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白骨遺体の承認欲求  作者: 紙屋束実
8/48

【8】

久しぶりの再会から1週間が経過した平日の昼間、私は奥原先生が指定したレトロな雰囲気の喫茶店にいた。


「ごめん、遅くなった」

「いえ。5分も待っていませんから」


奥原先生はホットコーヒーを注文し、はぁっと息を吐いた。


「渡良井氏の部屋にあった、あの裸婦像」

「え?」

「過去の教え子にあまりに似ていて、愕然としたんだ。モデルは誰なんだ、作者は誰なんだと問い詰めたくなってしまうほど」

「それは…あの…」

「ああ。僕の勘違いだ。教え子が無理矢理ヌードモデルをやらされたんじゃないかって。渡良井氏が君を伴って部屋に入ってきた時は混乱した。自画像だってことくらい少し考えればわかるのに。動揺が過ぎたな」


そこへ白髪交じりの品のいい婦人がコーヒーを持ってきてくれた。

先生はありがとうと頭を下げる。


「奥原先生、私はもう中学生ではありません。もし裸になってモデルをしていたとしても、それは私の意思でしょう?」


私の言葉に、先生はハッとしたような顔をした。


「もちろんそうだね。でも、いつまでたっても僕の中で君たちはかわいい中学生のままなんだ。大事な教え子に変わりないんだよ」


私は必死で平静を装っていた。

先生が私のことを心配するあまり、あの絵の作者を呼び出そうとしていたとは。

奥原先生の真意に驚くと同時に、嬉しさが溢れて叫び出しそうだった。


「それで…君に頼んだ絵のことなんだけど」

「なんでもおっしゃってください。できる限り対応させていただきます」

「僕の店の外観を描き起こしてほしいんだ。できれば水彩画で。いいかな?」


依頼は風景画だった。

私の裸婦像は諦めたのだろう。

渡良井さんには譲ってほしいと言ったくせに、教え子本人には頼みにくいと見える。

つい意地の悪い感情が湧いてきて、私の舌の上に乗った。


「先生は…確か私たちが中学3年の時に結婚しましたよね。学生の時から付き合っていた彼女と」

「…そうだけど。それが何か?」

「今も結婚生活は続いているんですか?」

「もうすぐ15年になる。水晶婚式と言うらしい。この前、妻に教えられた」

「水晶はクリアで曇りのない信頼関係の象徴らしいですよ」

「へえ。やはり女性はそういうことに詳しいな」

「先生の水晶は曇ってますけど」

「どうしてそんなこと言うんだい?」

「先生は浮気したからですよ」

「うわ…き?」

「教え子を抱いたでしょう?」

「周防さん…なにを言ってるんだ?」

「成人式で樹里が私に教えてくれました。奥原先生と…Sexしてるって」

「嘘だ!」


先生が机に手をついて立ち上がり、ガチャンと激しい音をたてて、カップが倒れた。

ほとんど口をつけていなかったコーヒーが床に滴り落ちる。


「ああっ…」


私たちの様子に気づいたマスターと婦人がたくさんのおしぼりを持って飛んできた。


「大丈夫ですか?」

「すみません、こちらで拭きますから」


私はおしぼりを受け取った。


「そんな、お客様に拭いてもらっては…」

「いいんです。それより、カップは割れてないですか?」

「大丈夫ですよ。コーヒー淹れ直してきましょうね」

「ありがとうございます」


カップと汚れたおしぼりを持って、マスターたちは奥へ戻っていった。

小さなテーブルの下に潜り、床のコーヒーを拭きとっていた私の手を先生が掴んだ。


「僕は教え子とそんな関係になったりしないよ…周防さん」


先生の顔がすぐ近くに迫る。

私から決して目を離さない。

思わず頬がカッと熱くなる。

私は先生の手を振り払い、


「では、樹里が嘘をついていると?」


と聞きながら椅子に座り直した。


「君はどちらを信じるの?僕か樹里か」


先生も立ち上がり、椅子に座った。

真っ直ぐに私を見つめる目。

私は見つめ返すことができなくて、俯いて答えた。


「もちろん…先生を信じます」

「本当に?よかった…」


先生が微笑んだ。

後ろに婦人が現れ、淹れたてのコーヒーを先生の前に置いた。


「ありがとう。汚してしまってすみません」

「崇臣さんこそ、お洋服にかかりませんでしたか?」

「僕は大丈夫です。お気遣いありがとうございます」


婦人が戻った後、先生に尋ねた。


「奥原先生はこの店の常連なんですか?」

「元々は僕の父がね。幼い頃からよく連れてきてもらってたんだ」

「落ち着いた素敵なお店ですね。先生の画材店はここから近いんですか?」

「少し歩くけどね。散歩にはちょうどいい距離なんだ」

「では帰りに先生の画材店に寄ってみます。外観を確認しておかないと」

「そうだね。僕の絵は急がなくていいから。他にも頼まれてる方を優先してくれていいよ」


奥原先生はコーヒーをすべて飲み干し、伝票を手に取ると「先に行くね」と言った。


「もう行くんですか?」

「すまない、約束があるんだ。僕の店は地図アプリですぐわかると思うよ」

「先生、コーヒー代を…」

「ここは元教師として奢らせてくれ」


それだけ言うと、先生はさっさとレジへ行ってしまった。

私は残ったコーヒーを飲みながら、スマホで “okuhara画材店” をチェックしてみた。

画像に現れたのは古めかしい茶色いビル。

1階と2階が画材店らしい。

私は軽く口紅を直し、席を立った。


「ごちそうさまでした。コーヒー、美味しかったです」


マスターと婦人に声をかけた。


「ありがとうございました。お代はいただいてますからね」

「あの、奥原先生は毎日こちらにいらしてるんですか?」

「先生?もしかして、崇臣さんの教え子さんなの?」

「あ…そうなんです。中学の時、3年間美術の授業を受けていました」

「まああ、そうなのね」

「崇臣くんが自分の教え子を連れて店に来るのは初めてですよ」


マスターが顔をほころばせた。


「私が初めて?そうだったんですね。いつもは先生お1人で?」

「そうね。1人でフラッと立ち寄ることが多いかしら。たまにお店の従業員の方や奥さまを連れてくる時もあるけれど」

「私もまた来させてもらいますね。とっても素敵なお店なので」

「よろしければ次はチョコレートババロアを召し上がってみて。主人ご自慢の」


カウンターの向こうでマスターが「是非」と笑顔を返してくれた。

扉を開くと、カランコロンと心地良いベルの音。

ゆっくりと画材店まで歩き出す。

婦人は私がつい口にした『先生』という言葉から私が教え子だと気づいた。


「そうか…そうよね、変よね」


私も奥原先生の言葉尻を捕らえていた。

私が未だに『先生』と呼んでしまうように、先生も私を『周防さん』と呼んでいる。

奥原先生は中学校で勤めていた時、生徒を苗字にさん付けで呼んでくれる丁寧な人だった。

だからこそ、私は違和感を持たずにはいられなかった。


『君はどちらを信じるの?僕か樹里か』


“樹里” と呼び捨てられた元生徒の名前が、たまらなく卑猥なものに聞こえた。


「そこは “佐久間さん” じゃないの、先生」


道を挟んだ反対側からokuhara画材店を見つめ、スマホで写真を1枚撮ってからその場を離れた。

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