後編
私たちが木立のあいだを抜け、斜面を下りていっても、それは消えなかった。
確かに、時代を飛び越えたような村が、そこにあった。
電線もなく、現代風のものは何もなく、それでいて生活感があり、井戸から汲み上げた桶の水も、手作業で美しく耕された畑も、明らかにその村が生きていることを示していた。
こんな山奥の村なら藁葺き屋根なのだろうという想像ははずれ、どの家も立派な銀色の瓦屋根だ。外壁も木で統一されていて、何か村全体が同じひとつの意思で支配されているように見えた。
どの家の軒先にも小さな日の丸の旗が揺れていた。
昔は国民の祝日にこうやって日の丸を掲げていたと聞くが、それのとおりの光景だった。ただ、今日はただの日曜日だ。10月10日の祝日は明日だ。
人の気配はなかった。私は怖かったので、敬輔の腕に掴まって歩いた。
「ワクワクすんな!」
敬輔が興奮した声をだす。
政明さんは緊張した顔つきで、何も言わずに周囲を見回しながら歩いていた。
「こんにちはぁー!」
いきなり敬輔が辺りに響く大声をだしたので、私は震え上がってしまった。
「誰かいますかぁー!?」
クア、クア、クアと鳥がその声に驚いたように飛び去った。人が姿を現す様子はない。
「ほんとうにあったんだね……、旗日村」
私は恐る恐る、スマホを取り出しながら、言った。
「……すごい昔にタイムスリップした感じ」
そしてその景色を動画に収めようとして、息を飲んだ。
スマホの画面には林しか映っていなかった。家屋も、井戸も、畑も、液晶画面は村が存在していないことを語っている。
私が声をあげようとした時、一軒の家の陰から子供が駆け出してきた。
「おめでとう」
質素な着物姿の、それは可愛らしい八歳ぐらいの女の子だった。どこか現代の子供らしくない、昔風の綺麗な顔をしている。その子が私たちの前に立ち止まると、背伸びをしたり戻ったりを繰り返しながら、踊るように繰り返すのだった。
「おめでとう、おめでとう」
「あ……、ありがとう」
つられたように敬輔が言った。
「あの……。ここは『旗日村』?」
女の子は笑顔で、犬が吠えるようにまた言った。
「おめでとう!」
私たちが顔を見合わせていると、どこかから誰かがクスクスと笑う声が、複数聞こえてきた。
家の陰から、木の陰から、少女たちがぞろぞろと姿を現した。みんなが昔風の質素な着物に身を包んでいて、髪型も顔つきもそれぞれ違うものの、どこか同じような雰囲気があった。年齢は八歳から十四歳ぐらいに見える。一人残らず可愛らしい少女たちだった。
私たちがオロオロしていると、その中から一人、美しい髪の長い少女が先に立って歩み寄ってきた。他の子たちは遠巻きに立ち止まって楽しそうに笑っている。
髪の長い少女は最初の子と並んで私たちの前に立つと、育ちのよさそうな調子で言った。
「おめでとうございます」
敬輔が畏まって頭を下げた。つられて政明さんも頭を下げる。「あの……」私は怖かったのに、思わず彼女に声をかけていた。話が通じないかもしれないと思ったが、少女は私の顔に視線を向けて、やわらかな笑顔で「はい」と答えてくれた。
私は自分が何を言いたかったのか忘れてしまい、口ごもってしまった。苦しまぎれのように、少女に質問をした。
「お名前は?」
「影倉チヨでございます」と、すぐに答えが返ってきた。
戦後まもなくのような風景の中で小さな日の丸の旗が揺れている。私はなぜだか彼女と握手がしてみたくなって、半ば隠れるように敬輔の後ろから、右手を前に差し出した。
くすくすと含み笑いをしながら、チヨが私の手を握った。その手には確かな感触があったが、ぬくもりはまったくなかった。悲鳴をあげて手を引っ込めた私には気づかないように敬輔が、少女に話しかけた。
「君たちは幽霊なの?」
ど直球の質問に、少女たちはおかしそうに笑いはじめた。
「うふ
「うふふ」
「くすくすくすくす」
影倉チヨが綺麗な笑顔を傾げ、言った。
「今日は旗日だからゆっくりしていってね」
「どう?」と小声で敬輔が私に聞いてくる。「この子らなら、幽霊でも怖くないよね」
いいや怖かった。確かに危害は加えてきそうにない可愛らしい子たちだったが、此の世のものではないことは間違いない。見た目がとても綺麗なので騙されそうになるが、どう見てもこの時代の子供ではない。精霊なのか、悪霊なのかは、わからないが。
それでも敬輔と政明さんの楽しそうな調子に流されて、私もそこから逃げ出そうという気にはならなかった。
私たちは東屋に設えられた長椅子に並んで座り、少女たちの接待を受けた。
セピア色をしたような木漏れ日が、東屋の外を照らし、そこからの心地よい風が私たちの頬をくすぐった。
「どうぞ」と言って温かい緑茶を差し出すと、チヨはふふふと笑いながら向こうへ駆けていった。
そのまま向こうで駆けっこをして遊んでいる少女たちの中に紛れ込む影倉チヨを見送りながら、政明さんが言った。
「ああ……。落ち着くなあ」
政明さんはもう湯呑を手に取り、緑茶を飲んでいた。青に白い水玉のレトロな湯呑だ。
敬輔はスマホで彼女たちを撮影しようとして、ごくりと生唾を呑み込むような顔をしている。私が隣から覗き込むと、やはりそこには何も映し出されてはいなかった。
「僕はずっとここにいたい」
政明さんがうっとりとした表情で言いだした。
「未来の見えない生活に疲れた。もう町には戻りたくないな。ずっとここで、あの少女たちと一緒に生きることにするよ」
そんな政明さんに敬輔が、すっと横からスマホ画面を見せる。政明さんは何もないスマホの画面の景色と賑やかに遊ぶ少女たちを交互に見ながら、くだらないことを見せられたように笑った。
「美しい夢でもいいよ、嘘でも。醜い真実に比べれば」
政明さんはそう言うと、湯呑の緑茶をおいしそうに飲み干した。私たちは緑茶に手をつけることもしなかった。
「素晴らしい景色だとは思わないかい?」
政明さんが家々の軒先で揺れている日の丸の旗に目を向ける。
「毎日が旗日でいいんだ。構わないんだ。劣等感や焦りなんて、ここでは感じなくていい。おまけにあの、可愛らしい少女たちがいてくれる。いつでも楽しそうな姿を見せて、退屈させないでいてくれる。ここへ来てよかったよ」
「あの……。僕たちは……いい加減なところで帰ります」
そう言って敬輔が私の顔を見た。私はうんうんと何度もうなずいて同意した。
「君たちもここで暮らさないのか?」
政明さんの爽やかな顔が少し怖くなる。
「一緒に暮らそう。せっかく見つけたんだぜ? 旗日村を」
「いや、僕ら、学校もあるんで……」
最初は政明さんと同じようにうっとりしていた敬輔も、スマホ画面に映らない彼女たちを見て気が変わったようだった。
「そうか。でも……」
政明さんが意地悪そうに笑った。
「果たしてここから出られるのかな?」
たたーっとこちらへ駆けてきたおかっぱの少女が私の前で立ち止まり、笑顔を消して、言った。
「おばさん」
「お……、おばさん?」
二十歳でおばさんと呼ばれるとは思わなかった私が愕然としていると、少女は鼻を小さく動かし、軽蔑するように言った。
「血の匂いがするよ」
一瞬、何のことだかわからなかったが、ああ、と声を漏らした。私は生理が重くないほうだが、それでも下着の中にはどろりとした血が染み出している。おそらくはそれのことだろうと思った。
少女たちが私の前に集まってきた。
口々に、憎むように同じことを言う。
「血の匂いがする」
「醜い血の匂いが」
「血の匂いが」
「血の! 血の!」
敬輔が庇うように私の前に出てくれた。少女たちの、笑顔を消した顔が、また口を揃えて違うことを言いはじめる。
「いらない」
「いらないから、出ていけ」
「出ていけ」
「醜い血の匂いはいらない」
「出ていけ! 出ていけ!」
「どっ……、どうやら出ていけるようですよ?」
敬輔が私を支えてくれながら、政明さんに言った。
「一緒に出ませんか?」
「僕はここにいる」
落ち着き払って政明さんが、お代わりのお茶をいただきながら、言った。
「ここでさらばだ」
私と敬輔はすぐに出ていくことにした。政明さんも気が済んだら戻ってくるだろうと信じて。
立ち上がり、東屋から追い出されるように出て、家と家のあいだの土の道を敬輔の腕に掴まり歩きながら、私は気づいてしまった。軒先に掲げられているものは、旗ではないという、そのことに。
なぜ今まで旗だと思っていたのだろう。それは白いふんどしのような布の真ん中に、赤い経血らしきものがついた、下着だった。
それが正しく下着に見えるようになった目で、振り向いて少女に囲まれる政明さんを見た私は、声をあげそうになってしまった。
政明さんを囲んでいる、少女だと思っていたものたちは、屍肉に身をまとった小さな骸骨の群れだった。
血はどこからも流れていないが、腐臭のしそうな体液が、うじゅうじゅと全身から滴っている。
顔をそむけた私を抱きかかえ、敬輔が元の世界へ導いてくれた。
村を出ると、あっという間に日が落ちた。
敬輔が荷物の中から懐中電灯を取り出して、スマホのGPSを頼りに私の手を引いて歩いた。
旅館に戻った頃にはもうとっぷりと日は暮れ、夜になっていた。
「お帰りなさいませ」
時計を見ると22時過ぎだった。迎えに出てきてくれた女将さんは私たちを見ながら、なぜか心配そうな顔をしていた。
「旗日村は見つかりましたか?」
敬輔が首を横に振った。私も自分の意思で同じように首を振る。何も示し合わせてはいなかった。
見つけたと言っても証拠になるような動画も何もなかった。それ以前に、このことは誰にも話さないほうがいいような気がした。
もしかしたらこの旅館に泊まった客の何人かが失踪しているのかもしれない、そんな予感は昨日の女将さんの様子を見た時から、してはいた。
きっとその人たちは、遊びでやって来た私たちとは違い、自分の人生を見つけにここへ来たのだと思えた。政明さんのように。
遊びで来た私たちが、彼らの人生の選択を邪魔してはいけない、そんな気がしていた。きっと、敬輔も、同じだった。
部屋に戻ると布団が敷いてあった。
私たちはとても疲れていて、すぐにそこへ潜り込んだ。私が生理中だということなど関係ないように、敬輔は襲いかかってくる気配もなく、向こうを向いて寝転んだ。
「影倉チヨ……」
敬輔が呟いた。
「帰ったら、この名前で調べてみような」
結局、その名前で調べても、忍者ハットリくんのネコぐらいしか出てこなかった。
あの辺りにかつて村があったなどという記述もどこにも見つからず、すべては謎のまま終わった。
しかし私の頭の中では、きっと敬輔の中でも、あの軒先に旗の揺れている光景が、いつまでも消えずに残っている。
いつか私たちは、あの村へと帰るのだろう。敬輔と別れることになろうと、一生連れ添うことになろうと関わりなく、いつか、あの毎日が旗日の平和な村へ、共に帰ることになるだろう。理由もなく、そんな気がしていた。