二『商業の街ラニット一』
「お客さん、名前をここに」
恰幅の良い店主はけだるそうに空を見つめながら宿屋手帳に指を指す。見ていないというのに指す場所に間違いがないのはある意味腹立たしいことではあるが、そこは体に染みついたものなのだろう。
おとなしく名を記す。
『エルゴ・レドリック』
店主は視線を手帳にやる。
「偽名か。まぁ良いがね」
男も慣れたように知らぬ顔を決め込む。
鍵が机に置かれる。部屋番号は二〇一号室。一階は酒場も兼ねた場所だ。実質的な宿泊施設は二階から、その一号室は階段を上って最初の部屋だ。その意味するところはつまり。
『何があっても後悔しないなら泊まれ』
偽名など使うものは怪しいことこの上ない。
「ありがとう」
店主に会釈をすると、これもまたなんでもないというように男は鍵を受け取って階段を上がっていく。
荷物を下ろす。どうにも今日は体が言う通りに動いてくれない。それもそのはず、予定を一日早めて強引にこの街についた。一週間の中で休む時間をこれでもかと減らし、ようやく一日分日程を早めた。そこには意味がある。
荷物を下ろし、鍵を掛け、階段を降りた後に店主に会釈をして宿を出た。
街を見渡す。酒場を出てすぐのところで殴り合う酔っ払い二人組、その姿をクスクスと笑い眺めながら少しでも金持ちの客を探す娼婦の女たち、そんな環境でも悪意を知らず遊び惚ける子供たちと犬。
栄えているな、これでも。
男はすぐ近くの木箱へと腰を下ろす。そしてポケットから本を取り出した。
数刻が経った頃、夜道の先から足音が鳴り響く。それは一人や二人ではない。奥の影がゆっくりとその姿を鮮明にしていく。がっちりと鎧を付けた魔物どもが二十といったところだろうか。地面を震わせながら男のもとへと向かうように歩を進める。
「・・・」
男はただ何も知らないかのように木箱で本を読みふける。娼婦たちは店へと駆け込み、酔っ払いたちはフラフラと路地裏へと逃げる。子供たちは、いつのまにかいなくなっていた。
「ケッ、つまんねぇやつらだ」
ホブゴブリンの一体が口を開く。続く者どもが口々に「あーそうだ」と愚痴を垂れる。
「ヒトどもは繁栄に必要だ。だが―」隊長格のホブゴブリンが目線を木箱の男へと向ける。「モノを知らん馬鹿には制裁が必要だ」
その言葉に、喧嘩っ早い一体が前へと出る。世界の覇者とでも言わんばかりに肩で風を切って男へと近づいた。
「・・・」
男の本を叩き落とす。男が見上げるとヘラヘラと笑っている。
「・・・何の真似だ」
「それをこれから体に刻み込んでやるんだよ」
男は脇に置かれていた飲みかけの酒を口に含むと、それを勢いよく口から吹き出しホブゴブリンの目を潰した。
驚く姿を後目に男は裏路地へと駆けだした。
隊長やその他の者どもはゲラゲラとその姿をあざ笑う。
「間抜けが。おい、てめぇらあいつの首を持ってきた奴には追加であの馬鹿の報酬から割り増しでくれてやる!」
酒を吹きかけられた奴も含めてホブゴブリンどもは急いで路地へと駆け込み、男の姿を追う。
追手を、角を抜け、荷物を倒しながら男は華麗に躱していく。隊長は木箱に座り、手持ちの酒を喉に流す。魔族のサイズに作り変えられたタバコをふかし、自らの武器を眺める。
各地で聞こえる「奴だ!」「追えー!」などという声を肴に嬉々として捕獲の時を待った。
そうして数刻が経った頃、自身の前へと一つの首が転がった。己の得物を空に掲げ眺めていた視線は地へと向けられる。「遅かったじゃねぇか」そう言う頃に映ったそれは同士の首だった。
首の投げられた方を見やると、そこにはさきほどの男の姿があった。
「これでも急いだ方なんだがな」
男の口元はにやりともしない。顔はフードで覆われて目元が見えないが、その視線は怨嗟に蝕まれていることははっきりと分かった。
隊長は立ち上がり、同士の首を蹴って路地へと転がした。
「・・・」
隊長は静かに得物と取り出す。人の腕ほどのククリ刀を器用に半回転させて男に向けた。
「名は」
隊長が問うと、男は辺りを見回す。
路地の影で娼婦や酔っ払いたちが姿を覗いていた。
「クラッド・レガリア」
男は名乗りと共にホブゴブリンから奪った剣を構えた。
隊長はその一言に一瞬、呆気に取られてしまう。観客も目を丸くして、息を飲んだ。
美しく全く隙の無い洗練された構え、とは真逆の殺意に満ち、近づけばその首を断ち切るという意思のみをその剣に乗せた構えは、不思議とかえって、これは生まれ変わった剣聖だと思わせるすごみがあった。
しかし理性はそれを否定する。五十年も前に死んだヒトの英雄が再び舞い戻るなどありえない話だ。
「・・・その首貰い受けるぞ、偽物」
巨体の大足に踏ん張りを利かせ、低く、故に素早い飛び込みで男の首元を狙う一刀を男はいなし、隊長が振り返るやいなや―。
「レーヴ流初太刀、斬首の一太刀-トラウ・ア・ラッド-」
無慈悲の一太刀が隊長の首を切り落とした。
整備のろくにされていないホブゴブリンの長剣をもってして、その断面は見事に地面と平行を保っていた。
隊長が倒れるのを一瞥することも無く、男は剣に付いた血を地面へと払う。
驚く観衆も気にせず男は告げる。
「集え-セラヴ-」
すると、各所にあるホブゴブリンたちの死体が魔力の欠片となって空へと立ち上がり、そして男のもとへと集まっていった。
まるで光の彗星のように天を舞い、男に降り注ぐ姿はまさしく神話の英雄然としたいで立ちであった。
剣を無造作に捨て、男は町の夜闇に姿を消した。
「本当なんだって!すんげーつえー剣士が確かに名乗ったんだよ!レガリアって!クラッド・レガリアって!」
「そうよ!私も見たの!ホブゴブリンを一太刀だったんだから!」
翌日、目を覚ますと外がザワザワと騒がしかった。
男はそれを予想していたかのように、ベッドから体を起き上がらせ、手早く荷物を纏め、鍵を開けて代金を机に置いた。
窓を開けると風が心地よくそよいでいた。器用に屋根に降り、家から家へと飛び移る。下を見ると宿の近くに人だかりが出来、何やら楽しそうに話していた。
「身なりはぼろかったがよ、あの剣捌きはまさしく剣聖様のものだと誓えるね!」
「剣聖様がお帰りになったということは、魔王の時代を終わらせに来たってのかい?」
「そりゃあそうよ!そうに決まってる!」
男は彼らの会話に表情を変えることなく一歩、また一歩と歩を進め、人通りの少ない場所へと向かう。
その歩みは南へと向けられ。
廃れたゲートを抜けて、朝日を背に深くフードを被った。
ああ、終わらせて見せようとも。
男の目は決して淀むことは無かった、いや、すでに黒く濁っていた。それはかの日に燃える燃料とせんために。
寂れたクレス・タレスから西に数日の距離にある商業の街ラニット。情報すらも商売のタネになるこの街では噂で持ち切りだった。
本来であれば商人たちとルート上の接触を余儀なくされるはずだったホブゴブリンの部隊が隣する町で討たれたという。
それはたった一人によって行われ、さらに彼はこう名乗ったのだ。
『クラッド・レガリア』と。
荷が無事届き安堵の声と沸き立つ民たちの中を抜け、深々とフードを被る男は飯屋のカウンターへと腰を下ろす。
丁寧にコップを拭きながら、街の活気にあてられ自然の緩む口で人々を眺める店主。
「いらっしゃい」
緩まぬ表情のまま視線を戻すと、ぼろ布に身を包む男に眉を顰める。
「金ならある」
「なら客だ。何にする?」
「水と適当な軽食を一つ」
「あいよ」
店主は手際良くパンを切り開き、野菜やソーセージを切って入れ込む。水とともにそれらを渡された男は、照り付ける日差しの中で乾いた喉を潤してから頬張った。
「あんた、旅人か?クレス・タレスのことは知ってるか?」
「・・・知らんな」
口元を指で拭い、会計をカウンターに置く。
「ごっそさん」
「あいよー」
去る男の姿を見やる。「まさかな」店主は開いた皿を洗い始めた。