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それはとても静かな声だった。
心の内に燃え上がった火は、音もなく全てを焼き尽くすような業火で、熱を感じない距離にいても怖くてたまらない、そう思わせるような微かな怒りがこもった声だった。
羊たちですら鳴くことを止めてしまっているかのように、静まり返った周囲の中で自分の心音がやけに大きく聞こえる。
「い、1日猶予をやる! 勝負は明後日!! 俺が勝ったらマリカは俺の嫁だ!!」
やっとの思いで声をだしたで有ろうラハラに対して、コウさんが冷笑を浮かべた。握る手に力がこもる。けれど決して痛いわけではない暖かさに勇気付けられる。
「潰す」
喚き立てるラハラに対し、鋭いナイフの様な一言だけ放ったコウさん。その空気感に圧倒されてラハラの顔がどんどん青白くなっていく。
再び訪れた沈黙を破ったのはパンパンと手を叩く音だった。
「半分以上集まってなにサボってんだい! さっさと仕事に戻って今日中に終わらせな!!」
母さんが、そこにいた。
コウさんのとは違う怒気に当てられて皆一目散に仕事しに逃げていく。ラハラも友人に引きずられていった。私は母さんの姿にほっとして、力が抜けて座り込んだ。
「中途半端に首突っ込みやがって……覚悟はあんのかい?」
母さんも怖い声でコウさんにそう聞いていた。もう何がなんだかわからない。ただ耳が会話を拾うだけだ。
「はい」
「腹ぁ括ってやりな、泣かせたら承知しないよ」
母さんの言葉にコウさんがとても綺麗なお辞儀をし、その後母さんはバシッと背中を叩いて仕事に戻った。
「マリカ!」
ぎゅっと小姉ちゃんに抱き付かれる。それだけで肩の力が抜けた。
「小姉ちゃん庇ってくれてありがとう。あのね、謝りたいこと沢山あるの」
私は勝手に被害者ぶって、嫉妬して、落ち込んで。
我ながら最低だ。
「私もだよ、多分姉ちゃん達も」
ぎゅっと力を込めて抱き締められた。小姉ちゃんも暖かい。
「じゃあ皆集まってからだね、姉ちゃん達嫌わないでくれるかなぁ?」
謝りたいことがある。勝手に壁を作って居たこと、助言を素直に聞き入れられなかった事、他にも色々。
「こっちのセリフだ、バカ」
ごつんと頭をぶつけられる。小姉ちゃんの頭突きは結構痛い。
「姉ちゃん達にも伝えてこなきゃだな。また後で」
今度は優しくおでこを当てて、コウさんの方を向き一言いい放った。
「後で面ぁ貸せ!!」
とだけ言い捨てて、ついでに背中を叩いて仕事に戻った。小姉ちゃんはたまに結構口が悪くなる。
「コウさん」
呼び掛けに、コウさんは目線を合わせるように膝を折った。
「勝手な事してゴメン」
頭に向けて伸ばされた手に、肩が跳ねた。
「あ」
「っごめん」
違う、コウさんに触られるのが怖いんじゃない。咄嗟に言葉が出なかったから、戻りかけていた手を取って頬を擦り付けた。今度はコウさんの肩が跳ねる。
「怖かったです」
見て来た世界が変わる様な気がして怖くなった。でもこの手は違う。髪の毛を引っ張る意地悪な人の手ではない。それから守るフリする人の手でもない。
「今も怖いです」
ピクッとコウさんの手が動いたが、無視して押さえる。暖かい手だ、これは作られた価値観では無く、ちゃんと自分の思いなのだと信じられた。
「私、あの人の物にはなりたくないです、あの人にこんな風に触られたくない」
恐る恐ると言った動きでコウさんの少しカサついた親指が私の頬を撫でる。心地よくて、続きを促す様に頬を擦り付けた。
「マリカの方が人たらしだよな」
「たらす人は選んでるつもり、です」
いつかの言葉をそっくりそのままお返しした。ちょっと困った様にコウさんがはにかんだ。
「俺で良いの?」
「コウさんがいいです。あなたは選択する権利を残してくれたから」
「分かった、殺る〈やる〉気で頑張る」
クスクスと笑ってしまった。死ぬ気と、言わない所がいかにもコウさんらしい。
「コウさんも良いんですか? 求婚するのが私で」
「権利を貰うだけだから、タイミングと場所は選ばせて貰う」
キリッと言い切ったその答えに、また笑ってしまう。結局、求婚してくれる事は変わらないらしい。
「お待ちしてますね」
なんて答えるのかはもう決まった。コウさんは客人だけど、名前も偽名だけど、会ったばかりだけど、それでも答えは決まっていた。この暖かい手を知ってしまったから。
「……絶対勝つ」
心からの笑顔でそう言ったのに何故かそっぽを向かれてそう言われた。うん? まあいいか。
「名残惜しいですがそろそろ仕事をしないと」
言ってからコウさんの手を放し、立ち上がろうとする。
「あ」
「どうした!?」
その時になって全然力が入らないことに気が付いた。
焦った様にコウさんが支えてくれる。でもごめんなさい、これはそこまで深刻なやつではない。
「腰が」
「腰が?」
「抜けてました」
「へ?」
「だから、腰が、抜けていました!」
聞き返されたので大きな声で返した。
コウさんはぽかんと口を空けてへなへなと座り込んだ。
「あー、びっくりした」
「私もビックリしましたよ」
「……もうちょっとサボる?」
「さんせいです」
結局日が暮れるまで二人でサボってしまったが、お咎めは無かった。




