1.3. 組織の男
xxxx年xx月xx日 午前 八時十二分
切れかけた蛍光灯がチカチカと点滅している。
都内にある某ビルの二階、薄暗い通路の突き当りにある扉を前にして、左手に携えたカバンに目をやった。
黒色の牛革で作られた若干小さめのアタッシュケースだ。
鈍く光る銀色の留め具を外してカバンを開き、中を覗き込むと、そこには幾つかの書類と筆記用具、そして内側のポケットには財布が入っている。
迷うことなく財布の隣に手を突っ込む。
ナイロン製の内張りで手が擦れるが不快ではない。そのまま奥を探ると指先に固い感触を覚えた。
思わず口元が緩みかけるが、間髪入れず噛み殺す。
探り当てたその物体を摘まみ、おもむろに引き出すと、それは光沢のない真っ黒なカードだった。
裏返してみるが、そこも真っ黒なだけで何も書かれてはいない。
明るい場所ならば何か見えるかもしれないが、実際その可能性は低いだろう。
気のせいか、蛍光灯の発するノイズの音が大きくなったように感じる。
ふと背後を振り向くが、そこにあるのは暗い通路だけだ。
突き当りに非常口を示す緑色の照明が灯っているが、それも随分汚れていて薄ら黒い。
たった今自分が通ってきたばかりの通路が、どこか遠くに見える。
まだ、引き返せるのではないか?
自らに問うが、答えは知っている。
乱雑にアタッシュケースを閉じて扉に向き合う。
まずは落ち着こう。落ち着こう。
自分に言い聞かせながらカードを握りしめた。
息を大きく吸い、吐く。
扉の脇には四角い箱が設置されている。この箱が「鍵穴」で、このカードが「鍵」だ。
鍵穴に鍵を差し込む必要は無く、かざすだけで良い。この鍵の名を「非接触ICカード」と言い、鍵穴の名を「読み取り機」と言う。
この技術が一般に普及してはや何年も経つが、未だに画期的に感じるのは何故なのか。
実際、これは素晴らしいものだ。
多くの人は、非接触ICカードの詳細な仕組みなど知らない。知らずに使っている。
この時代に生まれ、生きていく中で「利用はするが仕組みは知らない」という物事は多い。
当然だ。
人は楽をするために物事を機械化し、自動化してきたのだ。
それらは、誰もが便利に使えるように、仕組みを知らなくても使えるように設計されている。
しかし、それらを利用する時、仕組みを一切知らないというのは本当に問題ないのだろうか。
この非接触ICカードがいい例だ。
実際の所、これは単なる鍵ではない。
この非接触ICカードには、鍵としての情報の他に個別の番号が割り当てられている。
これを読み取り機にかざすと一瞬のうちにカード内部の情報が読み取られる。その情報には当然、先に述べた「個別の番号」も含まれている。そして、その情報はネットワークを介して中央のコンピューターに送信され、その情報を受信したコンピューターは「個別の番号」からカードを特定し、「このカードが、いつ、どこで使われたのか」を記録する。
これらの情報は、一度登録されれば取り消すことはできない。
ちなみに中央のコンピューターには、このカードの支給先が僕だという情報が登録されている。
つまり、この扉を解錠すると「この時この場所で、僕がこの扉を解錠した」という情報が中央のコンピューターに記録されるのだ。
僕の意思とは無縁の所で、僕の行動が記録されている。
これは、この黒いカードに限った話ではない。
電車やバスで使用できるICカードも同じだ。カードの一枚一枚が個々に管理されていて、どのカードが、いつ、どこで使われたのか記録されている。
そこに何か問題があるのか。
結論から言えば、多くの人には何も問題ないだろう。
ただし、何か後ろ暗い事をしている者にとっては不都合極まりない。
例えば窃盗を働いた者が居たとする。
彼が逃走する時、カードを使用して電車に乗った場合どうなるだろう?
即刻足がついて、お縄になるだろう。
こういった犯罪者の追跡などに利用する場合、真っ当に生きている人間にとっては有益だと言える。
また、罪を犯した際に被るリスクを増やすことから、ある程度は犯罪の抑止力になるかもしれない。
しかしこのシステムは、ある一定の犯罪者にとってはむしろ好都合だ。
例えば、このシステム自体をストーカー等の犯罪に使用されたとすればどうだろう?
説明するまでもない事だ。
誰が言ったか知らないが「無知は罪」という言葉がある。
それには「ほんの少し」だが同意できると思う。
罪とまでは言いたくないが、無知によって損をしたり、人に迷惑をかける事はあるだろう。
自分の行動が及ぼす影響について、ほんの少しの知識があれば回避できる不幸があるかもしれない。
多くの事を知れば、それだけ多くの不幸を回避できるかもしれない。
逆に、知識があれば、幸運をつかむ事すらできるかもしれない。
そう考えれば「物事を知る」という事は重要な事だ。
しかし、この世のすべてを知る事などできないし、知る事ばかりを突き詰めてしまえば他の事をする時間が無くなるだろう。
知る事が生きる目的であれば、それでも問題ない。
実際にそういう人も居るだろうが、僕は違う。
色々な事を知るのは嫌いではないが、「知る事」以外にやりたい事はたくさんあるし、欲しい物もたくさんある。
僕は、どこまでを知る必要があるのか。また、何を優先して知るべきなのか。
それに答えなど無い事も知っている。
……さて、当面の問題を片付けるべきだろう。
手にした非接触ICカードが蛍光灯の光を反射している。
そっと持ち上げて読み取り機にかざすと、微かな電子音に続いて扉が解錠される音がした。その音が暗い廊下に深く反響する。
カードを胸ポケットに仕舞い、細く息を吐いた。
右手を持ち上げてドアノブを握る。
へアライン加工されたステンレス鋼の感触が冷たく掌に染み入って、心のどこかで突き放されるような隔たりを感じた。
そして、僅かに力を込めて時計回りに捻ると、内部の機構が動作して金属の擦れる音がする。手を止めることなく捻り続けると、カキリと回転の底に突き当たった。
そのまま扉を押し開ける。
徐々に大きくなっていく扉の隙間からは、機械的に作り出された白い光が溢れ、僕の顔を照らしていく。
準備は出来ている。
開け放った扉に一歩踏み入り、その言葉を発音した。
「すみません遅れました」
-/-
オカムラテクノロジー株式会社。それが僕の勤めている会社の名前だ。
所在地は鶯谷駅から歩いて少しの雑居ビルという、何故こんな場所にあるのかは少々理解に苦しむ。
で、正面の壁に掛けられた時計を見ると八時廿四分を指していた。完璧な遅刻だ。
「あら、珍しいですね。どうしたんですか?」
横合いから笹原さんがマグカップを持って現れた。
笹原さんは管理部所属の二年先輩で、べっこうのメガネと緩い外巻きのミディアムショートが印象的な女性だ。
べっこうのメガネは、今時、と言うか若い女性が使っているのは珍しいと思う。
この人は妙に色気のある人で、この事務所に常駐する唯一の女性という事もあってか、男性社員からの人気は高い。僕も彼女の事は気になってはいるが、会社の同僚という以上の接点はなく、部署も違うのであまり近しい存在ではない。
その手元には、今容れたばかりであろうコーヒーが湯気を立てていた。良く焙煎された豆の香りが鼻腔に広がり、熱く苦み走った味を想像させる。
「いや、電車が遅れまして……」
若干の後ろめたさを感じながら答えると、それは災難でしたねと優しく返してくれる。それを聞いて後ろめたさが倍化したが、表には出さない様につとめた。
笑って誤魔化し、そそくさと奥の部屋へ駆け込んで自分の席に着く。
「すみません遅れました」
先に居た同僚に定型文の挨拶をしつつパソコンの電源を入れる。
数人の同僚からうめく様な返事が返ってくるが、別に体調が悪い訳ではなく、いつもの事だ。
なぜか、ここの空気は常に淀んでいて暗い。
パソコンはスリープモードから復帰して、ディスプレイにパスワード入力画面を表示している。そこにいつものようにパスワードを入力すると前日の作業画面が復帰してくる。
こうして、昨日の続きを始めるのだ。
その前に、遅刻した分について時間休を申請しておく。これで八時から九時に至るまでの一時間は有給休暇扱いになり、勤怠の上では遅刻した事実が抹消される。
本来、一定時間以上の電車遅延であれば時間休を使うことなく遅刻を撤回できるのだが、その為には各交通機関の発行する遅延証明書が必要になる。今回は遅延証明書が無いので時間休を使う他ない。
まぁ、時間休など他に使う機会もないので問題ないが、この一時間内で仕事をすると休暇中に仕事をしている事になるので少し損な気もする。と言うより労働基準法的にダメな気がするがどうなんだろう。
どうでもいいか。
さて、まずはメールチェックだ。
メールの種類は大きく分けて三種類存在する。その内訳は「顧客からの連絡」、「自社の業務連絡」そして「迷惑メール」だ。
当然、最も重要なのは顧客からの連絡で、次が自社の業務連絡、迷惑メールは価値の無い――いや、むしろ害悪なゴミだ。
メーラーのフィルタリング機能でその三種類を自動で振り分けるようにしてあるのだが、稀に迷惑メールが紛れ込む事がある。
ふと、そのメールが目に留まった。
差出人は「まり子」、件名は「まり子です」で、送信日時は……たった今?
メールを開くと、シンプルに次のような一文があった。
> 電車遅延とか嘘ついちゃダメじゃないですか。正直に寝坊だと申告すべきです。
確かに、人間正直が一番だとは思うが、それも時と場合によって……じゃない! なぜ僕の言動を把握しているんだ!
即座にメールを返信する。
> 恥ずかしいので電車遅延という事にしました。
> というかどこから見てるの!? 怖いです。やめてください。
送信すると、すぐに返信がきた。
> 管理者ポリシーに反しますので、今後、無用な嘘はつかないでください。
> また、申し訳ありませんが、監視をやめる事はできません。
> 英治さんは入道相国の管理者として登録されているので、ルール上常時監視が必須です。
> これは、英治さん自身の安全のためでもあります。
> 安全のためですので怖がらないでください。
> また、監視して得た情報は一切外部に公開しませんので、安心して奇行に励んでください。
奇行て。
いや、そこじゃあない。
思わず頭を抱えた。
常時監視が必須、ときた。いったいどうやって?
入道相国は超技術の塊だ。レントゲン的な技術でビルの中を透かして見る事くらい可能だろう。
あるいは、僕の身に着けている服やカバンに何か細工された可能性もある。ステッカータイプの「貼る無線カメラ」とかあっても不思議じゃないのだ。
いや、むしろ僕自身に何らかの機械が埋めこまれているかもしれない。
ケトルミューティレーションか? ケトルミューティレーションなのか?
いや、あれは牛を切る奴だったか? あれ? ケトルじゃなくてキャメルだっけ? ああなんでもいいや! ていうかその内僕も切り取られるのか?
想像力の翼がバッサバッサと羽ばたいて、想定される不幸に思いを馳せていると背筋をうすら寒いものがよぎっていく。
圧倒的質量を誇る超次元宇宙先頭母艦が僕の上にのしかかってくる幻影が見える。
ダメだ、真面目に考えてはダメだ。
そう、昔から「知らぬが仏」と言うではないか。
何も知らない無知な輩は仏送りにされるのだ。って違う! 知らない方が幸せになれるという格言だ。
その言葉に縋ろう。
心のゴミ箱だ。何もかもゴミ箱送りだ。ふへへ。
さて、それにしても、特に奇行をした覚えはないのだが、まり子は僕をどういう目で見ているのだろう。
少し気になるが、問いただして墓穴を掘るのも嫌なのでやめておく。
仕事をしよう。そして早く帰ろう。