第47話 アベコベと逆立ちについて聞いてみた
投稿がしばらく開いたので、久々に日月神示の話題に戻る。
日月神示の上つ巻 第三二帖には、
「神から見た世界の民と、人の見た世界の人とは、さっぱりアベコベであるから、間違わんようにしてくれよ」
という言葉がある。この状態を日月神示では『逆立ち』と呼び、最後となる月光の巻 第六二帖で、
「逆立ちしてそなた自身で苦しんでいること、早う得心して、うれしうれしで暮らして下されよ」
という言葉で神示を締めている。
今回は、そこで示された世の中にあるアベコベと逆立ちに関する話題である。
「守護神様。日月神示が言ってるアベコベと逆立ちですが、今の世の中の常識って、あまりにも理屈に合わなくなってきてるんですかね?」
『天界の神どころか、地上にいる神の目から見ても、かなり珍妙な時代になってるぞ』
「日月神示を読み始めた頃は、このアベコベの意味を単純に『日本の常識は世界の非常識』のことだと思ってたんですよね。でも、読み進めるうちに『さかさまの王』という言葉が出てきて、これは間違った民主主義──衆愚政治のことだと気づかされたのですが……」
『最初の解釈としては悪くないな。それよりも悪い民主主義が二〇一〇年代後半のアメリカで牙を剥き始めた。そして二〇二二年はきみにとって、この逆立ちの意味を多く気づかされる年となったな』
「マルチミームでしたね。とにかく日本は欧米に門戸を開いた頃から、どんどんおかしくなっていったと……」
『そこを元に戻したいのが日月神示の教えだと俺は思ってる』
「最初におかしくなったのは、神様や男女の関係ですね。日本には日本流の宗教があったのに、先進国は一神教という思い込みから天皇を現人神とする疑似一神教の国家神道をでっち上げました。それに日本は男女同格の国であったのに、開国した直後は『一流国になるには男尊女卑でなければならない』という、間違った理想像を持ってしまって……」
『神の世界から見たら西洋の宗教は小学校の算数で、日本の宗教は初歩ではあるが大学の高等数学ぐらいの違いがある。算数の足し算引き算レベルの認識で日本の宗教を「そんなの宗教じゃない」と否定してかかったおかげで、今の日本人の多くは「自分は無宗教です」と思い込まされている。本当の無宗教、無神論者は敬虔な信者を装いながらも神など信じてないから、宗教施設や祀っていたものを平気で壊すことができるんだ。本当に神の存在を信じていたら、それが異教徒や異端者の祀っていたものでも恐れ多くて、おいそれと手を出せないはずなのにな』
「それ、宗教原理主義者も……ですか?」
『その通りだ。宗教原理主義者も共産主義者も、頭から神を信じてないから横暴な振る舞いができるんだ。原理主義者は聖典に書かれてあることを一字一句文字通りに信じる人たちじゃない。自分たちの解釈を否定する者を許さないという人たちだ。キリスト教がおかしくなったのは、西暦五五三年に行われた第二回コンスタンティノポリス宗教会議からだ。この時に聖書には神々と書かれてあってもキリスト教は一神教だとか、輪廻転生を否定するとか、唯一神のいる地球こそが宇宙の中心だから地動説を認めないとか、いろいろ始まったんだ。天の神はそれを嘆いて、すぐあとにイスラム教を下ろしている』
「え? イスラム教も一神教ですよ?」
『それは近世になって広まった原理主義のイスラム教だ。元々のイスラム教は日本神道に似てるぞ。天使は天津神、精霊ジンは国津神。砂漠の国で広がった宗教だから、砂漠で生きるための知恵が禁忌として教えに入り込んではいるが、水で体を清めるとか、異教の神々や異教徒にも寛容であるとか、魂の生まれ代わりを信じてるとか、かなりの部分が日本神道に似ている』
「それは本当ですか?」
『本当も何も、幕末から明治時代にかけて日本に来た、イスラム教の宣教師たちの振る舞いが良い例だ。西欧の列強はどこもキリスト教国だ。それに対抗するために、彼らはアジアをイスラム教でまとめようと日本にもやってきた。そこで彼らが目にした日本は宗教的なタブーがないだけで、イスラム教の理想を実現した世の中だ。今でこそ原理主義に染まっているが、当時の世俗イスラムにとっては日本神道の宗教観は自分たちに似てると感じた。だから「日本はすでにイスラム教の理想を実現してる。わざわざ布教しなくても、自然とイスラム教が浸透するだろう」と思って帰っていったほどだ。まさかその数十年後には、自分たちの方がガチガチの原理主義に染まって変質していくとは思ってもみなかっただろうがな。きみも生まれ変わりの資料を調べる中で、古いイスラム世界の体験談が、妙に多いと感じていただろう?』
「そういえば、そう……ですね」
『その研究はイスラム世界で、まだ生まれ変わりが信じられていた時代のものだ。だから信者たちも生まれ変わりを信じて周りに話していたために体験談が集まり、研究がよく進んでいた。今は原理主義に支配されて、キリスト教と同じように生まれ変わりを認めてないがな』
「ところで、今回は宗教の話でしたっけ?」
『いや、アベコベの話だったな。やはり最大の問題は数の暴力となった戦後民主主義だ』
「民主主義は間違ってるんですか?」
『間違ってるのは民主主義じゃない。多数派の意見を正しいと思うようになったことが大間違いなんだ』
「じゃあ、少数意見の尊重と言って、そっちの意見を認めるんですか?」
『それは意味が違う。少数意見の尊重は、多数派が数に物を言わせて少数派の声や存在を無視するなという意味だ。それと多数派の意見を正しいと思うなというのは、まったく別の事情だ』
「多数派の意見は、いわば世の中の常識ですよ?」
『まずは、その常識を疑うんだ。なんせ大衆ってヤツは高学歴になるほど、どういうわけかネガティブな問題になるほど物事を正しく見られなくなる不思議な振る舞いをするんだからな』
「ん? それは高学歴になるほど答えを間違うってことですか? ちゃんと勉強してるのに?」
『その勉強というか、学校で教える内容に問題があるんだ。教科書に載る知識は、どうしても世の中の変化から一〇年は遅れる。しかも教える時のレベルに合わせるために、物事を単純化している。そこに間違いが入り込みやすいんだ。そのため進級するたびに前に習った知識を捨てて学び直さなくちゃならんし、そこで挫折する人が出てくる。そして専門教育まで進んだ分野以外の知識は、最後に教科書で習ったもののまま世の中を見るのが、学校システムの抱える負の側面だ』
「知識の単純化は算数や数学が良い例ですね。最初の計算は整数だけで、割り算は小数点以下を出さずに余りとしておく。でも、学年が進むと小数点以下や分数が出てきて余りは要らなくなる。それでも算数のうちはマイナスを間違いとするけど、数学になるとマイナスも認められる。高校の数学になるとマイナスの平方根としての虚数が出てくる。それが平面をあらわす二次元の複素数へと拡張されて、大学の高等数学になると四次元の四元数や八次元の八元数などが出てくる。本来の電磁気学では現象を四元数で表してるけど、なぜか今の電磁気学は三次元ベクトルで書き直しているために、エネルギーが湧き出してくるフリーエネルギーの存在に、ニコラ・テスラを最後に研究した学者がいない……ような?」
『最後のは知らん! が、まあ、そんな感じだ。しかも社会人になってから本などを読んで、漠然とでも正しい知識に学び直そうとする人は少ない。となれば日常的に直接触れることのない分野の知識は、イヤでも最後に習った教科書のままか、メディアからの情報に偏るんだ』
「メディアが問題になるのは、やっぱ偏向報道があるからですか?」
『いや、たとえ偏向報道がなくても、ただ情報を受け取るだけだと、ネガティブなものや迷信ばかりが目や耳に入ってくるんだ。そのため自分の専門でない分野の知識は、教科書から学んだ古く単純化された物の見方か、メディアからのネガティブ情報や世にはびこる迷信で上書きされたものへと変わっていく。下手すりゃ、時代遅れの偏見の塊か、反対に正常化バイアスがかかって別物のイメージを作り上げるかだ。それにメディアや学校教育は物事を広く浅く教えるため、ダニング・クルーガー効果という傲慢な無知を量産する問題もある』
「ダニング・クルーガー効果は物事をよく知らないのに知識だけはある人が、自分の知識や能力を過大評価する認知バイアス現象ですね」
『昨今のネット社会では、SNSで知ったふうに無責任なべき論や理想論を吹聴する輩が多い。そういうことを言い出すのは、ほとんどが高学歴の人たちだが、やつらはそれが現場にとって、どんなに迷惑かわかってないから問題だ。そんな知識や思い込みで、自分の専門でもない分野に出てきた問題に正しい答えを出せると思うか?』
「一人一人には無理でも、三人寄れば文殊の知恵で……」
『大衆は高学歴になるほど、答えを間違うと言っただろう。三択問題にするとチンパンジーや無学な人は答えがわからないから、デタラメに答えて正解率は三分の一に近くなる。ところが高等教育を受けた人ほど専門分野以外の問題には、間違ったイメージで答えを出す傾向があるんだ。今の大衆は三択問題にすると平均七%ちょっとの正解率しか出せない。大学進学率の高い国になると、五%を切るところもあるんだ。これで三人寄れば文殊の知恵が出てくると思うか?』
「それは無理そう……ですね」
『このあたりの話は、きみにはダウジングではなく、日常的な審神者──図書館でのヒントで情報を与えてあったはずだぞ』
「あ、『ファクトフルネス』の本……。図書館で最新のAI技術の情報を仕入れようとした時に、棚にポツンと置かれてて……」
『それを読んだ時に思わなかったか?』
「本では社会問題を扱ってましたけど、私は専門家と一般人の持つイメージの乖離という部分で、理系と文系の間にある大きな科学イメージの違いを思い出してましたね。どこの出版社とは言いませんけど、すごく口汚い校閲者がいて、自分の科学知識の方が怪しいのに勝手に私の書いたことを間違いと決めつけて『小学校からやり直せ』と罵ってきた時にはホントに呆れました。校閲をやってるのだから自分の知識量には相当な自信があるのでしょうけど、あの人のおかげで『科学オンチになった文系は、科学現象とか大自然の姿とかをこういうふうに思い込んでるんだ』と思い知らされたというか……。物語の企画を出す時でも編集者は文系なので、頭から理系ネタを却下すると言うか、まったく違うイメージに受け取ってダメ出しされると言うか……」
『まさに、それが専門家ではない一般人の意見や物の見方だ。専門家でない人は確実に間違ったイメージに引きづられて判断を誤る。だから民主主義では判断をその道の専門家に任せる意味での「少数意見の尊重」が重要だ。それを直接民主主義だ、多数意見の反映だと数の論理で押し切るから、世の中がどんどん間違った方向へと流れていく』
「『市民感覚』と言えば聞こえは良いですけど、世の中が高学歴になるほど確実に間違うとしたら、今の民主主義はあまりにもアベコベすぎますね」
『その通りだ。だから選挙というのは、正しく判断してくれる政治家や専門家を選ぶものでなければならん。それなのに政党を選ぶ数合わせのパワーゲームになってるのが、なんとも嘆かわしい……』
「日本が開国後におかしくなったものとして、今の男女関係もおかしいですかね?」
『おかしいぞ。中でもフェミニズムや性的マイノリティの擁護論。あれはマトモな人間の思考じゃない。というより西洋人の考える平等や公平という考え方が歪みすぎてる』
「そんなにおかしいですか?」
『おかしいぞ。平等に扱うためにカテゴリーごとの人口比に合わせて定員を設けるなんて考え方は、愚かしいにもほどがある』
「定員制のどこに問題があるんですか?」
『目先の「多様性を保証する」という平等のために公正さを捨ててるからだ。これはありえない極端な話だが、陸上の一〇〇m決勝に人種枠や性別枠という定員が設けられた場合を考えてみろ。世界大会の決勝に出られるのは八人だ。定員は人口比でも、各カテゴリーから最低一人は出場できる。ここで人種を白人、黒人、黄色人種、オーストラロイドの四つと、それぞれの男女で枠を決めたら、決勝に出られる八人は人口比とは無関係に各枠一人ずつになる。この決勝で一位になった人は、文句なく優勝者でいいだろう。だが、問題は二位以下だ。決勝の二位は本当に二位にふさわしいと思うか?』
「そもそも男女には体格差がありますから、それを定員を作って一緒に競争するのは変です。それに人種で出場枠を決めるのも変ですよね。短距離走では黒人選手が強いイメージがありますので、決勝に残れなかった黒人選手の中に、決勝で二位だった選手よりも速い選手が何人いるか……」
『まさに、西洋人の考える平等の問題はそこだ。そんなことをしたら当然、自分たちの枠を得ようと存在しない少数民族を騙ったりカテゴリーをでっち上げたりする者たちが出てくる』
「一九九〇年代以降に増えた民族独立や二〇一〇年以降に出てきた少数民族問題ですね」
捏造された少数民族で代表的なものといえばウポポイやロヒンギャだ。
「男女問題の話に戻したら、LGBTを訴えるジェンダー問題も似てますね。最近は後ろにQとか+がくっついて、更にIとかAとかEとかPなんかをくっつける人たちまで出てきて……。これも自分たちの特権枠を手に入れようと……」
著者としてはLGTまでは理解できるけど、それ以外はどうなのだろうか……。
『それに対して日本はきみも最初の方で語ってたように、明治時代までは男女同格の世の中だった。たとえば大学を作る時に、まずは男女別の定員を設けずに純粋に学力だけで受験競争してもらう。その結果、女が誰一人合格できなかったので、取り敢えず女子大を作って女も高等教育を受けられるようにした。中等教育でも旧制中学ではレベルが高すぎて女子の入学者が少なかったので、女が学歴で不利にならないように女学校を作ったんだ。こういうことをした国は、日本以外には存在しないぞ』
「定員を設けると、何が問題になるんですか?」
『簡単に言えば学内で対等な競争ができなくなる。無理やり男女同数にした場合、偏差値六〇よりも高い学校では先に男が定員に達してしまうため、女の方が低い学力で合格できてしまう。それでは落とされた男が不満に思うだろうし、数合わせで入学できた女の方もずっと学力の底辺にいてはやる気が出ないだろう』
「最初は底辺にいても、努力次第で上に行けると思いますが……」
『それは理屈だ。数合わせの女は本来の最底ラインよりも下からのスタートだぞ。理屈では可能でも、周りも勉学に励んでるんだ。生半可な努力では上へは行けないぞ』
「言われてみると、そう……ですね。受験勉強で努力してきたのに、それでもオマケで滑り込んでるのですから、それ以上に努力しないと……」
『そういうことだ。家庭や地域の事情やそれまで学んできた教師との相性などで成績が悪かった場合もある。だが、そのような特殊な事情でもない限り、滅多にないことだと思った方が良い』
「反対に教育環境に恵まれて、学力に下駄を履いてる人は多いでしょうけど」
『この話は偏差値が六〇よりも下の学校だと、男の方が底辺に集まりやすい。だから学校に関しては男女別に限らずカテゴリーを分けて枠を設けるのは好ましくないな。それで漏れるのが問題なら、改めてそのカテゴリーを対象にした学校を用意すればいいだけだ』
「それが明治時代に生まれた女子大や女学校ですか」
それに対してアメリカでは男女だけでなく、ポリコレで人種や出身地域の枠まで設けられていて、学校だけでなく、スポーツ選手の養成でもかなり面倒なことになってるそうだ
『そもそも日本は男女同格の国であるから、世界でも日本ほど女が生き生きとしてる国はない。中国に残された古代日本の記録にも、そのことが驚きの目で書かれてたほどだ。一九五〇年代に始まったウーマンリブの勘違いよって、一九七〇年代までに法律や法解釈の改悪によって一度日本女性から人権が失われたことはあったが、一九九〇年代にはむしろ平等という意味では男女対等になっている。いや、悪平等になりすぎたから女が不利になっている』
「フェミニストたちが『男社会に問題がある』と言ってることですかね?」
『そこがとんでもない幻想だ。日本は男女同格の国だ。だから世の中に出ても、まずは男女関係なく能力だけで競争してもらう。ただ、それではトップエリートは、イヤでも男が多くなる。それを勝手に男社会と呼んでるだけだ。そして女が活躍できる場所を別に用意したのが戦前までの日本だ。そういう場所や仕組みをウーマンリブが平等じゃないからと壊して、女が活躍する機会や守っていた仕組みまで完全に奪ったんだ。そこに高度経済成長による世の中の変化が重なった。社会システムを新しい世の中に作り変える時代だが、ウーマンリブのせいで新しい仕組みから女の存在が抜け落ちた。男女平等だから「分けるな」という圧力が働いたと言ってもいいだろう。その結果、一時的とはいえ日本から女の人権が消える異常事態を招いた。フェミニストたちは自分たちが招いたこの大失態をまったく反省してないどころか、認めてすらいないだろうがな』
「子供の頃の記憶ですが、母がすごく愚痴ってましたね。それまで輪姦すると首謀者はほぼ死刑確定だったのに、男女平等だからと暴行罪扱いで重くても懲役五年程度になったりとか、社会的な地位や立場を利用した性行為の強要もイッパツで死刑になってたのに、これも縛って強姦したのでなければ合法という法解釈に変わったんですよね。痴漢もたとえ現行犯で捕まえても、被害者が被害届を出してどのようにやられたのかを具体的に書いた調書作成まで付き合わないと有罪にできないなんていう、被害女性の心理的にとんでもなく高いハードルも作られたらしいですし……」
『あと、フェミニスト連中が言ってる「戦前の日本」というのは、朝鮮半島のことだ。本土の女性の扱いは、連中にとっては都合が悪いからな』
「敗戦までは日本に併合してたので、半島も戦前の日本には間違いありませんが……」
『ついでにいうと日本の多くの家庭では妻が家計の主導権を握ってることも、世のフェミニスト連中は認めたくないようだ。妻が主導権を持つ家の割り合いは七十数%。これは確率的に夫婦のどちらの管理能力が高いかの割り合いに近い。ある意味、日本では男女が対等である証拠だ。日本に次ぐのは、これもスペインに植民地にされるまで神の国の一つだったフィリピンだ。過半数を超えるのはこの二国だけで、三位のロシアとなると統計の取り方によって一〇%だったり二〇%だったり……』
世のフェミニストたちは、よほど日本の家計の話が嫌いなのだろうか。統計の取り方をいろいろといじって低くしようとしてるけど、もっとも低い統計でも日本は五四%だ。ただ、その統計では韓国が八割を超えて世界一、中国でも日本より高くなって「アジアは家計を女性に任せる文化」などと言ってるが、いったいどういう聞き方をしたのだろうか。
『国連が女性解放が進んでると言ってる北欧に至っては、妻が家計の主導権を持つ家庭は一〜二%しかない。それどころか女は自分が自由に使えるカネを手に入れようと、昔から外で働くのが当たり前だった。そして北欧では、それを夫が巻き上げないというだけだ』
「巻き上げるような国があるんですか?」
『どことは言わんが、ある。むしろ日本は女に巻き上げられる男が多い国と言ってもいい』
「どこかから苦情が出るような言い方、しないでください」
『女がDVされてる話はメディアが喜んで取り上げるのに、男の方が妻からDVされてる話は、問題にしないどころか「情けない話」としてネタや笑い話にしてるからな。このあたりのアベコベ具合も問題だ』
「それは……たしかに言われてみると……」
念のために補足すると、DVはドメスティック・バイオレンス──家庭内暴力のことである。
「性的マイノリティの方は、民主主義の在り方としてはどうなんでしょうか?」
『あれもマトモな人間の思考じゃないと言っただろ。あんなものに枠を設けるのは正気の沙汰じゃない』
「そこまで言い切りますか?」
『第三三話で語ったIQ一三〇以上の人が精神病扱いされてるのとは違って、LGBTは本当の精神障害だ。社会が乱れて不安が大きくなった時代に、そういう人たちが増えるというだけだ。為政者たちがマトモな政治をして、世の中から不安を小さくすれば自然と減っていく。存在を認めるのは構わんが、わざわざ枠を設けるのは大間違いだ。ゲイは男、レズは女、肉体の性がその人の性別だ。もちろん性転換したのなら新しい性の側として扱えばいい。ただし性転換しても元の性の体格や筋肉までは変えられないから、スポーツ選手になるのだけは禁止だぞ』
「そのあたりは実際、問題が出てますからねぇ」
「日月神示のいう『逆立ち』ですが、西洋的な考え方に問題があるんですかね? それとも戦後民主主義の間違いや、社会エリートのIQが低くなったことですかね?」
『エリートのIQが低くなった件は、そんなに気になるのか?』
「そりゃあ、知ってしまったら気になりますよ。今の日本では「IQ一三〇以上は精神病」と言って多くの高IQ者を厄介者扱いしたり、世の中から追い出したりした結果、IQ一一〇〜一二〇の人たちがもっとも高い学歴を手にして世の中を牛耳ってますからね」
『そこは自由資本主義の弊害だな。最初の世代こそ自由競争によってIQの高い人たちが社会のエリートになるが、その親の資産のおかげで子や孫が高い教育を受けられて次世代のエリートへと育っている。ところが子供のIQは世代ごとに平均へ戻っていくから、三代目にもなればエリートとしてのメッキも剥がれるってのが世の流れだ』
それこそが七十数年ごとに世の中が行き詰まるという法則である。
「高IQの人たち──頭が低い位置にあるから、逆立ちなんでしょうかね?」
『それは日月神示のいう「逆立ち」とは違うぞ。日月神示には「逆立ちは上手くなったが、そんなことは長く続かんぞ」と書かれてるだろ』
下つ巻 第一三帖にある言葉だ。
『日月神示のいう「逆立ち」は明治以降の日本人が、世の中の当たり前だと思って我慢してやり続けてることだ』
「そんなものがあるんですか? それも世の中の当たり前だと思って我慢してるって……」
『本音と建前だ』
「え? 社会に出たら、社会的な立場や役目として使い分けるのが当たり前じゃ……」
『それが常識になったのは明治以降だ。江戸時代までは多くの人たちが、自分の心に素直に、正直に生きてきた。自分に素直な生き方は周りから苦労があるように見えても、けっこう気が楽なものだ。百姓だって機械化されてない今よりも体力的には大変だが、自分が努力したらその分だけ実りが増えるのを実感ができるから意欲が湧く。農作物の生長は天気に左右されるが、そこは田んぼや畑ごとに品種を変えれば影響は少ない。ここも少しの知恵があれば乗り切れる』
「労働時間だけを考えると狩猟採集時代は一日二〜三時間、週一六時間に対して、農耕時代となると一日六時間、週三〇時間に増えたと言われます。だけど暮らしが安定したために仕事は夜明けから午前のうちに切り上げ、人使いの荒い地主の下でなければ小作農でも午後は趣味やお祭りで毎日楽しく暮らしてたという話もあるんですよねぇ。職人となるともっと長い時間働くとはいえ、自分の好きな仕事に没頭してるのだから、これもやり甲斐があってやることですし……」
戦後の左翼史観では悪いところばかりを都合よく切り取るけど、実際の歴史はけっこう違うんだよね。
『ところが明治以降になると多くの人が何かの枠にはめられて窮屈になり、生きるために自分の心を騙す人が増えた。自分を騙す人は、当然のように他人も騙す。そうでもしないと生きづらい世の中になってしまった。そこが最大のアベコベだ』
「農家や職人も……ですか?」
『西洋から入ってきた経済思想に巻き込まれたんだ。戦前はまだ農家や職人に自由度はあっても、西洋流の貨幣経済の中では自分の好きなように働けなくなっていく。本当の意味で労働がつらくなり始めたんだ』
「貨幣経済なら、江戸時代以前にもありましたけど……」
『もちろん江戸時代の貨幣経済も、株仲間や先物取引のように高度なものが営まれていた。だが、どんなに資産を持っていても使わなければ価値を失うのがマコトの経済だ。それが明治に入って利子経済に変わったんだ。こうなると資産は持ってるだけで価値を生む。俗にいう不労所得を生むようになった』
「利子が問題ですか? 昔からあったのに?」
『大昔からある利子は手数料のことだ。だが、西洋から入ってきた利子は定期金利だ。時間ごとに金利を取ることは、多くの宗教が禁じている最大のタブーとなってるが、それが日本にも入ってきたんだ』
「お金がお金を生む時代の始まりですね」
『それ以上に厄介なのが、生産者が自分で値段を決められなくなったことだ。かつては原価の三倍で売るのが商習慣だ。これは日本に限らず、多くの国で共通したものの考え方だ。ところが明治時代になると間に入った商売人の力が強くなり、価格決定権をすべて商売人が握るようになった。そのために商売人が儲かるように、買取価格や販売価格が原価とは無関係に勝手に決められるようになっていった。更に戦後になると、役人まで価格に口を出すようになった。それどころか法律や規制を作って品質や仕事の進め方にまで口を出してきた。しかもリスクは労働者に押しつけられるようになった。これでは働いても創意工夫しても儲かるのは自分じゃない。何のために働いてるのかわからなくなったんだ』
「そういえば普通に売れば数万円もするような高級和牛を、わずか数百円で売った悪徳チェーン企業がありましたね」
『畜産業界が何十年もかけて育てたブランドを、一企業がたった一回しかできない目先のキャンペーンのために破壊したんだ。そこにホンモノの和牛が使われたかどうかも問題だが、それによって実際には畜産業界は何十億円、何百億円という見えない損害をこうむってる。それがまかり通ってる世の中が問題だ』
「ひどい話ですね」
『しかも今の商売人ときたら、きみが気にするように低IQエリートが増えて知恵が回らないから、自由資本主義のキモである「神の見えざる手」が働かなくなってる。しかも身勝手なことに、まず自分の利益を取ってから仕事を進めていくのも問題だ。平成時代に入って不況が始まると、多くの経営者たちは売り上げが減った分だけ生産量を増やして以前通りの利益を稼ごうとした。売れてないのに生産量を増やしたら、そりゃあ価格が下る。それに消費者の需要にも限度がある。その結果、三倍作って売れた数は二〜三割増えただけ。大量に売れ残って処分するにも費用がかかる。その結果、労働者は三倍も働かされて給料が減る悪循環だ。でも、低IQエリートたちは最初に自分の利益だけは欲しいだけ確保してあるから、この問題をあまり大きく考えられない』
「ムチャクチャな時代ですよねぇ」
『またアニメ業界では、こんな話もある。世界的には日本アニメは人気だから、海外から三〇分に一〇億円以上出す企業が出てきている。だけど日本の出版社やスポンサー企業たちが出せるのは、せいぜい一本につき数百万円だ。その額で今まで通りに主導権や発言権を取るためには三〇分につき一千万円以下、例外的に出せても二千万円が上限になる。そこで製作委員会を作って、アニメ制作会社にその金額で作れと言ってるそうだ』
「お金の決め方が『価値』ではなく、自分たちの利益である『主導権』になってるのもアベコベですね」
『アニメも問題だが、こういう話は豆腐や納豆、モヤシなどでも起きてる。すべては商売人たちが、最初に自分の利益を考えて他に知恵を出さないという、道理とはアベコベなことをやってる結果だ。しかも立派な不正競争防止法違反なのに、国は取り締まる気がないし、被害者である市民たちも「世の中の仕組みは変えられないから、自分が変わるしかない」と自分を騙して本音と建前を使い分けてる。日本人が我慢強いのは美徳だが、そのせいで普通は一〇年も続かない異常事態を、三〇年以上……いや、ものによっては一五〇年も続けてるんだ。日本人はこれほどまでに異常で無意味な逆立ちを、いつまで続けるつもりなんだろうな?』
「第三九話で触れた『働くことで、かえって霊格を落とす』という時代になったのも、すべて『逆立ち』のせいですか?」
『その通りだ。だから、早く自分を苦しめてる「逆立ち」に気づいて、やめろと言いたいぞ』
「それがそろそろ終わって、大グレンが起こるんでしょうかね?」
『起こるぞ。当然、問題を起こしてる連中は地に落とされて這い上がれなくなる。身勝手な理由から他人に流れるはずの「おかげ」を搾取した上に、不当にこき使ってきたんだ。完全に信用を失っているからな』
「一人残らず地に落とされますかね?」
『そこまでは期待するな。何人かは松の代になっても反省せず、逆立ちをやめない人たちをカモにしてしぶとく生き残る。まあ、カモにされる連中も自分で選んだ生き方だ。こればかりは神々も手を出せん』
「そこは釈然としませんけど、因果応報な処罰はあるんですよね?」
『そこはどうだろうなあ? やってる連中の多くは宇宙のならず者だから、上の神々も目を光らせて「灰にしてやろう」と捕まえる努力はしてる。しかし、いかんせん数が多くて三分の一は取り逃がしてるらしいが、松の代になったらどうなるだろうか』
「好き勝手やって周りに迷惑をかけた報い、しっかりと受けて欲しいですね」
『それよりも、早く思い込んでる「逆立ち」をやめることだ。もちろん、きみも……な』
「………………ん?」




