長い一日の始まり
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「じゃあ滝沢君、ここ日本語に訳してみて」
「えっと、彼は……会社で走っている?」
「……ここでのrunは走るじゃなくて、経営するって意味よ。入試でもよけ使われるから覚えておいてね」
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「おい速斗……速斗ってば!」
「えっ? どうかした蒼樹?」
「こら滝沢ァ! どうかしたじゃないだろ! さっきから何をボーッとしとるんじゃ!」
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「……あの、そこ私の席なんだけど」
「あっ、ご、ごめん、すぐにどくから」
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何をしても上手くいかない日というのは、年に何回かあるものだ。
365日のうち、それがたまたま今日であっただけ。
自己暗示をかけるように何度も自分にそう言い聞かせるも、さすがに無理があった。
そもそも俺は今日何もしていない。
実際に事を起こしたのは沙月と平野の二人。
……いや違うな。
その二人の元の元をたどれば俺に行き着くわけだから、結局は俺のせいなのか。
一時間目が始まる直前に投下された、平野による爆弾の衝撃は、十分ほど前の沙月のものとは比べ物にならないものだった。
誰にでも分け隔てることなく明るく接し、その見た目も相まってマスコットのような存在の平野。
高校二年生という中途半端な時期に引っ越してきて、周囲に対してあまり近寄るなオーラを発している沙月。
まさにその差が如実に表れていた。
――わたしたち付き合っているんだよね?
予想だにしなかった平野の告白に俺が固まっていると、更に追い打ちをかけるかのように平野は俺の机をダンッと叩いた。
セーターの裾から僅かにはみ出た人形のような手が……なんていつもは思うところだけど、さすがに今回はそんな余裕微塵もなかった。
沙月の時は、ほぼほぼ興味本位に物珍しいものでも見るような視線を向けていたクラスメイトだったけど、その時は同じ視線でもそこに明らかな敵意のようなものがこめられていた。
――えっ? 神部さんと付き合っているんじゃないの?
――彼女いるのに手出してたってこと?
――最低じゃねえか、だから都会育ちのやつは……。
――てか舞ちゃんって本当に滝沢君と付き合ってたの?
皆が皆、小声でヒソヒソ話すものだから全部は聞き取れなかったけど、少なくとは半分以上は俺に対する軽蔑。
次に平野に対する同情。
残りは戸惑いや混乱で状況をうまく把握できていない者。
そして当事者である俺もそのうちの一人で、沙月は表情を一切変えずに、自分の席で行く末を見守っているようだった。
やがて目まぐるしく移り変わっていた突き刺すような視線は全て俺に向けられ、それが何を意味しているのか分からないほどの俺でもない。
答えを求められているのだ。
沙月と平野。二人のクラスメイトから同じタイミングで交際宣言を受け、俺はどう答えるのか。
これは俺たちの問題だ。部外者は黙っとけ――心の中ではいくらでも言えるけど、この状況で怒鳴れるほどの心臓を持ち合わせてはいなかった。
平野は俺を見下ろしたまま、その場を離れようとしない。
どうしたんだ平野。あれほど学校の誰かに知られるのを避けようとしていたのに。
「俺は……」
たったその一言だけで、一気に教室内が静まり返る。映画館での予告が終わって、照明が落ちるあの瞬間に似ていた。
「確かに平野とは――」
入学してすぐに――
と言おうとしたときだった。
静寂を破る、扉が開く音。
「どうしたのみんな、静まり返って。もう授業始まるから席に着いてね」
一時間目の英語の先生が入ってきて、俺は一時的に処刑台から降ろされた。
その後は休み時間の度にトイレにこもり、昼休みもずっとトイレの個室で過ごした。
人生初の便所飯だ。
だけどこれが、ただ問題を先延ばしにしているだけだってことは自分でもよく分かっている。
いっその事仮病でも使って早退しようと何度も考えた。
でもそれをしてしまうと、もう明日以降この教室に足を踏み入れないような気がしてやめた。
「速斗……」
「大丈夫……たぶん」
沙月のときは憤慨していた蒼樹も、さすがに俺を心配してくれていた。性格の良さが滲み出すぎなんだよ。
今の俺の二つ名は、二股クズ男らしいぞ。休み時間教室から出ていたはずなのに、少なくとも五回は俺の耳に入ってきた。
それでも蒼樹は、『まだお前の口から何も聞いてねえからな』と言ってくれている。
どういう結果をむかえようと、蒼樹には全部話そう――自然とそう思っていた。
だけどその前に。
今日最後の授業。全てはこの五十分のロングホームルームを終えてからだ。




