机の中
教会に出向きミラを迎えに行くのは、家臣に任せたい、とラインハルト様に言われて頷きました。
「それよりも先に、あの地下室について調べたい。……彼女が読んでほしくはないと言っていた本もあったのだろう? それがどれなのか知りたい。君も、ついてきてくれないか」
それに、彼女は俺に、君から離れるなと話していた。この国の連中から庇うためかと最初は考えていたが、その言葉に別の意味があるなら、彼女は何かしら重要なことを知っていたはずだ。
ラインハルト様の銀色の瞳が、遠くを見るように細められました。
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静かな地下に、ページを捲る音だけが響きました。
ほんの少し前まで毎日過ごしていた地下室は、最後の日から本の並びも、机の上のものも、何一つ変わっていません。まるで時が止まったかのようでした。
「ここは、代々受け継がれる部屋だと話していたらしいな。臣下も本はともかく、机は探るべきではないと手出しはしなかったが……。エレノア、この中を見たことはあるか?」
ありません、と首を振ります。便箋や封筒を出してもらったことはありましたが、そうしないでほしいと言われたので、引き出しの中を覗いたことは一度もありませんでした。
そうか、と呟いて、ラインハルト様は迷うことなく引き出しを開けます。
「いいのかしら……」
「次に会う時に謝ればいいさ」
その言葉に、一緒に引き出しの中を覗き込みました。
「これは……魔法についての資料ですか?」
引き出し一杯に詰まった古びた紙束。その中身は、教会と聖樹に関するものでした。
この国では、人々は幼い頃に、カミドニアは神の国である、と教わります。
ものを知らない人間が魔法が失われたと語るとしても、聖樹は我々を見守ってくれている。その証拠として魔法は未だ存在し、人々の間に魔力が流れている。聖樹の枝を握れば光を放ち、数十年に一度、魔法を扱える者さえ現れるのだと。
聖樹の枝やラインハルト様の持つ剣のように、魔法の力を持つ物を魔道具と呼びます。もっとも、教会は神そのものともいえる聖樹を道具呼ばわりするとは何事かと、聖樹の枝を魔道具とは呼ばず、神枝など別の名で呼んでいますが。
それは私にとって当然の信仰であり、長い間抱いてきた疑問でもありました。
……魔法使いの素質を持つ、聖樹のいとし子が樹に祈りを捧げると、種を賜ることができます。種を飲み込むことでその者は自在に魔法を使えるようになり、魔法そのものも枝を握るよりもずっと強力になるそうです。
最後に現れたいとし子は30年前で、彼は髪を光らせることが出来たと聞いたことがありました。その前のいとし子は58年前に現れましたが、かつては20年に一人はいとし子が現れたのに、段々と次が見つかるまでの期間が長くなっています。それは教会、またこの国で、長く問題となっていることでした。
国民にも、大抵の貴族にも、「聖樹に祈る」とは具体的に何をするのか、飲み込む種とはどのような形状なのかといった詳しいことは伝えられていません。
ただ一つ、広く知られているのは、祈った魔法使いの素質を持つ者以外が種を飲み込んだ、末路だけです。
……いとし子は、貴族以外にも現れることが多くあります。魔力の多い者同士の婚姻が多いためか、貴族の方が一般的に魔力は高い傾向にありますが、平民は貴族の何百倍もいるのだから、当然のことでもありました。
200年以上昔のことですが、ある教会と深い縁を持つ貴族が、平民がいとし子になった際にその種を奪い取ったことがありました。
「これで自らも魔法使いになれる」と彼は種を飲みこんだらしいのですが、魔法を使うことはできませんでした。
種を飲み込んだ瞬間、またたく間に口から、腕から、足から蔦が伸び、彼は樹にその身を変えたからです。その樹は聖樹に捧げられ、本来のいとし子が再び祈ることで、新しい種が賜されたといいます。その種を今度こそいとし子が飲み込むことで儀式は無事完遂されたそうですが、大きな権力を持っていたその貴族の家は、取り潰されることとなりました。
それ以来、種を奪う、という行為は聖樹の意に逆らう、決してあってはならないこととして伝えられているのです。樹が生えることは、神の罰であると。
……その言い伝えを知ってから、洗礼の日、指先に芽が生えた私は罪人なのだろうか、と、何度も悩みました。もう13年も昔のことなのに、枝を握ったときのあの感触、自分の中に何かが入り込むような、自分が変質するような不気味さを、今でも鮮明に思い出します。
―――お前のような呪われた娘がどうして婚約者なのだ、とアルヴィン様は何度も私に言いました。
「婿入りする家に不足はないが、お前だけが不満だ。……聖樹の儀式で、俺は最も強く枝を光らせることができた。つまり俺が最も優れているということだ。なのに、どうして洗礼のときに罪の象徴である葉が生え、枝が絡むようなお前を妻にしなければならないのだ」
そう機嫌悪そうに、自らの髪をくるくると弄びながら。
きっと嫉妬です、と周囲は私に言いました。
「アルヴィン様はエレノア様に嫉妬しているのです。あの方は勉学ができない上に努力もしようとしない。武術も礼儀も人並み以下で、その劣等感がエレノア様への態度に表れているのです。何もかも優秀であるあなたへの反発から、唯一自分が誇れる洗礼の日の事を何度も持ち出すのでしょう。あなたを本当に呪われた娘と思っているのではなく、それを言えば自分が優位に立てると思っているだけ」
ずっと私の面倒を見てくれた乳母などは、普段にない冷たい声で吐き捨てるように言いました。……親しい人にそう言ってもらえたとしても、私に起こったことは変わらないのですが。
エレノア、と呼びかけられて、一度大きく瞬きをしました。今は、そんな昔のことを思い出している暇はないのに。
改めて書類に視線をやれば、それは聖樹や、いとし子に関する資料や研究書のようでした。それも、公爵家の人間である私ですら知らない内容ばかりの。
種とは直径3cmほどの、クルミに似たものだとか、いとし子が祈りを捧げるとは、教会の中庭の聖樹の前に膝をつき、聖樹に魔力を込めることを指すのだとか。学園の地下にこんなものがあるなんて、と思うほど、神のことだ、畏れ多いゆえに知るべきではない、と言われていた情報が、そこにはあります。
魔法や魔力そのものについても詳しく書かれていました。―――我々が聖樹の洗礼を行うのは五歳の頃ですが、それは昔から人は五歳にならないと魔法を発現できないためだそうです。祈れば樹はいとし子を覚え、その者の魔力がある程度強くなると自然と種が生み出されるのだとか、それは多くの場合12歳ごろであるとか。けれど本当に人の魔力が一番大きくなるのは、18歳なのだとか。
そうして、聖樹から種を賜ったいとし子は、例外なく、18歳になると姿を消すことも。
「…………え?」
目に飛び込んだ文字に、呼吸が止まりました。
「ラインハルト様、これ……」
掠れたインクを指先でなぞります。いとし子が、いなくなる。そんなこと、一度も聞いたことがありませんでした。
「……先代のいとし子は30年前、その前は58年前、だったか。今も生きていておかしくない年齢だが、エレノア、君は彼らに会ったことはあるか?」
首を振りました。今もこの国の平和と繁栄を教会で祈っている、と教会は言いますが、そのお姿を見たことは、一度もありません。
その研究書には、歴代のいとし子が公の場に姿を現したときの記録もまとめられていましたが、たしかに、いとし子と呼ばれた方々が若いころに教会の祝祭に出席した、という記録はあっても、成人後のその方たちの足取りで、確かな生の証拠となるものは、何もないようでした。
これが事実だとするなら、どうして教会は、いとし子がいなくなることを隠すのでしょうか。
震える指でページを捲ります。その指は、また止まりました。その研究書の一番最後のページ、執筆者の名前に目が留まったからです。
ゼノン・コウン。
それはミラの、お兄さんの名前でした。
「……ゼノン・コウンは、この学園の生徒だったらしい。18歳の時に失踪し、そのまま死亡届が出されたそうだ。学業の成績が残っていたが、非常に優秀な人間だったらしい。そして彼の失踪からほどなくして、子爵家は領地を国に返還している。表向きは借金ということになっているが、他に理由がなかったのかは、今、家臣に調べさせている」
この地下室は、甲冑の剣の仕組みに気づいた者に代々受け継がれている、とミラは話していました。ミラがここを見つける前の地下室の持ち主は彼女のお兄さんだったということでしょうか。
聖樹について調べていたゼノン・コウンはいなくなり、その跡をミラが継いだなら。
「……ミラがいなくなったのは、聖樹が関わっているという事でしょうか」
分からない事ばかりでした。けれどミラがいなくなった理由を知るには、聖樹について知るしかない。それだけは、確信しました。
「恐らくは。そうして、この国で、その秘密を知っていそうなのは」
「教会か王家か、ですね。……けれど、ラインハルト様。ミラは前に、私に、早くこの国を離れてほしい、と話していたんです。そうして同じことを、何度も私に伝えた方がいます」