1.5. 社畜の夜は遅い
僕の所属するオカムラテクノロジー株式会社はシステム開発の会社だ。
横文字交じりで「システム開発」と言うと何となくカッコイイ感じがするが、俗に言われる「IT土方」という名称の方が色々な意味でとても実状に即していると思う。
その日、出社早々に巻き込まれた緊急のトラブル対応が終息したのは午後八時を回った頃で、もはや精も根も尽き果てた僕は席に突っ伏して頭を空にしていた。
今日片付ける予定だった仕事は丸々手つかずの状態で転がっているが、もはやそれをどうにかしようという気もおきない。
そういえば昼飯を食べた記憶がない。
「お疲れーい! 生きてるか?」
背後からクラミン先輩の声がした。
クラミン先輩は僕より五年ほど上の先輩で、今日トラブった案件のリーダーをしているエース級の社員だ。
エース級と言うだけあって、相当仕事が出来る人で周りを巻き込む術にも長けており、今回僕をトラブル対応に巻き込んだのもこの人だ。
まぁ、仕事というものは会社として受けているものなので、トラブル時には社員全員で助け合うのが当然だ。
今回はたまたま先輩の案件にトラブルが発生しただけで、場合によっては僕の受け持つ案件にトラブルが発生する事もあるのだ。そういう場合は、今回とは逆に先輩が僕を助けてくれるだろう。
そうして、助け合いながらやっていくのが組織としての正しい在り方だ。
しかし、それでも若干恨めしく思うのは仕方ない事だろう。
「生きてます。先輩、元気ですねー」
起き上がって振り返ると、健康的な日焼けをした茶髪の青年が立っている。これがクラミン先輩だ。
最近は顎ヒゲにこだわっているらしく、丁寧に刈り込まれた顎髭が顎を鋭く尖らせており、生来の細面を一層強調していた。
ちなみに、ヒゲも茶色に染められている。
「だろう? お客さんには鉄人と呼ばれているからな!」
実際、クラミン先輩は凄い人だ。
何が凄いのかと言えば、まぁ、仕事が出来るというのもそうなのだが、やはり体力面だろう。
僕が入社した頃の話だが、クラミン先輩は半年ほどの間帰宅せずに会社に居続けた事がある。
当時、あるプロジェクトが大炎上していたので、他にも同じような生活の人が居たが、そういう人でも最低一週間に一度は帰宅していた。
ところがクラミン先輩はまったく帰宅しなかったのだ。
流石に休憩は取っていたのだが、ごく短時間に限られていた。
休憩を取る時間は、午前七時頃に三十分ほど、昼休みの一時間、そして午後十時頃から三時間程度と決まっていた。それ以外の時間は、席について黙々と仕事をしていたのを他の先輩たちが目撃している。
これだけでも相当恐ろしいのだが、まだ先がある。
クラミン先輩はいつ睡眠を取っているのか?
結論から言えば席を外している間に済ませていたのだが、クラミン先輩はそれだけに留まらなかった。
流石に朝と昼は食事と休憩に費やしていたようだが、問題は午後十時頃からの三時間だ。
クラミン先輩はこの三時間で、人間の三大欲求をすべて満足させていたのだ。
ここが重要なポイントだ。
食欲(食事)と睡眠欲(休憩)だけではない。性欲まで満たしていたのだ。
まずは、その三時間の内訳を説明しよう。
食事に要する時間 : 約十分
性欲解消に要する時間 : 約二時間
睡眠に要する時間 : 約三十分
その他(移動時間など) : 約二十分
どう考えても間違っている気がしてならない。
クラミン先輩によると「近場のソバ屋で食事をして十分、値段の高い風呂屋で性欲を満たす事二時間、そして会社の倉庫で三十分の仮眠、最低限だが取り敢えずこれでなんとかなる」だそうだ。
食欲については問題ない。立ち食いソバなど十分もあれば平らげるには充分だ。そう、十分あれば充分だ。早い人なら五分もかからない。
しかし、睡眠時間が三十分というのは恐ろしい。恐ろしく短い。クラミン先輩は元々ショートスリーパーだというのだが、果たして大丈夫なのか。
現にピンピンしているので大丈夫なのだが、傍から見ていると不安になってしまう。
そして最大の問題である性欲解消の二時間だ。
値段の高い風呂屋で過ごす二時間が長いのか短いのか僕には判断できない。しかし、他の先輩によれば「長い!」のだという。しかし、クラミン先輩によると「短い!」だそうで、僕としてはどちらを信じたらいいのか脳む……訳もなく、恐らくは他の先輩の言葉を信じるべきなのだろう。
これが判明した当初は社内に衝撃が走ったのだが、本人は「体も洗えてお得だぜ!」などと言ってケロッとしたものだった。
そもそも仕事中に風俗店に行くのはどうかと思うのだが、一応午後十時から三時間は会社の規定で休憩時間扱いなので問題ないと言えば問題ない。
個人的にはその二時間を仮眠に回した方が良いように思えるのだが、クラミン先輩としては値段の高い風呂屋の方が重要なので譲れないらしかった。
結局、先輩はその生活を毎日続け、プロジェクトが沈静化するまで貫き通したのだ。
鉄人と呼ばれるのもわかる気がする。
余談だが、そのプロジェクトが沈静化して暫くした頃、クラミン先輩がある性病にかかっていることが発覚した。
それが「クラミン先輩」という愛称が付いた理由だったりする。
言うまでもなく決して誇れる由来ではないのだが、本人が気に入り自らネタにし始めたことで今ではすっかり定着してしまった。
――タフ過ぎて損は無い――
どこかで聞いた格言が頭の中を駆け巡る。
「さて」
そのクラミン先輩が満面の笑みを浮かべながら言った。
「そういう訳で、今から飲みに行くぞ」
御多分に漏れず否応なしだった。
-/-
予想はしていなかったが、漠然とした予感はあった。
クラミン先輩に連れられ、僕を含めトラブル対応に関わった数名で飲みに出たのだが、行きついた先はキャバクラだった。
そう、一軒目からキャバクラだった。
僕はこの手の店に耐性が無い。
就職してからというもの「家を買う」という目標に向かって働き詰めていたので、飲みに行くことはおろか遊びに行くことも稀だったのだ。
この手の店に耐性など出来ようもない。
いや、正直に言う。キャバクラなんて行った事がないのだ。
しかし、興味はあった。とてもあった。長期の禁欲生活のせいで、興味だけは人一倍あったかもしれない。
これでも標準的な成人男性(だと自分では思っているのだが)であり、そっち方面の欲望も人並みにはあるつもりだ。
しかも、今日はクラミン先輩が奢ってくれるということで、もはや躊躇する理由は何もなかった。
そうしてたどり着いた店の入り口をくぐると、そこには独特の世界が広がっていた。
控えめな照明の中を色鮮やかな衣装で着飾った女の子達が行き交って、身に着けた装飾品がわずかな光を反射してひらりひらりと煌めくのを見た。
視線が交差しないよう絶妙に配置された席には多くの客が居るのだろう。低くうねるように流れていく騒めきは、僕をぐるりと取り囲んでこの世界の底へ底へといざなっている。
そこには、ゆったりとした時間が流れており、ほんの数メートル先にあった外の世界との隔絶を実感させられた。
入店するまでは若干尻込みしていたのだが、その落ち着いた空気にあてられて心が静かになるのを自覚する。
こうした一連の驚きと感心は、それまでに持っていたキャバクラのイメージと正反対だったことによるものだ。
「あら、クラミン様、いらっしゃいませ」
柔らかな声に振り向くと、ふわりとした栗毛の女性がこちらを向いて微笑んでいた。
僕と同い年くらいだろうか? すらりとした細身をクリーム色のワンピースに包んだその人は、まるでどこかのお姫様の様だった。
何と言うか、凄い。
どうにも表現し辛いが、スゴみがあって凄い。逆に言うと凄みがスゴい。
例えば、会社の笹原さんも相当魅力的な女性だが、この女性にはそれとは別種の魅力があるのだ。
この場の空気とメイクの力もあるのだろう。しかし、恐らくはそれを差し引いても滲み出るスゴさがあるに違いない。
なるほど。ここに来れば、こんな女性とお近づきになれるのか。
世のオッサン共がキャバクラに足しげく通う理由はこれだったのか。
「やぁ、今日はウチの優秀な後輩たちを連れてきたぞ」
心の中に様々な物がこみ上げている僕とは違い、クラミン先輩は自然体だ。
ていうか、普通に「クラミン様」とか呼ばれていたが、ここでも「クラミン」で通しているのか。恐ろしい……。
「まぁ、こんなに大勢連れてきてくださって、ありがとうございます」
女の人はクラミン先輩にお礼を言うと、僕たちに向き直って自己紹介をした。
驚いたことにこの女性は店長なのだという。
若い、それも僕とそれ程変わらない歳に見えるのに凄い。スロットマシーンで「スゴ」が三つ並ぶ程凄い。
スゴ スゴ スゴ
この店はお客さんも多く、賑わっている事もあり、恐らくは「成功している店」なのだろう。
それを成し遂げたのがこの女性なのだ。
この店を取り仕切っていくのに、どんな経営の手腕が必要なのか僕にはまったく想像もつかない。
経営だけじゃない。
今の接客ひとつ見ても、その物腰といい、立ち振る舞いといい、洗練されたそれは一体どうやって身に着けたのだろうか。
なんだか、人としてのレベルの違いを見た気がする。
そんな事を考えている内に席に案内されることになった。
店長を先頭に調度品や席の間をスイスイと魚群のように通り抜けていくと、その途中で女の子が一人また一人と合流して順々とペアが出来ていく。
店の奥まった所にある円卓へたどり着いた時には、僕とクラミン先輩を除いてみんな女の子連れになっていた。
もしかして僕には店長さんが!? と一瞬期待したのだが、店長さんはクラミン先輩の隣に座ってしまった。
僕は一人ポツンと円形のソファーの端っこに座り……。
「え?」
いつの間にか目の前に一人の女の子が立っていた。
まず目に入ったのは病的なまでに白い脚だった。そのスラリと伸びた脚から上に目をやると、光沢のある深い紫色のタイトなミニドレスが見える。
股下数センチまでを辛うじて覆っている裾がひらりと揺れて、僕の心臓が強く鼓動した。
その上ではクッと締まった腰がお尻を強調し、大きく開いた胸元では病的な白さの肌が控えめながらしっかりとした谷間を作って主張している。
そして更に視線を上げると、銀河のように輝く紫色の双眸にたどり着いた。
スッと通った鼻筋と細面、髪はドレスのそれより明るい紫色でワンレンミディアムに整えられており、少し厚めの唇には紫がかった口紅が塗られている。
鼻先でわずかに香るのは、これはラベンダーの香りだろうか。
どれ位の間、見惚れていただろう。
切れ長の目は一直線に僕を捉えて動かない。
やはり、この子が僕に付いてくれるのか。
それにしても、見れば見るほど震えが出るようなスゴさだ。
店長さんも恐るべきスゴさだが、この子のそれはまた方向性が違う。店長さんはふんわりとした柔らかな印象なのに対し、この子には深海の静けさのような印象を受ける。
そうか、イメージカラーなのかもしれない。店長はクリーム色で、この子は紫色だ。
これを会話のとっかかりにするのが良いかもしれない。
「あの」
言いかけた瞬間、手で制された。
そして、艶やかなその唇に微笑が浮かび、言葉を紡いだ。
「あなたですか。私が相手をする下等生物は」