プロローグ〜嶌之樹村
それは大きな大きな樹だった。
どれくらい大きかったか?
その樹一本で人が住む島ほどの大きさだった。
それゆえ「嶌の樹」と呼ばれていた。
嶌と呼ばれてはいたが、周りに海は無かった。
強いていうなら樹の周りは広大な樹海だった。
一目では隙間を見つけられないほど樹の海が広がっていた。
嶌の樹から見える樹ではない世界。
北の彼方、万年雪を乗せた山並みの頂だけが小さく見える。
南西の方角には空との境界すれすれにぽつんと平地が見えた。
平地の向こうにキラキラと輝く水面も点ほどには見えた。
近くには嶌の樹と同じような大きさの樹は無かった。
とはいえ、周りの樹も随分と大きい。里の民が大樹と呼ぶくらいには十分大きい。
そのような樹々が面を成して並ぶ先に、ぽつんぽつんと嶌の樹に並ぶほどの大きさの樹が大樹の森から頭を出していた。
樹海に浮かぶ島のように。
嶌の樹の主幹は一本の幹ではない。
切り倒すのが困難なほどの太さの幹が何本も複雑に絡んで主幹になっていた。
それらの中には朽ちて中が空洞になったものもあった。
一方で若木のように詰まって、みずみずしい幹もあった。
主幹から陽光を求めて枝が張り出す。
外へ外へ伸びて、幾度も分枝した先、陽光の恩恵を得られるところで葉をつけていた。
葉はつややかだが、しなやか。大人の手のひらほどの大きさがある。
陽を受けて葉脈が透ける美しさは、見ていて飽きない。
嶌の樹は大きいゆえに風を受ける。
しかし、嶌の樹の葉擦れの音は驚くほど静かだった。
冬になれば樹海にも雪が降る。
樹海の樹々の中には雪が降る前に葉を落とし、しばしの休息に入る種がいくつもあった。もちろん、葉など落とさずにそのまま耐える種もたくさんあった。
嶌の樹は葉を落とさない種だった。
緑の葉の上に雪が人家の屋根ほどの高さに積もれば、すっぽり雪に埋まった小山のように見えた。
春の晴れた日、嶌の樹にはこどもの手のひらほどの大きさで薄緑色の花が咲く。
蕾が膨らみ始めてから開花し散り落ちるまでの間は、ほんの5日ほど。
日の出前、開花した瞬間に花が葉の外に吹き出して、嶌の樹は薄緑に染まる。
日没後暗くなると花は一斉に散る。月明かりの中、はらはらと花弁一枚一枚が樹海に舞い落ちる。そして翌朝にはまた緑の木に戻る。
どのようにして晴れの日が選べるのか、不思議でならない。けれども毎年同じ頃、必ず晴れた日に咲くように蕾がつき、育つ。
衣を変えたような開花の一瞬がなんとも美しく、また、月夜に散る様がなんとも儚く、樹の営みが不思議に感じられた。
夏の終わり、嶌の樹に実がなる。
赤ん坊の握り拳ほどの大きさで、芋のような歪な形をしている。表面はつやっとして薄茶色い。
実は緑の葉の内側に長く垂れ下がる。
だから外からはほとんどわからない。
内側から見れば移りゆく木漏れ日の光に輝やく、たくさんの装飾のようだ。
果肉はクリーム色で甘酸っぱい。
種の中の仁はほろ苦く、煎れば香ばしい。
すり潰すと、他のナッツよりサラサラと細かい粉末になった。
※ ※
嶌の樹の内側は、大きな多層のドーム状になっている
外壁は葉、階層は張り出した枝、主観が大黒柱だ。
樹海の上を絶え間なくふく風が葉を揺らし、陽光や雨水を程よくドームの中に導いてくれる。
そしてドーム状の内側には村がひとつあった。
この村の歴史は長い。
倉庫2棟にぎっしりと歴代の記録が残っているが、文字が伝わるもっと前から村は続いているという。
※ ※
村はドームの階層を大きく4層に分けていた
地面から樹海の高さまでは、光が薄く温度変化が少ない。
この層には倉庫や酵母作り、酒造りの工房。そして、材料が樹の外から運ばれてくる上に重たい、石工、金物作りの工房などがあった。
樹海の高さから上に民家の層がある。
主幹から出る大枝は人にとって街道のように太い。
さらにその上を長い年月にわたって民が歩いたからか、平らになっている。
樹皮は石畳のようだ。
大枝が分枝するたびに細くなり、小道ほどになる頃には隣の枝から広がった分枝とも重なって凹凸のある面のようになる。
凹凸の上に板を渡して平らなデッキを作る。
デッキの周囲はレイズドベッドを並べて灌木を植え、生垣を作る。
主幹からの進んできた道がデッキにつながる入り口に門を設けていた。
デッキは里で言う「敷地」。ここに家を建てる。
家の周り生垣までのデッキは庭。
ここにレイズドベッドを置き野菜やハーブ、草花を植える家も多い。
嶌の樹の木漏れ日や雨水の恩恵を有らん限り使うように、庭をしつらえる。
民家の上に公共の層がある。
このあたりまで登ると、樹の外周がかなり狭まる。
外周に沿って商店が並ぶ。
商店一軒一軒は画一化された同じ建物になっていて、格差はない。
村の商人はほとんどが職工で、自らが作ったものを売る。
道具、家具など大きなもの、生鮮食品、パン、加工肉、調味料など食品、衣類や寝具、石けんや雑貨、薬屋もある。
店を持たず自宅でものを作る職人は、同じ分野の商店に販売を依頼するか広場で定期的に行われる露店市で店を出す。
商店の内側に神殿と集会所がある
集会場は会合の場所。
村の運営は普段は村長と村役の合議で決めていくが、有事の際は全世帯が集まって合議する。村長・村役は期限ごとに成人村民周り持ちになっている。
神殿は祈りの場である
村の神は嶌の樹そのもので、暦に合わせ住民参加の祭事を神官が行う
また、神殿は学校でもある
村のこどもは概ね6歳ごろ親が認めて中人と呼ばれるようになると、4日に1日学校で読み書き、計算、村の外の社会のことを学ぶようになる。
同時に親からだけでなく、成人後の生業を見定めて各所の工房や商店などで見習いを始める。
中人は満15歳で成人となるまで続く
最上層は畑になっている。
この畑は村が管理していて、専門の農夫がここで作物の改良など研究を兼ねて作っている。
ここの農夫は税金で雇い、できた作物は万一のための保管分を除き、等しく村人に分配される
※ ※
村では雨や露、雪を貯水槽に溜めて生活用水にする。
煮炊きや飲み水は、嶌の樹の水の道から分けていただく。
枝の水の道まで穴を開けて樋を通し、蛇口をつけている。
嶌の樹と村人は水を分かち合って、一心同体になる。
水の道は樹が元気でなければ流れない。
人々は家周りの混み合った枝や病気の枝は払い、樹に害なす虫は取り除いて、樹の健康を守る。
そうやって、樹と村は依存しあっている。
樹が土台の土地となるこの村で、一番怖いものは火だ。
村では火を使う場所は石や煉瓦で囲い、燃え移らないように細心の注意を払う。
村人も生きるために火を使う。
どの家にも煮炊きするかまど、風呂を沸かすかまど、冬に暖をとる暖炉がある。
村では子守唄、寝物語の時から幼子に火の扱いを諭す。
同じく水の尊さもこんこんと語り継ぐ。
そして、手伝いをさせる。
怖がって囲ってばかりでは正しい使い方は身につかない。
中人になるまでに生きるすべの最低限を子に正しく伝え、我が子の保証人になることが親たるものの義務であり、村に対する責任でもある。
これこそがこの村に文字が伝わる前からの習わしでもあった。
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今、一軒の家の庭に一人のこどもがいる。
ほっそりとして四肢が長い。
ミルクでのばした茶のような色の肌が、色白の肌が圧倒的に多いこの村では目をひく。肩を超えて背中まで伸びたきらめく銀の髪を後ろでひとつに結いている。
大きなアーモンド型の目はやや上がり気味で子猫のよう。
その瞳は髪と合わせるかのように透けるような薄灰色をしている。
名はイリス。昨日、5歳になった。
風呂の水汲みを一人でできるし、かまどの火も起こせる。
湯なら沸かせる。時々分量を誤って叱られることもあるが茶だって淹れられる。
今は切り株の椅子に腰かけ、細い枝の先端を小さなナイフで丁寧に削っている。
足元に敷いた布に落ちた削りかすを、時々かき集めてマットの折りたたんだ部分に入れ込み、折り畳みを器用に足で踏んで削りかすが飛ばないようにしている。
時々、手を休めて、葉擦れで空いた空間から遠くを眺める。
「あっ!海!本物の海が光った!」
左手にはナイフ、右手には削っていた細い枝。
握りしめた両手で小さくガッツポーズをした。
彼女の視線の先には、どこまでも続く樹海の先の先、米粒ほどしか見えない平地と胡麻粒ほどにしか見えない海があった。