マニ車
マニ車。それは列車オタクなら誰でも知っている伝説の車両である。
といっても、阿藤は列車オタクではないので詳しくは知らない。ただ、写真で見たとき、いつか生で見てみたい、と思った記憶がある。
マニ車の何がいいって、通常の列車より丸みを帯びたフォルムが最高に可愛いのだ。通常、鈍色のような無機質な色を放つ列車が身の回りには多いのだが、マニ車はクリーム色だったり、目に優しい色をしている。
ただ、そのフォルムの親和性は世間には認められず、いつしか走らなくなった。やはり、マニ車のようなデザインよりも実用性が重視される時代なのだ。嘆かわしいことである。
だが、阿藤は長菜が見せてきたメモに目を輝かせる。その伝説の車両(当社比)にお目にかかれるということか。しかもこの山手線を走ると。
「マニ車走るの!? 見たい。つか乗りたい!!」
「え、理画ちゃんって鉄道オタクだったっけ」
メモ用紙に物理的に食いつかんばかりの阿藤の反応に、長菜はドン引きである。
長菜は仕事で様々なところを旅し、列車に乗る機会も少なくなかったため、鉄道オタクには何人か知り合いがいる。あっちは長菜が列車の写真を撮っていると勘違いして、勝手に同志だと思っているようだが、長菜は旅に遺恨を残さず、その方々とはそれきり会っていない。
というのも、列車を前にした状態のオタクたちはどこで呼吸しているかわからないくらいのスピードでべらべらと喋るのだ。正直、長菜は鉄道オタクではないので、何を言っているかさっぱりわからない。だが、鉄道オタクは逃亡を許してくれない。
曰く「この美しく素晴らしい車両の魅力を写真に収めようという心がけは素晴らしいが、それは歴史などの外的知識で外堀を埋めることによってより輝きを放つ」らしい。長菜は列車を撮っているわけではないのだが、その大いなる誤解が解かれることはなく、必要もないのに三時間、ひどいときは五時間、現場に縫い止められた経験がある。
それから、鉄道オタクがめっきり苦手になってしまい、今も「いくら付き合いの長い理画ちゃんとはいえ、鉄道オタクなら距離置こうかな」とか考えている。
繰り返すが、阿藤は鉄道オタクではない。ただ単にマニ車という車両に魅了されただけの一般人である。ここに本物の鉄道オタクがいたら、ややこしいことになっていただろう。
「いや、マニ車には一度乗ってみたいな、と思っていただけだ。すまん、取り乱した」
「ヨカッター」
これで阿藤と縁を切らずに済む、と長菜は心の底から安堵する。長菜は社交的な方なのだが、ここまで長い付き合いの友人はおらず、交流は広く浅くを心がけている。それこそ、旅に遺恨を残さないために。
それでも、人並みに幼なじみの一人や二人くらいはいて欲しいもので、長菜の認識としては阿藤は最古参の幼なじみなのである。それを失うのは喜ばしいことではない。
まあ、阿藤は長菜の鉄道オタクへの苦手意識など知らないので、軽く「マニ車」という車両の話をする。まあ、ネットで齧った程度の話であるため、五分もかからず解説は終了する。
「なるほどねー。確かに既に走っていない車両ってなると憧れるのもわかるかなー」
話題だと思って後で調べてみることにしたのはさておき、長菜は告げる。
「ところがこれ『マニシャ』じゃなくて『マニグルマ』って読むんだよねぇ」
確かに、メモには「マニ車」とあるだけで、長菜は一言も「マニシャ」とは言っていない。完全なる阿藤の早とちりだ。消えたいくらい恥ずかしい。
そんな阿藤を長菜が宥める。
「まあまあ、あたしは理画ちゃんの知られざる一面を知れてよかったよ」
「それは誰得なんだ」
「俺得~」
ああ、何も言い返せない。完全に論破された。長菜には黒歴史も握られているので、阿藤はもう頭を上げられない。
「ところで、『マニグルマ』って何だ?」
「むむ? むしろこっちの方が理画ちゃん詳しいと思ったんだけど……まあ、説明するね」
マニ車というのは宗教的な道具の一つである。イメージとしては円筒状のものに持ち手がついている感じだ。側面にはマントラが描いてあり、それを一周ぐるりと回しただけで、お経を一通り読んだくらいの徳が積まれたことになるらしい。要するに、お手軽信仰道具というわけだ。
「という認識で合っているか?」
「間違ってはいないよ。ただ、補足するなら、マニ車は手持ち用のものだけじゃないんだよね。どこだかの国に行ったときに、あたし実物見たことあるから知ってるんだけど、こういうばかでかいのもあるみたいよ」
そう言って長菜が見せてくれたのは写真だ。さすがにバランスを崩しかけたので支えてやる。よくよく考えてみれば、長菜とはそこそこの付き合いなのだから、ちょっとやそっとのスキンシップで通報されることはないだろう。
どれどれ、と見せられた画面には、壁に棒で繋がれた独特な紋様が描かれているマニ車。描いてあるのはマントラだろう。注目すべきはその大きさだ。そのマニ車の前で有り難そうにマニ車を拝んでいる褐色の肌の人物がいるのだが、マニ車はその人物がすっぽり中に収まりそうなほどの大きさだった。おそらく、脇に伸びた棒をバウムクーヘンを焼くような要領で回して見るのだろう。
「まあ、これは極端な例だけどね。マニ車は大きさに決まりがないってわけ」
「だが、それを山手線で探せとはどういうことだ? 俺はわりと乗ってるが、見たことないぞ?」
「やっぱりそっかー、残念」
ここで何故長菜がスライディングまでしてこの列車に乗り込んだのかを阿藤は察した。
長菜とは仕事上でも付き合いがあるくらい阿藤と縁のある人物だ。数少ない、阿藤の「列車に乗って人間観察」の趣味を知る人物でもある。当然、阿藤が乗るのが山手線であることも知っていたわけだ。
それなら依頼された「山手線で撮影できるマニ車」について情報を持っているかもしれない、と一縷の希望を抱いて声をかけるのも頷ける。まあ、仕事してるならもう少し服装がなかったかというのは言わないでおいてやろう。さすがに可哀想だ。
というのも、なんでもそつなくこなしてしまう長菜が、他人の知識に頼るなんて、幽霊が生者に「やあ」と普通に挨拶をするくらいあり得ない事象である。明日は槍でも降るのか、と思うくらいの出来事だが、環状線でマニ車を探せという依頼の意味不明さから考えたら、まあ人に頼るくらい普通だろう。
ああ、この幼なじみも普通の人間なのだな、と阿藤は認識する。列車の引き起こす慣性の法則に抗って仁王立ちしたり、スカウトマンをストーカーと勘違いして叩きのめしたり、異様な光景ばかり見せられてきたから、こういう世間一般に添った反応を見るとなんだか安心する。恋でもしたかな。
……なんて冗談めいたことを考えて笑い飛ばす。自分が恋とかあり得なさすぎて笑うしかない。しかも長菜と? 女子力0ファッション女など、こちらから願い下げである。
「あ、理画ちゃん、今とっても失礼なこと考えたでしょ?」
「事実だ」
というか心を読まないでほしい。
「事実ってひどくない? 何考えてたの?」
「ファッションセンス皆無の女とは付き合いたくないな、と」
意外にも、長菜はむう、と押し黙る。自分のファッションセンスがミジンコよりひどい自覚があったのか、と驚く。
「まあ、無駄毛処理してない男と付き合いたくないって感覚と一緒ってことかね……」
的を射たことを言う辺りはさすがだ。だが一つ注意しておきたい。
「俺は無駄毛の処理を怠ったことはないぞ」
「そうねー。女子も羨むすべすべお肌よー。羨ましい」
そう言って阿藤が支えるのに肩に回した手にそっと手を重ねる長菜。阿藤ははっとして手を退かせた。
腰だと痴漢に見えるかもしれないので、肩に置いたのだが、お気に召さなかったようだ、と判断したのだ。
何故か長菜は唇を尖らせているが。ちょうど次の駅に到着した。特に用のない長菜は降りるようだ。
「理画ちゃんは降りないの?」
「一駅分お前と話したからな」
「あたしのせい!?」
ひどーい、とぐちぐち言うが、お馴染みの人を小馬鹿にしたアナウンスが流れると、何事か考え込むように俯き、それから阿藤を真っ直ぐ見つめ、一言。
「ほどほどにしなよ?」
「? ああ」
かなり適当に答えたが、これでよかったのだろうか。
最後の一言の真意がわからないまま、長菜の去った列車が発進していく。