陰キャ
15年、生きた。まだ、学校には通っていた。
貧乏ではない、親も優しい、友達はいないが、積極的に話す人はいる、ゲームの時間も自由。贅沢を言えないほど幸せだからこそ、私は憂いていた。
私はつまらない人間であった。クラスで騒ぐような人と、うまく話せない。授業の中で、教えあいの時間があると、それはすぐ終わって、そんな人は私よりはるか遠くの人と、話し始める。私が悪いのだ。もしかしたら、彼にも否があるのかもしれない。しかし、自分ごときに話されるのがどんな気分か考えると、果てしなく…その形容が似合うくらいに、恐ろしいものだと思えてきて、話す気になれないのだ。かといって、コミニケーションを断っていると、次に話す度に、何も言えなくなる。
どうすれば良い?
こんな自分でも、無言よりか少し喋れたほうがいいのか?
もしそうでなかったら?リスクによっては、99%より1%の方が大きく見える。出る杭は、打たれる。ああ、行動できない。
これは、自己嫌悪だ。反省じゃない。辛いを理由に、これはやめようなんてメモすら書かず、行動など、していないんだ。甘え?そうだ。だからこそ辛いのだ。
どうにもならないことが、この世にはある。
恐らくこの先も人々は、ゴキブリを、殺すだろう。殺し続けるのだ。自分も、殺すがな。
でも自分は、ただ、暗い。だけなのだ。
何も、病気など患っていない。
だから下を見る。劣等感が故に、他者を虐げることでしか、有りどころを作れなくなる。そしてその、虐げるために作られた言葉は、無意識に同調を作り、堕落へと人間を落とす。
何か伸ばしたい。自分に出来ることはないか。午後8時にそう考えて、1時間位勉強して、投げ出す。ヒット&アウェイでは、殻など破れない。今を振り切り、投げ出した自分を素直に認め、努力する。分かっている。手段の理由も、明日を掴む手も、私は持っている。なのに、投げ出したのだ。
だるい。
皆んなが少し前にぶつかり、乗り越えた壁が今になって向かってきた。善は急げ。当たり前のことには、それなりに理由があることを、知った。
言葉は、恐ろしい。15年で唯一、誰にだって言えることは、それだけだった。極限まで周りを気にして言える言葉は、いつだって、ありきたりで、陳腐で、有象無象でしかなかった。
今日を皮切りに、私も変わろう。
この言葉に伴う責任を負いたくないから、自分はこうなった。
こんなに苦しいのに、たった3文字で、自分を形容できた。
いや、できてしまった、その、事実に打ち砕かれた。
無意識に求める否定は、いつしか自分さえも否定した。
そうやって、下を、下を見続ける。時間が経てば、その者も上から嘲笑の目をむけられるというのに。
何にせよ、この言葉の対義語も、この言葉も使わず、
人を分けずに、自分を諦めずに、生きることが、
自分の、第一歩だ。