【8】
久しぶりの再会から1週間が経過した平日の昼間、私は奥原先生が指定したレトロな雰囲気の喫茶店にいた。
「ごめん、遅くなった」
「いえ。5分も待っていませんから」
奥原先生はホットコーヒーを注文し、はぁっと息を吐いた。
「渡良井氏の部屋にあった、あの裸婦像」
「え?」
「過去の教え子にあまりに似ていて、愕然としたんだ。モデルは誰なんだ、作者は誰なんだと問い詰めたくなってしまうほど」
「それは…あの…」
「ああ。僕の勘違いだ。教え子が無理矢理ヌードモデルをやらされたんじゃないかって。渡良井氏が君を伴って部屋に入ってきた時は混乱した。自画像だってことくらい少し考えればわかるのに。動揺が過ぎたな」
そこへ白髪交じりの品のいい婦人がコーヒーを持ってきてくれた。
先生はありがとうと頭を下げる。
「奥原先生、私はもう中学生ではありません。もし裸になってモデルをしていたとしても、それは私の意思でしょう?」
私の言葉に、先生はハッとしたような顔をした。
「もちろんそうだね。でも、いつまでたっても僕の中で君たちはかわいい中学生のままなんだ。大事な教え子に変わりないんだよ」
私は必死で平静を装っていた。
先生が私のことを心配するあまり、あの絵の作者を呼び出そうとしていたとは。
奥原先生の真意に驚くと同時に、嬉しさが溢れて叫び出しそうだった。
「それで…君に頼んだ絵のことなんだけど」
「なんでもおっしゃってください。できる限り対応させていただきます」
「僕の店の外観を描き起こしてほしいんだ。できれば水彩画で。いいかな?」
依頼は風景画だった。
私の裸婦像は諦めたのだろう。
渡良井さんには譲ってほしいと言ったくせに、教え子本人には頼みにくいと見える。
つい意地の悪い感情が湧いてきて、私の舌の上に乗った。
「先生は…確か私たちが中学3年の時に結婚しましたよね。学生の時から付き合っていた彼女と」
「…そうだけど。それが何か?」
「今も結婚生活は続いているんですか?」
「もうすぐ15年になる。水晶婚式と言うらしい。この前、妻に教えられた」
「水晶はクリアで曇りのない信頼関係の象徴らしいですよ」
「へえ。やはり女性はそういうことに詳しいな」
「先生の水晶は曇ってますけど」
「どうしてそんなこと言うんだい?」
「先生は浮気したからですよ」
「うわ…き?」
「教え子を抱いたでしょう?」
「周防さん…なにを言ってるんだ?」
「成人式で樹里が私に教えてくれました。奥原先生と…Sexしてるって」
「嘘だ!」
先生が机に手をついて立ち上がり、ガチャンと激しい音をたてて、カップが倒れた。
ほとんど口をつけていなかったコーヒーが床に滴り落ちる。
「ああっ…」
私たちの様子に気づいたマスターと婦人がたくさんのおしぼりを持って飛んできた。
「大丈夫ですか?」
「すみません、こちらで拭きますから」
私はおしぼりを受け取った。
「そんな、お客様に拭いてもらっては…」
「いいんです。それより、カップは割れてないですか?」
「大丈夫ですよ。コーヒー淹れ直してきましょうね」
「ありがとうございます」
カップと汚れたおしぼりを持って、マスターたちは奥へ戻っていった。
小さなテーブルの下に潜り、床のコーヒーを拭きとっていた私の手を先生が掴んだ。
「僕は教え子とそんな関係になったりしないよ…周防さん」
先生の顔がすぐ近くに迫る。
私から決して目を離さない。
思わず頬がカッと熱くなる。
私は先生の手を振り払い、
「では、樹里が嘘をついていると?」
と聞きながら椅子に座り直した。
「君はどちらを信じるの?僕か樹里か」
先生も立ち上がり、椅子に座った。
真っ直ぐに私を見つめる目。
私は見つめ返すことができなくて、俯いて答えた。
「もちろん…先生を信じます」
「本当に?よかった…」
先生が微笑んだ。
後ろに婦人が現れ、淹れたてのコーヒーを先生の前に置いた。
「ありがとう。汚してしまってすみません」
「崇臣さんこそ、お洋服にかかりませんでしたか?」
「僕は大丈夫です。お気遣いありがとうございます」
婦人が戻った後、先生に尋ねた。
「奥原先生はこの店の常連なんですか?」
「元々は僕の父がね。幼い頃からよく連れてきてもらってたんだ」
「落ち着いた素敵なお店ですね。先生の画材店はここから近いんですか?」
「少し歩くけどね。散歩にはちょうどいい距離なんだ」
「では帰りに先生の画材店に寄ってみます。外観を確認しておかないと」
「そうだね。僕の絵は急がなくていいから。他にも頼まれてる方を優先してくれていいよ」
奥原先生はコーヒーをすべて飲み干し、伝票を手に取ると「先に行くね」と言った。
「もう行くんですか?」
「すまない、約束があるんだ。僕の店は地図アプリですぐわかると思うよ」
「先生、コーヒー代を…」
「ここは元教師として奢らせてくれ」
それだけ言うと、先生はさっさとレジへ行ってしまった。
私は残ったコーヒーを飲みながら、スマホで “okuhara画材店” をチェックしてみた。
画像に現れたのは古めかしい茶色いビル。
1階と2階が画材店らしい。
私は軽く口紅を直し、席を立った。
「ごちそうさまでした。コーヒー、美味しかったです」
マスターと婦人に声をかけた。
「ありがとうございました。お代はいただいてますからね」
「あの、奥原先生は毎日こちらにいらしてるんですか?」
「先生?もしかして、崇臣さんの教え子さんなの?」
「あ…そうなんです。中学の時、3年間美術の授業を受けていました」
「まああ、そうなのね」
「崇臣くんが自分の教え子を連れて店に来るのは初めてですよ」
マスターが顔をほころばせた。
「私が初めて?そうだったんですね。いつもは先生お1人で?」
「そうね。1人でフラッと立ち寄ることが多いかしら。たまにお店の従業員の方や奥さまを連れてくる時もあるけれど」
「私もまた来させてもらいますね。とっても素敵なお店なので」
「よろしければ次はチョコレートババロアを召し上がってみて。主人ご自慢の」
カウンターの向こうでマスターが「是非」と笑顔を返してくれた。
扉を開くと、カランコロンと心地良いベルの音。
ゆっくりと画材店まで歩き出す。
婦人は私がつい口にした『先生』という言葉から私が教え子だと気づいた。
「そうか…そうよね、変よね」
私も奥原先生の言葉尻を捕らえていた。
私が未だに『先生』と呼んでしまうように、先生も私を『周防さん』と呼んでいる。
奥原先生は中学校で勤めていた時、生徒を苗字にさん付けで呼んでくれる丁寧な人だった。
だからこそ、私は違和感を持たずにはいられなかった。
『君はどちらを信じるの?僕か樹里か』
“樹里” と呼び捨てられた元生徒の名前が、たまらなく卑猥なものに聞こえた。
「そこは “佐久間さん” じゃないの、先生」
道を挟んだ反対側からokuhara画材店を見つめ、スマホで写真を1枚撮ってからその場を離れた。