませ、一番魔力が大きくなったらそれを食らう。言葉は理解できても、ほんの少しも理解できませんでした。
聖樹には、ずっと複雑な思いを抱いてきました。呪われた娘と呼ばれたのは、間違いなくあの洗礼の日が原因です。
どうして私が、と何度ベッドで、自らを抱きしめたでしょう。けれどそれは、聖樹への信仰があったからこその悩みだったのです。
あれは神ではない、人を喰らうと知った今、足元が崩れるような恐怖と虚無感を覚えました。
「……公爵。それを、この国で、どれだけの人間が知っている?」
「決して、多くはありません。教会の上層部と、王家と、教会が知らせても良いと判断した、手先のみ。私ですら、娘のことがなければ知ることはなかったでしょう」
「では、聖樹の枝を握ったときに若芽が生える、蔦が絡みつくというのは、どういった意味を持つ?」
それを知っていながら、どうして教えてくださらなかったのですか。お父様にそう問おうとして、けれど何も言葉を出せなくなった私に代わり、ラインハルト様が、静かに尋ねました。
その声は落ち着いていましたが、彼の手はなぞるように、剣の柄に触れていました。
「わかりません。ただ常とは違うのだから魔法であろう、エレノアはいとし子では、ならば捧げねばなるまいと、教主は言いました」
「そ、んな……。それなら、私は儀式をするはずでしょう?私は、聖樹の下で祈ったことなど一度もありません」
その言葉に、お父様は深く俯きました。その背中からは、まるで長年の悔恨が滲み出ているようでした。
「ああ。……エレノア、どうか私を憎んでくれ。私にとって重要なのはロゼリア……お前の母と、お前だけなんだ」
その声は震え、重い書斎の空気を、さらに息苦しいものにしました。
「十三年前のことです。教主は私の娘を樹に捧げろと言い、その言葉に、私はこの国を出る用意を始めました。私は国よりも、家よりも、娘の方が重要でした。ですがその時、いとし子がもう一人見つかったのです。……その子は孤児でした。数十年に一度しか現れなかったいとし子が、一年のうちに二人現れるなど、建国以来ありえなかったことです。議論は紛糾しました。教会は二人とも聖樹に捧げるべきと主張し、王家はクロレディアの娘は第三王子との婚約が生まれた時から決まっている、一人娘なのだから死なれるのは困ると言いました。私はカミドニアから出てどの国に行くべきか、用意を行っていました。……捧げられるのは一人で良いだろう、そうして公爵家の一人娘より孤児が良いと、決まりました」
その孤児は洗礼の後すぐに聖樹に祈り、その後コウン子爵家という、教会と深い繋がりを持った家に引き取られました。その子が十二歳になった時、聖樹は種を授けたといいます。
その少女の名前は、ミラ。
ミラ・コウンという名前だと、聞きました。
「ミラ、が……?」
「エレノア!」
お父様は、何を言っているのでしょうか。くらり、と。世界が、回るような心地。その中で、一つだけ分かったことがありました。ミラが、彼女がいとし子で、なら、彼女は。ミラは。───どうして彼女は教会に行ったのか、彼女が、教会に、いるということは。
ラインハルト様の声が鋭く響き、その手が私の腕を掴みました。私がこの部屋を、飛び出ようとしたからでした。その力に抵抗しながら叫びます。
「離してください! ミラがいとし子なら、聖樹に捧げられるというなら―――彼女は、殺されてしまうかもしれません!ラインハルト様、離してください! 教会に、今すぐ行かないと!」
お父様の瞳が私を捉え、静かに言葉を紡ぎました。
「彼女は聖樹に捧げられないだろう。いや、そう出来ない、というべきか。……ミラ・コウンが十二歳になった時、聖樹は種を生み、それをミラ・コウンに飲み込ませるよう、種は子爵家に届けられた。だが、彼女は種を飲まなかったと聞いている。詳細はわからぬが……。種は今失われ、行方不明のはずだ。そして、ミラ・コウンは十七歳、まだ未成年のはず。孤児ゆえに詳細な生年月日は不明だが……」
「そんなの……。聖樹が新しく種を生み出すかもしれないし、十七歳でも構わないと、聖樹が彼女を殺すかもしれないじゃないですか!」
人を殺す怪物のすぐ近くに彼女がいる、それが全てです。
叫びながら、頬を温いものが伝いました。悲しみか、焦りか、あるいはミラを思う気持ちか。涙の理由は私にもわかりませんでしたが、心臓が締め付けられるような痛みだけが、確かな事でした。
痛くはなく、けれど決して振り解かず。私の手首を握りしめる力は変わらないまま、ラインハルト様が言いました。
「俺も、エレノアと同意見だ。……公爵、エレノアがアルドゥールを訪れ、俺と出会ったのは、十二歳の時だったと記憶している。あなたは聖樹の秘密を知っていて、聖樹が種を生んだ時、それが万が一にも娘が飲む事がないよう、アルドゥールに逃したのか?」
その声は落ち着いていましたが、奥には鋭い猜疑心が潜んでいるように感じられました。
「ええ。……そのまま、あなたのようなアルドゥールの、カミドニアには手出しができないような有力な貴族や王族に縁づいてくれれば、と考えていました」
お父様の視線が、私の手首を掴む、ラインハルト様の手に注がれました。その目は、複雑な感情で揺れています。
「殿下、あなたがもっと早く娘に気持ちを伝えてくれていれば、という気持ちはあります」
「そんなことをしたら、ミラが……」
私の声は、酷く震えていました。言葉が途切れ、ミラの顔が脳裏に浮かびます。彼女の笑顔、優しい声。あの子が聖樹に飲み込まれるなんて、死んでしまうなんて。そうして私は一人、また何も知らず、知ろうとせずに、彼女に甘え切って。
ラインハルト様が、言葉を続けます。
「ミラ・コウンは、全てを知っていたのだろうな。自分がいとし子であることも、おそらくエレノアがもう一人の、いとし子であることも。───それでもまだ、疑問は残るが。学園の東棟の図書室には地下室があり、聖樹の真実が記されている。それを、あなたはご存じか?」
お父様はわずかに眉を寄せました。
「……いいえ。学園にそんな場所があるとは、初めて聞きました。しかし、聖樹に関する知識を集めた部屋については、噂程度に聞いたことがあります。反教会派が集めた、聖樹の正体を隠した部屋が、この国には複数存在すると。───その一つが学園に、というのは驚きですが、若い貴族の集まる場、と考えるなら、おかしくはないのかもしれない」
「そうか。……ミラはあの部屋について、図書室の、複数の本に挟まれた栞の暗号を解くと、地下室の開け方が分かると話していた。あれから家臣が図書室の栞について調べたが、栞が挟まれていた本は、いずれも禁書にならぬ程度に、聖樹について懐疑的な内容が書かれた本ばかりだった。聖樹について、真実を知りたいと考える者が部屋にたどり着けるようにしているなら、合理的なのだろうな」
ラインハルト様の銀色の瞳が細められました。その視線は、まるで闇の奥を見通すようでした。
「殿下、その考えはおそらく正しいでしょう。……エレノア、本当にすまない。長く真実を話さず、今こうして苦しめることになってしまった。しかし、それでも私は、今、お前にこの国を離れてほしいと思っている。───お前が生きていて、救い出された時でさえ、その奇跡に深く感謝はしても、聖樹について何も言わなかった。樹は何もかかわらず、あの第三王子のせいでお前がいなくなったのではと考えたのもあるが、なにも知らずにこの国を離れてくれたなら、それが一番だと思ったのだ」
お父様はゆっくりと立ち上がり、窓辺に近づきました。優しいお父様。ミラが教会とお父様のやりとりを教えてくれた時だって、お父様は私を見捨てない、と言い切れました。それくらい、確かに私を愛してくれた人。
「罪もない五歳の少女を娘の代わりに差し出したことも、お前に何も伝えなかったことも。私を憎んで当然だ。いくら軽蔑されても、仕方がないと思っている。……けれど、この国は呪われている。そうして今も、この呪いはお前に害を成そうとしていると、そんな気がしてならないのだ。お前がミラ・コウンに、あの少女に恩を感じていることは知っている。それでも私は国より、私自身より、人間として持つべき正しさよりも、お前が大事なんだ、エレノア」
頼む、と深々と頭が下げられました。お父様に頭を下げられるのは、初めてのことでした。
「ミラ・コウンが何を思ってお前を匿ったのかはわからない。だが、私のできる限りを尽くして、彼女を助け出そう。だからお前は先に、アルドゥールに逃げてくれないか?」
どうか、幸せになって欲しいんだ。
掠れて必死な、祈るような言葉でした。
でも、ここでこの国を立ち去れば、ミラは。
あの、とびきり優しくて素敵な、女の子は。
「ごめんなさい、お父様。……私は、この国を、離れたくありません」
そうか、とお父様は呟きました。
小さな、寂しい響きでした。