1.20. 高分子マグネトロン
「ああああッ! ちくしょうッ! 何となくッ! こうなる気はしてたよ!」
軽やかに広がる青空の下で春の陽気を浴びながら、腹の底から声を振り絞って叫んでみた。眼下には遥かに続く街並みと、向かう彼方には湘南の美しい海がある。
現在地は神奈川県某市の上空……何メートルほどだろうか? 正確なところはわからないが、とにかく高い所を飛行している最中だ。もっとも、正確に表現するならば「飛行している最中」ではなく、「吹っ飛ばされている最中」なのだが。
あの瞬間、何かに足を取られてすっ転んだ結果、ボーイさんと共に射出されてしまい現状に至っている。
こうして吹っ飛ばされるのは船場山にやられたのに続いて二度目だ。外世界に飛ばされたのも含めれば三度目か。はっきり言ってこんな事態は一度たりとも御免なのだが、こうも連続して吹っ飛ばされる羽目になるのはどういう事なのだろう。これはアレか、厄年か。
そもそも僕は厄年やら仏滅やら、そういった「運勢」的なアレコレは信じない性分だが、これだけ連続で吹っ飛ばされたり厄介事に巻き込まれたりしていると、何かオカルトじみた「カルマの法則」的なものの存在を疑いはじめてしまう。
今回の件は自分から首を突っ込んだ結果ではあるのだが、さかのぼってこんな状況を招く原因について考えると、やはり厄としか言いようがない気がする。
いや、わかっている。これは、いわゆる「逃げ」だ。
これは、不幸の原因を「厄」などという意味不明の概念に置き換ることで、「何か自分以外の超常的な存在に責任転換したい」という「心理的な逃げ」なのだ。
逃げる事は必ずしも悪い事ではない、とは思う。他にどうしようもない場合は逃げるのが最善の場合もあるだろうし、昔の偉い人も「三十六計逃げるに如かず」等という格言を残していたりもする。
しかし、こういう心理的な逃げは良くない気がする。というのも、この場合の「逃げ」は現実から目を反らしているだけであり「物事が解決できない」または「解決につながらない」からだ。
現実から目を逸らして厄除けなどを始めたところで何の意味も有りはしない。それどころか、現実と向き合う事もなく目を逸らせば事態は悪化する。
往々にして、当初は容易に解決できた筈の問題であっても、それに向き合うことなく逃げてしまえば状況は悪化し、解決にかかる難度も高くなる。最初は「これ位なら後で解決すればいいや」と考えていても、後になると想像以上に面倒な事になっていて事態を打開するのに悪戦苦闘する羽目になるのだ。
ここで更に逃げてしまえば目も当てられない。逃げる事で物事が解決する場合もあるかもしれないが、大抵の場合は問題から逃げれば逃げる程、解決に要する難度は高くなっていく。
そうして、逃げて逃げて、逃げ続けた果てに、悪化に悪化を重ねた問題が解決不可能の状態に至った時、とうとう逃げる事すら出来なくなる。
だから、ここは逃げてはいけない。心を強く持ち、自分を強く持って、現実と向き合わなければならない。
そう、逆境に在っては心を強く持つことが肝心だ。心が弱るから逃げようなどと考えてしまうのだ。
心の弱さは逃げにつながるだけでなく、心に隙を生む。
例えば、何か面倒な問題に直面して心が弱った時、何者かに「こうすれば簡単に解決しますよ」などと声をかけられたらどうだろう。たとえその言葉が罠だったとしても、安易にその言葉に従ってしまうのではないだろうか? これが「心の隙」だ。
ヒトは、心の隙を突かれると「幸運のツボ」を買ってしまったり、「よくわからない仲良しサークル」に加入してしまったりする。そうした先に待っているのは大抵泥沼だ。
だからこそ、強く、心を強く持つのだ。弱りそうな時こそ、心に勢いをつけるのだ。
そうだ、少々の厄など物の数ではない。そもそも厄など存在しないだろう。例え存在したとしても、すべて受け入れて今後の糧にすればいい! 運命など存在しない! 人間その気になれば何だって出来る! 空だって飛べる!!
いやまて、落ち着け。
こんなクソみたいな精神論はどうでもいい。今はむしろ、物理的に逃げている最中であり、今のこの状況から続いたその先で、如何に上手く逃げ切るかを考えるべきだ。
と言うか、本当はこの状況自体から逃げ出したい。逃げてしまいたい。今、まさにこの瞬間も、一刻も早く入道相国に逃げ帰ってしまいたい。一言まり子に声をかけるだけで、次の瞬間には部屋で温々していられるのだから、その誘惑に抗うのは容易ではない。
ああ、弱っている。心が弱っている。ていうか高い。高度が高い。どっちを向いてもお空だ。風が強い。もうちょっとで海まで届きそうだ。江の島が見えるよ。江の島だよ!
「おい! お前! これは一体どういう状況だ!」
突然かけられた声にハッとして振り向くと、そこには怪訝そうにこちらを睨むボーイさんが居た。当然、僕と同じように吹っ飛ばされている状態だが。
それにしても、発射された衝撃で意識が戻ったのだろうか。随分とタフなようだ。改めてよく見ると、目立った傷や、骨折した様子もない。幾度となくレムペーゼンと衝突していたのだから、腕の一本くらい折れているのが普通な気がするが。
「とっ!? なんだお前は! 怪しい趣味か!」
振り向いた僕を見て、ボーイさんは目を丸くした。
気持ちはわかる。空飛ぶ全身タイツ男など尋常ではないだろう。しかしこれは大部分が不可抗力なのだが、釈明する訳にもいかない。
「まぁ良い! それよりもアイツだ! モトヤマはどこだ!」
状況が状況なだけに疑問は湯水のように沸いてくるのだろうが、何と答えれば良いのだろうか。個人的には黙ってじっとして居てほしいのだが、目を覚まされてしまった以上どうしようもない。
「何か答えたらどうだ! それとも! もしやお前がモトヤマか!?」
「違いますよ!」
即座に否定したが、一層怪訝そうな顔でこっちを見られた。
全身タイツゆえに顔で判別不可能なのは仕方ないが、そういえば僕と本山は体形が似ていたかもしれない。
これは良くない。
勘違いでもボーイさんに攻撃されたら酷い事になりそうだ。
ボーイさんの戦闘力はさっきの立ち回りを見て充分理解したので、今後はなるべく敵対したくない……、そういえば普通に返事をしてしまったのだが、もしかすると、声で僕が誰なのかバレたかもしれない。
充分気をつけていたのに、ここに来てボロを出したか?
「あんた! タカムラさんか!?」
やはりバレた。何というか少し気まずい。
だが、結局は逃げ切った後でボーイさん達には正体をバラす事になっただろうから、多少前倒しで正体をバラしても問題ない気がする。
本山にバレなければおよそ問題無いはずだ。
「そうですか! あなた篁さんでしたか!」
突如聞こえてきた声に振り返ると、飛行するレムペーゼンにぶら下がって追尾してくる本山の姿があった。
迫り来る巨体と白く輝く光の羽は圧巻だ。
まり子! 逃げ切れてないよ! しかも僕が誰だかバレてしまったよ!
「ここまでは見事と言っておきます! だが逃がさない! パトロール隊の誇りに賭けて!」
そして、またしても空中で追撃される状況になるとは。
例によって、僕とボーイさんは空中で身動きが取れない状態だ。本山――レムペーゼンの攻撃を回避することは不可能だろう。
決まって考えるのは策馬式の事だ。使い方を習得していれば何とかなったはずなのだ。対船場山戦の思い出が脳裏をよぎる。嫌な思い出だ。というか最近嫌な事ばかりだ。
残された手段は限られている。防壁・松を展開するか、もう、いっその事まり子に頼ってしまうか。
「モトヤマァ!」
諦めてまり子に転送を頼もうとした矢先、先んじて動いたのはボーイさんだった。
見るとボーイさんは、目をギラギラと輝かせ、口元に微笑を浮かべている。その表情に浮かんでいるのは余裕、または歓喜のようにも見えた。もしかすると、この状況を打開するための一手があるのだろうか。
そんな事を考えている間にも、ボーイさんは次の行動に移っていた。
「お返しだぜ!」
その言葉と共に、ボーイさんが片手を目の前にかざして強く握り込むと、小さな光の欠片が砕けて舞った。
そして変化は間を置かず発生した。
レムペーゼンに突き立った剣が発光し、断続的に電弧のような火花を散らし始める。無数の火花は、細く鋭い蛇行する光の線となって剣の周囲に纏わりつき、見る間にレムペーゼンにまで到達した。
そしてレムペーゼンに到達した火花は、そのままレムペーゼンの表面を駆け巡り、のたうち回り、焦がしていく。当然、その影響はレムペーゼンだけに留まらず、ぶら下がっている本山にも及んだ。
本山はその目を大きく見開き、こちらを見据えたまま全身をビクビクと痙攣させている。口を開きなにやら叫ぼうとしている様だが声になっていない。それはヒトが感電した時の反応のように見える。するとやはり、あの火花は電気に依るものなのだろう。
駆け巡る火花は時間の経過とともに更に強く、太く、輝度を増し、レムペーゼンを雁字搦めにして覆い尽くす。やがて、その背中側の一部が小さく爆発し、片側の羽と共に本体から千切れて飛散した。
それを皮切りに連続して爆発が発生し、レムペーゼンの各部が徐々に弾け飛んでいく。そして、最後まで残っていた片翼がその光を失うと共に胴体部分が大きく爆散し、その身を構成していた部品を周囲にまき散らした。
一部始終を見て、僕は唖然とする他なかった。ボーイさんはといえば、満足そうに次の言葉を吐き捨てた。
「ケッ! ざまぁみろ!」
理解が追い付かないが、今の電撃攻撃はボーイさんの剣が持つ機能なのだろうか? 先程まで威容を誇っていたレムペーゼンが木っ端微塵とは……、個人的には少々やり過ぎなのではないかとも思うのだが、これにて脅威が去ったのならば文句を言うところではないのか。
それでも、本山の安否は気がかりだ。
火花が激しくなった辺りで姿を目視できなくなったのだが、その後はどうなったのだろう。なにも死ぬことはないと思うし、重症を負わせるのも本意ではない。ただ逃げ切りたかっただけなのだから。
そんな心配をしている僕をよそに、ボーイさんは平然としている。
見ると、腕をかざして飛んでくる破片から顔を庇っていたが、不意に飛んできた大きめの破片を二つ、それぞれ右と左の手で受け止めた。
と、受け止めたのは破片ではなく、レムペーゼンに突き立てていた剣のようだ。もしかすると、あれは自動で手元に戻ってくるのだろうか。
そんな事を考えていたのだが、それよりも何か大切な事を忘れている気がした。
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吹っ飛ばされている最中だという事を忘れていた訳ではない。処理しなければならない情報が多すぎて思考が追い付かなかっただけなのだ。多分。
そして、吹っ飛ばされている状況というのは未来永劫は続かない。
いつかは落ちるべき地点に落ちるのだ。
かくして見事に江の島沖に着水した僕は、危うくおぼれかける事になった。それは、軽装甲・枯芒が「水に弱い」という事を発見した瞬間だった。
古来より伝わる拷問のひとつに「ヒトを仰向けに寝かせて固定し、顔の上に布をかぶせ、そこに水をかける」というものがある。
水を含んだ布が鼻と口をぴたりと塞ぎ、呼吸不可能にするというものだ。
軽装甲・枯芒を着用中に水をかぶるとこの状態になる。
慌てて、取外しのコマンドを肺からひねり出したものの、もしもあの時に息を吐き切った状態であれば終わっていた。
後から思うと、この日で最も命の危険を感じたのはこの時かもしれない。
ともかく、濡れ鼠と化した僕とボーイさんは、何とか助け合って陸まで泳ぐ事になった。
泳ぐというよりも、ほとんど波に翻弄されているだけだったのだが、運良く陸に向かう海流に乗れたのが幸いしたようだ。服を着たまま泳ぐのはオリンピック選手でも無理だと聞くが、あれは多分本当だ。多分Tシャツ一枚着るだけでも辛いだろう。
海水は冷たく、浜辺にたどり着く頃には体の熱が根こそぎ奪われていた。
這う這うの体で浜辺に上がり、二人揃って砂浜に大の字になる。
偶然その場に居合わせた湘南のサーファー達がギョッとしていたが、そんな事に気を遣っている余力は無かった。
脱力して青く澄んだ空を見上げていると、少しだけ心が落ち着いていく。空は眺めるだけにしておきたい。
「まもりとパーシャルはどうなった?」
少し休み、息が整った頃合いでボーイさんが問いかけてきた。
「二人は保護しました。無事ですよ」
そう答えると安堵のため息が聞こえてきた。
そういえば、あの二人は救命領域に放り込んだままだ。どこか人目につかない場所で解放しなければならないだろう。
「そもそもだが、なぜ助けてくれたんだ?」
続けて当然の疑問が発せられたが、それに明確な回答は出来そうにない。
しばらく沈黙が続いた。
徐々に体の感覚が戻ってくると、水分で肌に貼り付いた服が妙にうっとうしく感じられる。
たまらず上体を起こし、服をもぞもぞと動かしてみた。
「まぁ、成り行きで?」
助けた理由について曖昧に答えてみる。
実際にはその「成り行き」の詳細を問われているのだから、何の答えにもなっていないのだが。
「そうかい」
それでも、特に追及されることは無いようだ。
ボーイさんも上体を起こしてこちらに顔を向けてきた。
「とにかく、この借りはいつか返すぜ」
思わず息を飲んでしまった。
なぜか睨みながら言われたので復讐的な意味で受け取りそうになったが、そうではないと信じたい。
ひとまず愛想笑いで誤魔化すことにした。
穏やかに風が吹いてくる。
春になって間もない季節の中で、再び見上げた空は先程と変わらず、雲一つ無く晴れ渡り、遥かに続く深淵の入り口を青く彩っていた。
彼方に見える白い点は飛行機だろうか。ちらり、ちらりと薄く輝きながら高く遠く飛んでいる。
時間の流れを、とてもゆったりと感じていた。
手のひらにはサラサラとした砂の感触、聞こえてくるのは打ち寄せる波の音と、ヒトのざわめき。
「逃がさないぞ。パトロール隊の誇りに賭けて」
視線を落とした先には、黒く焼け煤けた本山が立っていた。




