前編
「昔は国民の祝日を『旗日』と呼んだらしいよ」
唐突に敬輔がそんな話を始めたので、私はコーヒーカップを持ったまま、首を傾げて彼の顔を見た。
「旗日? どうして?」
その言葉の由来もよくわからなかったが、何より敬輔がどうしていきなりそんな話を始めたのかがわからなかった。
カフェにはお洒落な音楽が静かに流れていて、かわいい花や落ち着く観葉植物であふれ、どこにもそんな話を連想させるようなものはない。
「知らない? 戦時中とか戦後まもなくの写真とか、あと、昭和を舞台にした映画とかでさ、真由も見たことあるだろ?」
そう言われたら、なんとなく頭に浮かんだ。木造の家屋の軒先に、小さな日の丸の旗が何本も並んでいる光景が。
セピア色のその景色の中で、日の丸の赤だけがカラーになっているのを私はなぜか思い浮かべた。
「ああ……。うん、なんか、思い浮かんだ」
私はコーヒーカップをお皿に置いて、困った笑顔をしてみせる。
「でも、なんでいきなりそんな話?」
「『旗日村』って知ってる?」
「はたびむら?」
私はおうむ返しにそう言い、小さく首を横に振った。
「最近噂になってる都市伝説でさ。九州の山奥に、そんな異世界が存在するらしいんだよ」
敬輔が興奮して話しはじめる。
「その村では毎日、家の前に日の丸の旗が出ててさ、そして住んでる人たちも昔の人……つまり幽霊ばっかりなんだって。幽霊が安らかにスローライフを送ってる異世界なんだ」
「異世界なのね」
私はくすっと笑ってしまった。こういう話をする時の彼の子供みたいな喋り方がかわいくて。
「なぁ、今度の週末、連休だろ? 一緒に探しに行ってみない?」
「週末かぁ……」
正直、とても行きたい気持ちが前に出そうになりながら、気が引けていた。
ちょうどそのぐらいに生理が来る予定だったから。
それでもやっぱり彼と二人きりで旅行に行けるという誘惑には、勝てないのだった。
高速道路を約5時間走り、山道を1時間近く走ったところに、その日泊まる温泉旅館はあった。
山奥に相応しい、隠れ家みたいな小さな旅館で、明日の早朝から決行する予定の『異世界村探し』という非日常的なイベントにぴったりな雰囲気のロケーションだった。
「遠いところをよくいらっしゃいました」
中へ入ると50歳ぐらいの女将さんが出迎えてくれた。
建物に似合うような、昭和風の妖怪みたいな人を期待してしまっていたのだが、和服姿ということを除けば、ふつうに町で見るようなご婦人だった。
黒い板張りの廊下を歩いても、頼り甲斐のあるしっかりとした踏み心地で、スリルも情緒も特になかった。
「お客さん方も『旗日村』探しですか?」
女将さんは私たちを畳の部屋に案内すると、そう聞いた。
お茶をいただきながら敬輔が「ええ、まあ」と答えると、詳しい話を教えてくれた。
「あの噂が広まってから、泊まりに来てくださるお客さんが増えたんですよ。今日もお客さんたちの他にも5組いらしてます」
「ありゃ〜、そうですか。ライバルが5組も……」
私は女将さんに聞いてみた。「その噂って、どこから広まったんですか? 元々このあたりにあった噂?」
正直、意地悪な想像力で、この旅館が客寄せのために流した噂なんじゃないかという気が私はしていた。
すると女将さんが急に稲川淳二さんみたいな顔になって、冷気を纏ったみたいな声音で喋りだした。
「うちのおじいちゃんがね、そこへ行ったことがあるんですよ。健康のために山歩きをしてた時だったらしいんですけどね、ふと気がついたら知らない村の中に迷い込んでたんですって」
「そっ……、その話、ネットでチラッとだけ見ました」
敬輔が興味をそそられたらしく、話に食いついた。
「詳しく教えてくださいよ!」
女将さんの目がすわった。
薄く笑いを浮かべて私たちを脅かすように、交互に見ながら、
「あれは二年前の今ぐらいの頃でしたね。うちのおじいさんが山道を歩いていたら、急に道に迷ってしまったんですって。おかしいじゃないですか、毎日歩いてる道なのに、いきなり周りが見知らぬ景色に変わっただなんて言うんですよ。
それで『おかしいなー、おかしいなー』って言いながら、見覚えのある景色を探して歩いていたら、いつの間にか知らない村の中に入り込んでいたんですって。
そんなところに村なんてあるわけがないから、おじいさん、『こわいなー、やだなー』って言いながらも、建物を見て回ったんですって。
どの家の軒先にも、小さな日の丸の旗が掲げてあって、それが風もないのにヒラヒラ〜、ヒラヒラ〜って、揺れてたらしいですよ。
そうしてたら、村の住人が出てきて、歓迎してくれたんですって。みんな、それはそれは可愛らしい娘さんばかりで、おじいさんったら年甲斐もなくデレデレしちゃったそうですよ」
「可愛らしい娘!? 全員!?」
私は思わず声を上げ、敬輔の顔を睨んだ。
敬輔が慌てたように横を向いた。どうやら知っていたらしい。
なるほどそれが目当てだったのか。
「それで?」
敬輔は誤魔化すように話の続きを女将さんに促した。
「それでね」
女将さんがまたノリノリで語りだす。
「この世とも思えないほどの楽しいことを楽しんだんですって。詳しくはおじいさん、話さなかったんですけどね。
行方不明になってから二日目におじいさん、ひょっこり帰ってきたんですよ。どこに行ってたの? って聞いたら、旗日村というところに行ってたって。すごく楽しかったって。
それから三日目におじいさん、亡くなったんですけどね。いえ、もういい歳でしたし、心臓の病気を抱えてましたんで。最期に楽しい思いができて幸せだったって、笑顔で天国に行かれましたよ」
「そんなに楽しかったんですね」
敬輔がワクワクしているように言った。
「……で、他にも旗日村を見た人、いるんですよね?」
「ええ。見た方は何人かいらっしゃいますよ。竹藪の隙間からちらりと見えたとか、そんなような感じで。でも行ってみたら何もなかったみたいなのは」
「行った人の噂は聞きませんけど、誰も中には入れてないんですかね?」
「それですけどね」
女将さんの表情が少し曇った。
「……いえ、いらっしゃいません。どなたも、ウチのおじいさんの他には、どなたも辿り着けてないようですよ」
「よし! 俺らが探し出してやるぞ!」
張り切る敬輔の横で私は、女将さんが何かを隠したように見えて、言いしれない不安が胸の中に沸きはじめていた。
敬輔だけ大浴場に行って、私は部屋のシャワーで済ませた。生理は予定どおりに来ていて、温泉旅館の楽しみをひとつ私は味わえなかった。
敬輔の帰りを待ちながら窓辺の椅子に座り、夜の林を見ていると、何かが動いた気がした。体つきの細い少女のようなものが三人、木立の隙間からこちらを窺い、私に気づかれると背を向けて逃げだした。何しろ暗いのでよくわからなかったが、私にはそんなふうに見えた。
次の朝、必要なものだけを入れたリュックを背負い、二人で旅館を出ようとすると、山道の入口に男の人が立っていた。
「おはようございます」と、その人は笑顔で挨拶してきた。「あなた方も『旗日村探し』ですか? よければご一緒しませんか?」
三十歳代半ばぐらいの、爽やかな感じの人だった。高価そうなカメラを肩から下げている。
私たちは笑顔で同意した。正直私は敬輔と二人きりのほうがよかったけど、断る理由にはならなかったので。敬輔はじつはちょっと不安だったらしく、心から歓迎している感じだった。
「阿部政明といいます」
その人が自己紹介してぺこりと頭を下げた。
「高田敬輔です」
「折原真由です」
私たちも名乗ると、三人で山道へ入っていった。
秋の日はよく晴れていて、木立の隙間から射し込む太陽と涼しい風が心地よかった。
狭い道を並んで歩きながら、「どちらから来られたんですか?」と、政明さんが聞いてきた。
「鳥取県です」と敬輔が答える。
「大学生ですか?」
「ええ。二人とも」
「いいなあ。若い人は明るい未来に溢れていて」
「そんなことないですよ。今の時代、どっちかっていうと将来には不安しかないです。ところで失礼ですけど、見た感じ、ジャーナリストって感じするな。もしかしてここへは取材ですか?」
「いえ。単に暇なだけですよ」政明さんはそう言うと、照れくさそうに笑った。「仕事を失って、趣味の写真撮影がてら、噂につられて来てみたんです」
私も敬輔も黙り込んでしまった。
政明さんが続けて喋る。「毎日旗日みたいなやつなんですけどね、でもどうせなら、楽しく過ごしたいと思って、旗日村に行ってみたくなったんです」
私は軽く微笑んで、政明さんに言ってあげた。「見つかるといいですね」
私たちは女将さんから、おじいさんの山道歩きのコースを教えてもらっていた。誰もがきっとそれを歩いて探しただろうので、別の道を探したほうがいいとも思えたが、あてもなくカンで探すよりはそっちのほうがいいだろうと、とりあえずはみんなと同じようにおじいさんの散歩コースを辿った。
私は正直、旗日村があろうとなかろうとどうでもよかった。敬輔と二人で遠くのしらない山の中を秋の陽射しの中、散歩しているだけでよかった。ゲームの中のイベントみたいに旗日村を探し当てられればさらに楽しいかなとも思ったが、可愛らしい娘さんだらけのそんな村なら見つからないほうがいいとも思えた。
「おっ。アリスイだよ」
木の上を診ながら、政明さんが言った。
「もう南のほうまで下ってきているんだな」
「アリスイ?」
「アリスイ?」
私たちは声を揃えて聞いた。
「キツツキみたいな感じの渡り鳥さ。舌が長くてね、それでアリクイみたいに、穴にそれを突っ込んでアリを食べるんだよ」
「へぇ」
「へぇ、へぇ。お詳しいんですね」
感心したようにそう言いながら、私は『この人、邪魔だなあ』と思っていた。
三時間ぐらい歩き続けても、それは見つからなかった。私がくたびれた顔をすると、敬輔がそれを察してくれて、言った。
「ちょっと休憩しようか。あそこにシートを敷いてお弁当にしよう」
旅館が持たせてくれたお弁当を三人で並んで食べた。しいたけが味が濃くておいしかった。山菜ごはんも香りがよくて、何より外で食べるお弁当は最高だ。
ペットボトルのお茶をごくごくと飲んで、敬輔が言った。
「もう、おじいさんの山歩きコースは外れちゃったし、帰り道がわからなくなったら大変だから、少し戻ろうか」
政明さんが首を横に振る。「スマホのGPSはまだ届いてるし、大丈夫だよ。もし不安なら君たちだけ戻っていいよ。僕はまだこの先を探す」
私は敬輔に言った。「戻ろうよ」
「うーん……。そうだな」敬輔は少し考えてから、「じゃあ、ここから別行動にしましょうか」そう言いながら後ろを振り向いて、声をあげた。
「あっ!」
みんなで振り向いて、それを見た。
木立の隙間から、少し下りたところに、並んでいる瓦屋根が見えた。
それが秋の陽射しにキラキラと光を浮かべているのに、なぜかその景色はセピア色をしているように見える。
わずかに、家の軒先に揺れる小さな日の丸の旗が見えた。
「旗日村!」敬輔が声を震わせる。「見つけちゃったよ!」
私たちは急いでお弁当の残りを口に入れると、すぐには動けなかったので、並んでそれをしばらく眺めた。見ていないと消えてしまうものでもあるかのように、目を離さないよう気をつけながら、無言でそれを見つめ続けていた。
(続く)
柴野いずみ様よりいただいたお題『旗のでてくるホラー』作品です