宗教と画家
「次は~渋谷~、渋谷でぇ、ございます」
相変わらず人を小馬鹿にしたような声である。呆れるくらい山手線に乗っているので、慣れを通り越して飽きてきた。しかし、そんなことでブーイングを起こすようなくだらない男ではない。阿藤はそのくだらない精神は幼少期の黒歴史と共に封印した。卒業したとも言う。
阿藤は前の駅で長菜が降りるときに言っていた言葉をぐるぐる考えていた。長菜は「ほどほどにしなよ」と言っていた。が、「何を」ほどほどにするのか、阿藤には皆目見当もつかない。疚しいことはしていないので、見当のつけようがないとも言える。謂わば、清廉潔白。子どもじゃあるまいし、ありんこを殺して楽しむのに比肩するような趣味はもうない。
というか、封じたにも拘らず、ありんこ大虐殺のことをわりと気にしすぎているな、と阿藤は首を横に振った。あれはもう葬り去った過去の自分である。思い出す必要はない。
長菜と一駅分話したせいで、なんか変な感じになってしまった。ううむ。
そもそも、何故長菜の発言を気にしなければならないのか、という青天の霹靂に気づいて、阿藤はふと顔を上げた。
ばちり、と車窓から見えた人物と目が合う。何故かわからないが、他に人はたくさんいるのに、その人にすうっと目を惹き付けられた。
その人は言葉にするのが難しい「不思議」なオーラを放っていた。なんでだろう。芸術性を感じる? いや違うな。なんだろう。と考えているうちに扉が閉まった。その人物は入ってこなかった。乗るためにホームにいたのではないのか? と疑問に思って、ぷしゅーとドアが閉まった瞬間、自分の阿呆さ加減に気づき、阿藤はくしゃりと前髪を掻いた。
反対車線にいたのだ。入って来られるわけがない。入ってきたら、長菜以上の超人か馬鹿だ。
自分の初歩的なミスをした思考回路が恥ずかしくて堪らなくなり、阿藤は顔を隠すように俯いた。
そこには奇妙な紋様が相変わらずあった。ひどい顔をしているので、人に見られたくなく、阿藤はじっとその紋様を眺めることで気を紛らしていた。
そんなとき、ふとあるときのオファーを思い出す。
あれは、数年前。画家としての収入が安定してきたときのことだった。絵画関係のコメンテーターをしているという評論家から、握手を求められたことがある。評論家とは随分仰々しい肩書きだが、要するにうだつの上がらない絵画オタクだ。阿藤はそう認識していた。
一般人とさして変わらないであろうその人物を阿藤が覚えていたのは、変わったことを言われたからだ。
「阿藤先生、宗教画には興味がありますかな?」
「随分と藪から棒ですね」
「いえ、私、阿藤先生の絵柄は宗教画でこそその真価を発揮すると思っておりまして」
当時の会話はこんな感じだった気がする。
宗教画、と言われたのはそれが初めてだった。変わった捉え方をする人がいるもんだなぁ、と軽く片付けていた。宗教のしの字にも興味が抱けなかったからだ。
そもそも、美大を出たわけでもないそこいらの雑草みたいなやつが偶然花を咲かせただけという、画家を志し、夢破れた者たちから包丁で刺されても仕方のないようなやつが、宗教画なんて大層なものに携わるのが不遜だ。傲慢とも言える。それこそ、ありんこ大虐殺で人生の三分の一程度を楽しんで過ごした人物が、説法を説くなど、傲岸甚だしい。それならそこいらの子どもを育てている母親にお説教される方がだいぶましだと言える。
そんなわけで、宗教画のことは忘れていたわけだが。
「マニ車、ねえ……」
宗教関係の話をしたから、そんなことを思い出している。マニ車に描かれているマントラとは、確か絵だった気がする。それが山手線という、阿藤がよく乗る路線に存在するという。縁を感じない方が難しい。
別に、宗教画を描きたいわけじゃない。だが、これからも画家として生活していくのなら、浅く広くでも、ジャンルを踏襲すべきだろう。その一つが宗教画だ。
宗教といっても色々あるが。阿藤は信仰心が薄いので、興味を欠片も持ったことがない。
が、長菜にマニ車のことを詳しいと思われていた、ということは、やはり自分の絵は宗教色が強く、そういう方面に知識があると誤解されやすいということなのだろう。
阿藤は自由に絵を描かせてもらっているが、もう三十路だ。そろそろニーズに答えた絵というものを意識してみるのもいいかもしれない。案外、新たな客層にウケるかもしれない。すると阿藤の懐も温かくなるので、一石二鳥となる。悪くない考えだ。
ただ、宗教画はやはりないな、と思った。新たなジャンルを開拓したいのに、今までのタッチで描いてしまうのは悪手だろう。あの名前も覚えていない評論家の言葉はスルーして、新しい絵というのを考えてみよう。
列車がゆらりと揺れる。発進したようだ。阿藤はふと顔を上げた。
ばちり、とまた目が合った。先程と同じ人物。性別がよくわからない、おそらく同年代くらいの人物が、こちらに向かって微笑んでいる。ひらひらと小さく手を振っているように見えた。
自分のファンだろうか、とお気楽に考える阿藤だったが、何故だか鳥肌が立ちまくって仕方がない。背筋にぞくりと悪寒まで走る。
これは一体、どういうことだろう。あちらはただ微笑んで手を振っていただけだ。別に阿藤に対して振っていたとは限らない。同じ車両には何人か他に人もいる。
……いや、それは楽観的思考というものであろう。それなら何故二回もばっちり目が合ったのか。偶然にしてはできすぎている。ずっとこちらを凝視していたのだろうか。
ストーカー、という言葉が頭に浮かび、誰得だよ、と否定した。しかし、先程の長菜とのやりとりが蘇る。「俺得」とあっさり論破されてしまった件である。
え、何それ普通に怖いわ。
そう思った阿藤は次の駅で降りることを決意した。ストーカーは自意識過剰かもしれない。それでも、可能性は一つでも潰しておいた方がいいだろう。何より、阿藤は普遍的でつまらない男なので、自分の身がとっても大切なのである。
虫の知らせというやつは大概が当てにならないが、当たることがある可能性もなきにしもあらずだ。それなら、無難な道を選ぶのが妥当と言えよう。事実、悪寒が止まらないし、ちょっと吐き気も覚え始めた。体調が優れないのは周りに迷惑をかける。
今日はここまで。すっぱりと諦める。別に、「山手線で人間観察していないと生きていけないわあ」というレベルの趣味ではない。乗る日が多いが、乗らない日だってあるのは、前述した通りだ。
「降りるか」
誰にともなく宣言してみる。宗教のことを考えていたから、「言霊」というのを思い出したのだ。心の中で念じるよりも、口に出した方が効果があるという、ある種精神安定のような考え方である。
呟いたら、すっと体が楽になったような気がする。もしかしたら、山手線にある幻のマニ車の効果かもしれない。ありがたやありがたや。
「ぁ、次はぁー、原宿ぅー、原宿でぇ、ございまぁす」
いつもなら馬鹿にされているようで腹の立つアナウンスも今ばかりは救いの声に聞こえた。相当重症だ。
駅に停まると、阿藤は躊躇いなく、ドアからホームへと出た。
そこで待ち受けていたのは、とてもよく見知った顔だった。