第一話 「これがわたし」
背の高さからするとわたしと同じ子供のように見えた。
しかしその少女の胸には子供としては不釣り合いなほど大きくて丸い膨らみが二つ、薄い衣を持ち上げるように張り出している。
腰はとても細く高い位置にあり白い布地に包まれた丸いお尻に向かって艶やかな曲線を描き、この子の身体が女であることを主張していた。
すらりと長く伸びた真っ白な手足には傷のひとつもなく、小さな手のひらから伸びた指も細くて長い。
黒く艶やかな髪は癖もなく真っ直ぐに背の中ほどまで伸びており、前髪は目にかからない程度で切り揃えられていた。
頭も小さく顔の真ん中にある鼻は低くて小さいけど、薄い桃色の小さな唇と相まって可愛らしさを強調していた。まるで物語に出てくるお姫様か妖精のような容姿である。
近くに寄って見れば細く整えられた眉毛に長い睫毛と二重の瞼。やや下がり気味の切れ長の目の中にある瞳の色は透き通った琥珀色をしていて、わたしはこの瞳の色をよく知っている。でも…
それが大きな鏡に映っているわたしの姿だった。
「これがわたし?」
コロコロと鈴を転がしたような愛らしい声に驚き、わたしが動きを止めると鏡に写っている少女の手も頬を摘んだまま止まった。
コンコンとドアを叩く音に、わたしの停止していた思考が再び動き出す。
「梨沙ちゃん、そろそろ起きる時間ですよ」
わたしを起こすママの声が廊下から届いた。
「はーい! もう起きてます」
わたしは反射的に返事をした。その瞬間、靄のかかっていた意識がだんだんとはっきりしてきます。そう、わたしの名前は悠木梨沙。なにを寝ぼけていたのかしら? 日本で生まれて10年と1ヶ月、物心がついてから毎日のように鏡を見ているのだから、自分の瞳の色に見覚えがあるのは当たり前なのに。
ぺちっと頬を叩いて得体の知れない違和感を眠気と一緒に追い出し、乱れていたベッドを整えてから脱いだまま床に放り出してあったネグリジェを持って、わたしは下着姿のままバスルームへ向かいました。
先に洗面所で歯を磨きトイレを済ませた後、脱衣所でショーツとナイトブラを脱いでネグリジェと一緒に洗濯カゴに入れてバスルームに入ります。
まずシャワーを壁の方に向けてからお湯を出します。間違ってもいきなり浴びる愚かな真似はしません。冷たい思いをするのは一回で十分だからです。
髪を濡らす前に軽くブラッシングをし髪についた埃を取ります。お湯が適温になったのを確かめてからシャワーを浴び、まずはお湯だけで軽く濯いでからシャンプーを使います。頭皮をマッサージするように揉み洗いし、決して爪を立ててはいけません。シャンプーを洗い流した後はトリートメントを髪に揉み込むように付けていきます。タオルを熱いお湯で絞って頭の上にまとめた髪を包み、トリートメントを髪に馴染ませている間に身体を洗います。
手のひらにボディーソープの泡を乗せて軽く撫でるように洗っていきます。タオルを使って洗うのは乙女の柔肌に傷がつくのでNGです。両腕から始まって首と頸、鎖骨のところや背中、たまに泡を追加しながら胸とお腹、足の指先から踵、脛から太ももへと身体の隅々まで。最後に腰とお尻を洗ったら一旦シャワーで泡を流します。
デリケートゾーンは石鹸を使っちゃダメとママに言われているのでシャワーを浴びながら指先で慎重に襞の間を擦ります。洗いすぎても良くないらしいので簡単に「んぁっ…」汚れを取ります。ん、変な声が出てしまいました。
洗顔フォームを手のひらに乗せ顔を洗います。この時もゴシゴシ擦ってはいません。泡を顔に塗るくらいがちょうど良い感じです。頭のタオルを外して洗顔フォームと一緒にトリートメントもシャワーで洗い落としました。
シャワーを止めて身体の水気を拭き取っているとバスルームの鏡にわたしの全身が映っていました。わたしは鏡に付いた水滴を手のひらで拭って自分の身体を眺めます。細くて真っ白な身体にゴムボールのように張りのある丸い乳房と産毛しか生えてない下腹部を見ていると、たまに不安になることがあります。身体つきは大人のようでありながら、大人の象徴とも言える毛が生えてこないし、初潮もまだ来ていません。わたしは今、子供でも大人でもない中途半端な存在で、世の中から仲間外れにされてしまったのではないかと。
1年くらい前から身体に変化が現れてきました。ただ細かっただけの身体から胸が少しずつ膨らみはじめ、お尻もだんだん丸くなってきました。その割に他の部分にはほとんど肉がつかないので筋肉はどこかに忘れてきたみたいです。
ママからの「胸が膨らんだら身体に合った下着を身に着けなさい」というアドバイスを受けて、下着を買うたびにランジェリーショップでサイズを測ってもらっていますが今ではCカップになりました。ただアンダーバストが65cmに届かないのでブラを着けてもゆったりした洋服を着ればそれほど目立ちません。しかし胸に大きな塊が二つ付いているのは事実なわけで、年相応の子供服が似合わないという子供らしい悩みがあります。ブラウスは大人用のSサイズが着られるのですが、逆にウェストは細すぎるので大人用のスカートだと大き過ぎるというアンバランスな身体をしています。街を歩けば好奇の眼差しを向けられることはいつものことでした。
身長は140cmちょうどなので背の高さで言えばクラスの中では真ん中くらいですが、わたしに似たような体型のクラスメイトは見当たりません。わたしよりふくよかで胸が大きい子なら何人かいるんですけどね。ちなみに体重はクラスの中でも軽い方です。
頭と身体にバスタオルを巻き付けたまま部屋に戻り、ドレッサーに座ってドライヤーを用意します。わたしのドライヤーは手に持つ部分と上に穴の空いた小さな筒しかついてないのに、驚くほど強力な温風が吹き出してきます。手ぐしで髪を持ち上げ根元の方から温風を当てて、少しずつ毛先の方へ向かってむらなく乾かしていきました。
チェストから洗濯済みの下着を取り出して身に着け、お店で教えられたように胸の形を整えてからキャミソールを着て靴下を選びます。もうすぐ連休が始まる季節ですが、窓の外は曇り空で気温も低そうなので、寒さが苦手なわたしは黒のタイツを選ぶことにしました。うちの学校では冬服は黒のハイソックスかタイツと決まりがあるのです。
タイツを履いてからクローゼットに掛かっている制服を取り出します。制服はワンピースとボレロの二つに分かれています。臙脂色のワンピースは襟なし丸首で膝丈の長さ。裾はドレーブになっていて、くるっと回ると裾が大きく広がります。袖口はクリーム色をしていて中心に臙脂色のラインが一本入っています。背中のファスナーを腰まで大きく開き、脚を入れ腕を通してから背中のファスナーを後ろ手で閉めていきます。
ボレロはワンピースと同じ臙脂色ですがセーラー服のような大きい襟がついていて、襟は袖口と同じようにクリーム色で臙脂色のラインが一本入っています。ボレロを羽織りクリーム色の三角タイを胸元で蝶々結びにして、襟の中に埋まっている後ろ髪を両手で掬い上げて外に出せば着付けは完成です。
もう一度ドレッサーの前に座って軽くメイクをします。と言っても化粧水と日焼け止めクリームを顔に塗って、リップグロスをちょんと唇に乗せるだけ。春とはいえ紫外線は乙女の大敵なので油断は禁物です。
髪全体にヘアミストを吹きかけブラッシングをします。毛先の方から少しずつ梳いていかないと髪がブラシに絡まって痛い思いをしたり髪にダメージを与える原因になるのでゆっくり丁寧に。最後に前髪を櫛で整えておしまい。
「よし、今日も可愛い」
鏡に映る自分ににっこり笑いながら言い聞かせます。わたしの身体的な悩みはともかく、世間的には『スタイルの良い美少女』であることを自覚しています。下地も整っているしそれなりの努力をしているので、誰からでも「綺麗だね」と言われたら「ありがとうございます」とお礼を返すようにしています。特にこの長い髪は幼い頃から手入れをしてきた自慢の髪なのだから。周りの人たちは「お人形さんみたい」「スタイルが良すぎ」「胸が大きくて羨ましい」「美人は得だ」と言いたいことを言っていますけど、美少女は美少女でそれなりの努力や苦労があることを解ってもらえればと思っています。
今日の授業に必要な物は昨夜のうちにランドセルに入れてあります。忘れ物はないか部屋を見渡し、ランドセルを持って部屋を出ます。使用済みのバスタオルを脱衣所の洗濯カゴに放り込んでリビングに向かいました。
「おはよう、ママ」
リビングと繋がっているキッチンに立っていたママにおはようの挨拶をします。
ママの顔はわたしにそっくりで身長はわたしよりも頭ひとつくらい高め。髪型もそんなに変わらないけどママの方がずっと長い。メイクもナチュラルなので一緒にお出かけすると姉妹にしか思われません。今でもママとお揃いコーデをやったりするし。30歳は過ぎてるはずなんだけどいつまで経っても若々しいなあと思います。
ひとつだけ違うところを挙げるなら胸がめちゃくちゃ大きい。わたしが年齢の割に大きいことは否定しませんが、わたしがブラをつけ始めた頃、ママのブラを確認したら「G65」って書いてありました。わたしがオレンジならママはメロンか? っていうくらい大きさが違います。幼い頃あの胸に抱かれて眠るとふわふわして気持ち良かったのを今でも覚えています。わたしの胸が早くから大きく育ったのは絶対にママのDNAがイタズラしているからだと確信しています。パパのDNAはどこに行っちゃったんでしょうね?
「おはよう梨沙ちゃん。今朝はどうするの?」
「ん〜、フルグラでいい」
わたしは冷蔵庫からリンゴ100%ジュースの入った大きな瓶を取り出し、お気に入りのコップに注いでからダイニングテーブルの指定席に座ります。と同時にママがフルグラと牛乳の入ったスープ用のカップとスプーンを出してくれました。
「ありがと、ママ」
わたしは「いただきます」を言ってから小さく開けた口でフルグラをもしゃもしゃと食べ始めます。わたしは食べるのが遅くかなりの少食です。子供用の一人前がいつも食べきれません。家族でレストランに行っても必ずと言っていいほど残すことになるので、シェフに申し訳ない気持ちでいっぱいになっていました。最近では最初から量を減らしてもらうように注文するようにしています。話を戻しますが、わたしの小さな胃袋は朝起きてすぐに食事をしようとしても受け付けてくれないのです。だからといって朝食を抜いてしまうと、学校に着く前に低血糖で貧血みたいな症状を起こしてしまうので、無理にでも胃に何かを詰めておかなければなりません。こんな食生活でよく立派に育ったなあと思ったりもします。
「あらあら、どうしたの? 具合でも悪い?」
黙々とフルグラを口に運ぶわたしの向かいの椅子に座ったママがのんびりした口調で訊ねてきました。問い詰めるとか本気で心配している様子ではなく、家族のコミュニケーションのような気軽さで。だからわたしも軽く首を横に振って答えました。
「そんなことないよ。ただ最近おかしな夢をよく見るの。わたしじゃない誰かになってて、どこか外国の田舎で暮らしてるような感じなんだけど… 細かいところは目が覚めると思い出せなくて… まあ怖い夢とかじゃないと思うよ」
「そう、それならいいんだけど。ぼーっとして事故に遭わないように気をつけるのよ」
「うん、大丈夫。気をつけます」
わたしもがにっこりと笑顔で答えるとママもにっこり笑顔で応えました。
態度には出さないように気をつけていたのだけど、さっき体験した『別人になったような違和感』にママも気づいたのかしら? ママはいつもニコニコしていてるので考えてることがよく判らないのです。わたしは平静を装ったまま食事を続けました。
フルグラの最後の一口を食べ終えると底に残った牛乳とリンゴジュースを口に流し込み立ち上がります。ママはわたしの適量をきちんと把握してくれているので無駄に残したりはしません。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
ランドセルを背負って玄関ホールにあるハンガーにぶら下がっている臙脂色のキャスケットを被り、黒革のローファーを履いて扉を開け一歩を踏み出しました。
これがわたし、悠木梨沙の毎朝の習慣であり、人生が一変する日の始まりでした。