お前の想い人ならいま俺の部屋で寝てるぜ
冷や汗が頬を伝った。ほんの数分前までこの空間は、華やかで賑やかしく、きらびやかな場所だった。しかしいま、空気はビリビリと震え、重苦しい緊張感に支配されている。
ラインハルトの怒りは炎のようで、銀色の瞳にはあまりにも鮮烈な殺意が宿っていた。まるで時間が止まったかのように、誰もが息を潜めていた。
これを、止めるのか。
それでも、誰も動けない中、私はゆっくりと足を進める。磨き上げられた床を踏む音が、静寂の中で異様に大きく聞こえた。
「最期の言葉はあるか?」
ラインハルト殿下がアルヴィンに、淡々と言い放つ。
「ひっ、……や、やめてくれ! エレノアだって、こんなこと望まないだろう! だからーーー」
第三王子の声は震え、必死に命乞いをするその姿は哀れだった。
ダン、と床に剣が叩きつけられる音が響いた。剣が突き刺さった箇所から赤い炎が噴き出し、床が燃え上がった。
「ヒィッ……、その剣は、ま、魔道具……!」
第三王子は後ずさろうとして足をもつれさせ、床に崩れ落ちる。目先の死に怯え鼻水を垂らすその顔には、先ほどまでの余裕は微塵も感じられない。王子としての威厳は失せ、ただ惨めだった。
周囲の騎士や生徒たちもその姿に動かず、かつて彼に黄色い声を上げていた女生徒たちでさえ、ただ口を押えている。
全身に悪寒が走る。それでも、足だけは止めなかった。
「………………召使、だったか。邪魔をするつもりか?」
ラインハルト殿下とアルヴィンの間に立つと、初めて彼の銀色の瞳が私を捉えた。その視線の鋭さに足が震える。
「―――いいえ。けれど貴方に、お伝えしなければならないことがあります」
落ち着いた声は出せていたと思う。けれど、心臓は激しく鼓動していた。面を外す。
「伝えたい、だと? 俺はお前たちに用はないが。――あぁ、けれど一つだけ聞きたいことがあった。そこの屑がエレノアを懲罰牢に閉じ込めた日、見張りをしていた召使は誰だ?」
彼の瞳の殺意が深まり、声はさらに低く抑えられた。
彼は憤っているのだ。王子に、この国に、エレノアを殺した全てに。
それを理解して、手の震えはやっと収まった。
「私です。けれど、あの子は生きています。今ごろ、私の部屋のベッドで寝ているか、読書をしているわ」
静かに、しかしはっきりと告げた。
「─────────は?」
ラインハルト殿下の目が、見開かれた。その隙に、懐から手紙をすかさず取り出す。封筒の文字、その筆跡を見て、彼の剣を持つ手が震えた。
「怪我もないし、元気よ」
「お前は───いや、彼女はいま、どこにいるんだ」
掠れた声で問う彼に案内するわと答え、足を出口に向ける。誰もが動かない沈黙のなか、彼の付いてくる足音だけが聞こえた。
「おい、召使! エレノアが生きているとはどういう事だ?! お前は一体―――ぐごぁ!」
いやごめん喋った奴がいた。すごい度胸ね、と思った瞬間、起き上がろうとした第三王子はラインハルト様にすれ違いざまに剣の柄でぶん殴られ、吹っ飛んで潰れた。やったぁ!
∮
図書室の扉を背にして、甲冑の剣の柄を回す。地下室への扉が開いた音に、おお、と騎士達は、感嘆の声を漏らした。
「エレノア様はこの下にいます。お連れしますか?」
「いや。共に行こう」
ここに来るまでの廊下で手紙を読んでいたからか、声は低いけれど、私への敵意は感じられなかった。どんな内容かは当然知らないけれど、あの子のことだ、私を悪いようには書かないだろう。
階段を降りる間言葉はなかったが、重々しい空気の中、エレノア、と囁くような、祈るような呟きが聞こえた。
「ミラ? 今日は戻るのが早いんですね。ああ、けれどちょうど良かった、見てください! やっとこのハンカチの刺繍が完成したんです! 刺し終わったら貴方にプレゼントしようと思っていて───ラインハルト様?」
あら今日も可愛い笑顔。扉を開けると、エレノアは笑顔で迎えてくれた。彼女は美しい花と小鳥の意匠が施されたハンカチを広げて見せていたが、私の後ろに立つラインハルト殿下を見て固まった。彼もまた、名を呼ばれて動けなくなったようだった。
「エレノア。………生きて、いたのか」
声は、ひどく掠れて、震えていた。
「は、はい。お久しぶりです、ラインハルト様。……ラインハルト様?!」
彼は膝から崩れ落ち、エレノアは驚いた声を上げて駆け寄った。
エレノア、と小さな声が地下に響く。
「手を、握っても、良いか?」
「きみ、が」
「いきていて、よかった………」
彼女の瞳が揺れ、その瞳が潤む。
「……ごめんなさい、心配をかけて。本当に、ごめんなさい」
返事はなく、エレノアはおそるおそる手を伸ばし、ラインハルトの差し出された手と、ゆっくりと指を絡める。
……………………なるほどなるほど???
そりゃ第三王子への殺意やらぶん殴るやらそうじゃないかと思っていたけれど、なるほど〜〜〜〜。ただの幼馴染ね、エレノアはそう言っていたけど、彼もそう思っているとは限らないし、むしろエレノアだってラインハルト様の話をするときは顔を赤くして可愛かったし、へ〜〜〜〜え???
ついて来ていたラインハルト様の臣下に顔を向けると、そっと頷かれた。確定じゃないこんなの。
しゃがみ込んだ二人は、手を繋いだまま離れない。
オーケー。お幸せに。
そっと騎士に続き、地上へと続く階段を登った。
「ミラ! いつのまにかいなくなっちゃうなんて……」
地上に戻ってしばらく待つと、蓋が開く。ひょこりとエレノアが顔を出して、少し拗ねたような声で言った。
「あら、積もる話もあったでしょう。もう少し待たせても良かったのよ?」
言葉を返すと、全く怒りが伝わらない声で、もう、と彼女は言った。ラインハルト殿下も地下から出てくる。二人の目尻がほんの少し赤くなっていたのは、見ないふりをする。
「もう十分だ。……エレノア。君とも、そこの彼女とも、話したいことが多くある。学園の俺たちの部屋に来てくれないか?」
ラインハルト殿下に視線を向けられ、頷いた。
∮
「まずは、謝罪を。───剣を向けた非礼を詫びよう。そうして、心からの感謝を。エレノアを助けてくれて、本当にありがとう」
学園のラインハルト様の部屋は、国賓に用意されるだけあって、美しい調度品がセンス良く並べられた、美しい部屋だった。
問われるままに、あの子が婚約破棄された夜について───懲罰室から連れ出し、地下室まで連れ込んだこと、家への手紙も出したけれど、彼女の父には届かなかったことなどを伝える。あの夜にエレノアに酷いことを考えていた豚の餌二人については、ここでは言葉にしなかった。この子の前だ、自分が襲われかけていたなんて知ってほしくはない。まぁ私はしっかり顔を覚えているしちゃんとどの家のどのクソ野郎なのか確認したからこの後告げ口するけどね。
彼女の食事や部屋での生活についても大体共有して、いや本当に不自由ね……悪いことをしたわ……。と反省していると、赤髪のつむじが見えて、心底驚いた。ラインハルト殿下が頭を下げている。世界で一番大きな国の王太子が、小国の学園で働く召使風情に。
周りの騎士も殿下、と声を掛けたが、彼は決して頭を上げなかった。
「……どうか、頭を上げてください。そうすべきと思ったことを、しただけなんです。貴方に礼を言っていただくようなことではありません」
いや本当に頭を上げてちょうだい、この空気だけで胃が痛くなるから。
そうか、と呟き、彼は顔を上げた。相変わらずの美形だが、数刻前と比べて瞳は優しい。これがエレノアのずっと見ていた幼馴染の姿なのだろうか。
「……………………君、これが気になるのか? 先程から視線を向けているが」
「ええ。さっき、床に突き刺した時燃えていたので、気になって」
私の視線に気づいたのか、殿下は剣の柄をそっとなぞった。薄らと金色がかった赤銅色の柄には真紅の宝石が埋め込まれ、鞘は彼の髪に似た深紅。美しい剣だった。
「なるほど。……この剣は魔道具だ。アルドゥールの国宝であり、国王及び王位継承者が所有を許される。魔石を混ぜ込んだ鋼で鍛えてあるから、人が振れば、その魔力に応じて斬ったものが燃える」
「そうなんですか……。教会が、目の色を変えて欲しがりそうですね」
アルドゥールに燃える剣が存在する、と。確かに昔、本でそんな記述を目にしたことがあった。このタイミングで、と驚きは顔に出さないように、言葉を返す。あいつらは聖樹を一番に信仰しているだけで魔法そのものに執着しているから、こんな面白魔法グッズ、死ぬ気で欲しがるだろう。
「渡さんがな。……君たちにもこの国の現状を伝えておいた方がいいだろう。まず、この国の6割の貴族が、我が国に従うことをすでに決めている。エレノア、君の父上はとても優秀だ。君を失ってすぐに俺を呼び、カミドニアの大臣や有力貴族を抱き込んだ。アルドゥールがこの国を侵略するなら勝てはしない、ならば従い、現状の利権を守った方がいいと」
「お父様が、ですか……?」
「あぁ。彼は許せないと言っていたよ。唯一の愛する家族を奪った王家も、教会も許せないのだと。手紙の件は何らかの考えが働いていたようだが、彼は間違いなく君を、この世の何よりも愛している」
「そうなんですか。私は、見捨てられたわけではなかったのですね。…………良かった」
気丈に振舞っていても、不安だったのだろう。エレノアは崩れ落ち、顔を伏せて肩を震わせた。背を撫でるべきかと一瞬迷ったが、指は伸ばさなかった。代わりにごめんなさい疑って、と心の中でひっそりと謝る。
「あぁ。……君が生きていたことはもう、臣下の一人に命じて父上に伝えるよう手配してある。明け方にはこちらに来るだろう。ないとは思うが、第三王子の派閥が自棄を起こす可能性もある。父君が来られるまでは、なるべく俺たちと共にいてくれ。君の部屋は今、用意させてあるから」
「………申し訳ありません。そのことなのですが」
私が割り込むと、殿下の銀色の瞳が向けられた。視線一つに緊張しながら、言葉を選んだ。
「ラインハルト様には、その剣を手放さないで欲しいんです。……そうしてこの国にいる間、エレノアはラインハルト様となるべく近くにいて欲しいの」