1.9. 心を込めたおもてなし
結局、定時後に会社を抜け出して昨日のキャバクラに行くことになった。
表に出ると、陽は既にビルの向うに沈んで、薄暗くなりかけた街並みがその本領を発揮し始めていた。裏通りの細い道を足早に通り抜け、あの店へと続く道をたどれば、この街の夜を彩る主たちの姿がちらほらと見える。
店までの道はまだ記憶に新しかったので、迷うことなくその建物へとたどり着いた。
公園の脇に佇む雑居ビルの地下一階にその店はある。
そこで足を止めた。
ざっと周囲を見渡す。
スーツを着たサラリーマンがぽろぽろと道を行き交い、公園にはベンチに腰かけた人影が見える、そして建物の前では装飾の多い服装の女の人が手に持った紙片をペラペラさせながら辺りを見回していた。
特に何も怪しいところの無い、代わり映えの無い街並みだ。しかし、どこかに不審な物が無いか探してしまう。
「頼んだぞ、まり子」
あらかじめ、まり子に連絡を入れておいた。
昨日の店に行かなければならない事を伝え、もしも何かあったらフォローして貰えるよう依頼したのだ。ただ、その時には既に店と周囲一帯を調査済みだったらしく「特に危険は無さそうです」とのことで安心したのだが、いざ店の前まで来ると何となく怖い。
恐らく、あの店には入道相国の監視を遮った何かがあるのだ。例えまり子が「大丈夫だ」と言っても警戒するのは仕方ないだろう。
いっそバックレる事も考えたのだが、パーシャルさんの容態も気になるのだ。
その事だけが今の僕を後押ししていた。
パーシャルさんには毒舌ばかり浴びせられたので、ハッキリ言って良い感情は持っていないのだが、怨みがある訳でもない。
何となくだが、酷い事にでもなっていたら寝覚めが悪いのだ。多分僕は、パーシャルさんが無事だという事をこの目で見て安心したいのだろう。
そう、これは決してパーシャルさんの為ではなく、自分の為だ。
「ようこそ。タカムラさん」
何か聞き覚えのある声と喋り方に振り向けば、キャスケットを深被りした小柄な少年が……? いや、少女か? が立っていた。
パーシャルさんかと思いきや、それよりも小柄で、顔つきも少々あどけなく中学生位に見える。ダボっとした上着とズボンを着ているので体形はハッキリしないが大分華奢なようだ。
それにしても、顔つきはパーシャルさんによく似ている。
「ええと、パーシャルさんのご親類ですか?」
問いかけると、その子は目を細めて言った。
「まぁ、わからないもの無理はないと思いますが。本人です。私がパーシャルです」
「え?」
どう見てもパーシャルさんではない。ましてやスーパーパーシャルさんでもない。確かに顔つきはよく似ているが、背丈も何も違い過ぎる。
という事は、つまり。
「あ、妹さんですね」
「本人だと言っているでしょう。あなたの耳は腐っているのですか? もしくは、聞いた事が理解できない程おつむが残念なのですか? それとも」
そう言いながら彼女がキャスケットを取ると、紫色のショートカットがさらりと風に揺れた。
「その両方ですか?」
口が悪すぎる。
一体どういう教育をすればこうなるのだろう。パーシャルさんも大概だった訳だし、パーシャルさんの一族は全員こうなのだろうか。
「また変身したとか言うんじゃないでしょうね?」
ひとまずこの子は「リトルパーシャルさん」と呼ぼう。リトルという程小さくはないが、他に妥当な表現が思いつかない。それにしても、まさかの三姉妹……、いや、四人目が居る可能性もあるか。
今度「変身」を目にする機会があれば、そのタネを見破ってやりたいものだ。サングラスがあればいけるだろうか。
「そうです。物分かりが良いのは褒めてあげましょう」
リトルパーシャルさんは「ですが」と続けた。
その瞳に宿った銀河の輝きがグルグルと渦巻いている。なんだ、瞳って渦巻くものだっけ?
「本来であれば、あなたのような下等生物が私の変身を見るなど――」
「パーちゃん。ダメよ」
不意にかかった制止の声にリトルパーシャルさんは言葉を詰まらせた。
この声は、店長さんか。
「タカムラ様、お待ちしておりました。どうぞ、こちらへ」
-/-
店内に案内され、カウンター席に店長さんと並んで座った。店長さんの後ろにはそっぽを向いたリトルパーシャルさんが見える。
「こちらをどうぞ」
「ああ、どうもありがとうございます」
出されたおひやを一口流し込むと仄かな酸味が爽やかに口内へと広がり、冷たい塊となって喉の奥に流れ落ちた。
「レモン水ですか? サッパリしてて良いですね」
「え?」
なぜか店長さんは目を円くして僕とおひやを交互に見た。
「どうしました?」
「えっ? いえいえ、お口に合ったようで安心しました」
もう一口飲んでみたが、特に変なところはない。上品で清涼感のある素晴らしいおひやだ。
「うっかりしておりましたが、まだ肌寒いので温かい飲み物の方が良かったですね。すぐに用意します」
「いや、そこまでお気遣いいただかなくても……」
制止もむなしく、例のボーイさんがコーヒーを容れはじめた。それも恐らくは梅屋式の結構本格的な手順でだ。
梅屋式は、挽いたコーヒーの「蒸らし」に時間を置く点と、特有の金枠を使ってドリップするのが特徴だ。
梅屋式の手順を大まかに説明すると次のようになる。
金枠にドリップペーパーを取り付け、挽いたコーヒー豆を一人分入れて均し、満遍なくお湯をかける。この時、ドリップペーパーから滴る程度に湿らせた段階でお湯をとめ、蓋をして五分程蒸らす。
この時、うまく蒸らせた場合はコーヒー豆がふわりと膨らむ。
次に、ドリップポットから、極力細く静かにお湯を注いでいく。お湯がポタポタ雫にならないようにするのがコツだ。
そして、ある程度のコーヒーが抽出できたら好みの濃さになるようお湯で割り、しっかりと混ぜる。ちなみに、混ぜ方が足りないと水っぽい味になってしまう。
充分混ぜ終われば完成だ。
あとは適当に飲めばいい。
ボーイさんの容れ方も、僕が知っている方法とほぼ同じのようだ。
コーヒー豆を一人分使ってドリップするのはかなり難しいはずだが、慣れているようでサクサクと作業を進めている。
この人は喫茶店で働いていた経験でもあるのだろうか。ドリップポットに温度計までついているのが本気度を示していた。
寡黙に淡々と作業している様をぼんやり見ていると、程なくして深煎りされたコーヒー豆の香りが鼻先をくすぐり始める。
「おまたせしました」
純白のカップに八分目まで注がれた液体がソーサーに乗せられて差し出された。
「じゃあ失礼して、いただきますね」
断ってからカップを持ち上げて口もとに運ぶと、深煎りされたコーヒー豆の香りが一層強く感じられた。
そのまま一口含むと、暖かなコーヒーの苦みが舌の上を転がり、ほの甘い酸味が口の中一杯に弾けた。
これ程酸味に特徴のあるコーヒーは初めて飲んだかもしれない。個人的には酸味の少ない方が好みだが、たまには酸味が強いのも悪くない。
「結構酸味が強いですね。爽やかで飲みやすいです」
「えっ? ……ああ、良かったです。お供に団子でもいかがですか?」
「いいんですか? じゃあ遠慮なく」
白っぽい一口大の団子が二つ小皿に乗って出てきた。
コーヒーに団子というのも変な組み合わせだが、出されたものに文句は言うまい。
付いてきた楊枝で団子を口に運び、追いかけるようにコーヒーを飲む。こしあんの上品な甘みとコーヒーの組み合わせも思ったほど悪くない。
まったりと甘味とコーヒーを堪能したが、マテ、当初の目的を忘れている気がする。
「ところで、忘れ物を取りに来たのですが……」
「えっ? ああっ? そうでしたね」
なぜか真剣な表情でこちらを注視していた店長さんに声をかけると、思い出したかのように動き出し、ボーイさんに向けて「アレを持ってきてちょうだい」と指示を出した。
そして僕に向き直ると言葉を続けた。
「ああ、ええと。そうそう、そういえば、昨夜は相当飲んでらっしゃいましたが、大丈夫でしたか?」
昨夜か。
思えば、昨夜は随分なものを飲んでしまった。
結果的に平気だったとは言え、普通の人が飲んだら危ないだろう。
「まぁ、何とか大丈夫でした。ですが、あのお酒、クライシス=オー・アール・ゼットでしたっけ? あれはもう客に出さない方が良いと思いますよ」
当然、自分が改造人間でアルコールが効かない事については言えるはずもないので、お酒の話題を出して誤魔化す。
「ええ、はい、そうですね。もう出さないようにします」
対する店長さんは張り付いた様な笑顔で返答してくる。
これはまぁ、余計な事を言ってしまったのかもしれないが、客にエタノールを出すのはどうかと思うので後悔はない。
「それと、パーシャルさんも随分飲んでましたけど、大丈夫だったでしょうか?」
図らずも丁度切り出しやすい話の流れになったので、一番懸念していた事を尋ねると店長さんの動きが止まった。
「えっ?」
何故か店長さんは挙動不審だ。「えっ?」が多い。今ので何回目だろうか?
「タカムラさん。あなたの目は節」
「あああ! うちのパーシャルですか。ピンピンしてますよ!」
リトルパーシャルさんが何か言い掛けたのを店長さんが被せて遮った。
姉妹揃って口が悪いので店長さんも大変だろう。あれは客商売としては致命的だ。
「ああ、それは良かったです。あと、スーパ……パーシャルさんのお姉さんだと思うのですが、あちらの方も大丈夫でしょうか? あの時気絶していましたけど」
「えっ!? ええ、ああ、はいはい! 姉の方も元気ですよ!」
店長さんは返答しつつ、リトルパーシャルさんの口をヘッドロック気味に押さえつけている。
抑え込まれたリトルパーシャルさんはバタバタともがいているが、店長さんのホールドはかなりしっかり決まっているようでビクともしない。
こうして見ていると、店長さんは昨夜とはかなり雰囲気が違っている。昨夜は「やり手の店主」としての隔絶した空気を纏っていたような気がする。
対して、今は自然体と言うか親しみやすい感じだ。恐らく、営業中とそれ以外で切り替えているのだろう。
その後、間をおかずボーイさんが「忘れ物」を持ってきてくれた。
丁寧に紙袋に入れて渡されたのは、謎の小箱だった。よくあるボール紙で出来た包装用の箱なので、この中に僕の「忘れ物」とやらが入っているのだろう。
受け取ってすぐ体よく店から追い出されたので、その場で中身は確認できなかった。
と言うか、恐らくは「確認させなかった」のだろうけど。
-/-
「報告するまでもないだろうけどさ」
帰宅して、いつもの様にまり子に話しかける。
もう慣れてしまったのだが、知らない人が見れば実に奇異に映るだろう。
何しろ、客観的には独りで延々とぶつくさ喋っているようにしか見えないのだ。
入道相国の内部であれば、どこに居てもまり子に話しかけられるし、まり子の声はこちらに届く。
例によってどういう仕組みなのか謎だが、こちらの声は船内の各部に埋めこまれたセンサーで拾われており、まり子の声はこちらの鼓膜を直に振動させて伝えているとの事だ。
こちらの声を拾うセンサーは恐ろしく高感度らしく、口の中でボソッと呟いた内容まで把握されてしまう。だから独り言はしなくなった。
そういえば、一人暮らししていた頃は、結構独り言が多かったように思う。
「はい。対策しておきましたので、今日は映像も音声も拾えておりました」
早くも対策完了したとは、流石としか言いようがない。
見守られていて安心したような、常に監視されていて怖いような、なんとも複雑な気持ちだ。
「パーシャルさんが何事もなく無事のようだから、それは良かったかな。で、これなんだけど」
手に提げていた紙袋から件の「忘れ物」を取り出した。
一応、あの後会社に戻って中身をあらためたのだが、何というか、何なんだろう。
「はい。ベーコンですね」
箱の中には五百グラム程のベーコンが入っていたのだ。
綺麗に真空パックされていて、ブラックレターで「Kevin」と書かれた山吹色のシールが貼られている。
「どう考えても僕の忘れ物じゃあないよね!?」
「はい、そうですね。しかし、これは良いベーコンですよ」
良いベーコンか否かはそれとして、食べていいのだろうか? 僕に間違って渡した可能性は無いのか? わかっていて僕に渡したのなら、その意図はなんだろう。「我々はベーコンを持って戻りました!」とか言えばいいのか? 第二段階に進化しそうなギャグだ。
もはやため息しか出ない。
「それに、店ではコーヒーにお菓子まで御馳走して貰ったし。なんであんなにもてなしてくれたんだろうね」
「はい。あれは恐らく、英治さんの殺害を狙っての行動だと思います」
「え?」
サツガイ……、殺害?
どういう事だろうか。一瞬で鳩尾の辺りが冷たくなったのだけれど。
「えっと……、ええ?」
「はい。まず、最初に出された水ですが、あれは濃硫酸です」
「えええ!?」
「コーヒーにはシアン化カリウムが多量に含まれておりましたし、お菓子はホウ酸団子ですね」
精神に極大のダメージをくらったので、次の日は会社を休んだ。




