【4】
「きゃあーっ!」
後ろの席の女子が悲鳴をあげた。
樹里の皮膚を裂いたわけでもあるまいし。
大袈裟だ。
悲鳴を聞いて、すぐに奥原先生が私の席までやってきた。
クロッキー帳に突き刺さしたままのカッターナイフを見つめた先生は、左手でそれを引き抜き、
「なんだ…切っちゃったのか…よく描けてたのに」
と微笑んだ。
叱られる覚悟をしていた私は驚いて先生を見た。
樹里も奥原先生の言動が納得いかなかったのだろう。
「先生!この人、カッターなんか振り回して危ないですよ!注意してくださいよ!」
と訴えた。
「それはそうだね。周防さん、授業が終わったら美術準備室に寄って。カッターはそれまで預かっておくから」
奥原先生は私にそう言い、頭をポンポンとさわって教壇の方へ移動していった。
そこでチャイムが鳴ったため、奥原先生は
「はい、全員クロッキーを教壇に提出してから教室に戻ってねー」
と生徒に促し、授業は終わった。
ガヤガヤと全員が美術室を出て行く。
樹里は私の顔を睨みつけ、取り巻き連中に悪態をつきながら去って行った。
力いっぱい切り裂いた私のクロッキーは、裏表紙まで刃の後がついていた。
それを持って美術準備室へ入り、奥原先生にどうすればいいか尋ねた。
「それは提出して。代わりにこれをあげる」
新しいクロッキー帳を私に差し出した。
「毎年余分に注文するから余るんだ。だからあげる」
「先生…怒らないんですか?」
「自分が描いた絵をけなされたら頭にくるよね。周防さんの気持ち、わかるから」
そう言って、先生は私のカッターナイフを机の上に置いた。
「本当は佐久間さんの顔面を刺すつもりで刃物を出した。違う?」
「え…」
「今日は理性が君の殺意を抑えてくれた。でもね、人間の感情って複雑にみえて意外と単純で、怒りや憎しみ、嘆きに快楽。そのどれもが一瞬にして刃を突き立てる理由になりうるんだよ」
「快楽も…ですか?」
中学生らしからぬところに引っかかりを持った私を奥原先生は少し眩しそうな目で見つめた。
「そうだよ。一番危険な欲望だ」
真新しいクロッキーとカッターナイフを私に手渡し、先生は言った。
「君の理性は自分の欲求にブレーキをかけることができる。それを忘れないで」
20代の若い男性教師にさえも、13歳になったばかりの私の頭の中は丸見えなのだ…。
真っ直ぐに私を見る先生の目は、怖くもあったが、魅力的でもあった。
私は奥原先生の前で気を抜くことができなくなり、美術が一番の得意科目となった。
そうなると、余計に先生は私のことを可愛がってくれる。
狭い学校内という世界で、若くて背の高い奥原先生は女子生徒からモテた。
あの樹里も奥原先生に憧れていたらしい。
「奥原先生が周防を贔屓している」
などと言って鬱陶しく絡んできた。
樹里の嫌がらせは無視していたが、やっぱり美術室で切り刻んでおけばよかったなと何度か思った。
私は奥原先生に薦められるままに美術科のある高校を受験し、美大にまで進んだ。
奥原先生との出来事が私の将来を決めたのだ。
中学校を卒業してから5年。
私は成人式の行われる会場に立っていた。
出席したかったわけではない。
祖父母に「これも親孝行だから」と諭され、渋々ながら振袖を着て参加した。
「律加ちゃん久しぶり~来るとは思わなかったよ」
元学級委員のまつりが声をかけてきた。
よく見れば、懐かしい顔ぶれが並んでいる。
その中に、ド派手に盛られた頭と金ピカな着物に身を包んだキャバ嬢がいた。
「樹里の恰好、すごいよね。キャバクラで人気ナンバーワンらしいよ」
「え?あれ、樹里なの?」
冗談かと思うような恰好は、本物のキャバ嬢ならではだったらしい。
「樹里には天職ね」
私の言葉にまつりが笑った。
その時、樹里が私の方を見た。
「あ、いた!律加!」
昔の映画、『エルム街の悪夢』の主人公フレディみたいな長い付け爪だらけの手をプラプラさせ、近づいてくる樹里。
そして目の前に立ち、開口一番こう言った。
「ねえ、あんたさ、奥原先生と今も連絡とってるの?」