一『剣聖の帰還』
『かつて、当代随一の剣の腕を持った男がいた。
その名は生まれ故郷であるセレベルクに留まることを知らず、その腕は他の追随を許さず、されど進化し続ける無敵の剣技。
レーヴ流陸戦闘術、王都から東に馬で一週間の村で生まれた護身術由来の田舎闘術の名を知るものはレル神歴五百四十年以前には砂漠で砂糖の一粒を見つける方が早いと言っても過言では無かった、その男が現れるまでは。
名をクラッド・レガリア。
後にサー・レガリアの名を大陸全土に知らしめることになるこの男が齢十九にして免許皆伝となり、その一年後に王都の大隊長という躍進を遂げた事は皆も知っていることだろう。
英雄留まる事を知らず。
王都の大隊長を務めた二年の間に王都の民たちの羨望を一手に引き受け、また、故にその期待の重さは想像の難くない。
男は魔物どもに占拠されていたかつての名高き聖森ベーラを率いた精兵たちと奪還、その一帯から得られる資源は王都を歴史上最も栄えさせたと民たちは語る。
王は告げる。
そなたに命を下す。征け、かの魔王を征伐せよ、と。
東の地砕き、北の王龍、西の金剛鬼、南の天変九変、これらはすべて誉れ高きかの剣聖により打たれた悪鬼羅刹の者どもである。
人々の噂は確信へと迫る。
ああ、人々の時代が来る、と。
かつて、王命を賜り、その身一つで大陸を渡り歩いた英傑サー・レガリアは魔王の根城にてその命を終えた。
しかし忘れてはならない。かの剣聖が残した功績と栄誉の数々を。
我々は決して歩みを止める事はない。
恐るべき魔王を討つその日まで―。
隊員募集中!王都近衛兵団』
風に流され、目の前に落ちた紙切れに目を通した。それはまるで当てつけのように読み終えた頃合いで再び風に流される。
レル神歴六百五十年。いや、今で言うなら王歴三百五十年だろうか。
あの塵芥と化した剣聖もどきが地に顔を埋めてから王都は五十年しか持たなかった。いや、持った方か。
それから五十年の月日が経ち、魔王が幅を利かせるようになって暦を塗り替えた。奴が生まれてから三百五十年と言う。
知ったことか。しかし、人々は逆らう力など持ってはいない。続々と国々に侵略され、制服には至らずも困窮の末路を辿っていた。
人々には英雄が必要だった。しかし時代がそれに合わない。各々が力を付け、それは己を守る為にのみ機能を果たす。国を救おうなどと誰が思うか、『あの』剣聖がその身を死に至らしめたと言うのに。
悲しいかな、かつての剣聖はその働きによって最も人界の終わりを早めたのだ。
男はため息をついた。
当たり前だ、俺が成そうとしているのは、最も栄えた時代の最強ですら成しえなかった偉業であり、それは二度目の失敗を決して生んではならない覇業であるからだ。
懐かしいと呼ぶにはいささか様変わりに過ぎる地を後にせんと男は立ち上がる。
顔を覆い隠すぼろ布のローブの中、腰につけた鎌に手を振れる。無造作に置かれた荷物を抱え、町の裏路地へと身を沈める。
「おいあんた」
声に振り返ると、投げられた物を掴む。傷やへこみはあれど、輝きはまだ失われていない銀時計。
「・・・ありがとう。優しいな」
この世界に在ってはならないほどに。
少年は無垢な笑顔を向けた後、その場を後にした。
照りつける日差しを遮る以外に役割を持たない繁栄の残骸、その間を進むと角を曲がる度に伏した者たちを見る。もはや一時の猶予もない。
焦りは無い。いや、それはあの夜にすべて置いてきたのだ。
魔王の高笑いを耳にしながらも憎しみと後悔がない交ぜになった瞳を向けることすら敵わず、ただ倒れる男のすべてを赦した表情に感情は肉体共々ぐちゃぐちゃにかき混ぜられ涙するしかなかったあの夜に。
悲鳴が聞こえる。ああ、なぜこんなにも足取りは重たくなるのだろう。ゆっくりと複雑な路地を抜けた後に広がる光景を考えると嫌になりそうだった。
「かーちゃん!」
聞き覚えのある声がする。足は鉛のように重たい。しかし、その歩みは一歩一歩と早まる。
微かな光の指す裏通りに出ると、そこには、人の尺度で巨漢と呼ぶには大きすぎる大男と食料を携えた女が座り込み、そして先ほどの少年が寄り添っていた。
「ガキ、オレたちの邪魔するってんなら殺される覚悟があるんだろうな?」
下卑た笑いを浮かべる取り巻きのゴブリンと、巨躯のオークが二人に歩みを進める。
母親は息子を逃がすべく必死で身を退かせようするが、尚も少年は震える足で立ちはだかる。
「それを明け渡せば命だけは助けてやる、そこの路地までは、な。それ以降は知らねぇ、こいつらはオレの制止を聞かねんだ」
ゴブリン共は歓喜する。これは合図だ。惨たらしい人を使った遊びの開始を告げる。
オークは刺した先に男がいることなど気にも留めない。邪魔立てすれば殺せばいい。いや、むしろそこで人同士拗れた方が狂演は好ましくなる。
右手に携えたこん棒を地面へと叩くと、少年は母親を抱え上げ、手を引いて路地へと進む。
「ごめん。逃げて」
少年は向かいながら男へと囁いた。身を震わす恐怖を喉奥に押しやり、今を生きるのに必死なはずの彼はそれでも優しさを失うことは無かった。
こちらを見やる暇などない。少年は母とともに路地を曲がり、角を抜けた。
今か今かと地団駄を踏むゴブリン達が駆けだし、後を追うようにオークが歩み始める。
奴は分かっているのだ。この手の遊びは小回りの利くゴブリンに得手があり、自身は向かないことを。故に見つめる視線の先には小汚いローブを纏った男がいた。震えて動けないか足でも悪くしているのだろう。こいつをなぶって暇を持て余そう。
男はローブに手をやり、鎌を取り出した。笑いがこみ上げてくる。男は草狩り用の小さな鎌で立ち向かおうというのだ。
ゴブリン共は男に見向きもせず、走り続けた。
奴ら自身も本能的に逃げる弱者を追う方が好ましいからだ。
男の横を通り抜けた数舜の後、耳に微かに聞こえた風切り音が意味を成していたことに気づく。
「・・・っ!」
声も出せない。慣性により少しずつ体と頭はズレを生じ、やがてパックリと分かれた二つが地面へと転げ落ちる。
オークは笑みをこぼした。男はヤる。しかしそれが通じるのは小男たるゴブリンまでだと、巨躯の自身には小鎌など取るに足らない武器であると。
その程度の考えなのだろうな。
有に建造物を越える魍魎など跋扈が常の世で小鎌など武器にすらならないのは至極当然のこと。ならば、『それ』は敗因にすらならない。
「剣聖の帰還をその身に刻め」
言葉の意味を知るより早くその身を伏した。
夕焼け。男は町外れに来ていた。
『偉大なる師、ミラーグ・レガリアとその妻サルバ・レガリアの魂をこの地に奉る』
男は慰霊碑に片膝をつき、顔を伏した。
「我が師であり、父と母よ。愚息たる私が再びこの地に、恥知らずも帰郷した事を謝罪させて欲しい。当時の民たちは、そして死した者たちも、今を生きる者たちも決して許すことはないだろうが、いや、許すべきでは無いだろうが、勝手を承知で誓う。約束する。私は再びこの世界に人々の安寧をもたらす。その暁には、あなた方のそばに、かつての勇敢足る英霊たちの眠るこの地に身を埋めることを赦して欲しい」
一時の沈黙の後、男は立ち上がった。そして迷いなくひるがえると、小高い丘を降り、歩みを進める。
読めば切りのないほど、続く慰霊碑の数々が立ち並ぶ。それはかつてのパレードにて自らを送りだす人々の姿にも、胸に手を当て自らを迎え入れる同胞たちにも見えた。
一歩、一歩と地に足をつける度にかつての町の繁栄や民たちの眼差し、浴びせられる歓声が反響した。
「またそのお姿を我々に!」
ああ、当然だとも。
かつての約束は再び意味を持つ。固めた握りこぶしはギリギリと音を立てた。
町の門へと着く。
「おじさん!」
振り返るとそこには先ほどの少年が立っていた。小走りで男に駆け寄る。
「良かった・・・行くの?」
「ああ」かつての笑みは無く、不器用に口角を上げた。「少し離れる」
「またね!」
『またそのお姿を我々に!』
「・・・またな」
不器用に少年の頭を撫でた。無垢な笑みを浮かべると、少年は母のもとへと駆けた。