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秋の風 冬の色

 1章  夏に見えたもの


 雨に濡れた歩道に、黄色い銀杏の葉が、模様のように張り付いている。

 風がいたずらして作った小さな黄色い丘は、まるで、いろんな人のため息が積もっているよう。


 手袋をしても、冷たい両手に息を吹きかけると、まだ人の少ない朝の通りを、秋元早和あきもとさわは足早に歩いていた。


 せっかく作ったお弁当、家に忘れて来ちゃった。

 いっか。どうせお昼なんて、食べれるかどうかわからないし。

 

 早和は道沿いにあったコンビニに入ると、一番近くにあるお茶と、大粒のミントを買った。おにぎりでも買おうかと奥の棚に向かったが、やっぱりやめて、レジの前にあったスポーツ新聞を手にとって、会計を済ませた。


 NICUの入口を開けると、規則正しい機械音が聞こえる。

「おはよう、秋元さん。いつも早いね。」

 昨夜は帰らなかったのだろうか、6年目の医師の澤口奏さわぐちそうは保育器に眠る赤ちゃんの前で、聴診器を温めていた。

「おはようございます。」

 早和は奏に挨拶をすると、昨日の記録を読み始めた。

「早和、おはよう。」

 3つ上の先輩、河口優芽かわぐちゆめがきた。

 優芽とは年が近いので、新人の頃から一緒にいる事が多かった。早和が奏の誘いを何度も断っている事も知っていた。

「今日、もう1人増えるらしいよ。あのベビちゃんは、コットへ移るから。」

「もうすぐ2000を超えそうだからね。」

 早和がそう言うと、優芽は小さな声で、

「相変わらず、パパは面会に来ないみたいね。主任がボヤいてた。」

 そう言った。

「仕事が忙しいんじゃない?」

「そうかな。生まれてから一度も来てないのよ。ママはそれでいいのかなぁ。男の人って、子供が生まれても、すぐには父親になれないのよね。ここで働いてると、結婚する意味、考えてしまう。」

 2人の会話を聞いていた主任は、点滴の数を数え直した。

「ひとつ足りない!」

 主任は夜勤の看護師を呼びにいった。

「怖、今日は最高に機嫌が悪いよ。」

 優芽が言うと、奏がやって来た。

「先生、新しいベビちゃんはいつ来るの?」  

 優芽は聞いた。

「昼にはくると思うよ。」

 奏は答えたが、

「あっ、長岡先生来たから、聞いてみよう。」

 優芽はそう言って、長岡の所へ足早に歩いていった。


 記録を読んでメモしていた早和に

「秋元さん、今日仕事が終わったら、ご飯食べにいかない?」

 奏は言った。

「せっかくだけど、家で食べます。」

「じゃあ、明日は?」

「明日は、深夜勤だし。」

 早和がそう言うと、奏はため息をついた。

「そうやって秋元さんに断られて、もう3年になる。」

 奏の言葉に、マスクから見える早和の目が、少し笑ったように見えた。


 11時40分。

 新しい子が、NICUにやってきた。

  898グラムのその子は、体重こそ少なかったが、生まれつき抱えている病気はないと長岡は言った。

「ママさんに子宮頸がんが見つかってね。これから子宮を全摘するみたいなの。」

 主任がそう言った。

「8ヶ月か……。」

 優芽はそう言うと、そこにいる誰もが、次の言葉は胸にしまった。

 

 夕方、赤ちゃんの父親がNICUにやって来ました。

 

 医師と父親が相談室に入っていく。


「早和、帰ろう。」

 優芽はそう言った。

「私、まだ仕事が残っているから、先に帰っていいですよ。」

「今日は長岡先生がご飯に奢ってくれるから、一緒に行こうよ。」

「長岡先生が?」

「そう。だからさ、早く終わらせて。」

「あの子は? さっきのベビちゃん。」

「あの子は水島先生が担当だから、大丈夫。だからさ、早和、早く。」


 19時。

 早和と優芽、長岡と奏は、病院から近い居酒屋に来ていた。

「早和、何飲む?」

 優芽はメニューを広げる。

 長岡と奏は、ウーロン茶を注文した。

「先生達は飲まないの?」

 優芽は聞いた。

「今日は新しい子が入ったしね。夜中に呼ばれて、お酒のにおいをさせてたら、感じが悪いだろう。」

 長岡は言った。

「澤口先生は飲んでもいいんだよ。病院には俺が行くから。」

「いえ、僕も呼ばれたら、先生と一緒に病院へ行きますんで。」

 奏が長岡に伝えると、

「だって、コールは水島先生でしょう? さっきのベビちゃんの担当も。」

 優芽はそう言った。

「まあ、いろいろあるんだって。」

 長岡が奏の方を見て、小さく相槌をした。

「水島先生はなんでも長岡先生頼みだからね。早和、何にする?」

 早和と優芽は、サワーを頼んだ。

 飲み物と、少しの料理が運ばれてきて、4人は乾杯をした。

「長岡先生のお子さんは、いくつですか?」

 優芽は聞いた。

「うちの子は今年で20歳になったよ。」

「女の子でしたっけ?」

 奏が聞いた。

「そう。」

「1人?」

 優芽が言うと、

「なかなかできなくてね。治療をして、やっと。」

 長岡は言った。

「奥さんに似たら、きっとかわいいだろうね。」

「俺に似たってかわいいさ。」

 長岡の奥さんは同じ病院の皮膚科の医師だった。

 ウーロン茶を飲んだ長岡は、

「秋元さん、何か飲んだら?」

 空になった早和のグラスを指差した。

「じゃあ、同じものにします。」

 早和はそう言った。

「けっこう飲むんだね。意外だった。」

 長岡が奏の方を早和の顔を見た。

「先生、早和は酔わないよ。こう見えてザルなの。」

 優芽が言った。

「秋元さん、ほどほどにね。」

 長岡がそう言うと、奏は早和を見ていた。


 2つ上の万能な兄と、3つ下の容姿端麗な妹。両親は2人共、公務員の家庭に育った早和。

 旗から見たら理想の家族なのかも知れないが、家族とはなんとなくギクシャクしていた。

 早和は小学2年の時、長引いた風邪が左の腎臓を奪い、さらに中耳炎になっている事に気がつくのが遅れ、左の聴力を失った。

 父にも祖父母にも責められた母は、それ以来、早和にだけ、冷たくなった気がする。父や祖母は、早和が風邪を引きやすいのは、母親が悪いといつも母を責めていた。   

 家庭の事も、子供の事も、母に任せっきりだった父。祖母は全てにおいて手を抜かない厳しい女性だった。母自身もどちらかと言えば、仕事が中心の女性だったので、家の中でゆっくり話しをした記憶があまりない。

 出来のいい兄や、誰も振り返る程かわいい妹は、手を掛けなくても両親の理想通りに育っているのに、何の取り柄もない自分が度々熱を出すと、露骨につく母のため息が、早和の心の底に溜まっていった。

 早和は小学生になり、高い熱を出しても、家で1人で寝ている事が多くなった。子供ながらに、母にこれ以上迷惑を掛けたくないと思っていたし、混み合っている小児科に受診したところで、いつも同じ風邪薬を出されるだけ。子供が泣いている声や、病院に漂う独特の消毒の匂いが、熱がある時は、余計に具合を悪くさせた。

「お母さん、仕事へ行って。いつもの薬を飲めば、すぐに治るから。」

 早和は母の携帯番号を書いた紙を枕元において、布団の中でお菓子を食べて過ごしていた。風邪を引く度に、ちょっとずつ余っていた薬を飲んで、病院へは行かず、やり過ごす事が増えた。

 小2の秋、3日間続いた熱が一度下がったので、学校へ行った日。

 給食の最中に倒れて、早和は病院へ運ばれた。そのまま入院する事になり、説明にきた医師から、母はきつく注意されていた。

 皆が母の事を責めたところで、早和が失ったものは戻らない。母は涙を見せず、ただ謝ってばかりいた。

 欠陥商品を手にした様な両親とは、それから距離がどんどん遠くなった気がする。

 体にいいからと祖母が持ってきたものが食卓に並ぶと、早和は食べようとしなかった。母が好きな物を早和の前に並べると、体を悪くするときつく祖母から叱られた。度々やってくる祖母の言葉に返事をしないと、ずいぶんの長い事小言が続く。早和は自分の部屋から出てこない事が増えた。

 中学に入ると、自宅から離れた女子校へ進んだ。子供がいない叔母夫婦の家で暮らすことになり、話し好きの叔母夫婦とは、すぐに本当の親子の様な関係になった。


「先生、食べたら?」

 早和は目の前にあったサラダを奏に近づけた。

「秋元さんは?」

「私はお酒飲んでるから、いらない。」

「飲んでるなら、食べなきゃ。」

 奏は早和にサラダを戻した。

「ふだん、何して食べてるの?」

「何ってわけじゃないけど。」


 長岡の携帯がなった。

「ほら、きた。」

 優芽がそう言った。

 長岡は電話を切ると、優芽に1万円を置いて出て行った。

「澤口先生も行くの?」

 優芽が言うと、

「一緒に行きます。」

 奏は言った。

「今日は俺だけで充分だ。」

 長岡が奏の肩を叩いた。

「だったら2人で飲みなよ。澤口先生、ずっと早和に断られてたんだし。私は知り合いの店に行くから、これで。」

 優芽はそう言って、澤口にさっきの1万円を渡すと、店を出て行った。

「秋元さん、どうする?」

 奏が早和に聞いた。

「残ってるの食べたら、帰ります。」

 早和はそう言って、澤口の皿に残ってる料理を乗せた。

「秋元さんも食べてよ。」

「先生、甘いもの頼んでもいいですか?」

「いいよ、食べなよ。」

 早和はチョコレートケーキを頼んだ。

「秋元さん、けっこう偏食なんだね。」

 奏が言った。

「悪いですか?」

「悪くないけど、」

「看護師さんなのにって、言いますか?」

 奏は笑って、

「そんな事言わないよ。」

 早和に言った。


 2人は料理を食べ終ると、店を出て歩き出した。

「私はこっちだけど、先生は?」

 早和が言った。

「秋元さんの家まで送って行くよ。」

 奏は早和について来た。

「先生、私、NICUから出たいな。」

「何年目だっけ?」

「3年目。内科とか整形とか、患者さんと会話ができる病棟に行きたい。」

 早和はため息をついた。

「たしか、NICUは希望じゃなかったんだっけ。」

「そうだよ。ねえ先生、看護師もドラフトと一緒だから。希望してる場所と、選んでくれる場所は、けして同じじゃないの。」

「アハハ、本当にそうだね。」

 早和はカバンからスポーツ新聞を取り出した。

「岡田、引退だって。」

 紙面に書かれているプロ野球選手の引退の記事を、奏に見せた。

「今日はこの記事を見て、岡田の思い出に浸りたかったのに。」

 早和はそう言った。 

「秋元さんが野球が好きだとは、知らなかったよ。」

 奏は新聞に顔を近づけた。

「チームひと筋、19年だって。すごい功労者だったんだね。」

「そうだよ。」

 早和はその写真を愛おしそうに見つめていた。

「秋元さんも、19年、NICUにいてみたら?」

「無理無理。先生は、NICUにずっといるの?」

「さあ、どうかな。」

「淋しいな、引退なんて。いつか来る日だってわかっていても、すごく悲しい。」

「秋元さんはこの人のどこが好きなの?」

「一度だけ、球場で見たことがあるの。その時、一塁を守る岡田の大きな背中を見てね。それが私の初恋。」

「背中に初恋って、どういう事?」

「先生にはわからないだろうな。あんな背中で守ってもらえたらね、言葉なんていらない。」

 早和はそう言うと、もう一度スポーツ新聞を見た。

「背中って自分じゃ見えないから、どうやったら秋元さんに気に入ってもらえるか、わからないよ。」

 奏は早和の見ている新聞を手に取った。

「秋元さんの家は病院の近くなんだね。」

「そうです。」

「先生は?」

「俺は少しだけ遠い。独身用の医師住宅がなかなか空かなくて、用意してくれたアパートが、病院から少し離れているんだ。」

「それは困りましたね。呼び出しや泊まりも多いのに。」

「秋元さんの家に、泊まって行ったらダメかな。」

「ダメです。先生も、事務長に言って早く近くに家を見つけてもらってください。」

「きっと断られると思った。新聞読んだら、早く寝るんだよ。」

 奏は早和にスポーツ新聞を渡した。

「先生、送ってくれてありがとう。」


 道に張り付いた銀杏の葉は、暗い夜の足元を照らしているようだった。


 先生。

 大きな背中の人はね、そこに飛んできたボールをパッととって、見えるように高くあげた。サーッとベンチに戻って行くの時にね、彼にみんなが笑顔で声を掛けてるの。

 そこに大きなものがあるとね、きっとみんな、安心するんだね。

 私もあんな背中に寄りかかることができたら、毎日深く眠る事ができるのに。


 2章 秋が見つけたもの


 朝方から降り出した雨は、小雨に変わってきた。

 それほど大粒の雫ではなくても、傘が効かない強い風が吹いている。

 

 早和は更衣室で濡れた服を看護衣に着替えると、冷たくなった手をすり合わせて温めながら、NICUへ向かった。

 

「おはよう。」

 優芽が言った。

「おはようございます。」

「早和、昨日あれからどうしたの?」

「帰りました。澤口先生が家まで送ってくれて。」

「じゃあ澤口先生はその後に病院に泊まったんだ。」

 早和が保育器の前にいる奏を見ていると、長岡が何かを話している。

「昨日来たベビちゃん、心臓に病気が見つかったらしいよ。状態が安定しなくて、長岡先生はつきっきりだったらしい。澤口先生も、ずっとベビちゃんについていたんだって。」


 看護師長が、長岡の妻から着替えを受け取っていた。

「早和、澤口先生とも、着替えを届ける様な関係になったら?」

 優芽は言った。

「医者になるって決めた時から、泊まりは承知の上でしょう。」

 早和はその子のモニターを見た。

 昨日はキレイな波がたくさんあったのに、今日はその波が少なくなっている。


 昼過ぎ。

 両親が我が子に会いにきた。手術を終えた母を車椅子に乗せてやって来た優しそうな父。

 保育器がそばにきた両親は、初めて会った我が子を見て、静かに泣いていた。

 ベビーの状態が安定しないので、長岡がすぐに処置に入ると、両親は担当の水島医師に呼ばれ、NICUを後にした。


 医師と両親が何を話しているのか、だいたい察しがつく。

 やっと会えた我が子が背負った、あまりにも重い現実は、母親の肩に、もっと重くのしかかるだろう。

 次に我が子に会いに来る時は、2人はどんな顔をしているだろう。


 早和はその子のカルテを見ていた。

 母親と父親は自分と同じ歳なのか。

 母親は子宮を全部摘出したんだもの、なんとしてもこの子を、抱っこして家に連れて帰りたいだろうな。 

 

 夕方。

 仕事が終わらない早和は、飲み物を買いに売店に来ていた。

「秋元さん。」

 奏が隣りに並ぶ。

「先生、今日も遅くなるんですか?」

「そうだね。」

「昨日、病院へ戻るなら、言ってくれたらよかったのに。」

「秋元さんの家について行くと言い出したのは、俺の方だし。」

 早和がお茶を手にすると、奏も同じ物を買った。

「奢ってあげる。」

 奏は早和が持っているお茶を手に取った。

「いいですよ。」

 早和は奏が持っているお茶を取ろうとした。

「これから残業するんでしょう?」

「はい。」

「一緒に甘いものでも食べようか。」

 奏はプリンを手に取ると、レジに向かった。

「ありがとう、先生。」

「秋元さん、今日は素直だね。」


「早和。」

 売店を出たところで、早和は車椅子に乗った女性から声を掛けられた。

「やっぱり、早和だった。」

「涼子?」

「そうだよ。さっき赤ちゃんを見に行った時、似てる人がいるなぁって思って名札見たら、もしかしたらって思ったんだ。マスクしてたから確かめられなかったけど、やっぱり早和だった。」

「涼子、何年ぶりだろうね。」

「早和の彼?」

 涼子は奏の方を見た。

「小児科の先生。同じ職場の人。」

「ねぇ、後で私の病室にきて。久しぶりに話したい事があるの。」

「うん。じゃあ、あとで。」

「病室、わかる?」

「わかるよ。」

「そっか、早和はここに勤めてるんだもね。」

 奏は早和の肘を軽く突いた。


 NICUへ戻る廊下を歩きながら、

「先生、どうかしました?」

 早和が奏に聞いた。

「お母さんの所へ行くのは、あんまり関心しないよ。今どういう状況か、いろいろ聞かれるかもしれないのに。」

「昔の話しをするだけです。」

「そうかな。親はなんとしても我が子を助けてほしいと思っているだろうし。」

「それは他の親もそうでしょう。」

「あんまり赤ちゃんの事、話すのはダメだからね。」

「わかってます。先生、プリンありがとう。」


 18時40分。

「涼子、入るよ。」

 早和が涼子の部屋を訪ねた。

「早和、仕事は終わったの?」

「ううん。もう面会時間終わっちゃうから、ちょっと抜けてきた。」

 中学からの同級生の古林涼子ふるばやしりょうこと会うのは、高校を卒業して以来、7年ぶりになる。

「職員でも面会は自由にならないの?」

「それはちゃんと守らないと。」

「早和は相変わらず真面目だね。」

「涼子、古林になったんだ。高校の時から付き合ってた、あの人でしょう。」

「そう。去年結婚したの。」

「おめでとう、知らなくてごめんね。」

「おめでとうって言わないでよ。今どういう状況か、わかるよね。」

「ごめん。」

「ううん。こっちこそごめん。仕方ないよね、卒業してから、連絡取らなかったし。早和は同窓会も来なかったし。」

「涼子は行ったの、同窓会。」

「行ったよ。あのクラスで結婚したのは、私くらいかな。」

「そっか。」

「早和はさっきの先生とは付き合っているんでしょう?」 

「違うよ。本当に仕事の仲間。」

「そうかな。先生が彼氏なんて羨ましい。」

「涼子の旦那さん、優しそうだね。」

「優しいよ、すごく。」

 涼子は少し淋しそうな顔をした。

「ねえ、ここのご飯、美味しくないでしょう?」

 早和は話しを逸らした。

「そうだね、美味しくない。」

「今度チーズケーキ買ってくるよ。涼子、好きだったでしょう。病院の近くにあるの、美味しいケーキ屋さん。」

「本当に?」

「楽しみにしてて。」

「うん。」

 

 早和は仕事へ戻った。

 帰り際に涼子の赤ちゃんのカルテを見ようとすると、奏が止めた。

「やめなよ。友達なら見ないほうがいい。」

「仕事として見るだけですよ。」

「秋元さん、プリン残ってるよ。せっかく買ったんだから、一緒に食べようよ。」

「先生、どうしてあの赤ちゃんの事をそんなに隠してるんですか?」

 奏は休憩室へ行こうと早和を誘った。

「ほら。」

 プリンを早和に渡した。

「今日はこれを食べたら帰ろうよ。」

「言われなくて、帰りますよ。」

 早和はプリンをカバンに入れた。

「食べないの?」

「帰ってから食べます。」

 早和は時計を見た。

「先生、今日も泊まりですか?」

「そうだね、長岡先生が泊まるから。」

「じゃあ、頑張ってください。」

「ねえ、秋元さん。明日は深夜って言ってたね。」 

「そうです。」

「それなら、日中は家にいるの?」

「いますよ。」

「あのさ、お願いがあるんだけど。」

「なんですか?」

「俺の洗濯物、洗ってくれない?」

「はぁ?」

「今度はプリンじゃなくて、ケーキを奢るから。」

「ホールで?」

「ホール?」

「そうです。ホール。」

 早和は奏の目の前で丸を作った。

「それ、一人で食べる気?」

「涼子と食べます。まだ入院してるみたいなんで。」

「秋元さん、それはさ、」

「なんですか?」

 奏は何かを言い掛けてやめた。

「医局に洗濯物取りに行ってくるから、ちょっと待ってて。」


 医局から洗濯物を持ってきた奏は、早和は紙袋を渡した。

「こんなにですか?」

「俺、汗かきだから。」


「澤口先生!」

 長岡が奏を呼んでいる。

「じゃあ、頼んだよ。」

 早和は、紙袋を抱えてNICUを後にした。


 病院から帰る途中、早和はコンビニへ寄った。

 コーラとお菓子をレジに持っていくと、隣りの男性と目が合った。

 カゴと一緒にスポーツ新聞をレジに出して、会計を済ませた早和を、その男性は追ってきた。

「看護師さん。」

 早和が振り向くと、男性の顔には、見覚えが合った。

「看護師さん、俺、涼子の旦那。」

 男性はそう言った。

「そうでしたか? 私、覚えてなくてすみません。」

「仕事、終わったの?」

「はい。旦那さんはこの近くで働いてるんですか?」

「会社はここから遠いけど、今、病院から、連絡があってね、これから行く所。」

「そうだったんですか。」

「看護師さん、じゃあ。」

 早和は赤ちゃんが急変したのだと感じた。奏が病院へ泊まるのも、きっとそのために待機していたんだ。これから涼子と会いづらくなるかも、早和はそう感じた。


 家に帰り、奏の洗濯物を洗濯機に入れた。1回じゃ終わらないよ、これ、早和は独り言を言った。

 干す場所、あるかな。

 もう一度、紙袋に洗濯物を詰めると、自分の洗濯物も袋に詰め込んで、コインランドリーへ向かった。

 洗濯が終わるのを待っている間、携帯で野球を見て過ごしていた。

 

 今年は青野も引退するのか。

 

 大学の頃、少しだけ仲が良くなった男の子と、一緒にプロ野球を観に行った。

 野球のルールをよくわからない早和に、彼は丁寧に教えてくれたけど、早和の左耳が聞こえない事を知らないせいか、左から熱心に説明されても、言葉の半分も聞き取れなかった。


 目の前にいる野球選手に目をやると、大きな背中が見えた。   

 彼は誰なのか、その男の子に聞いた。

 

 早和は左耳の事も、左の腎臓の事も、説明するのが面倒になると、その人から距離を取るようになった。彼に限らず、耳の事を話さなきゃならないと思うと、人との距離が近くなるのが、嫌になった。 


 奏が医大生の頃。

 病院の隣りの大学の看護学生だった早和は、風邪を引いて大学病院の外来を受診した事があった。

 医者から耳の事や腎臓の事を何度も聞かれ、診察室を出る頃は、ぐったりした顔をしていた。

 熱がある中、自己管理が足りないと怒られ、それでも看護師になるつもりかと、最後には医者に怒鳴られて診察室を後にした早和は、今にも消えてしまいそうな背中を奏にむけた。

 

 会計を待つ早和の左隣りに、奏が座った。

「大丈夫?」

 早和は返事がなかった。奏が反対側に座り直して声を掛けると、早和は不思議な顔をした。

「梶原先生、あんなふうに言わなくてもいいのにね。風邪なんて誰だって引くんだし。」

 研修医なのだろうか、早和は名札を見て、そう思った。

「私が悪いから。」

 喉が痛むような乾いた咳をすると、

「ごめんなさい。」

 早和はそう言ってマスクを押さえた。

「ここの学生さん?」

「そう。」

「勉強頑張ってね。だけど、あんまり無理しちゃダメだよ。」

「ありがとうございます。」


 3年前。

 あの時学生だった早和は、新人看護師としてNICUに入ってきた。奏は1人しか入ってこなかった新人看護師の早和に、何かある度に声を掛けた。

「わからない事があったら、なんでも聞いてよ。」

「何がわからないのかも、わかりません。」

 早和は仕事を怖がり、医者や先輩達から怒られてばかりいた。ナースステーションの片隅で、小さなノートにびっしりと書き込まれた文字を、いつも読み返している。

「ここは、授業とはぜんぜん違うだろう。」

 奏は早和にそう言った。

「私は別の場所を希望したのに、NICUなんてひどすぎる。子供なんて、苦手だし。」

「そんな事言わないで、ここで学んだ事は、絶対に役に立つから。」

「そうでしょうか。」

「そうだよ。ここは、時間の流れが他と違うだろう。」

「そうですね。」

「使っている物も、他とは全然違う。」

「国家試験が合格祝いに、せっかく高い聴診器を買ってもらったのに、赤ちゃん用の物にしないとダメですね。」

「俺のをひとつあげようか。」

「先生からはいただけません。」

「いいよ、あげるから。」

「何色ですか?」

「黒。青もあるよ。」

「水色を自分で買うから、いらないです。」

「こだわるなぁ。色なんてどうでもいいのに。」

「先生は赤ちゃんが好きなんですか?」

「俺は大人が苦手なんだよ。」

「おかしな理由で、小児科医になったんですね。」

「そうだね。ここで勉強が済んだら、小児精神に行くんだ。」

「小児精神?」

「今、子供の心の専門医って、すごく需要があるんだよ。前からやってみたくてね。 」

「だからいつも赤ちゃんの声、聞いているんですね。」

「そうだよ。小さな背中はたくさんお話ししてる。秋元さんも怖がらないで、触ってごらん。」 

 奏は早和の背中に手をあてた。

「やだ先生。私は赤ちゃんではないですよ。」

「生まれたてみたいなもんだろう。秋元さんは新人なんだし。」

「先生は何年目ですか?」

「俺はここにきて3年目。」

「じゃあ、少しだけお兄さんですね。」


 仕事が終わって帰る道。

 雨が上がった夜のアスファルトは、月の光りと街灯の灯りで、光沢がかかったように見えた。

 所々にできている水溜りに風が通る度に、その光りがキラキラと揺れた。


 先生。

 赤ちゃんはなんて言ってるの?

 本当はもう少しお腹の中にいたかったって?

 私もね、時々逃げたくなるの。

 もう一度、母のお腹の中に戻ったら、この世界には、何も期待なんかしなかったのにな。

 

 3章 秋が落としたもの

 

 切られた爪の様な形をした月が、紺色の夜に浮かんでいる。

 

 23時。

 奏から頼まれた洗濯物を持って、早和は病院へ向う。病院から近い場所には、たくさんのアパートが建ち並ぶ。同じ時間に歩いている人を見ると、あの人も病院の職員なのだろうと思えてくる。

 

 いつも立ち寄るコンビニへ行くと、

「今日はこれから仕事?」

 店員が声を掛けてきた。

「そうです。」

「大変だね。」

「お兄さんも、夜中中仕事なんでしょう?」

「そうだね。昨日、新しいパン出たよ。」

「本当に?」

「今はもうないから、夜勤が終わったら買いにおいで。」

「商売上手ですね。」

「お客さん、いつもスポーツ新聞買いに来るでしょう。しかも岡田がホームラン打った時に。」

「バレてました?」

「わかるよ。正直な人だなって思ってた。」

 次の人がレジに並んだので、じゃあ、と言って早和はコンビニを出た。


 病院か近くても、紙袋2つはけっこう重いわ。

 よいしょとひとつを胸に抱えると、病院までの道を急いだ。

 

 職員玄関を開けると、お線香のにおいがした。

 誰か亡くなったんだ。  

 霊安室の前を通り、2階にある更衣室へ向かった

 生まれてきたら死ぬ事は決まっているのに、生きている時は、もしかしたら自分だけは、死ぬ事なんて関係ないとさえ思ったりする。

 

 NICUに行くと、涼子の赤ちゃんが入っていた保育器がなかった。

 早和が記録を読んでいると、準夜勤の看護師が早和の前に来た。

「秋元さん、これからもう一人くるから。」

「えっ?」

「飛び込みよ、飛び込み出産。救命の先生、なんで受け入れちゃうかな。」


 涼子の赤ちゃんの事を考える暇もなく、早和はやって来た赤ちゃんの処置に追われた。

 2136グラムで産まれた子は、大人の事情も知らず、すやすやと眠っている。

「お母さん、高校生だって。妊娠の事を誰にも言えず、薬を飲んでお風呂場で手首を切ったらしいよ。親が薬の殻に気がついて、家の中を探したら、お風呂場の中で冷たい水に浸かって、意識を失ってたんだって。救急車にまたまた同乗した女の救命士が、妊娠している事に気がづいたらしい。」

 同じ深夜勤の看護師がそう言った。

「言葉が出ないです。」

「昨日はあの保育器のベビちゃんとお母さんが亡くなったみたいだし。」

「えっ?」

「秋元さん、知らなかったの? あのベビちゃんのお母さん、本当は子宮頸がんの手術なんてしてないよ。家族みんなで隠し通してたみたい。」

「お母さんは自分の病気の事を知らなかったんですか?」

「妊娠してガンが見つかった時には、肺にも転移していたみたいでね。家族でどうするか話し合って、本人には何も言わないって決めたらしいよ。赤ちゃんの事は、最初は諦めさせようとしたんだけど、どうしても産みたいって本人は言い続けたんだって。赤ちゃんが生まれるまでには、お母さんの体は持たないだろうって思ってたけど、8ヵ月を超えたから、帝王切開で赤ちゃんを出して、お母さんに会わせようって、産婦人科の先生が家族と話したみたいだよ。長岡先生は、お母さんに赤ちゃんを抱かせたくて、必死だった。」

「お母さん、抱っこできたんですか?」

「それができなかったの。」


 保育器からアラームがなり、早和はそこに向かった。

 聴診器を胸にあてようとすると、奏がやって来た。

「時々、息をするのを忘れる子だね。まだお腹の中にいると思ってる。」

 奏はモニターを見た後、赤ちゃんの胸に聴診器をあてた。

「一晩経てば、生まれてきた事に気がつくよ。」

「明日はコットに移りますか?」

 早和は奏に聞いた。

「ちゃんと息するように、見張っててよ。」

 奏は休憩室から紙袋を持ち、NICUを後にした。

「先生。」

 早和は奏を呼び止めた。

「みんな寝てるから、静かにね。」

 奏は出ていった。


 夜勤を終えて開ける職員玄関は、どんなに曇っていても、痛みを伴う光りを感じる。

 白い壁の病院とは違う眩しさが、目の奥まで突き刺さる様だ。

 みんなが活動している時間に、帰って眠る事は、罪悪感と優越感が何層にも重なった。

 この生活は一体いつまで続くのだろう。

 いつ眠って、いつ食べたらいいか、よくわからなくなってきた。

 少し昼寝をしたら夜はぜんぜん眠れないのに、夜勤が始まる少し前になると、瞼が落ちて布団から出られなくなる。

 ベッドの中で口に入るものがあれば、食事に対する執着など、何もなくなった。


「秋元さん。」

 奏が出勤してきた。

「先生、今日は遅いですね。」

「昨日、久しぶりに家に帰って寝たら寝坊したよ。長岡先生に電話で起こされた。」  

「洗濯物ありがとう。今日は休み?」

「そうです。」

「夕方、約束のケーキ届けるから、家で待ってて。」

 奏は吸い込まれるように玄関に入っていった。


 家に来られても困るのに。


 早和はシャワーを浴びた後、お菓子を食べながら携帯を見ているうちに、いつの間にか、そのまま床で眠ってしまった。

 チャイムの音でびっくりして起きると、奏がケーキを届けると言った事を思い出した。

 玄関の覗き窓から、恐る恐る外を見ると、やっぱり奏が立っている。

 どうしよう、ひどい格好だけど……、

 早和が着替えようか迷っていると、またチャイムがなった。

 勢いでドアを開けて奏を見ると、

「もしかして、寝てた?」

 奏は笑った。

「ほら、約束のケーキ。」

「ありがとうございます。」

「本当に1人で食べる気?」 

 早和は少し考えた。

「先生、涼子の事、知ってたんでしょう?」

 早和が奏に聞くと

「上がってもいい?」

 奏が家に入ってきた。

「本当に寝てたんだ。」

 奏は床にある毛布を見つけた。

「秋元さんは風邪引いたら、取り返しのつかない事になるよ。」

「今さらそんな事、どうでもいいよ。ねえ、涼子の事、教えて。」

「その前に、何か上に着てきなよ。その格好じゃあ、目のやり場に困るよ。」

 早和は両腕を触った。冷たくなっている自分の皮膚が、水分を欲しがっているようだ。

「先生、これならいいですか?」

 早和はキャミソールと短い短パンの上に、床に置きっぱなしの毛布を羽織った。

「それでもいいけどさ。秋元さん、家と病院ではずいぶん印象が違うんだね。」

「どんな風にですか?」

「家にいるとやっぱり普通の女の子なんだなって思う。」

「家の中まで看護師さんなんかやってられません。先生、何か飲みますか?」

「そうだね。」

 早和は毛布を置いて台所へ行った。

「秋元さん、だから、何か着てよ。」

 奏が早和の肩を掴んだ。

「先生、コーヒーでいい?」

 早和はカップを選びながら、泣いていた。

「秋元さん。」

「毎日毎日、悲しい事ばっかりで、もう辞めたい。」

 奏が早和の背中を抱きしめようとすると、

「これでいいですか?」

 早和が涙目で奏にカップを見せた。

「それでいいよ。コーヒーはどこ?」

「こっち。」

「ケーキの皿は?」

「切らないで、そのまま食べてもいいですか?」

 早和は大きなフォークを2つ出した。

「意外とどうでもいい人なんだね。」

「でしょう? だから、細かい仕事なんて、本当は無理なんです。」

 奏が持ってきた箱を開けると、フルーツがたくさんのっているケーキが出てきた。

「これ、先生が選んだんですか?」

「そうだよ。」

「ありがとう、先生。」

 早和は食べようとして、奏を見た。

「先生は食べないの?」

「俺はお腹いっぱいだから。」

 奏は早和の顔を見ていた。

「涼子の事、先生は知ってたんでしょう?」  

 早和がケーキをさしているフォークを止めた。

「そうだね。赤ちゃんの心臓に穴が開いてる事も、長岡先生から聞いてた。」

「みんなで涼子を騙してたの?」

「騙してなんか、いないよ。旦那さんが、最後に奥さんの願いを叶えるために選んだ事だから。初めは子供を見ることもできないと思ったのに、奥さんは長く生きて、赤ちゃんが産める様になった。赤ちゃんが生まれたら、助からないって知ってても、赤ちゃんにも奥さんにも、もう少し生きててほしいって、みんな必死だった。」

「涼子はね、きっと自分が助からないって、わかってたと思うよ。」

「そうかもしれないね。」

「先生、今日きた赤ちゃんのお母さんも、すごく辛かったんだね。」

「親になるって、みんな辛いんだよ。」

 早和は自分の両親を思い出した。

「なんでも母親のせいにされたら、子供はたまんないよ。」

 そう言って早和は膝を抱えた。

「もう、嫌になる。」

 顔を伏せた早和の肩を、奏は抱き寄せた。

「ごめんなさい、先生。ケーキ、食べよう。」

 奏の腕から逃げるように、早和はケーキを食べた。

「秋元さん、そんなに思い詰めてるなら、ちゃんと気持ちを話してほしいな。」

 奏は早和をもう一度抱き寄せた。

「ほら、風邪引いたらダメだって言われてるだろう。」

「わかってる。」

 早和を毛布でしっかり包んだ奏は、自分に寄り掛かる早和の体を受け止めた。

「先生、温かいね。」

「秋元さんが冷たいんだよ。」

「そうかな。」

 奏は早和の背中を撫でた。

 胸の中で目を閉じた早和に、奏は静かに唇を重ねた。

 

「早和、どんな気持ち?」

「涼子、どこにいるの?」

「暗闇の中だよ。早和、私の赤ちゃんを返してよ。」

「赤ちゃんと一緒にいるんじゃないの?」

「赤ちゃんは地獄へ行ったの。」

「そんな、どうして地獄になんて行くのよ。」

「親より先に死んだ子はね、地獄に行くのよ。私の方が、あの子よりも先に死ねば良かったのに。」

「そんな悲しい事、言わないで。」

「早和、私の事、笑ってるでしょう?」

「笑ってないよ。何を言うの?」

「嘘。私の赤ちゃんを奪った医者と寝てるなんて、もう子供を産めない私の事を、笑ってるんでしょう? 左耳が聞こえないし、腎臓もひとつしかないし、可哀想な早和は、どうせ当たり前の結婚なんてできないと思っていたのに。どうして、私より幸せそうな顔をしてるの!」

「涼子、何言ってるの!」

「早和の嘘つき!」


 心臓の鼓動が速くなり、早和は飛び起きた。

 早和の隣りで眠っていた奏が、目を覚ました。

「どうした?」

 奏は早和の髪を撫でる。 

「なんでもない。」

 ベッドから出て窓を見ると、この前より少し大きくなった月が、歪んで見える。

「眠れないの?」

「眠れるよ。」

 奏は早和の隣りに並んだ。

「早和。」

「何?」

 奏は早和を抱きしめた。

「先生、苦しいよ。」

「ごめん。だけどもう少し、こうしていてもいいかな。」


 涼子、ごめんね。

 本当に、知らなかったの。


 先生。

 涼子の思いは、ずっと残ったままだよ。何も言わないで逝ってしまった赤ちゃんは、本当は涼子に抱かれるために、生まれてきたのにね。

 いくら保育器を温めても、人の温もりは作り出さないの。

 先生の手、温かいね。 

 涼子が悲しむから、もう握らないよ。

 

 4章 秋が積もらせたもの


  秋はあっという間に過ぎていく。

 少し暑い日と肌寒い日が交互にやってきて、いつの間にか冬が隣りに座っている。


 涼子の夢を時々見るようになってから、早和はなんとなく体調が悪くなった。

 奏はあの日以来、家に来ていない。

 病院へ泊まる事が続いてるせいか、時々大量の洗濯物を、早和に洗ってほしいと頼んできた。


「早和。」

「先生、病院の中でそう呼ばないで。」

「誰もいないから、いいだろう。」

「困るよ。」

「ねえ、ちゃんと寝てる?」

「寝てるって。」

「ご飯は?」

「食べてるよ。」

「本当に? なんか、体調悪そうだよ。」

「大丈夫だよ。」

「腎臓内科の梶原先生に頼んでおいたから、一度ちゃんと診てもらって。」

「大丈夫だって。それにあの先生は、すごく怖いし。」

「ちゃんと話しを聞いてくれるから、明日、11時半だよ。外来に必ず行ってね。」


 次の日。

 早和は奏の紹介してくれた梶原医師の外来を受診した。

「小2の時の溶連菌が原因だったよね。」

「そうです。」

「普段は疲れやすい?」

「そんな事はないです。」

「澤口くんの気にしすぎかな。念のために採血するから。あと、エコーもしようか。夕方に結果が出るから、連絡するよ。病棟はどこ?」

「NICUです。」

「そうか、澤口くんと一緒だったか。」


 夕方。

 早和が診察室に行くと、梶原の隣りに奏がいた。

「少し、腎臓の機能が落ちててね。入院しない?」

 梶原がそう言った。

「入院しないとダメですか?」

「家にいても、ちゃんとしたご飯を食べないだろう。」

「でも、入院は嫌です。」

「秋元さん、少しの間だよ。」

 奏が言った。

「澤口くんが、毎日見舞いに来るっていうから、淋しくないだろう。」

 梶原がそう言った。


 早和が師長に事情を説明すると、奏との関係は、師長は知っていた。

「秋元さん、梶原先生から聞いてますよ。澤口先生の洗濯物を頼まれていたんだってね。家にいる時は、自分の事だけやって、体と頭を休めないと、この仕事はもたないわよ。秋元さんは器用な方じゃないんだし。澤口先生も、頼みやすいからって、秋元さんになんでも押し付けたらダメです。看護師は先生のお母さんでも、お嫁さんでもないのよ。」  

 師長は2人に注意をしていると、

「師長、そんなに怒るなよ。この2人が決めた事なんだんだろう。周りがいろいろ言う事じゃない。」

 長岡医師が言った。

「ここの看護師達はね、結婚とか出産にすごくシビアなの。NICUから外へ出る時は、全部リセットしないと、普通の女性に戻れない。澤口先生とお付き合いするって事はね、家に帰っても、ずっとNICUにいるようなものよ。」

 師長は早和にそう言った。

「秋元さん、もっと自分を大切にしなさい。澤口先生も、ちゃんとそこは考えてよ。」

「秋元さんの病室の準備ができたって。5階の師長から電話がきたよ。」

 長岡はそういうと、師長に電話を代わった。


 早和の入院は、梶原の配慮で個室が用意された。

 21時の消灯になると、真っ暗になった部屋の中に涼子が出てきた。


「早和、どんな気持ち?」

「どんな気持ちって。」

「病院は暗くて、淋しいでしょう?」

「そうだね。」

「私の赤ちゃんは、暗い所にいたの?」

「ううん。ちゃんと灯りがついてたよ。それにいつも近くに人がいたし。」

「嘘ばっかり。早和も暗い所に落ちればいいのに。」

「涼子じゃなくて、私が死ねば良かったね。」

「本当にそう思う?」

「優しい旦那さんと、かわいい子供と、これからもっともっと幸せになれるのに、なんで涼子から、みんな奪ってしまったんだろうね。私は何もないから、神様もつまらないって思ってるのかな。」

「早和の子宮は、キレイでしょう?」

「……?」

「私の子宮と変わってくれる?」

「いいよ。涼子にあげる。耳も、腎臓も役に立たないけど、子宮は涼子に渡せる。」

「早和は子供は欲しくないの?」

「結婚なんてしないもの。」

「じゃあ、私の子宮と取り替えて。」

「好きな人の子供、ほしいのよね?」

「違うよ。私はとっても悔しいのよ。」

「どうして?」

「体の何が欠けても辛いけど、子供が産めなくなるって、生まれてきた事さえも、否定されているみたいなの。」

「……。」

「結婚なんかするつもりないなら、子宮なんていらないわよね?」

「うん。」

「今度、もらいにいくから。」


 その夜から3日間。

 早和は高熱を出した。

 

 目が覚めると、早和の両親と妹がベッドの横にいた。

「早和。」

「お母さん。」

「ずっと、具合が悪かったの、隠してたんでしょう? 大人になっても、何も変わらないね。」

 母の柊子しゅうこが言った。

「お母さんが、何度も病院へ行こうって言っても、いつも行かないって、動かないんだもの。」

 妹の早紀さきは早和のおでこを触った。

「熱、だいぶ下がったね。お姉ちゃん、またお母さんを心配させる気?」

「みんな私の事なんか嫌ってたじゃない。お兄ちゃんや早紀みたいに、いい子じゃなかったし。」

「早和。あなた、昔からみんな悪い方悪い方に考えて、誰も早和の事を嫌いだなんて思っていないのよ。お祖母ちゃんも、早和の性格を知ってるから、私にいろいろと言ってきたの。お父さんだって、いつも心配してたんだから。」

「嘘ばっかり。」

「昔、咲子さんはね、結婚してなかなか子供ができなくて、早和を養女にほしいって頼みにきたの。お父さんは、咲子さんの気持ちがわかってたけど、絶対渡さないってそう言ってね。早和が家で閉じこもるようになってから、今度は咲子さんに早和の事を頼んだの。家はすごく淋しくなったけど、咲子さんが早和を元の明るい早和に戻してくれて、本当に感謝してるのよ。お母さんには、それがうまくできなかったから。」

 母の言葉にも、なかなか素直になれない。長い間、こんなに曲がった性格でいると、都合のいい話しなんて、みんな台詞の様に感じてしまう。

「お姉ちゃん。お母さんね、自分の腎臓を、お姉ちゃんにあげるって、お医者さんに頼んだのよ。ずっと、お姉ちゃんの耳の事も責め続けて、もう、解放してあげて。病院へ行くのを嫌がって風邪をこじらせたのは、お姉ちゃんのほうじゃない!」

 早紀は強い口調で言った。

「そうだね。」  

 早和は素っ気なく返事をすると、早紀から目をそらした。

「ほら、またそうやって逃げる。」

 早紀はそう言うと、横を向いた早和の肩を掴んだ。

「早紀。さっきからよく聞こえないの。左から話されても、よくわからない。」

 早和は嘘をついた。本当は母の話しも、早紀の話しも、全部聞こえているのに。

「ごめん、お姉ちゃん。」

「早紀みたいに、そうやってなんでも言えるようになりたかった。」

 早和はそう言った。

 奏が病室に入ってきた。

「熱、下がったって聞いたから。」

 奏は母と早紀に頭を下げると、早和の近くにやってきた。

「大丈夫かい?」

「はい。」

 早和は愛想なく答えた。

「ねぇ、お姉ちゃんの彼氏?」

 早紀が聞いた。

 奏が答えようすると、

「違うよ。疲れたから、もう寝ていい?」

 早和は布団を被った。

 

 病室から出た3人は、デイルームに座った。

「すみません、頑固な娘で。」

 柊子は奏に謝った。

「風邪を引かせてしまったのは、俺のせいでもありますから。」

 奏が言った。

「どこの先生なの?」

 早紀が奏の名札を見る。

「お姉さんと同じ、NICUにいるよ。小児科の医者です。」

「早和はNICUにいたんですか?」

「そうです。」

「家を出てから全然帰って来ないし、電話してもほとんど出ないし。」

「相当、頑固ですね。」

 奏は笑った。

「最近、友達が亡くなって、それにNICUっていろいろあるんですよ、みんな抱え込んで、辛くなってるんでしょうね。元気になったら、ちゃんとお宅に挨拶に伺おうと思ってます。」

 奏は柊子に言った。

「難しい子ですよ。私がそうしてしまったんですけど。」

「お母さん、こういう生き方を選んだのは、早和さんなんですから。」


 消灯時間が過ぎた後。

 奏が早和の病室に入ってきた。

 壁を向いて何か話している早和の背中を、奏は静かに触った。

「先生、どうしたの?」

「早和と話しにきた。」

「こんな時間にきたら、看護師さんに怒られるよ。他の患者さんにも示しがつかないし。」

「ちゃんと断ってきたよ。それに医者が患者の病室に来るのは、当たり前の事だろう。」

「私は先生の患者さんじゃないよ。」

「アハハ、確かにそうだね。」

「先生、私、まだ退院できないかな。」

「梶原先生はなんて?」

「まだ数値が安定しないって。」

「じゃあ、まだ入院してないとダメだね。」

「ここの人はみんな嘘つきだから、信じれない。」

「仕方ない嘘だってあるんだよ。毒だって、薬になる時もあるし。」

「都合のいい言い訳だね。」

「ねえ、早和。退院したら、早和の家にちゃんと挨拶に行って一緒に暮らそうか。俺は来年から、小児精神の方に本格的進もうと思ってるし、梶原先生は早和はNICUじゃなくて、夜勤のない透析室の勤務を、師長に相談してるんだ。」

 早和は首を振った。

「もうすぐ涼子が、私を迎えにくるから。」

「何言ってんだよ。早和を迎えに来るのは、俺だろう?」

「涼子と約束したの。私の子宮をあげるって。」

「早和?」

「先生、名前で呼ばないで。ここ、病院だよ。」

 また壁の方を向いて目を閉じた早和を、奏は正面を向かせた。

「早和の体がなくなって、空気になっても、俺はずっと好きでいるからね。」

「嘘だよ、そんなの。みんな忘れてしまえばいいの。」

 奏は早和にそっと唇を重ねた。

「忘れる事の方が、難しいんだよ。」

 早和は下をむいた。

「看護師さん、もうすぐ見回りにくるよ。」

「知ってるよ。」

 奏はもう一度、早和に口づけをすると、

「おやすみ。」

 そう言って病室を出ていった。


 冬が来るまでに、見つけよう探していた片方だけの手袋は、結局、どこを探しても見つからない。

 片方の相手は、きっとどこかで見つけてくれるのを待っているはずなのに。

 

 先生。

 忘れるのは難しいっていうけど、ずっと待っているのも難しいよ。忘れてほしい事は覚えているのに、忘れたくない事は、思い出せない。

 生きるのって、本当に苦しいね。


 5章  秋が残したもの


 道に残る汚れた銀杏の葉は、風すらも相手にせず、このまま雪が姿を隠してくれるのを待っている。

 

 病院を退院する日。

 父と母が迎えにきた。

「お父さん、仕事は?」  

 早和が父に聞いた。

「休んだよ。」

 父の卓治たくじがそう答えた。

「早和はいつから、仕事へ行くんだ?」

「月曜日から。」

「そしたら、土日は家へ泊まりなさい。」

「ううん。自分のアパートへ帰りたい。」

「せっかく、お母さんがご馳走を用意したんだ。せめて今日くらいは、家に泊まって行きなさい。」

「……わかった。」

 父と話して、自分は笑った事があっただろうか。

 仕事の時はもう少し明るい口調だと、母から聞いた事があるけれど、いつも一方的な言葉は、まるで命令を下す軍曹の様だ。

「お母さん、咲子さんの所に髪を切りに行ってもいい?」

 早和はそう言った。

「そうね。ずいぶん伸びたものね。咲子さんも喜ぶと思うし。」

「退院してすぐに大丈夫なのか?」

 卓治が言うと、

「咲子さんは早和のお母さんみたいなもんでしょう。家に帰る様なものだよ。」

 柊子がそう言った。


 早和は中学高校時代と一緒に暮らした叔母の美容室の前で、卓治が運転する車を降りた。

「あら、早和。退院したの? ずいぶん心配したのよ。」

 咲子は早和を抱きしめた。

 パーマ液の匂いが、咲子から早和に移る。

「咲子さん、髪、切ってくれる?」

「いいよ。こっち。」

 咲子は早和を席に案内した。

「ちょっと待ってて。こっちのお客さんが先だから。」

「早和。後で迎えにくるから。」

 柊子が言った。

「柊子さん、夕方、私が送っていくからいいわよ。」

「それなら咲子さんも、一緒に夕ご飯食べましょうよ。早和も今日は家で食べるの。」

「あら、私も行ってもいいかしら?」

 早和はうなづいた。


 先にきていたお客さんの髪をセットすると、咲子は雑誌を見ている早和の所へやってきた。

「どうする?」

 咲子は早和の髪の毛を触った。

「少し、短くして。」

「これくらい?」

 咲子は顎の所に手をあてた。

「もっと。」

「わかった。任せといて。」

 咲子は早和の髪を切り始めた。

「相変わらず厚い髪ね。羨ましい。」

「寝癖がつかないようにしてね。」

「わかってる。少し染めてみる?」

「ううん。染めると、また染めなきゃならないから。」

「また、くればいいでしょう?」

「咲子さん、忙しいだろうし。」

「今日は1人だけど、もう1人いるのよ。」

「そうなの?」

「早和と同じくらいの子がね、2歳になる子を1人で育ててるの。最初はチェーン店にいたみたいなんだけど、時給だったし、休みの融通が利かなくて、家にきてくれたの。」

「咲子さんの所は時給じゃないの?」

「子供なんてすぐに熱を出すでしょう。毎月給料の心配してたら、お母さんなんかやってられないよ。」

「そっか。」

「早和、NICUにいたって聞いたよ。」

「そう。」

「仕事は辛かった? 楽しかった?」

「勉強になったけど、私には合わないかも。」

「小さな赤ちゃんを見るの、辛かったでしょう?」

「それは仕事だから。それより、大人のやりとりを聞くのが、ちょっと苦手だった。」

「どんな?」

「我が子だって実感するまで、時間がかかるの。特に男の人はね。」

「なんとなくわかる。人間だって、やっぱり動物なのよ。子供を育てたい女と、子孫を残したい男と。」

「そっか。顔も見に来ない父親を責めても、それは本能なんだよね。」

「早和、やっぱり髪の毛染めようか。少し明るい印象になるから。」

「うん。」

「好きな人、できた?」

「どうかな。」


 髪を切って、少しだけ茶色く染めた早和は、咲子とお昼を食べていた。

「咲子さんのチャーハン、昔と同じ味。」

「そう。いつも冷蔵庫にあるものを適当に入れるから、二度と同じ物はないと思うけど。」

「そうだ。ちょっと前に、涼子ちゃんのお母さんが来てね。涼子ちゃん、亡くなったんだってね。」

「うん。そうなの。咲子さんは涼子のお母さんと同級生だったんだよね。」

「美奈ちゃんとは、早和と同じ女子校の同級生。美奈ちゃんが言ってたよ。涼子ちゃん、亡くなる日の朝、早和に会って、赤ちゃんは早和が見てくれるから、すごく安心だって話したみたいよ。その後、お昼ごはんを食べてから、すぐに亡くなったって言ってた。赤ちゃんの方は、その少し前だったんでしょう?」

「咲子さん、私は涼子にも赤ちゃんにも、最後は会えなかったの。あとから話しを聞いただけ。」

「そうだったの。涼子ちゃん、きっと早和に気を使って、一人で逝ってしまったのかもね。」

「そうかな。」

「涼子ちゃんの旦那さんの家の地図もらったから、後でお線香あげに行っておいで。今は家で仕事をしているみたいだし。」

「わかった。」

 

 早和は花屋に寄った後、涼子が暮らしていた家に向かった。

 子宮をあげると言ってから、涼子は早和の前には現れない。

 涼子、私は大切なものも、守りたいものも、何もないの。体ごと、全部持っていってくれてもいいんだよ。

 いらないか。

 片方足りたい、こんな体なんて。

 涼子が住んでいた家の玄関のチャイムをならすと、中から涼子の旦那が出てきた。

「どちらさん?」

「涼子の友達の、」

「あ~あ、看護師さん。」

「そうです。」

「どうぞ上がって。」

 リビングに案内された早和は、隅に置かれた開かれたパソコンに目をやった。広すぎる空間は、誰かが生活をしているような感じがしない。

「そこ、座って。」

「お線香、あげさせてください。」

 祭壇の前に行くと、早和の前に出てきた涼子と同じ顔をした、写真があった。

 薄い水色に包まれた遺骨の横には、小さな白い遺骨が置かれている。

 早和はろうそくをつけ、お線香の先を火に近づけた。

 涼子、クラスで一番先に幸せになれたって言ってたのにね。

 早和は手を合わせる。


「わざわざきてくれて、どうもありがとう。」

 涼子の旦那の古林航矢ふるばやしこうやが早和をリビングに呼んだ。 

「本当はもっと早くに来たかったけど、遅くなってごめんなさい。」

「涼子とは、中学から一緒だったんでしょう?」

「そうです。」

「1回だけ、会った事があるよ。涼子を学校に迎えに行った時、2人で玄関に一緒にいたから。」

「旦那さんは北高でしたよね? 涼子から聞いてました。」

「そう。同じテニスをやってて知り合ったんだ。君は?」

「私は何もやってないです。」

「そっか、たしか耳があれだったね。」

「はい……。」

 航矢は早和の耳を触った。

「髪の毛、ずいぶん切ったんだね。印象が変わったよ。」

 早和は驚いて、後ろへ下がった。

「ごめん。びっくりさせたね。」

 航矢はそう言うと、蝋燭の火を消した。

「この近くに叔母がやっている美容室があるんです。ついさっき切ってきました。」

「すごく似合ってるよ。」

「ありがとうございます。」

 早和は少し笑った。

「コーヒーでも入れようか。」

 航矢が言った。

「いいえ、私はもう帰ります。」

「もう少しいいでしょう? 涼子の話し、聞いて欲しくて。」

 航矢はコーヒーを入れに台所へ向かった。

「広いお家ですね。」

「ここ、もう売るんだ。1人で住んでいてもしょうがないし。」

「そうなんですか。」

「無理して建てても、家って荷物になるだけだね。年を取ったら、どちらかは1人になるんだし、体が動かなくなって施設に入る事になったら、家の処分に困るよ。俺はその時期が、人よりも早く来てしまった。」

 航矢は早和にコーヒーを出した。

「何かいれる?」

「このままでいいです。」

「涼子はね、コーヒーが飲めなくて、匂いも嫌いでね。いつも会社で飲んでたけど、今はこうして家で飲める。コーヒーを淹れるたびに、涼子の声が聞こえないかと、期待してね。」

「……。」

「子供が欲しいって言ってたのに、俺はなかなかその気にならなくてね。仕事も落ち着いた頃に結婚して、すぐにできた子供だったんだ。涼子が言うように、もっと早くに結婚して、子供を作っていたら、病気だって悪くなる前に、わかったかもしれないのに。」

 航矢はコーヒーをひとくち飲んだ。

「看護師さんはあの場所で働いていて、よく平常心でいられるね。」

「……。」

「かろうじて人の形はしているけど、みんな人形みたいに感じない?」

「みんな生きてますよ。」

「一緒にいた人は彼氏でしょう? 売店で会ったあの先生。」

「澤口先生の事ですか?」

「そう、そんな名前。看護師さんは早和って言ったよね、涼子がそう呼んでた。」

「そうです。」

「羨ましいなぁ。俺みたいに感情のまま生きているんじゃなくて、ちゃんと現実と向き合って生きてる感じがする。何かを失った事なんて、そんなにないでしょう?」

「そんな事ないです。」

「結婚したいとか、子供が欲しいとか、思わないでしょう? 責任のある仕事してる、強い人だもんね。そういう女の人は、後悔しない人生を歩いていくんだろうな。」

「……。」

 早和は少しぬるくなったコーヒーを一気に飲み干した。

「ごちそうさまです。突然、来てすみません。」

 そう言って立ち上がった。

「嫌な話しばっかりになってごめんね。」

「ううん。もう少し早く、涼子に会えば良かった。」

 早和は涼子の写真を見つめた。


「ねえ。」

 航矢は早和の手を握った。

「なんですか?」

 早和が航矢の手を離そうとすると、航矢は早和を抱きしめた。

「俺の子供を産んでくれないか。」

「何言ってるの、できるわけないじゃない!」

 早和は涼子が自分の子宮をほしいと言った事を、思い出した。

「俺にはもう、何も残ってないんだ。子供なんていらないと思ったけど、1人になるとどうしようもなく淋しくて。君に彼氏がいる事も知ってるよ。だけど涼子に一番近かった君にしか、頼めない事なんだ。」

「ごめんなさい。そんな事できないよ。」

 早和は航矢から離れようとした。

「時々、こうして来てくれるだけでいいから、俺を1人にしないでくれよ。」

「ごめんなさい。できない事だってあるの。」

 航矢の強い力は、早和の体にどんどんくい込んで来るようだ。航矢は早和をソファに押し付けると、無理矢理キスをしようとした。押さえつけられてる腕や足は、まるでネズミが罠ににかかったように、動こうとすればするほど、どんどん固まっていく。


「早和、どんな気持ち?」

 涼子が立っている。

「涼子、助けて。」

「早和の子宮をくれるって言ったじゃない。ほら、早くちょうだい。」  

 航矢の唇が、早和の首筋を這っている。

「涼子、助けて。」

「嘘つきだね。最初から子宮をくれる気もなかったくせに。」

「だって、涼子、」

「私があの先生をもらってもいい?」

「もらうってどういうこと?」

「こっちに連れてくるの。早和は約束を破ったから、一番好きなものをもらう事にした。」

「やめて、涼子。」

「航矢はね、ずっと浮気しているの。私が知らないとでも思ってるのかな。結婚して子供ができたら振り向いてくれると思ったのに、子供が出来ても航矢は変わらなかった。バカみたいだね、私。」

「涼子、私の子宮をあげるから、だから先生を連れて行かないで。体もあげる、命だっていらないから。」

 航矢の手が早和の服の中に入ってくる。

「そんなにあの先生が好きなの?」

「わからない。」

「わからないのに、なんで守ろうとするの?」

「大切なの。」

「何言ってるの、自分の体とか魂の方が大切でしょう? こっちに来たら、もう何もかもなくなってしまうんだよ。」

「それでもいい。お願い、先生は連れて行かないで。」 

 涼子は早和にキスしようと顔を近づけた航矢の髪の毛を引っ張ると、早和の体から引き離した。

 航矢のポケットから、ゴトッ何かが落ちると、床から携帯の着信音が聞こえた。


「早和、早く逃げて!」

「涼子。」

「早く!」

 早和は玄関に向かった。


「早和、私はもう行くから。」

 涼子は赤ちゃんを抱いて、早和の前から消えていった。

 

 外に出ると、張り詰めた肌寒い空気があっという間に早和の涙を乾かした。


 先生。

 もう誰も信じられないよ。

 好きだとか愛してるって言葉は、みんな嘘なんだね。涼子は何もかもわかってた。

 こんなに辛い思いをするなら、好きになる感情なんか、ゴミに捨ててしまえば良かったのに。

 

 6章 冬が連れていたもの


 久しぶりに帰ってきた実家には、大きなサボテンがあった。

 人を寄せ付けない鋭く白いトゲは、緑の幹を守っている様だ。


「まだあったの、これ。」 

 早和は柊子に言った。

「そう。早和が1年生になった時に、買ってくれたんだよね。サボテンは話し掛けると、言葉がわかるようになるって、花屋の奥さんに言われたんでしょう。母の日にカーネーションじゃなくてサボテンを買ってくるなんて、早和らしい。」

 柊子はそう言った。

「早和、私にもくれたよね、サボテン。」

 咲子が言った。

「咲子のサボテンは、まだあるのか?」

 卓司が言った。

「あるわよ。」

 咲子がそう言うと、

「柊子はサボテンに愚痴ばっかり言ってるのか、ちょっとした時に、こいつは俺を刺すんだよ。」

 卓司はサボテンを指さした。

「あら、本当にわかるのかしら。」

 咲子が言った。

「わかるみたいね。私には刺さないもの。」

 柊子はそう言うと、お日様にサボテンをむけた。 

「早和は3人の中で一番お喋りだったのに、いつの間にかあんまり話さなくなって。」

 柊子は早和の髪の毛を触った。

「ずいぶん短くしたのね。」

「咲子さんが寝癖がつかないようにしてくれた。」

「相変わらず厚い髪よ。たくさん梳いたから、軽くなったでしょう。」  

 咲子はそう言った。


 兄夫婦も来たので、久しぶりの実家の夜は賑やかだった。


 夕食を終えて自分の部屋だったドアを開けると、時が止まったまま、何もかもが残されていた。

 電気をつけず窓を眺めていても、涼子はなかなか現れなかった。

 

 本当に、行ってしまったんだ。


「早和、澤口さんがきたよ。」

 柊子が奏を連れてきた。

「電気つけなさい。」

 部屋の電気をつけると、早和は眩しくて目を細めた。

「先生、仕事は?」

「終わったよ。最近、忙しくて、全然会いに行けなくてごめんね。」

「ううん。」

「体調は大丈夫?」

「うん、大丈夫。」

「早和、来週からNICUに戻ってくるって聞いたけど。」

「人がいないみたいだね。境さん、産休に入るみたいだし。」

 早和が言った。

「そっか、来年、新人が入るまで、異動は無理か。」

「先生、私、病院辞めようかな。」

「どうして?」

「病気と関係のない場所で働きたい。」

「それは早和の自由だけど、どういう所で働くの?」

「養護学校。」

「早和、教職持ってたの?」

「うん。病院から少し離れた所にある養護学校が、看護師経験のある養教を募集してるって聞いたから。」

「そっか。」

「先生は4月から小児科へ行くんでしょう?」

「そうだね。」

「先生が背中を触ってくれると、赤ちゃんはみんな安心したのに。」 

「赤ちゃんの背中はたくさんおしゃべりしてるからね。」

 奏は早和に顔を近づけた。

「先生、ご飯食べたの?」

 早和は奏から顔を反らした。

「食べたよ。早和のお母さんが、たくさん用意してくれていて、さっき食べたよ。」

「そっか。」

「今度は家においでよ。」

「ううん。行かない。」

「どうして、行きたくない理由でもあるの?」 

「別に何も。」

「じゃあ行こう。親にちゃんと話して、それから2人で暮らそうよ。」 

「私はずっと1人でいる。」

「早和が1人でいるって言うなら、俺も1人でいるしかないか。」

「ダメ! 先生はしっかりした女の人と、幸せな結婚をして。」

「相手が早和じゃないなら、結婚したくないよ。」

「ねぇ、先生。」

「何?」 

「私は片方しかない人間だよ。」

「完璧な人間なんて、どこにもいないよ。みんなどこかしら、欠けているんだし。」

「そんなのキレイごと。私は本当の欠陥品。」

「どうしたの? 急にそんな事言うなんて。」

 早和は窓に目をやった。

 涼子、早く迎えにきて。

「早和?」

「先生。少しだけ、寄りかかってもいい? もう、全部忘れるから。」

「いいよ。おいで、ほら。」

 奏は早和の肩を抱いて、自分に寄せた。

「みんな嘘をついているでしょう。好きっていう言葉も、何かを隠すためについてるひどい嘘。」

「俺は嘘なんかついてないよ。」

「ずっと一緒にいようなんて、時間が経てば、その言葉に後悔する。」

「早和、何かあったの?」

 奏は早和の顔を見つめた。

「私、涼子を待ってるの。涼子が死んでから、時々、私の前にきてね、子宮をちょうだいって言うの。だけど私が約束を守らなかったから、今度は私の大事なものがほしいから、先生を連れて行くって、そう言ってる。」

「大丈夫、俺はずっと早和のそばにいるよ。」

「涼子の旦那さん、ずっと涼子を裏切ってたみたい。さっきもね、」

 早和は、何かを言い掛けてやめた。

「一生幸せにするなんて、そんな言葉、もう信じられない。」

 早和は奏から離れた。

「早和。なんて言ったらわかってもらえる? 俺は早和が好きなんだ。」

「わからないよ。1人で生きてるほうがずっといい。」

 奏は早和の腕にある青痣を見つけた。

「どうしたの、これ。」

「ぶつけた。」

「こんなに所、どうやってぶつけるの?」

 早和の首に付いていた赤い痣を奏は触った。

「今日は誰かと会ったの?」

「咲子さんに、髪を切ってもらった。」

 早和は奏から目を逸らした。

「それだけ? さっき、どうしたの、何か言いかけたよね?」

「何も……。」

「早和。嘘は嫌いだって言ってるくせに、自分は嘘を平気でつくんだね。」

 早和は首を振った。

「言いたくない事なら、無理に言わなくてもいいけど。」

 奏は早和の髪を撫でた。

 早和は奏の手を振り払うと、

「先生、全部忘れてよ。」

 そう言った。


 柊子が奏にお風呂に入るように呼んでいる。

「今日は泊まっていくからね。」 

 

 奏がお風呂へ行っている間、早和は涼子を待っていた。


「涼子、早く来て。」

 早和は涼子を呼んだ。

「私はもう来ないって言ったでしょう。」

 涼子が赤ちゃんを抱いて早和の隣りに座る。

「涼子、約束したでしょう。」

「私ね、赤ちゃんのお世話、忙しいの。早和と話してる暇なんかないの。」

「お願い、先生を連れて行かないで。」

「早和の彼氏なんか、連れて行かないよ。」

「じゃあ、私を連れて行って。」

「ダメ。先生を1人にするつもり?」

「先生はいい人がきっとすぐにできるよ。私がいるせいで、幸せになれない。」

「バカだね、早和。」

「バカだよ。」

「航矢の事はごめんね。早和にあんな事するなんて、思わなかった。」

「涼子がいなくなって辛いんだよ。」

「だったら浮気なんてしなきゃいいのに。」

「本当だね。」

「早和、あの先生がたくさん背中を触ったせいで、背中を撫でてないと眠らない子になっちゃった。」

「涼子、赤ちゃんと会えたの?」

「私も夫よりも先に死んだから、地獄に落ちたの。だから赤ちゃんとも会えた。」

「そんな。おかしな話しだよ、それ。」

「愛するものより先にいなくなるって、それだけ誰かを悲しませて、罪深い事なのよ。」

「地獄に落ちるのは旦那さんの方じゃない?」

「そうかもね。」

 涼子は早和の手についている青痣を触った。

「地獄なんてないのよ。死んだらみんな一緒。残した気持ちを拾った人が、悪い人生だったか、いい人生だったかに振り分ける。航矢はどっちにしたんだろうね。許してね、早和。私は今でも、航矢の事が好きなの。」

「涼子。」

「早和も先生に撫でてもらうといいよ。これからは私を呼んじゃダメだよ。この子に会わせてくれて、みんなが子を触ってくれて、本当に感謝してる。」

「涼子、もう会えないの。」

「この世の中には未練なんてない。早和、体大切にしなきゃダメだよ。」


「早和。」

 奏が早和の背中に手を置いた。

「先生、聞いてたの?」

「何が?」

「なんでもない。」

「早和も早くお風呂入ってしまってだって。」

「わかった。」


 お風呂から上がると、

「お姉ちゃん、どこでそんなに青痣作ってきたの?」

 早紀が言った。

「本当だ。」

 短パンとTシャツになった早和の腕や足には、航矢が掴んだ痕が青くなって残っていた。

「ちょっと、そんな格好で、2階に行くの?」

「お姉ちゃん、それじゃあ澤口さん、目のやり場に困るね。」

「先生はいつも裸の赤ちゃんを見てるから何にも思わないよ。」

「ちゃんとパジャマきたら?」

 柊子が言った。

「これが1番楽なの。」

「早和は神経質そうでズボラ。」

「そうかな。」

「どうでもいい事は、とことん手を抜く。」

 柊子と早紀はそう言って笑った。

「そんなじゃないと、看護師なんて務まらんだろう。家に帰ったらだらしなくなるのは、お母さんも同じだろう。」

 父はそう言った。

「寒いから、風邪引かないでよ。」

 柊子が言った。


 早和は2階へ上がると、奏が電話をしていた。

「病院から?」

 早和は聞いた。

「梶原先生から。」

「薬はちゃんと飲むようにって。」

「先生、私、本当は助からない病気なの? みんなでそれを隠してるとか。」

 奏は笑った。

「自分の血液検査見ただろう。どこが悪いかなんて、自分が1番わかってるはず。梶原先生は、早和が時々、薬を捨てていた事をちゃんと知っていたよ。」

「バレてたか。」

「ちょっと呆れてた。」

「ほら、またそんな寒い格好して、目のやり場に困るよ。」

「先生、そうやって言うけど、どこが困るの? 裸の赤ちゃん、たくさん見てるじゃない。」

「早和、ちょっとこっちにきて。」

 早和は少し考えて、奏の隣りに座った。

 奏は早和の足にある青痣を触って、

「古林さんの家に行ってきたんだってね。」

 そう言った。

「奥さんと子供を亡くしてすぐだからね、だいたい想像がつく。」

「涼子がいなくなってから大切だった事に気がつくなんて、旦那さんはどうかしてるね。」

「男なんて、そんなもんだよ。」

「先生も同じ?」

「俺は早和を悲しませるような事はしない。」

「嘘ばっかり。」

 早和はうつむいた。

「大丈夫?」

「何が?」

「ぶつけた所、痛いのかと思って。」

「痛くない。」

「早和、さっきから俺を誘ってなんだよ。」

 奏は早和の腕を触った。

「誘ってないよ。先生が勘違いしてるんでしょう?」

 奏は早和を抱きしめた。

「1人になりたいなんて、嘘つくなよ。」

 奏は早和の赤い痣に軽く口をつけた。

「嘘じゃないよ。先生の背中じゃ、私の事は守れない。」

「ちゃんと守るよ。もうずっと離さない。」

 奏は早和の唇を指で触ると、目を閉じた早和に唇を重ねた。

 少し冷たくなった早和の体は、温かい奏の体に、静かに包まれた。

  

「先生。」

 腕の中で眠っていたと思った早和が、奏を見上げた。

「どうした?」

「涼子の赤ちゃん、先生がたくさん背中を触ったせいで、撫でないと眠らなくなったって。」

「そうなんだ。」

 奏は早和の頬を撫でた。

「どうして小児科の先生になろうと思ったの?」

「俺が小2の時、弟が死んでね。元々心臓が悪かったけど、普通の生活もできるようなっていたのに、定期検査の最中に突然亡くなってしまったんだ。」

 奏は早和を見つめた。

「先生は何も失った事のない人だと思ってた。」

「俺も早和と同じだよ。それ以来、弟の思い出が縛り付けてる両親に対して、どう接していいか、わからなくなってね。」

「困ったねぇ。私達。」 

「早和。今、NICUはわりと落ち着いているんだ。来週の週末、家の両親に会ってくれるかい?」

 早和はすぐに返事をしなかった。

「結婚なんかしなくても、こんなふうに一緒にいられたら、私はそれでいい。」 

「それは世間的に認められないだろう。」

「だったら先生は、先生の両親が望む人と一緒になって。」

「早和。」

「先生。私はもう充分だから。」

 早和は奏に背中を向けて眠った。


 カーテンの隙間から、少し入ってくる明るい光りは、反対側の壁まで、細く長く照らしている。


 先生。

 好きだって言ったら、それ以上の気持ちがなくなる気がして、少し悲しいよ。

 大切な思いは、ずっと胸にしまっておきたいの。

 先生が言ってる好きだって気持ちは、あと少ししたら、色褪せてしまうかもよ。だから、そんなに簡単に好きなんて言ったらダメだよ。

  

 7章 春を待つもの

 

 雨混じりの雪が降っている。少し前までは、さわさわとした白い雪だったのに、今日は、透明な雨の中に申し訳無さそうに小さな塊となって地面に落ちてくる。


 NICUに久しぶりに出勤した日。

 優芽が早和に声を掛けた。

「早和、びっくりしたよ。もう、大丈夫なの?」

「うん。迷惑掛けてごめんなさい。」

「薬ちゃんと飲まきゃダメだからね。」

「私、ずっと飲み続けるんですかね。」

「薬で健康が守られるなら、安いもんじゃん。」

「そうですか…。」

「今、ここは落ち着いてるよ。」

「そういえば、保育器、全部埋まってないですよね。」


 長岡医師がきた。

「秋元さん、久しぶりだね。」

「先生、ご迷惑お掛けしました。」

「看護師さんが病気になったら、誰を頼ればいいだろうね。」

「先生、私達だって普通の人間ですよ。病気にもなるし、嘘だってつく。」

 優芽がそう言った。


 夕方。

 ダウン症の赤ちゃんがやってきた。

 保育器で気持ちよさそうに眠る赤ちゃんの背中を、奏はそっと触った。

「天使だね。」

 奏が言った。

「本当にそう思う。」

 早和が言った。

「すごくいい子だから、神様が意地悪したって言われてる。」

「そんな意地悪な神様もいるんだね。」

 

 面会にきた母親は、5人目に生まれたその子を愛おしそうに眺めていた。

「この子を産んで良かった。」

 早和にそう言った。

「ダウン症だってわかって、みんなに産むのを反対されたの。もう子供はたくさんいるんだから、いらないだろうって。だけど、子供達は兄弟が増えるのをすごく楽しみにしてて、名前をみんなで考えててね。夫はまだ、怒って会いにこないけど、こんなに可愛いんだもの、きっとわかってくれるはず。」

 母親が伸ばした指に、赤ちゃんの手がギュッと握った。

「看護師さん、こんなにかわいい瞬間を見れるなんて、私は幸せだね。」


「早和。」

「ご飯食べに行こう。梶原先生の奢り。」

 帰ろうとする早和を優芽が呼び止めた。

「秋元さんの退院祝い。」

 梶原と奏が立っている。

「長岡先生と、師長も後からくるから。」


 店につくと、奏が早和の左に座った。

「秋元さん、しばらくお酒はダメだからね。」

 梶原が言った。

「薬を捨ててたなんて、恥ずかしいわよ。」

 師長が言った。

「飲もうとして、落としたんです。」

「だったら、代わりをもらえばいいじゃない。」

「看護師さんは、みんな忙しいそうで。」

「どこも人が足りないんだよね。」

 梶原がそう言った。

 飲み物が運ばれてきた。

「退院おめでとう。」

 長岡が乾杯をした。

「澤口先生は、小児科へ行くんでしょう?」

 優芽が長岡に聞いている。

「元々、小児精神が専攻だからね。」

「先生はNICUが好きだと思ってた。」

 優芽がそう言った。

「NICUも好きだよ。」

「だったら、小児科なんて行かないで、ずっとNICUに入ればいいのに。」

「小児精神は、最近需要が多くてね。開業してる医者なんか、3年先まで予約がいっぱいだって言ってるよ。」

 長岡が言った。

「自閉症とか、アスペルガーとか、そういった病気を診るんでしょう?」

 優芽が奏に聞いた。

「そうだね。」

「難しいね。どうすれば良くなるとか、どうすれば治るとか、わからないもん。しかも、相手は子供だよ。」

 師長は奏に、

「あなたのお子さんは、発達障害ですって言われるのって、親にとっては、一生治らない病気を抱えて生きていけって言われていると同じ。どうやって、伝えればいいか、言葉につまるね、先生。」

「みんな、何かしら特性を持ってますよ。それをうまく隠せるかどうかの話しです。」

 奏が言った。

「早和はやっぱり透析室に行くの? 夜勤はさせないって、澤口先生が言ってたから。」

「うちも人が足りないから、そう簡単には透析室には回せない。」

 師長はそう言った。

「川島さんも、妊婦になったのよ。」

「そうなんですか。」

「おめでたい事だけど、みんなが負担なく働けるだけのスタッフを確保してほしいわね。」

 師長はため息をついた。

 早和は、養護学校の面接を、週末に受ける事を、奏に伝えていた。

 この状況で退職するなんて、早和は罪悪感でいっぱいになった。

「不思議ですよね。ダウンちゃんって定期的にやって来る。」

 奏が言った。

「本当にそう思う。」

 長岡が言った。

「もうNICUを辞めようかなって、思うタイミングで、やって来るんだよ。」

「先生も辞めたかったの?」

 優芽が長岡に聞いた。

「そうだったのかもしれないな。」

「長岡先生はNICUしか勤められないでしょう。どこ行っても他の先生と揉めるって有名だったよ。」

 梶原はそう言った。

「派閥があるからね。第一とか、第二とか、そんな派閥で分けて、患者を診るっておかしいと誰も思わないのか。」

 長岡はそう言った。

「数少ない科の医者は、はみ出し物だからね。かえって気が楽だよ。」

 梶原は言った。

「ねえ、秋元さん、赤ちゃんって、時々笑うでしょう。」

 長岡は早和に言った。

「はい。」

「空笑いって言ってね、夢を見てるのかって言われてるけど、生まれてすぐなのに、夢を見るもんなのかなって、ずっと不思議だったんだ。」

「先生でも、わからないことがあるんですね。」

 早和はそう言った。

「この前、師長がね、赤ちゃんが笑うのは、親を育児放棄させない技だって言うんだよ。」

「師長、そうなの?」

 優芽が聞いた。

「そうよ。大人が疲れたタイミングで、笑うのよ。うちの息子もそうだった。子供を育てるのって大変よ。毎日毎日休みなし。女なんて産んですぐに母親になれって責められるんだから。疲れてボロボロになった時、ニッコリ笑われるとね、もうどうでもよくなってね。可愛いって、抱きしめたくなる。」

 師長は言った。

「NICUの赤ちゃんも、その技があるって、師長は言うんだよ。」

「あるわよ。私がイライラしてやんちゃに物にあたると、どこかの保育器の子が、ニッコリ笑うの。」

「私も、それ思ってた。」

 優芽が言った。

「いいなぁ、NICUは。」

 梶原がそう言うと、

「大人は梶原先生じゃなきゃダメだって、はっきり言えるでしょう? だから、先生の外来は、いつも混んでますよね。」

 長岡が言った。

「秋元さんは、澤口先生に、空笑いでもされたのかい?」 

 梶原は早和に聞いた。

「なにがですか?」

「何度断っても、澤口先生に時々空笑いされたから、秋元さんはついてきたんでしょう?」

「梶原先生、澤口先生は空笑いなんかしませんよ。いつも笑ってますから。怒ることなんてないんじゃないですか?」

「そうだったね。」

 梶原が言った。

「2人は結婚するのか?」

 長岡が聞く。

「まだ、決めてません。」

 奏が早和の顔を見る。

「若い2人だからね。ちょっと、いろんな事を見過ぎたちゃったけど。」

 師長がそう言った。

「今の人達が結婚に前向きになれないのは、誰かと生活を共にするのが、苦痛なのかしらね。プライバシーやら、プライベートが重視されて、人との関わりが気薄になって、しかも、家族の形が見えない世の中だし。」

「師長の様に、世話を焼く人がいなくなったしね。」

 長岡が言った。

「最近は、なんで看護師になったんだろうって子が増えたような気がするよ。スマートな仕事をするけど、気持ちの入らない子がたくさんいる。昔の看護婦さんって、もっとお節介で、おもしろい話しをたくさんしてたと思うけど。」

「梶原先生、看護師だって結局は技術屋だろう。母親の様な事を求めたれたら、誰もなり手がいなくなっちゃうよ。使命感とか、義理と人情なんて、今の若い子には一番嫌われる。失敗しないようにマニュアルがあって、定時で帰れるように業務が整理されてるのが、理想の職場だよ。ほら、師長、頑張ってよ。」

 長岡がそう言うと、師長はため息をついた。

「私は師長が好きですよ。面会に来ない親に電話を掛けてるのだって、マニュアルなんかない、師長の気持ちでやってる事ですから。誰も真似できない。」

 優芽が言った。

「師長、NICUの看護師達は、ちゃんと師長の背中を見て育っているんだね。」


 お店を出ると、師長と優芽は梶原ともう一軒行くと、歩いて言った。長岡は妻が迎えにきた車で、帰っていった。

「早和、今日は家においでよ。」

「先生の家はここから近いの?」

「少し歩くかな。」

「そっか。」

「どうした、疲れたの?」

「うん、少し。」

「タクシーに乗ろうか?」

「ううん。家に帰る。」

「じゃあ、俺も一緒に行く。寒くなったからね、やっぱりタクシーで帰ろうか。」

 

 早和の部屋につくと、奏がストーブをつけた。

「先生。」

 早和が奏の隣りに座った。

「どうしたの?」

 奏は早和の冷たい手を包んだ。

「辞めるって言いずらいな。」

「自分で決めたんだから、ちゃんと言わなきゃ。」

「今日、ダウンちゃんが来たでしょう。」

「そうだね。」

「もう、何人もダウンちゃんに会ってるのに、いつもやっと会えたって思うの。親は大変な思いをしてるのに、勝手だね。」

「長岡先生も言ってただろう。あの子達は、特別な物を持って生まれてくるって。きっと、忘れていた優しい感情を、思い出させてくれるんだよね。」

「生まれてすぐの子達に会える仕事につけるなんて、本当は貴重な事だったのに。」

「どんな時に会えたって、その時は二度とない瞬間なんだよ。」

「先生は、本当に優しいね。優しくて頭がいい。」

「こんな人、どこにもいないだろう。」

「そうだね。」

「結婚しようか。」

 早和は首を振った。


 ストーブに暖められた、乾いた空気が部屋の中を行ったり来たりしている。

 当たり前のように奏に寄り掛かる様になったのは、いつからだろう。


 先生。

 ごめんなさい。少しだけ寄り掛かろうとして、ずっと寄り掛かったままだね。

 もう少ししたら、ちゃんと1人で歩いていくから。

 

 8章 春が運んできたもの

 

 時々連れてくるの暖かい風に安心していると、冷たい強い風が、髪の毛をぐちゃぐちゃにしてくる。


 3月。

 早和は病院を退職した。

 師長とは、何度も話し合ったし、慣れ親しんだ職場を離れるのは、後悔の方が、勇気よりも多かった。

 嫌になって辞めるのとは違い、退職までの1日1日が、どれも大切で、かけがえのないものに思えていた。

 

 4月。

 住み慣れたアパートを出て、養護学校の近くのアパートに引っ越した。

 奏は一緒に住もうと何度も言ってきたが、結局、奏の両親への挨拶も行かず、結婚の話しもはぐらかした。

 奏の事は好きだったけれど、だからこそ、彼を支えてくれるしっかりした女性と、普通に幸せになってほしかった。


 新しいアパートの住所は、奏には教えなかった。引っ越したその日に、携帯から奏の番号を消した。

 あんなに優しくしてくれたのに、どうしてそんな事してまで、奏を避けるのか、自分でもよくわからない。

 片方欠けた自分の事は、早く忘れてくれればいい。


 段ボールを開けると、岡田が引退した時に買ったスポーツ新聞が出てきた。

 あの日見た大きな背中は、どんな風も受け止めた。

 だけど、そうやって何かを守る事も、別の方向から風が吹いたら、また向きを変えて、立ち向かわなければならない。

 先生の背中は、けして大きくはないけれど、いつもの温かくてホッとした。

 もうこれ以上、私は寄り掛かれないよ。

 先生に寄り掛かりたい人は、たくさんいるんだから。


 たいして持ってない食器を棚に納め、生活ができるように、荷物を片付けた。

 持ってきた物よりも、捨ててきたもののほうが、たくさんあった。


 夜になると、奏の事を思い出した。

 薄着をしていても、世話を焼いてくれる言葉は、もう聞こえない。

 好きだった気持ちが偽物になるように、淋しい気持ちも、時間と共に薄れていくだろう。

 涼子の旦那さんも、あの広い家で、たくさんの後悔に押しつぶされていたのかもしれない。

 早和は毛布を頭から被ると、溢れそうになった涙を隠した。


 初めて養護学校へ出勤した日。

 校長先生から、辞令をもらった。

「子供達に紹介するから。」

 早和は校長の後をついて行った。

 懐かしい匂いのする体育館には、車椅子に座っている子や、先生が抱きかかえている子など、それぞれの目線で、早和を見つめていた。

 ザワザワする空気の中、校長先生が早和を紹介する。

 1人の生徒がパニックを起こし、体育館から飛び出して行く。隣りの子の手を噛んだと、先生が止めに入っている。校長先生が早和を連れて生徒の近くに行くと、人懐っこい生徒が、早和の手を繋いだ。

「秋元先生、ちょっと血が出ちゃったから、見てくれない?」

 歯形のついた血の滲む腕を水道で洗い、絆創膏を貼ろうとすると、

「ダメ。絆創膏なら食べちゃうから、包帯にして。」

 男の先生はそう言った。

「10の数で巻いてくれる?」

 早和が包帯を巻くと、先生は1回、2回と数を数えた。男の子は10回と言うと、大切そうに包帯を見つめて教室へ戻って行った。

 給食の時間になり、数人の生徒にインスリンを打った。

 看護師をしていたとはいえ、子供にインスリンを打つなんて初めてだった。担任の先生に教えてもらいながら、真っ白な皮膚に針を刺す。

「先生、はーちゃんの食事介助して。あっ、先に胃ろうの子からご飯お願い。」

「胃ろう?」

「先生、看護師だったんでしょう?」

「私、胃瘻なんて初めて見ます。」

「なーに、なんちゃって看護師だったの?」

 女性は笑った。

「私、澤山玲さわやまれい1年生が入って来たと思って、何でも教えてあげるから。」

「俺、原田凌はらだりょう。秋元先生も、なっちにかじられないように注意したほうがいいよ。」

 慌ただしいお昼が終わると、午後の授業が始まり、頭が痛いとか、お腹が痛いとか、保健室に来る生徒が途切れなかった。 

 会話が続かない生徒の対応に困ると、ついてきた先生が、

「少し寝せてやってくださいよ。」

 そう言って、ベッドに生徒を寝せた。

 何が正解かわからない1日は、あっという間に過ぎた。


「秋元先生。」

 玲が追いかけてきた。玲は男の子を連れていた。

「先生のお子さんですか?」

「そうよ。」

 眼鏡を掛けた男の子は、ダウン症だとすぐにわかった。

「先生1人でしょう? 今日は、家でご飯食べていきなよ。原田先生と塩田先生が鍋しようって材料買いに行ってるから。」


 学校の職員住宅に入っている玲は、息子のひかると2人暮らしのようだった。人懐っこい光は、早和に、次から次へと話しをしている。

「秋元先生、光はずっと話してるから、疲れたら適当に返事してもいいからね。」

 玲が言った。

 凌と塩田早織しおたさおりが買い物から戻ってきて、鍋の材料が揃った。

 光はあれだけ早和から離れなかったのに、あっさり早織の隣りへ行った。

「光は気持ちのまま生きてるからね。」

 凌がそう言った。

「よく、養護学校なんてきたね。」

 玲が言った。

「前の人は3ヵ月。その前は、2週間。給料がいいからって飛びついて来たんだろうけど、みんなすぐに辞めていったよね。秋元先生はどうかな?」

 早織が言った。

「びっくりしたでしょう、思ってた学校のイメージとは違うから。」

 野菜を切っていた玲が言った。

「はい。」 

「秋元先生、これ、鍋に入れて。」

 玲が具を早和に渡した。

 ひとつひとつ具を入れていると、

「丁寧だね。」

 凌がそう言った。早和は聞こえなかったので、返事をしなかったら、光が早和の腕をねえねえと揺すった。

「あっ、原田先生すみません。私、左耳、聞こえないんです。今、なんて言いましたか?」

 早和はそう言った。

「丁寧だねって言ったんだよ。」

「ありがとうございます。」

 早和は少し笑った。

「ここは、光くんと住んでるんですか?」

 早和は玲に聞いた。

「そう。本当の家は、別にあるの。旦那と、大学生の長男が住んでる。」

「そうなんですか。」

「秋元先生は、住宅に入らなかったんでしょう?」

 凌が聞いた。

「空きがなかったみたいで。」

「そっか。もうすぐ、塩田先生が出るから、空きが出るよ。ここに引っ越せば、家賃も安いし。」

 玲が言った。

「塩田先生は、別の所に引っ越すんですか?」

「私? 結婚して、辞めるの。彼氏は転勤族だから。」

「そうなんですか。」

「秋元さんは、どこで働いてたの? 内科? 整形?」

 玲が聞いた。

「NICUにいました。」

「そっか。別世界だもね。ねえ、それならここの子供達、めちゃくちゃ大きく感じない?」

 玲が言った。

「本当にそう感じます。みんな、歯が生えてて、びっくりしました。」

 早和が言うと、

「そこなの!」

 凌が笑った。

 光が早和の隣りきた。

「何食べる?」

 早和が光の入れ物に鍋の具を取ろうとすると、光はこれとこれと、と指を指した。

「光くん、ちくわしか選んでないよ。」

 早和が言うと

「光はちくわしか食べないよ。」

 玲は笑った。

「ちくわは食べるんだから、良かったじゃんって考えなきゃ。」

 凌はそう言った。

「秋元先生、光にとってもらいな。」

 玲がそう言うと、

 光はちくわをひとつとって早和に渡した。

「どうぞ。」

「ありがとう。」

「ちくわは安定した味だからね。」

 玲が言った。

「澤山先生の家は、日本一ちくわを食べてるんじゃない?」

 凌はそう言って笑った。

 

 光の寝る時間が来たので、楽しかった時間も終了となった。

 早和は自分のアパートまで歩いていると、

「秋元先生、」

 凌が早和の右肩を叩いた。

「家はこの近く?」

「そうです。」

「原田先生は?」

「俺も、澤山さんと同じ職員住宅。コンビニまで行くついでに送って行くよ。」

「近いですから、大丈夫です。」

「秋元先生、左耳は生まれつき?」

「小2の時に、中耳炎をこじらせたんです。」

「そうだったんだ。」

「不自由だなって思った事はないの?」

「もうずっとそれに慣れてしまったから。」

「変な事聞いてごめんね。今日は疲れたでしょう。」

「そうですね、少し。」

「赤ちゃんって、可愛かった?」

「みんな必死で生きてたから、可愛いとそんな感情に浸ってる暇はなかったかな。」

「ここはどう? やっぱり、大変って?」

「大変だけど、みんな赤ちゃんのまま、大きくなっているんですね。なんにも混じってない、純粋な気持ちのまんま。」

「それって、本当の感想?」

「そうですよ。嘘っぽかったですか?」

「そう思ってくれたなら、少しは長く、いてもらえるかな。」

「私、こっちですから。」

 早和は、凌に手を振った。

 

 咲き遅れた桜の花が、夜の紺色に揺れている。この風なら、明日には全部散ってしまうかもしれないね。


 先生。

 誰かの見ている世界を、覗いて見ると、自分の常識が嘘みたいに感じるよ。

 先生の思ってる答えと、私が思ってる答えなんて、最初から同じじゃないのに、どうしてそれがわからなかったのかな。

  

 9章 夏が運んできたもの


 ずいぶん雨が続いていると思ったら、いつの間にか梅雨に入っていた。


 生徒の1人が、早和の所に葉っぱを持ってきた。

「先生、見て。」

 葉っぱの上には、ゆっくり進む蝸牛がいた。

「お腹空いてるじゃない?」

 女の子がそう言ったので、早和は引き出しからビスケットを出して渡した。

「牛乳、飲める?」

「うん。」

 女の子は食べ終えると、教室へ帰っていった。

 保健室に残された蝸牛を、雨の中、そっと中庭に返すと、凌が廊下で待っていた。

「秋元先生、またお菓子あげたんですか?」

「だって、きっと朝ごはん食べてないんだろうなって思ったから。」

「まーちゃんは、食べて来てませんよ。朝寝坊ですからね。お母さんに、パンかなにか持たせるように言いますか?」

「それは、先生にお任せします。だけど、何か理由を見つけて保健室にくるのって、そんなにいけませんかね。」

 早和が言うと、

「秋元先生、強くなりましたね。」

 凌はそう言って笑った。

「ごめんなさい、出しゃばりました。」

「まーちゃんは、毎日来ますよ。それでもいいんですか?」

「いいですよ、私はそれで。」


 雨が上がったので、朝持ってきた傘を学校に忘れた。初めはポツポツ降っていた雨も、土砂降りになってきた。

 学校まで、傘を取りに行こうかと思ったけど、このまま家に走って行くほうが早いと思って、早和はカバンをしっかり抱えると、家までの道を走って帰った。途中で大きな水溜りに足を入れてしまい、靴の中まで濡れてしまうと、誰かが早和の肩を掴んだ。

「秋元先生、傘、忘れたでしょう。」

 凌は早和の傘を差していた。

「行きますよ。」

 凌は早和の肩を掴むと、傘を差しながら、家まで送ってくれた。

「原田先生、ありがとう。」

「あっ、俺、自分の傘、持ってくるの忘れた。」

「アハハ、それならこれ使ってください。」

「秋元先生、少しお邪魔してもいいですか?」

「そうですね。先生、濡れたでしょうから、タオル持ってきます。小降りになるまで、休んでいってください。」

 早和は濡れた靴下を脱ぐと、洗濯機に放り込んだ。

「どうぞ。」

 凌が入ってきた。

「ストーブつけますから、服、乾かしてください。」

 早和は凌にタオルを渡した。

 凌は上着を脱ぎ、窓の所にそれを干した。 

 コーヒーを淹れている早和に

「先生こそ、着替えないと風邪ひきますよ。」

 凌が言った。

「これ、淹れたら、着替えますから。」

 早和はコーヒーを凌に出した。

 部屋着に着替えてストーブの前に座ると、

「寒くないの?」

 凌が聞いてきた。

「少し寒いです。」

 そう言って、パーカーを羽織った。

「昨日、休んでたけど。」

「病院に行ってました。」

「耳の?」

「いいえ、腎臓の。」

「腎臓?」

「片方しか働いていないんです。」

「そうなんだ。」

 早和は奏や梶原に会わないよう、病院を変えた。

 薬だけを大量にくれた病院では、誰とも目を合わせて話す事はなかった。

「秋元先生は、いろいろ大変な事があるんだね。」

「私は欠けてる人間なんですよ。」

 早和はそう言った。

「学校には、だいぶ慣れたでしょう? 3ヵ月超えましたね。」

「そうですね。」

「保健室には、いつも誰か来てますね。」

「校長先生もよく来ます。胃薬ほしいって。こんなに誰かと話したのって、初めてです。」

「前の職場はどうして辞めたの?」

「すごくいいところでしたよ。だけど、なんだろう。別の場所で働きたくなって。」

「そうですか。」

「原田先生、もう1杯飲みますか?」

「もう、いいですよ。良かったら、晩ごはん一緒に食べませんか?」

 早和は時計を見た。

「お腹、すきましたよね。何か作ります。」

 早和は台所へ向かった。

「あんまり、上手じゃないけど。原田先生は、何でも食べれますか?」

「食べれるよ。」

「秋元先生は?」

「私はレーズンが苦手です。」

「あっ、俺も苦手。」

「大人になったら、食べれるようになるかと思ったのに、やっぱり食べれませんでした。」

「俺もね、ぶどうは食べれるのに、レーズンは苦手なんだよね。」

「私もそうです。」

 凌は早和の隣りにきた。

「一緒にやろうよ。」

「いいですよ。座っててください。」

「一緒にやるから。これ、どうすればいい?」

「じゃあ、皮剥いてくれますか?」

「わかったよ。もしかして、カレー?」

「シチューです。カレーにしますか?」

「シチューでいいよ。」

「原田先生は、料理するんですか?」

「時々ね。秋元先生は?」

「私はぜんぜんしません。今日は奇跡的に冷蔵庫に何か入ってました。自分で作ったものって、あまり美味しくないし。自分が食べると思ったら、どうでも良くなります。」

「じゃあ、誰かのためなら、精一杯作るの? 一緒に食べたら、美味しいって思うの?」

「それは、どうかな。」

「秋元先生って、いつもどこか離れた所から、自分を見てるよね。感情的にならないから、生徒の事も冷静に分析できる。」

「私だって、悔しくて、泣くこともありますよ。たまにですけど。」

「淋しくて泣く事は?」

「それはないです。」

 早和は嘘をついた。

「好きな人とかいないの?」

「いません。柔らかくなるまで時間がかかるから、もう座ってていいですよ。」


 出来上がったシチューを食べると、凌は美味しいと言った。

「それは、良かった。」

「今度、シチューのお礼に、美味しいもの食べに行こうよ。」

「原田先生が、私の傘を届けてくれたんですから、お礼をするのは私の方です。そうだ、原田先生、良かったら、パソコン、教えてくれませんか? 画像がなかなか貼り付けられなくて、困ってるんです。」

「いいよ。食べたら、見せて。」


 早和がパソコンを開くと、

「野球好きなの?」

 凌が聞いた。

「そうです。もう引退したけど、岡田の背中が初恋でした。」

「背中に初恋なんて、変わってるね。」

「ねぇ、原田先生、この画像を貼り付けたいんです。」

「ほら。」

 早和は順番をメモしていた。

「ありがとうございます。次は1人でできそうです。」

「もう少し、便利な方法も教えてあげる。」

 早和がパソコンを覗き込んでいるので、凌はやってごらん、と早和と場所を変わった。

「できた。」 

 後ろを振り返った早和を、凌は抱きしめた。

「原田先生、ふざけないでください。」

「ごめん。」

 凌は早和から離れた。

「俺、秋元先生の事、好きなんだ。」

 凌は早和に近づこうとしたが、早和は後ろに下がった。

「原田先生、私、ここに来る前にね、そんな感情はみんな捨ててきたの。」

「そっか。簡単には心を開かない人だとは思ったけど、もう少し、作戦を考えるよ。今日はごちそうさま。今度、野球でも観に行こうよ。」

 凌はそう言って帰っていった。

 早和は冷たくなった体を擦った。本当は早くにお風呂に入ってベッドに横になりたかった。

 雨の中、追いかけてくれた凌に悪くて、ただなんとなく、時間をやり過ごした。 

 早くお風呂に入って、今日は眠ろう。

 早和は浴室へ向かった。


 次の日。

 体が少し熱っぽく感じたので、早和は保健室にあった市販の風邪薬を飲んだ。

 梶原が知ったら、きっと怒るに違いない。

 良くしてくれた師長の事も、仲良くしてくれた優芽の事も、いろんな事を教えてくれた長岡の事も、そして奏の事も、結局、自分は裏切ってしまった。

 嘘つきなのは、周りじゃなくて、自分の方。

 病気になっても仕方ないか。きっと罰があったんだろう。


 早和は少しめまいがして、目を閉じた。


「先生。」

 まーちゃんが入ってきた。

「先生、見て。」 

 まーちゃんは蛇を持ってきた。

「まーちゃん、早く離しなよ。かじられるかもしれないよ。」

「さっき食べられた。」

「えーっ、困ったなぁ。」

 まーちゃんが蛇を離すと、保健室の床をニョロニョロと這い始めた。

「ちょっと、どうしよう!」

 早和の声を聞きつけて、玲が保健室に入ってきた。

「きゃー、ヘビ!」

 何人か先生が蛇を外へ逃がすと、

「まーちゃん、かじられたんですよ。」

 早和は言った。

「毒はないと思うけど、一応病院に行っておこうか。」

 早和はまーちゃんを連れて病院へ行った。

 まーちゃんのお母さんにも連絡し、病院で待ち合わせをした。

「先生。ヘビ、お腹すいてたね。」

「そうだったね。病院が終わったら、ご飯にしよつか。」

 まーちゃんのお母さんが来た。

「先生、すみません。」

「お母さん、毒はないと思いけど、念の為に病院に来ました。」

 母と娘は、2人で名前を呼ばれた診察室へ入って行った。

 包帯を巻いて出てきたまーちゃんは、

「先生、ヘビ、お腹すいてたよ。」

「まーちゃん、ヘビはもういないよ。」

 まーちゃんの母が言った。

「まーちゃんがお腹、すいてるんでしょうね。」

 早和はまーちゃんの母親に言った。

「私は、お腹すいてないよ。」

「わかったよ、まーちゃん。ヘビのご飯、買ってこよう。」

 まーちゃんの母は、娘の気持ちがわかった様だ。

「先生にいつもお菓子をもらってるって聞きました。まーちゃんは朝寝坊で、いつも食べる時間がなくて、何回かおにぎりを持たせたんですけど、自分が気に入った場所じゃないと食べない子でね、自分はお腹がすいてないって、繰り返し言うようになったんですよ。お菓子を食べても安心できる保健室は、すごく気に入ったんでしょうね。」

「お母さん、家に帰る?」

「帰ろう。ヘビさんのごはん、買って帰ろう。」

「先生、またね。」

「まーちゃん、またね。」


「早和!」

「先生。どうしてここに?」

「言いたいことが山程あるよ。仕事が終わったら、学校へ迎えに行くから。」

「先生、ごめんなさい。もう、話すことは何もない。」

「早和がなくても、俺はあるんだよ。あの子の通ってる学校にいるんだろう。夕方、迎えに行くからね。」

  

 白衣を着た奏を初めて見た。

 足早に呼びに来た看護師と、奏は診察室へ歩いて行った。振り返って広がった白衣の裾が、早和の目に焼き付いていた。 

 あの頃、いつも手を温めていた奏は、人がごった返す中に消えていった。

 

「秋元先生。」

 凌が早和を呼んだ。

「原田先生。」

「校長から迎えに来るように言われたから。まーちゃんは?」

「さっき、母親と帰りました。傷も大した事はないけど、念の為、薬が出たみたいです。」

「そっか。まーちゃん、薬飲めるかなぁ。いつも隙を見て捨てちゃうみたいだから。」

「難しいですね。飲みたくない薬を飲むのは。」

 早和は小児科外来を見つめていた。

「秋元先生、車停めてあるから、帰ろう。」  

 早和は凌と駐車場へ向かった。

「すごく混んでるんですね。」

「今日は、小児精神の日だからね。うちの学校の生徒もけっこう、通ってるよ。今年から新しい先生が来たみたいだね。すごく評判がいいんだって。」

「そうなんですか。」

「秋元先生、早く。」


 早和は車に乗った。

「まーちゃん、とうとうヘビまで持ってきたか。」 

 凌が言った。

「私が保健室にくる口実を求めたからですよね。理由なんかなくても、何も聞かないで入れればよかった。」

「生徒の中には、まーちゃんのように、危険の認識が薄い子も多いからね。」

「すみませんでした。甘かったです。」

「秋元先生が謝る事ないよ。これから、まーちゃんは二度とヘビを捕まえようとしなくなくなるんだし。」

「そうでしょうか。」

「大人が教える事もあるけど、自分で学んでいく事だってたくさんあるよ。」

「原田先生、明日からどうすればいいですか?」

「そんなに深く考えなくても、またおいでって、一言言えばいいだろう。まーちゃんは、約束は絶対守るから。」

「原田先生、すごいな。」

「俺も新人の頃は、すごく悩んだよ。悩まないでできる仕事じゃないからね。あの頃、校長はまだ教頭でね。授業もしてたんだよ。」

「そうだったんですか。校長先生の授業、受けてみたいなぁ。」

「ねえ、秋元先生。」

「なんですか?」

「今度、野球観に行こうって約束だけど、今度の週末はどう?」

 早和は考えていた。

「無理ならいいよ。急に言われたって困るだろうし。秋元先生の都合の良い時でいいから。」

「今日じゃ、ダメですか?」

「それは急に過ぎるよ。球場まで行く間に試合が終ってしまう。」

「今日は木曜日だから、野球はありません。それに、雨だし。」

「ドームだから、雨なんて関係ないでしょう。」

「外球場は雨だと中止なんですよ。」

「秋元先生、それじゃあ、土曜日ならいいでしょう?」

「野球なんていいんです。今日、一緒にいてくれませんか。」

「どうしたの、急に。」

「ごめんなさい。無理な事言って。」

「わかった。秋元先生、それなら家においで。」

 早和は凌の顔を見つめた。

「話したい事、たくさんあるから、泊まっていきなよ。」


 保健室の窓を少し開けると、蝉の鳴き声が小さく聞こえる。梅雨が明けると、あんなに降っていた雨が嘘のように、降らなくなった。少し湿った舗道が、今は時々恋しくなる。


 先生。

 なんでだろう。誰かの気持ちをうまく受け止めることができないよ。自分の気持ちだって、うまく渡す事ができない。

 どうしてこんなに好きなのに、先生を遠ざけようとするのかな。

 原田先生といるとね、いろんな事を教えてもらえるの。いろんな心が見えるみたい。

 先生も、そうなの?

 あの頃、赤ちゃんの小さな背中を優しく触っていたのは、先生しかわからない話しをしていたんだね。

 優秀なお医者さんなんだから、片方欠けている私の事なんか、早く忘れて。

 

 10章  夏が覗いたもの

 

 夕方なのに、太陽が高くにある。本当に夜になるのかとさえ、疑ってしまう。


「秋元先生、もう帰れる?」

「はい。」

「晩ごはんの材料買いに行こう。秋元先生の家に寄って、着替えをとって家に行こう。」

「そうですね。」

 早和は校門を方を見た。

 きっと奏は、もうすぐやってくる。そして、いつまでも自分を待っているだろう。

 学校の電気が全部消えたら、諦めて帰ってほしい。

「原田先生、早く行きましょう。」

 早和は時計を見た。


 18時。

 急いで学校を出ないと、奏と会ってしまう。

 職員玄関を出ると、凌は携帯を忘れたと学校へ戻った。なかなか戻ってこない凌を待っていると、奏がやってきた。


「早和。」

「先生。」

「大丈夫かい? なんか、調子悪そうだけど。」

「大丈夫。」

「梶原先生、心配してたよ。全然病院に来ないから。」

「この近くの病院に変えたの。大学病院には遠くて通えないから。」

「それならちゃんと紹介状書いてもらわないと。同じ薬ならいいってわけじゃないんだよ。」

「先生。私、もう先生と一緒に働いてないんだし、あの病院の看護師でもない。だから、どこの病院にかかるかなんて、自由でしょう。」

「それは、そうだけど。」

「これからね、なんでも教えてくれる先生の家に行くの。」

「早和。」

 奏は早和の腕を掴んだ。

「熱があるだろう。いつから風邪を引いた?」

 早和は奏の手を振りほどいた。

「もう関係ないでしょう。」

 凌が玄関から出てきた。

「ごめん、木田先生に捕まっちゃって。行こう。」

「早和、病院へ行こう。」

 奏は早和の腕を掴んだ。

「なんですか、あなた。」

 凌が奏に言った。

「病院へ行かないと、取り返しのつかない事になるよ。」

 凌は奏の手を早和から離そうとした。

「先生、」

 早和は奏の体に寄り掛かろうとして、地面にしゃがみ込んだ。

「救急車、呼ぶからね。」

「俺、車取ってきます。その方が早い。」

「ありがとう、そうしてくれるかい。」


 病院のベッドで、点滴を受けていると、梶原は強い口調で、早和を怒った。

「勝手に病院を変えた患者なんか、本当は診ないんだからね。澤口先生がどうしてもって言うから、仕方なく診察したんだ。」

「梶原先生、後でちゃんと言っておきますから。」

「澤口先生が甘いから、こうなるんだよ。本気で病気を治す気のない患者を、治療するつもりはないからね。」

「すみません、先生。」

「さっきから、澤口先生が謝ってるけど、秋元さんは、何も言わないのかい?」  

 梶原の言っている事が、聞こえないはずの左耳にまで

 刺さってきた。

 せっかく遠ざけたものが、また近くに塊となってぶつかってきた。

 飲み込んでいたら言葉をどうやって伝えたらいいか、自分でもよくわからなくなってくる。小さい頃の思い出が、点滅する青信号のように早和を急かした。

「梶原先生、ご迷惑掛けてすみません。いろいろありがとうございました。」

「次にこんな事をしたら、もう診ないからね。」

 早和は起き上がると、点滴を抜いた。

 針の痕から出ている血が、早和の腕から指に伝っていく。

「家に帰ります。もう、大丈夫ですから。」

「秋元さん、バカな事するんじゃない。ちょっと、誰か来てくれ、この人、そのまま入院になるから。」


 何人かの看護師が、早和を押さえつけて病棟へ運んだ。

 病室のベッドに拘束される時、男性看護師が早和の腕を強く掴んだ。

 涼子の家に行った時に、航矢との間にあった事を思い出した。  

 涼子はもう助けてくれない。

 精一杯の力を込めて、いろんな手を振り払うと、体が急に軽くなった。


「原田先生、あのヘビお腹すいてたみたいですね。」

 早和はそう言うと、意識を失った。


「大丈夫ですか?」

 凌は梶原に聞いた。

「少し、眠らせましたから。本当はあまり使いたくないんだけど。」

「そうですか。」

「君は同じ職場の人? 先生って言われてるって事は、医者なのかい?」

「自分は教師です。」

「そうか、秋元さんは、養護教諭になったんだったね。あんなに感情を出す子だとは思わなかったよ。」

「梶原先生が、患者を怒るなんて久しぶりに見ました。」

 奏が言った。

「病院は、病気を治したい人が来る場所なのに、自分の体を大切にしない患者には、少し腹が立ってね。秋元さんに、改心するように、2人からちゃんと言ってくれよ。」

「秋元さん!」

 NICUの師長がやってきた。

「長岡先生から聞いて、びっくりした。やっぱり、病院に引き止めておけば良かったわね。」

 師長がそう言うと、

「秋元先生がうちに来てくれて、みんな喜んでるんです。看護師をしてた頃はどうか知りませんが、学校では、子供達といろんな話しをしてますよ。」

 凌が言った。

「じゃあ、俺は行くから。面会時間はとっくに過ぎてるから、早く秋元さんを休ませてやってくれよ。」

 梶原は病室を出ていった。

「梶原先生、秋元さんには厳しいでしょう。」

 師長が言った。

「そうですね。」

「昔、若い女性の患者さんが、透析を理由に結婚を断られたらしいの。それから自暴自棄になって、自分で命を絶つような事ばかりしてね。梶原先生はずいぶん悩んでた。そのうち透析にも来なくなって、部屋の中で亡くなっているのをご両親が見つけたの。秋元さんを見てたら、その女性と重なるんでしょうね。私、もう行くから。明日、河口さんと一緒に、またここへくるわね。」


 2人になった奏と凌。

「座らないか。」

 そう言って、奏は凌に椅子を勧めた。

「いいんですか、ここにいても。面会時間はとっくに済んでるのに。」

「もう少し、いいだろう。」

「新しい小児科の先生って、あなたでしたか?」

「そうだよ。月に2回、あの病院へは診療に行ってる。」

「なかなか、予約が取れないって聞きました。」

「小児精神はどこもそうだろう。一人ひとりの診察時間も長いし。心理士も少ないからね。」

「秋元先生とは、同じ病院だったんですか?」

「そう。NICUで一緒だった。」 

「看護師さんが来るって期待したら、インスリンも、胃ろうも知らなくて、びっくりしましたよ。」

「アハハ、早和が働いてた場所は、特殊だからね。」

「それでも、秋元先生はよくやってます。」

「早和は看護師じゃなくて、教師で入ったんだから、先生がいろんな事を教えてやってくださいよ。すごく頼りにしてるみたいだし。」

「先生と秋元先生は、どういう関係だったんですか?」

「結婚しようって言ったら、逃げられた関係だよ。」

「そうでしたか。俺も好きだって言ったら、逃げられました。もしかして、今日は先生が来るのを知ってて、俺の家に来ようとしてたんですね。いつも誘っても断るのに、おかしいと思いました。」

「どうしてこうも人を遠ざけるのか、わからないよ。」

「耳の事と、腎臓の事は、何か関係がありますか?」

「あるのかも知れないけど、その事は、あまり話さないから。去年、早和の同級生の赤ちゃんが、NICUに入院して来てね。赤ちゃんもお母さんも、助からなかったんだけど、その時にいろいろ悩んだみたいなんだ。みんなどうせ嘘だからって、よく言うよ。」

「ヘビの話し、」

「さっきの?」

「ヘビがお腹すかせてるんじゃなくて、ヘビを捕まえた女の子がお腹をすかせてるんですよ。秋元先生には、それがわかる。それなのにどうして、自分の気持ちには、気が付かないんですかね。」

「大人になると、見えないフリをするからね。それができない子供は、いつも真正面からぶつかってしまう。教師の仕事は難しいだろう。」

「そうですね。医者だって、そうでしょう。」

「俺は大人が苦手だから、子供の方が話しやすいよ。そろそろ、看護師が見回りに来るから帰ろうか。」

「秋元先生、大丈夫ですか?」

「大丈夫。さっきデータを見たけど、2、3日で良くなると思うよ。」

「先生、送って行きますよ。」

「じゃあ、甘えさせてもらうよ。」


 次の朝早く。

「梶原先生、昨日はすみませんでした。」

 早和は梶原に謝った。

「薬飲むまで、見てるから。」

「ちゃんと飲みますから。」

「秋元さんには、何回も嘘をつかれてるからね。」

 早和は薬を飲んだ。

「少し前から、何を食べても味がしないんです。だけど、この薬はすごく苦く感じました。」

「薬は苦くて当たり前だろう。」

「喉の奥に引っかかるんです。そうすると、口の中が全部薬の味になる。」

「じゃあ、鼻から直接胃に入れるかい?」

 早和は首を振った。

「どうしても、飲まないとダメですか?」

「薬を飲まないなら、もう診ないよ。」

「先生、意地悪ですね。」

 優芽と師長がきた。

「秋元さん、あんまりわがまま言わないで。知識と行動が合ってないわよ。」

「秋元さん、大丈夫かい?」

 長岡がきた。

「先生、早和ね、また薬の事で、梶原先生に怒られてる。」

「苦いなら、オブラートに包めばいいだろう。梶原先生、粉にしてあげたら?」

 長岡は言った。

「秋元さんの薬は粉に出来ないよ。」

「だいたい錠剤なら、苦くないだろう。きっと苦いって意識が働くんだよ。」

 梶原が言った。

「そう言えば、澤口先生は?」

 優芽が言った。

「また、寝坊か。せっかく病院に近いの医師住宅に入ったのに、1人じゃ起きれないんだな。」

 長岡が言った。

「NICUにいた時は、早く来てたのに、小児科へ行ってから、診察時間の直前にくるみたいだよ。看護師達が寝癖って呼んでるよ。」

「早和のせいだよ。」

 優芽が言った。

「退院したら、ゆっくり話そう。今度は長岡先生の奢りで。」

 梶原はそう言った。


 夕方。

 校長と玲が光を連れてやってきた。

「秋元先生、あげる。」

 光はちくわを早和に渡した。

「貴重なのよ、光がちくわを誰かにあげるなんて、めったにないから。」

 早和は笑った。

「原田先生から、聞きました。ちゃんと病院に通ってくださいね。自分の体が壊れると、何もできませんよ。」

「すみません。原田先生、何か言ってましたか?」

「何も言ってませんよ。あっ、今日から、まーちゃんのお菓子係になりました。なかなかお菓子を食べてくれなくて、困ってました。」  

 校長が言った。

「まーちゃん、保健室じゃないと、お菓子は食べませんよ。」

「そっか。保健室はお菓子、給食は教室って思ってるんだ。お腹すいてても、絶対食べない時って、そういう事だったんだね。」

 玲がそう言った。

「秋元先生、ゆっくり治して、帰ってきてね。病院に戻りたいって思うのは無しだよ。」


「早和。」

「お姉ちゃん。」

 母と妹との早紀が来た。

「秋元先生のお母さんですか。校長の宮本です。こちらは、教員の澤山です。」

 柊子が頭を下げると、光も深く頭を下げた。

「うちの息子の光です。」

「まあ。かわいい。何年生?」

 柊子は光の頭を撫でた。

 光は4と手を出した。

「2年生です。」

 玲が言った。

「4って出しやすいでしょう。2よりも。」

「そうでしたか。」

「私達はこれで。」

「光くん、バイバイ。」

 校長先生と玲と光は病室を後にした。

「早和。お母さん、初めて見た。天使だって聞いた事あるけど、本当に天使みたいだね。」

「そうでしょう。」

「お姉ちゃん、これは?」

「光くんにもらった。」

「ちくわだよ、これ。」

「ちくわが好きなんだって。大切なものなのに、私にもくれたの。」

「ちくわは向こうが見えるから、安心なんだね。れんこんは、たくさん穴があるから、どれを覗けばいいか選べない。」

「早紀、よく知ってるね。」

「早和。もっと自分を大切にしないと。」

「お母さん、ずっとそうやって生きてきたから、どうしていいかわからないよ。病院でも、暴れちゃったし。」

「早和はお母さんが、お医者さんに怒られてるのが忘れらないんでしょう。あの時もすごい暴れたんだから。初めは黙って聞いていても、だんだん我慢できなくなって、点滴を抜いて先生に向かっていった。」

「そんな事、あったかな。」

「熱があったから、朦朧として覚えてないだけよ。それから、あのお医者さんは、早和にもお母さんにも優しくなったし。」

「お姉ちゃん、いつも寒い格好してるから、風邪引くんだよ。ほら、かわいい部屋着買ってきたから、これ着てよ。」

「早紀は就職したんだっけ。」

「そうだよ。もう10人くらいに結婚申し込まれて、全部断ったの。」

「すごいね、相変わらずモテモテ。」

「早和、早紀が就職したのは、幼稚園だよ。」

 3人は笑った。

「ご飯下げてくるね。」

 早紀がお膳を持って出ていった。

「先月、澤口さんが家にきたよ。早和、何にも話さないで、いなくなったんだってね。」

「……。」

「結婚の返事をしないのは、お母さんのせい?」

「どうして?」

「早和、耳の事と腎臓の事を気にして、結婚しないんじゃないかって思って。」

「お母さん、それは違うよ。」

「だったら、幸せになってよ。いつまでも悲しい顔してると、お母さん、ずっと辛くて。」

「ごめんね、お母さん。」

「澤口さんが、来たよ。」

 早紀が奏とやってきた。

「こんばんは。」

 奏が早和に言った。

「こんばんは。」

「澤口さん、またお世話になりましたね。迷惑ばっかり掛けてすみません。」

 柊子が頭を下げた。

「澤口さん、お姉ちゃんってどうしてこんなに風邪を引くんだろうね。だらしないからでしょう。時々、いつご飯食べたかも忘れてるし。」

「そうだね、あんまりちゃんと食べないよね。」

 奏は早和を見た。

「澤口さんがちゃんと見張っててよ。」

「そうする。」

「そうだ、ケーキ買ってきたんだ。一緒に食べて。早紀、帰ろう。」

「じゃあ、お姉ちゃん。またね。」


「早和。」

「先生、ケーキ食べて。」

 早和はケーキを奏に渡した。

「一緒に食べようよ。」

「あんまり、食べたくない。」

「せっかく、買ってきてくれたのに。」

「なんだろう、ずっと気持ち悪いの。」

「もしかしたら、点滴のせいかな。梶原先生に話しておくよ。」

「大丈夫、自分で言うから。」

 早和はベッドに横になった。

「早和。」

「何?」

「みんなここへ来たんだろう。師長も長岡先生も、優芽さんも。みんな早和の事、話してた。」

「さっき、校長先生もきた。」

「このちくわは?」

「一緒にきた先生の息子さんがくれたの。」

「光くんかい?」

「知ってるの?」

「ちくわしか食べないって、お母さんが言ってたから。」

「そう。家にお邪魔した時に、鍋の中からちくわばっかり取って食べてた。」

「ちくわが食べられたら、それでいいんだよ。」

「原田先生もそう言ってた。自分の常識を押し付けたらダメだね。」

 早和は胸をさすっていた。

「気持ち悪いの?」

「少し。」

 奏は早和の背中を擦った。

「もう大丈夫だから。」

 早和は目を閉じた。

「先生が触ると、なんだろう、すごく眠くなった。」

「早和。」

 眠ってしまったのか。 


 23時。

「面会時間はとっくに終わってますよ。」

 見回りにきた看護師が、奏に言った。

「ごめん。もう帰るから。」

 奏が答えると、看護師は名札を見て、

「先生だったたんですか、すみません。」

 奏に謝った。

「規則だもんね。もう帰るから。」

「先生は、この患者さんの身内ですか?」

「違うよ。」

「この患者さんは、梶原先生の親戚?」

「違うよ。」

「じゃあ、なんでみんなこの患者さんを特別にするんですか?」

「どうしてだろうね。君は新人さん?」

「そうです。」

「こんなに早く、1人で夜勤ができるんだ。」

「普通でしょう? そういうキャリアラダーがあるんだから。」

「そっか。これ、食べるといいよ。」

 奏はケーキを看護師に渡した。

「点滴のせいかな、この人は気持ちが悪いみたいでね。」

「じゃあ、先生が食べたら?」

「俺はケーキは食べれないんだ。」

 ケーキの箱を手にすると、

「主任にもらっていいか聞いてきます。」

 看護師はそう言って出ていった。

 少しすると、別の看護師がやってきた。

「先生、ケーキありがとう。」

「生モノだから、悪くなるといけないからね。」

「患者さんは、気持ち悪いみたいですか?」

「そうだね。」

「点滴のせいですね。明日には、点滴が取れると思いますけど。吐き気止めの指示、もらいますか?」

「もう寝てるからいいだろう。」

「夜の見回りは大変だね。ひとつひとつ病室を回るんだろう。」

「先生は、NICUでしたもね。」

「今は外来がほとんどだよ。悪いね、こんな遅い時間までいてしまって。」

「病気にならないと会えない人もいるんです。そこは、緩くしてもいいかなって思ってます。何かあったら、遠慮なく呼んでください。」

 看護師は部屋を出ていった。

 エアコンが効いている病室は、少し肌寒い。熱がある早和には、ちょうどいいのか。


 早和。

 結婚なんて、早和を縛り付けて置くための理由のひとつだったのかもしれない。

 俺は早和が寄り掛かりたい時に、寄り掛かってくれれば、それで良かったんだ。

 初めて早和を見た時から、その背中を触りたくて、仕方なかった。どうして、そんなにいろんな感情を背負い込むんだろう。誰かの痛みも、誰かの悲しみも、全部自分が背負って、いつの間にか、いなくなろうとする。 

 ここに置いていきなよ。

 明日にはなれば、みんな笑い話しにしてくれるから。


 11章 秋が思い出したもの


 病院を退院した早和は、隣接する大学の銀杏並木を歩いていた。

 学生の頃も、看護師になってからも、いつも通っていたはずの景色だったけれど、心が別の所にあると、こんな鮮やかな黄色が広がっていたのに、目に入らなかった。

 点滴がとれ、体が軽くなり、少しだけ気持ちに余裕ができたのか、大好きな人に、この景色を届けたいと、携帯を向けてみる。


「一番いい場所を教えようか?」


 早和は男性に声を掛けられた。

「ここより、いい場所ってあるの?」

「あるよ。こっち。」

 男性は早和の手を掴むと、大学の階段を駆け上がった。

「ほら。」

 大学の6階にある教室から窓を見ると、木のてっぺんが、一列に並んでいるのが見えた。黄色いジュータンは、風に吹かれて時々舞い上がる。


「風の行方まで、はっきり見える。」

 

 早和は窓に顔を近づけた。

「どこの学部?」

 男性が言った。

「私はここの卒業生。卒業して、もう4年になるよ。」

「そうなの? てっきり学生かと思った。」

「あなたは?」

「俺は6年の薬学部。」

「そっか。あとで少し卒業だね。」

「卒業するまで、8年もかかったよ。」  

 男性は笑った。

「大学は楽しかった?」

「どうだろう。今になれば、別の道もあったのかなって思えてくる。」

「そうだね。気持ちなんて、いつも変わるから。」

 早和は窓に手を置いた。

「ねえ、写真とらないの?」

「とったよ、ほら。」

 早和は木から落ちてきた、一枚の葉をとっていた。

「これだけ?」

「そう。」

「たくさん木も葉もあるのに、この一枚だけ、写したんだ。」

「ちょうど私の頭に、この葉が落ちてきたからね。」

「ここに連れてきたりして、迷惑だった?」

「ううん。ここの景色、絶対忘れない。大好きな人になんて言葉で伝えればいいか、ゆっくり考えながら、家に帰る。」

「変わった人だね。写メしたら、言葉なんていらないのに。」  

「あなたは写真にとったの?」

「毎年ここからとってるよ。ほら。」

 男性は早和に携帯を見せた。

「今年は好きな人に見せようと思って、何枚もとったんだ。だけど、どうしても本物を見せたくて、朝からあの場所で、その人が通らないか待ってたところ。」

「そっか。その人、もうすぐ通るといいね。」


 大学の玄関を出て、横断歩道の前にいると、奏がやってきた。 

「早和。」

「先生。」

「病棟に行ったら、もう退院したっていうから。」

「大学の銀杏並木を見てたの。親切な学生さんが、6階の教室に案内してくれて。」

「どんな景色だった?」

「風が見えた。」

「風が?」

「そう。」

 奏は早和の荷物を持つと、手を繋いだ。

「恥ずかしいよ、先生。」

 奏は早和を見て微笑んだ。

「今日は家においでよ。弟の命日なんだ。」

「行かないよ。」

 早和は奏の手を離そうとした。

「一緒に来てくれるだけでいいよ。お線香あげたら、俺も帰るから。」

「先生はちゃんと、お話ししてきてよ。お父さんやお母さん、待ってただろうし。」

「俺は早和と話しがしたいんだよ。今日は家までちゃんと送るから、その間にたくさん話しをしようよ。」

「先生は何の話しがしたいの?」

「何の話しがいい?」

「これじゃあ、いつまで経っても始まらないね。」


 2人は少し混み合った電車に乗った。

「何個目の駅?」

「4つ目だよ。」

「先生は電車で大学に通ってたの?」

「そうだよ。」

「早和は?」

「私は一人暮らし。」

「そうだったね。ひどい食生活してて、病院で怒られてたね。」

「梶原先生、あの時もすごく怖かった。食事指導した栄養士さんも、すごく怒ってた。」

「だって、ひどい食生活だったよ。指導を受けた人とは思えない。」

 

 駅を出ると、奏の家まで、歩いていった。

 少し寒い風が時々吹くと、奏は早和の体に近づいた。

「先生、光くんは、ちくわばっかり食べてても、ちくわ食べれるから、いいよって、お母さんや先生達はそう言うの。バランスよくとか、栄養がどうのとか、育ち盛りの子供に伝えるのが、大人なのに。」

「好きなものが一番のご馳走だよ。早和がいる学校は、良い先生がたくさんいるんだね。」

「そうだね。」

「早和が入院した日、原田先生と少し話したんだ。」

「私、原田先生に、悪い事しちゃった。」

 早和は少し下を向いた。

「俺に会いたくないから、原田先生の家に行こうとしてたんでしょう?」

「そう。」

「病院でも言う事聞かないし、こんな人とは思わなかったって、びっくりしてたよ。」

「やっぱり、そうか。」

「退院したら、また一緒に働こうって言ってたよ。看護師に戻りたいって言い出したら困るって。」

「本当に?」

「本当。」

「でも、なんとなく、会いずらいな。」

「いい人でいる必要なんかないよ。原田先生の前では、なんでも言えるだろう、気の強い早和を見せたんだから。」

「そうかな。」

「俺なんて、どんだけ早和にひどい事されてるか。いい人だなんて、思ってないよ。」

「ごめん。」

「早和、ちゃんと電話に出てよ。」

「そうだね。」

 早和は携帯を出した。

「先生見て。まーちゃん、いつも保健室に色んな物を持ってくるの。」

「本当だ。子供の目線って、羨ましいな。大人が気づかない物がたくさん見える。」

「ヘビはないよ。写メとるの、忘れたから。」

「そんな余裕なんてないだろう。生きてたんだろう、そのヘビ。」

「そう。まーちゃんはしっぽを持っててね、」

「ヘビにしっぽってあるの?」

「じゃあ、後ろはなんていうの?」

「しっぽなのかなぁ。」

「そうでしょう?」

 2人は顔を見合わせて笑った。


「ただいま。」

「あら、奏。今年も来ないかと思ってた。」

 奏の母、依子よりこが出てきた。

「お父さん、奏がきたよ。」

 父のいさおも玄関に出てきた。

「こんにちは。」

 早和が奏の後ろから挨拶をした。

「線香あげたら、すぐに帰るから。」

 奏が言った。

「ゆっくりしていってよ。久しぶりになんだし。あがって。」

 依子が2人を案内した。


 奏の家は、なんとなくぎこちない。

 弟が突然亡くなって、両親とどう接していいか悩んだと、奏が言っていた。家族の中で、いつも気を使っている奏が、目に浮かんだ。

「奏、晩ごはん食べていかない?」

「もう、帰るよ。」

 早和が奏の背中をポンと叩いた。

「何?」

 奏は早和の指を指す方を見た。

「あっ、これ。母の日に奏がくれたの。煌が死んだ次の年よね。」

 依子がそう言った。

「すごいトゲでしょう。こんなに人を寄せ付けないのに、話せば言葉がわかるようになるからって、奏が花屋さんから聞いてきてね。忘れた時に水をあげてたら、ずっと枯れないでここにあるの。」

「お母さん、時々、話しかけてるませんか?」

 早和が言った。

「わかるかい? 母さんは時々、サボテンと話してるんだ。」

 功が言った。

「奏、彼女の名前くらい教えてくれてもいいだろう。せっかく来てくれたのに、お茶くらい飲んでいけよ。」

 奏は早和をソファへ案内した。

「冷たいのがいい?」

 依子が早和に聞いた。

「温かい方をもらおうか。」

 奏が言った。

「名前は?」

 依子が早和に聞く。

「秋元早和です。」

「いくつ?」

「26です。」

「奏と同じ病院にいるの?」

「いいえ、私は学校に勤めています。」

「じゃあ、先生?」

「はい。」

「奏は何も教えてくれなかったのよ。彼女がいたなんて、知らなかった。」

「母さん、早くお茶くれない?」

 奏は話しを遮った。

「早和さん、ケーキ食べるかい?」  

 功が言った。

「はい。」

「じゃあ、コーヒーいれるから、手伝って。」

 依子は早和を呼んだ。

 

「奏、今日は泊まっていけよ。母さん、ずっと待ってたんだから。」

「帰るよ。早和は退院したばかりなんだ。」

「どこか悪かったのか?」

「風邪をこじらせたんだよ。無理言って家についてきてもらったんだから、もう帰るよ。」

「結婚するのか?」

「まだわからないよ。挨拶したから、もういいだろう。ちゃんと筋は通したから。」

 

「早和さん、そこにカップがあるから。」

「これですか?」

「そう。私達は紅茶にしようか。」

「はい。」

「ケーキどれにする?」

 早和はケーキの箱を覗いた。

「たくさんあるんですね。」

「奏の弟が検査に行く前の日、奏が貰い物のケーキを一人で食べちゃったのよ。それで2人は喧嘩になってね。あんまり拗ねてるから、検査が終わったら買ってあげるって約束したんだけど、今思えば、どうして食べたいって言った時に、食べさせてあげなかったんだろうって悔しいの。奏は喧嘩したまま別れたせいか、その日からケーキを食べなくなってしまって。毎年、仲直りのケーキを買って待っているのに、ぜんぜん帰って来なかった。」

「先生は、なんのケーキを食べちゃったんですか?」

「早和さん、奏の事、先生って言ってるの?」

「ずっと、先生って呼んでます。会った時から、先生だったから。」

「早和さんだって、先生でしょう?」

「そうでした。」    

 依子は笑った。

「奏、なんのケーキを食べたんだろうね。もう思い出せない。」


 3人は静かにケーキを食べている。

 奏は食べなかった。

 早和の家には、お喋りな妹がいたから、食事の時は賑やかだった。話しをしようとしないのは、早和1人だった。両親のとぎくしゃくした関係は、ひとつ掛け間違ったボタンに、なかなか気がつかないだけだったのに。

 今でもお互いに、気を使いながら会話をする仲だけれども、両親が自分を家族として認めていた事を知った今は、少し話してみようって気持ちになる。

 誰にでも優しいはずの奏は、張り詰めた空気の中で息を吸い込めないでいるようだ。

「先生。」

「何?」

「先生の分、食べてもいい?」 

 早和は奏に言った。

「気持ち悪いのは、治ったのかい?」

 奏はいつもの優しい声で答えた。

「とっくに治ったよ。」

「先生、私のケーキ食べたでしょう。早紀が持ってきてくれたあのケーキ。」

「あれは、早和がいらないって言ったんだろう。」

「あとで食べようと思ってたから、食べるならそう言ってほしかった。」

「だって、すぐに寝ただろう。言う暇なんて、なかったよ。」

「先生、これ、ちょうだい。」

「あげないよ。」

「だって、いつまでも食べないから。」

「早和さん、同じものもう一つあるわよ。奏も早く食べなさい。そのうち喧嘩になりそう。」

 奏はケーキを食べた。

「先生のほうが大きい気がする。」

「そんな事ないよ。職人さんは、そんな適当な事しないって。」

「そうかな。」

 早和は、奏のケーキと自分のケーキを見比べた。

「奏、早和さん、鍋作るから、食べていって。」

 依子が言った。

「帰るよ、母さん。」

「先生、私、鍋が食べたい。病院のご飯、ぜんぜんおいしくなかったから。」

「奏。やっぱり泊まっていけよ。」

 功がそう言うと、奏は早和を見た。

「先生、泊まっていこうよ。」


 夕食の支度をしている台所から、早和と依子の笑い声が聞こえる。

 あんなに笑う子だったかな、奏は思っていた。

「早和、着替えどうする? 」

「あるよ。早紀が持ってきてくれたものが袋にはいってる。」

「奏、聞いて。早和さんの家のサボテン、お父さんを刺すんだって。お母さんはいつも何を言ってるのかしらね。」 

「お母さん、サボテンはすごいんですよ。宇宙と話しができるみたいですから。」

「早和さんは、そのサボテンと話すの?」

「うちのサボテンは、もう母の言う事しか聞こえないと思います。」


「奏、飲むだろう。」

 功がビールを買ってきた。

「あの子は、教師って言ったっけ?」

「そう。」

「何を教えてるんだ?」

「養護教諭だよ。養護学校のね。少し前まで、同じ病院で、看護師として働いてた。」

「奏は、どんな子と結婚するのかって思っていたよ。」

「結婚はまだ考えてないよ。あんまり背負わせると、辛くなるだろうし。」

「奏にも、たくさん背負わせたな。煌の分も、みんな奏に背負わせた。」

「父さんや母さんだって、あの時はそれが精一杯だったんだし。」

「医者になんてならなくても良かったんだぞ。奏は他にやりたい事があったんじゃないのか?」

「今は医者になって良かったと思ってる。先生って呼ばれるの、けっこう気に入ってるから。」


 少しだけお酒を飲んだ奏は、いつもならしないおかわりをした。

 依子が美味しいのかと聞いても返事をしない功を見て、

「お母さん、私、こっちの耳、聞こえないんです。」

 早和が依子に言った。

「あら、ここの男の人達もずっと聞こえないフリ。」

 依子は功と奏を見て笑った。

「話しを聞いてくれるのは、あのサボテンだけ。」

 大して面白くない話しをしても、早和と依子は、ずっと2人で笑っていた。


 お風呂から上がった奏は、部屋で早和が来るのを待っていた。

 

 寒いと思ったら、雪がチラチラと降っている。秋の初めの小粒な雪は、朝には何も残ってはいないだろう。

 夜のアスファルトにキラキラと輝る小さな雫は、まるでこぼれた宝石のようだった。


 早和。

 初めてNICUに来た日。

 なかなか赤ちゃんに近づけなくて、師長や長岡先生にずいぶんと怒られていたね。  

 いつの間にか、普通に笑う事も、普通に泣く事も、心の底にしまって鍵を掛けた。

 大きなマスクは鎧のように、早和の感情を隠したね。

 早和を見た時、この人はきっと、俺の荷物をおろしてくれるはずだと思った。俺だけじゃなくて、いろんな人の荷物もおろしてくれているんだ。

 今度は早和の荷物を下ろす番。


 12章 冬の贈り物


 階段を昇る小さな足音が聞こえる。

 静かに開いたドアから、早和が入ってきた。


「なんだか、気を使わせたみたいだね。」

 早和は首を振った。

 ベッドの下に腰を下ろすと、早和はカバンから薬を出した。

「水、持ってこようか。」

「あるよ。お母さんにもらった。」

「言いたくない事も、みんな話したんだね。」

「だって、それが私だから。」

 早和はそう言って薬を飲んだ。

「すごく苦い。」

「錠剤なら、苦くないだろう。口の中に溜めてるから苦いんだよ。」

「先生は、子供達になんて言って薬を渡すの?」

「薬が飲めないなら、注射するっていうかな。」

「ひどい。それなら絶対薬を選ぶでしょう。」

「そう言うと、頑張って飲むだろう。子供は素直だからね。」

「先生。」

「何?」

「早く家を出たかった?」

「そうだね。大学も、本当は別の所へ行きたかったし。」 

 早和は奏の隣りに座った。

「家って、一番居心地が悪いね。」

「そうかもね。」

「先生の家にくるの、ずっと怖かった。」

 奏は早和の下を向いている顔を覗いた。

「ごめんな。俺は一人なら、帰りずらくって。」

「お父さんもお母さんも、昔と同じように先生を待ってたんだね。」

「早和も同じだろう。家族って、難しい場所だよ。素直になりにくい関係だし。」

「そうだね。先生と働いてたいた時、生まれたばかりの赤ちゃんが、必死でみんなを繋ぎ止めてるのを見るのが、辛かった。」


 奏は早和を静かに抱きしめた。

「先生、そのうち私の事が面倒くさくなるよ。」

 奏は何も言わず、早和の首に唇を押し当てた。

「忘れてくれればよかったのに。」

 奏は早和をベッドへ押し倒した。

「先生。」

 早和は奏を真っ直ぐに見つめた。

「ずっと好きだった。」

 奏は早和の口を塞いだ。

「それは俺が先に言うよ。」

「早和、ずっと好きだった。」

 早和の目が笑ったように見えた。

 奏は早和の口にあてていた手を外し、静かに自分の唇を重ねた。

 早和の冷たい体を、奏の温かい手が包んでいく。

 何度も抱きしめたはずなのに、今日初めて抱きしめた、そんな気持ちになる。

 

 奏が眠っている早和に毛布を掛けると、

「先生の背中、触ってもいい?」

 早和が言った。

「起きてたんだ。」 

「起きてたよ。」

 奏は早和を胸の中に包んだ。

「いいよ。ほら。」  

「そうじゃないの。むこう向いて。」  

 早和は奏を見上げた。

「それじゃあ、早和が見えないよ。」

「少しだけ、お願い。」

 奏は早和に背中をむけた。

 早和は奏の背中をそっと触ると、聞こえない左耳を奏の背中にあてて目を閉じた。

 背中から、なかなか離れない早和に

「早和。もういいだろう。」

 奏は言った。

「もう少し。」 

「何か聞こえるの?」

「うん。」

 背中に感じる早和の呼吸が、少しゆっくりになったので、奏が後ろを振り返ると、早和はそのまま眠っていた。


 月曜日。

 学校が始まる。

 まーちゃんは、おにぎりを持っていた。

「先生、おにぎりがお腹すいてるって。」

「まーちゃん、おにぎりは牛乳飲めるかな?」

「飲めるって。」

 まーちゃんが食べ終えて出ていくと、別の子が保健室に入ってきた。

「秋元先生、転んだみたいなんです。」

「じゃあ、絆創膏貼りますね。」

「ダメです。取って食べちゃいますから。」

「包帯でしたね。10回分巻く分あるかな。これ。」

「4ならわかりますよ。団子は4つだから。」

「じゃあ、4回巻きます。」

 早和は男の子と一緒に4まで数えた。

「だいぶ、慣れましたね。」

「毎日、いろんな事が起こります。」

「先生、粘土、食べちゃったみたいで。」

 

 お昼休み。

「秋元先生、元気になりましたか?」


 凌が保健室にやってきた。

「原田先生、ご迷惑かけて、本当にごめんなさい。」

 早和は頭を下げた。

「先生、病院でもっと、暴れてやれば良かったのに。」

「やだ、忘れてください。」

「同じ先生って呼ばれてるのに、医者はみんな偉そうですね。」

「そうですか。」

「澤口先生はちょっと違うかな。あの人は医者じゃないみたい。俺、タイミング悪いですよね。携帯忘れてなかったら、家にきてくれてたのに。」

「原田先生、本当にごめんなさい。」

 奏に会わないように、凌を頼ろうとしていた事を、凌は奏から聞いたのだろう。

「秋元先生、昼から散歩に行きませんか? うちのクラスの子が、氷が見たいって言ってるから。」

「氷なんて、どこにありますか?」

「ありますよ。水溜りは凍ってるます。子供はちゃんと見てますよ。」

「通りで寒いと思いました。」

「風邪引かないでくださいね。はい、ホッカイロです。」

「ありがとうございます。」


 2週間後の木曜日。

 梶原の外来で、順番を待っていると、優芽が通った。

「早和、これから受診?」

「そう。優芽はお昼?」

「夜勤明け。忙しくて、もうこんなに時間になっちゃった。」

「大変だね。」

「早和は、仕事楽しい?」

「楽しい。」

「澤口先生と一緒に住んでるの?」

「住んでないよ。」

「そうなんだ。最近、澤口先生は朝も早いし、寝癖ついてないから、てっきり早和が起こしてるのかと思った。」

「きっと、実家にいるんじゃない?」

「そっか。早和、私ね、彼氏ができたの。」

「本当に、おめでとう。」

「相手の人ってどんな人?」

「隣りの大学の6年生。3浪して薬学部に入って、8年も卒業するのにかかった人なの。澤口先生と同じ年だけど、まだ学生。」

「これから国家試験だね。」

「そう。」

「大学の銀杏並木の前でずっと待っててね。いい写真がとれたからっていうから見せてもらったら、葉っぱ1枚の写真よ。呆れて笑った。」

 早和が診察に呼ばれた。

「優芽、今度ゆっくり話そう。」

「そうだね。」


 梶原の前に行くと、

「データも落ち着いてるし、来月は薬ひとつ、減らせるかも。」

 そう言われた。

「じゃあ、一番苦い薬を減らしてください。」

「秋元さん、わかってるだろう。それは減らせない薬だよ。今日は栄養指導受けていって。」

「梶原先生、私、全部わかってますよ。」

「わかってたら、この前みたいな事にならないだろう。給食があったから、あれくらいで済んだんだよ。いつも何を食べてるのか、栄養士さんにきちんと話しなさい。これ以上、澤口先生を心配させないように。」


 早和は栄養指導室に入っていった。

「困った患者さんってあなた?」

「そうです。」

「秋元さん、主食があって、副食があって、副菜があるの。ご飯があって、メインがあって、小鉢がある。それに、汁物。これが理想の形じゃない。あなたは、養護教諭だって聞いたけど、子供達になんて指導をしているの?」

 早和は時々聞いているフリをして、別の事を考えていた。

「昨日は何を食べたの?」

「納豆と、」

「あら、いいわね。ご飯はどれくらい?」

「炊くのを忘れました。」 

「じゃあ、納豆と何を食べたの?」

「チョコレート。」

「秋元さん、目眩がするわ。梶原先生に言っておくから。来月も栄養指導入れてもらうから。」


 夕方。

 早和は職員玄関の前で、奏が出てくるのを待っていた。

 ほんの少しの知り合いに会うと、誰を待っているのか聞かれたが、笑ってごまかしていた。


「先生。」

 奏が出てきた。

「待ってるなら連絡をくれれば良かったのに。」

「先生、ちょっと来て。」 

 早和は奏の手を掴んでタクシーに乗った。

「どこへ行くの?」

「内緒。」


「咲子さん、こんばんは。」

「早和、待ってたよ。」

「澤口先生。」

 早和が奏を紹介した。

「こんばんは。叔母の咲子です。」

「咲子さん、先生の髪、切ってあげて。」

 咲子は奏を鏡の前に座らせた。

「先生、早和と同じで厚い髪だね。」

「そうですか?」

「クセがついたら、なかなか治らないでしょう。」

「そうですね。」

「早和もそうよ。それに、無頓着だから、気にしないで学校へ行っちゃう。だから、クセがつかないように、カットするの。」

「わかってる人がいると、いいですね。」

「先生、渦巻きがみっつもあるのね。」

「父もそうです。」

「これなら、クセが付きやすいわね。」

「それに、寝相も悪いから。」

 早和は家の方に入っていった。

 咲子は厚い奏の髪に、サラサラとハサミを入れていく。

「私はね、子供がいないの。できないってわかった時、兄に早和をほしいってお願いに行ったの。いろんな方法も考えたけど、早和がどうしてもほしくてね。犬や猫じゃあるまいしって思われるかもしれないけど、子供が欲しいっていう気持ちは、理屈じゃないよの。」

「男の自分には、そういう気持ちがわからない理解できない時もあります。」

「先生は、正直ね。」

「妊娠も出産も子育ても辛い思いをするのは、女の人ですからね。男の人がちゃんも支えてくれたら、どんな時だって、2人は幸せでいれるものだと思いますけど。」

「そうね。」

「咲子さんは、早和がほしかったんですか? 早和には他にも兄弟がいるし、さっきも言ってましたけど、異本な方法があったのだろうし。」

「先生の言うように、私は早和がほしかったのよ。赤ちゃんだった早和を抱っこした時にね、早和はちょっと笑ったの。母親になれない自分が情けなくて、やけになってた頃だったし、子供が普通に産める柊子さんが羨ましくってね。このまま、早和を床に落としてやりたいと思って抱いたわ。そしたら、早和は笑ってるのよ。生まれて少ししか経たないのに、世の中の何が面白くて笑っているのかなって思った。その時、急にこの子を守りたいって思ってね。母性なんて私にはないはずなのに、母親ってこんな気持ちなんだって感じたの。兄さんは、早和を養女にくれなかったけど、早和が中学に入ってから、一緒に住むようにしてくれて、夫とよく、白黒だった日常に、色がついたみたいだねって話してた。そんな夫も、去年脳出血で亡くなって。早和は最後まで、棺から離れなかったのよ。」

「そうだったんですか。」

「先生、色がついてる時なんて、あっという間よ。それに気が付かない人のほうが、この頃多いけど。」

 早和が家の方からやってきた。

「先生、ご飯食べていこうよ。咲子さん、おでん作ってくれていたよ。」

「先生、食べていってください。朝から楽しみにして作っていたのよ。」  

 咲子が言った。

「咲子さん、早和は偏食が多いですか?」

「そんな事ない、なんでも食べますよ。」

「そうですか?」

「早和が病気になってから、柊子さんも母さんもすごく食事に気を使ってたけど、あの子はそれを素直を受け入れられなかったのよね。先生はなんでも食べますか?」

「なんでも食べますよ。」


 いつもと違う感じになった奏を見て、

「先生、すごくいい男になって、みんなびっくりするね。」

 早和はそう言った。

「咲子さん、ありがとうございます。」

「どういたしまして。先生、伸びたらまたいらっしゃい。」

「咲子さん、早く食べよう。」

 早和がおでんからいくつか具を取ると、叔父の仏壇へそれを持って向かった。

「先生、早和をもらってください。」 

 咲子が小さな声で言った。

「もちろんです。」 

 奏は咲子にそう言った。

「何?」

 早和が席につく。

「なんでもないよ。」

 奏と咲子は目を合わせて笑った。


 咲子の家を後にすると、電車を乗り継いで、2人は奏の家に向かった。

「遅くなったね。明日も学校だろう。早く寝ないと。」

 奏が言った。

「先生、すごく素敵になった。」

 早和は奏を見上げた。

「寝坊しても、もう寝癖はつかないよ。」

 そう言って髪を触った。

「外来の師長、けっこう厳しくてね。」

「先生が、ぎりぎりにくるからでしょう。それにお母さん達って、みんなキレイにしてるから、先生がだらしないと、信用しない。」

「昔、長岡先生が、まだ小児科の外来をしていた時、子供が熱を出しているのに化粧をしてやってくる母親を怒っていた事があってね。そんな暇があるんなら、子供を見なさいってきつく言っててさ。」

「長岡先生、そんな時もあったんだ。」

「早和だって、よく怒られたていただろう。なかなか赤ちゃんを触れなくてさ。」

「そうだね。触ると赤ちゃんが壊れるんじゃないかって、初めはすごく怖かった。」

「だけど、赤ちゃんは、みんな触ってほしいって待ってるだろう? 大人だってそうさ。」

「ねえ、先生。」

「何?」

 早和は言いづらそうに奏の手を握った。

「何?」

「あのね。」

 奏は早和の背中を抱き寄せると

「一緒に暮らそうか。」

 そう言って早和の背中を包んだ。


 冬の始まりに運んできた風は、冷たい空気の中に、少しだけ、頬を撫でるような優しさを連れてきた。

 暖かくなった部屋の中では、もう上着はいらないね。


 先生。 

 永遠なんて、本当にあるのかわからないけど、そんな事を求めなくても、一緒にいる時間はこんなにも尊いものだね。

 明日、先生が私の事を嫌いになっても、こうして同じ時間を過した事は、ずっと忘れない。

 もしかしたら、思い出のゴミに捨てられるもしれないけど、今はこれ以上ないくらい、先生と離れたくないって思えてくる。

 どんなふうに伝えればいい?

 どんな言葉で話せばいい?


「さっきから、ずいぶん、お喋りな背中だね。」

「そうかな。」

 

 奏は早和をきつく抱きしめた。


 終

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