1.11. 白いマントの男
軽い筋肉痛に不快感を覚えながら駅舎を出ると、鼻先にぽつりと雨の雫が落ちてきた。
見上げた空は厚い雲に覆われて、風が無いのか淀んだまま。
昔から、こんな天気の日は気分も落ち込んでしまう。あの童謡のように「雨が降ったら休みになれば良いのに」と考えた事が何度あろうか。
それでも、働かなければ食っていけない以上、雨程度でお休みしていては餓死まっしぐらだ。僕は、会社に行かなければならない。
幸い、雨はまだ本格的に降りだしてはいない。今の内に会社まで移動するのが得策だろう。
一度取り出した折り畳み傘をアタッシュケースに仕舞い、会社に向かって歩きはじめる。
歩むのはいつもの道だ。見慣れ、歩きなれたいつもの道だ。
道中で、幾人かとすれ違う。
その中に知り合いは居ない。どこの誰かも知らないが、その人達にも生活があって、仕事かまたは何か別の用事でこの道を歩いている。
誰もこんな日は憂鬱だと思うが、みんなそれぞれ何かの為に頑張っているのだ。
「ん?」
捉え難い違和感を感じて足を止めた。
丁度、路地裏に入った所で進行方向はクランクになっている。当然その先は見通せないが、目を凝らしても見える範囲に妙な所はない。
振り向いて背後を確認するが、そこにも異常はない。そして左右は建物の壁だ。変な所はない。
だが、違和感を感じたのは確かだ。
その正体は何なのか。
わからない。
しかし、再び一歩踏み出した時、それに気付いた。
歩いているのだが、前に進んでいない。
前に進まないどころか、むしろ後退したように感じる。正面の曲がり角が遠ざかったように見える。
更に一歩を踏み出す。曲がり角が一歩遠のいた。
もう一歩、更に遠ざかる。
一歩、そして一歩を踏み出すごとに曲がり角は遠ざかっていく。
胃の辺りに何か冷たいものが渦巻きはじめた。
即座に体をひるがえし、元来た道を駆け出す。
何か異常な事が起きている。何が起こっているのかは解らない。検証する暇など無い。まずこの場を離れなければならない。今すぐに。
幸い、この路地の出口はすぐそこだ。走ればすぐに抜け出せるはずだ。
しかし、出口にたどり着けない。抜け出せない。
一歩を踏み出すごとに路地の出口が遠ざかっていく。
どんなに走っても無駄なのではないか、という考えが脳裏に浮かんだが、捻じ伏せる。
諦めてはいけない、力いっぱい駆けるのだ。連日の訓練で鍛えられた逃げ足は伊達じゃあないはずだ。
訓練を開始してからまだ一週間程度しか経ってないが、それでも鈍っていた体はそこそこ鍛えられているのだ。
あの日の頑張りを思い出せ。全身の筋肉痛に苦しんだ事を思い出せ。「筋肉は裏切らない」と誰かが言っていた。その言葉は嘘ではない。
でも、それでも、駆けて駆けて駆けても、遠ざかる。出口が遠ざかっていく。いや、出口だけではない。すべてが遠ざかっていく。
周囲の壁も、空も、今正に足が踏みしめた地面ですら遠ざかっていく。景色が引き伸ばされ、身近なものは遠くへ、遠いものはさらに遠くに、僕から世界が引き剥がされていく。
僕だけが取り残されていく。
既に駆けるための地面はそこに無く、僕はただその空間に在った。元居た世界は遠くに見えて、次第に暗転して幻のように消えていく。
待ってくれ! 置いて行かないでくれ! 心の内で叫んだ言葉が絶叫となって喉の奥からあふれ出た。
英治さん!
その声を耳にした時、僕の胸元からまばゆい光が溢れ出た。
見れば、ループタイに嵌め込まれた緑色の石が強く輝いている。その光は球形を成して僕を柔らかく包み込み、その他方で一条の光を遥か彼方に投射した。
光は暗闇の中を鋭く遠くどこまでも突き抜けて、剣で振り払うかのように暗闇自体を真っ二つに切り裂いていく。そうして出来た傷口は見る間に広がって、そこから覗き見えたのは、青い光の線で描かれた格子状の地平だ。
気付けば暗闇を切り裂いた光は消え去り、光球に包まれた僕は傷口を通り抜け、青い格子の地平線へと落ちていく。突然襲ってきた浮遊感に、反射的に捕まる物を探して手足をばたつかせるが望んだ効果は得られない。
加速しながら落ちていく。格子状の地面の上空を、地平線に向かって落ちていく。
訳がわからないが、ここにきては最早どうにもならないだろう。
覚悟を決め、アタッシュケースの取っ手を強く握りしめると、少しだけ心が落ち着いた。顔を上げ、歯を食いしばって落ちて行く先を見据えると、地平線の彼方に何かが見えてくる。
最初はゴマ粒のように点として見えていたそれは次第に大きくなっていき、やがて正体が目視できた。
それは星だった。白っぽいクレーターだらけの星だった。昔図鑑で見た月の姿に似ているが、月ではない。大きな、大きすぎるクレーターがあるのだ。
既に視界のすべてはその星に覆われ、僕はその大きなクレーターの中央に向かって落下していく。
見る間に地面が迫り、細部の風景までもが見えてきた。
その速度は余りにも速く、対策を考える間などない。
-/-
「死ぬかと思った」
ドクドクと高鳴る心臓を押さえながら、数回の深呼吸を経てようやく意識が追いついてくる。
あやまたずクレーターのど真ん中を射切った僕は、地面に半分埋まりながらも二本の足で立っていた。
体を包んでいた緑色の光は、今は大分弱まって、まとわりつく程度になっている。これはバリア的な物のようで、足元の地面は半円形にえぐれていた。まるで小さなクレーターだ。
それにしても、このループタイは「携帯型の宇宙船です」と説明されていたのだが、まさかバリアを張る機能があったとは、想像していたよりも……何と言うか……何とも言いようがない。
ちなみに、このループタイの名前は「策馬式」だそうだ。その名付けには少々思う所があるが、取り敢えず、まり子には感謝だ。
「まり子。まり子、聞こえる?」
声に出してみるが、応答は無かった。圏外だろうか? 入道相国の監視が及ばない所まで飛ばされたのか?
足元のクレーターから這い出して周囲を見渡す。
地面は灰色の岩石で、脛の中ほど程度に凹凸した地形が延々と続いていた。全体的に見れば平坦ともいえる。その先に立ち並ぶ白っぽい山は、途切れる所無く周囲をぐるりと取り囲んでいた。恐らくあれがクレーターの外縁部分だろう。カルデラで言うところの外輪山か。
更にその向こう側では、青みのある黒い空を青い光の格子が中天の彼方へと立ち上がっている。あれは何なのだろう、と考えながら暫く見入ってしまう。
この景色なのだ。ここがどこなのかはわからないが、少なくとも地球ではない。
僕は、帰れるのだろうか。
ふと、小さい頃に読んだ小説を思い出した。
それは当時からしても古いSF小説で、ある種の超人である主人公が銀河の様々な星を舞台に大活躍するという物だった。その物語の最後で主人公は敵の罠にかかり、はるか遠くの世界に飛ばされてしまう。主人公は自力で帰還する手段を持っていなかった。そして恐ろしい事に、飛ばされた先の世界には主人公と交流できる生命体が一切存在しないのだ。
鳩尾の奥の方が震えはじめ、それは一瞬で全身に広がった。キーンと耳鳴りがする。足の力が抜けて膝をついた。おさまりかけていた息が上がり、冷汗が流れだす。
「まり子! まり子!」
どうすれば良いのだろう。訓練は無駄だった。こんな意味の解らない場所に飛ばされては対処しようがない。幾ら体を鍛えて逃げ足を速くしてもここから脱出できるとは思えない。いや、できるのか? 筋肉は裏切らないというのは本当なのだろう? であれば筋肉で脱出できるのか? できるとするならどう使えば良いのだ? 時速八十八マイルで走れば良いのか? そんなのは生身の人間には不可能だろう。じゃあ腹筋でもすれば良いのか? 腕立てでもすれば良いのか? 筋肉に力を入れれば良いのであればフロント・ダブル・バイセップスでも良いのか? どうした、帰れないぞ? まだ筋肉が足りないのか? それもそうか、一週間程度の訓練で筋肉がつくはずがない。では、今から鍛えるのか? 時間はあるだろう。では食料はどうする? 水は? そういえば何故息が出来ている?
「お前は誰だ」
息をのんだ。
振り向くと、一人の男が立っていた。いつの間に現れたのだろう。
白い薄汚れたマントで首から下をスッポリと覆い、伸び放題の黒髪を無造作に垂らした大柄の男だった。その目は前髪の隙間から鋭くこちらを伺い、ギラギラと輝いている。
いったい何者なのか。訊ねようと口を開きかけたが、男の方が先手を取った。
「どこから来た」
男のマントが翻されると、パスっという音と共にすぐ傍らの地面が弾けた。マントの下にカーキ色の金属質な服が見える。手には黒い物体が握られ、こちらに向けられていた。
ゴツゴツと厳めしい形をしたその黒い物体は、予想している物で間違い無いだろう。
あれは、恐らく、銃だ。
「防壁・松! 多重展開!」
即座に命令を発行し、男の反対方向に駆け出す。同時に銃声を耳にするが、こちらには飛んで来ていない。防壁がうまく機能したようだ。
防壁・松は、左腕に巻いた腕時計型端末「甲矢導符」が持つ機能の一つで、一畳の物理防壁だ。見た目はただのガラス板だが、まり子情報によると「百人乗っても大丈ブイ!」だそうだ。なので期待して良いのか微妙だが、一先ずは大丈ブイか。ちなみに中京間だそうな。どうでもいい。
当然だが、一畳では足止めにならないので、「多重展開」でドーム状に設置してあの男を閉じ込めている。これで何事もなく逃げられるか?
そんな事を考えながら走っていると、背後からガラスが砕け散るような音がした。早くも突破されたのだろう。しかし。
「ここからだぞ」
防壁・松は、砕かれると自動で「撹乱」の機能が発動する。これは、砕かれた防壁の欠片が鋭い刃となって縦横無尽に舞い散り、文字通り対象を撹乱するものだ。当然、その効果は撹乱にとどまらない。下手に動かなくてもガラス片のシャワーを浴びる事になるのだ。
彼が何者なのか、そもそも現状が理解不可能で頭ポーン! なのだが、初対面で鉄砲撃ってくるような人間は、少々痛い目に遭っても構わないだろう。
防壁・松の撹乱は凶悪で、逃げる時間を稼ぐには最適だ。そして、少々気が進まないが、念には念を入れる。油断はしない。
「軽装甲・枯芒! 装着!」
命令を発行した直後、甲矢導符から真っ黒な影が染み出して体を覆い始めた。駆け続ける僕の左腕から胴体へ、そして残りの手足および頭に広がっていく。そして実に一秒も経たぬ間に、僕は真っ黒の全身タイツ状態に変貌していた。
わかるだろうか。「真っ黒の全身タイツ状態」というものが。これこそが軽装甲・枯芒なのだが、まずは見た目が問題だ。厳密には全身真っ黒ではなく「甲矢導符」と「策馬式」の緑色の石が見えているのだが、それが何になろうか。これを装着すると元々身に着けていたものは(甲矢導符と策馬式を除いて)半空間に収納されるため、強制的に「全裸に全身タイツ」状態となる。これが第二の問題だ。
どういう事かわかるだろうか。単なる「真っ黒の全身タイツ状態」ではないのだ。「全裸に真っ黒の全身タイツ状態」なのだ。しかも、軽装甲・枯芒はごく薄手の素材で出来ているので体にピタリとフィットする。これが第三の問題だ。
つまり、どういう事かわかるだろうか。ハッキリ何とは言わないが、モッコリするのだ。それも少々どころじゃない。デ○ッドボ○イもびっくりするレベルなのだ。
これでは装着するのに気が進まないのも仕方ないだろう。どう考えても全身避妊具としか言いようがない。あまり人には見せたくない格好だ。率直に言って恥ずかしすぎる。
そもそも「かれすすき」なんていう昭和な名前なのも嫌になるが、悪い事に性能は確かなのだ。まり子は「軽くて丈夫で邪魔になりません」とか言っていたが、実際かなり強力な防刃性、防弾性に加えて耐衝撃性があるのでバカにならない。顔もスッポリ覆われているのに視界は良好だ。
「面白いおもちゃを持っているな」
「えっ!?」
横合いからの声にハッとして目をやると、あの男が並走していた。こんなにもあっけなく追いつかれるとは思いもしなかった。
足場が悪いせいでマトモに走れていないが、それはあちらも同じはずだ。そう考えて男を見ると、足場など物ともせずに走っていた。その顔には余裕すら浮かんでいる。
「こういうのはどうだ?」
言うが早いか、男は再びマントを翻した。
次の瞬間、男が一気に遠のいた。いや、男だけではなく、地面までも遠のいていく。
自分が空を飛んでいる事に気が付いたのは一呼吸程も経った後だった。自分の体は空高く跳ね上げられ、身動きさえできず後ろ向きに吹き飛ばされていたのだ。
男は銀色の棒を振り抜いた姿勢で僕を目で追っている。あの銀色の棒で叩かれたのか? 多分、野球だったらホームランだ。どれだけ馬鹿力なのだろう。それにしても、装備しておいてよかった。軽装甲・枯芒には感謝、感謝だ。
フッと、浮遊感に襲われて我に返った。落下が始まったらしい。男はまだ元の場所に居る。吹き飛ばされたのはむしろ幸いだったか。
期せずして稼げた距離を無駄にする手はないだろう。着地後はすぐに駆け出せるよう準備すべきだ。しかし着地まではどうする。空中では動きようがない。いや、策馬式を使えば飛行できるはずだ。だが、これの制御方法はまだ習得していない。どうする!?
躊躇していると、男に動きが見えた。マントをはぎ取り、脚を大きく開いて中腰の構えを取った。すると、大腿と二の腕の外側がガバリと開き、その中に何か円い物が沢山並んで見えた。それが何かと考える前に、その丸い物が連続で「射出」された。
あれはミサイルだ!
「防壁・松! 多重展開!」
再びの多重展開だ。今度は自分を中心に立方体を成すよう配置する。
甲矢導符を基点に発生するこれらの装備は、配置する場所を思考で操作できる。本当は、装着や展開まで思考で操作できるのだが、暴発が多いので音声操作方式に設定してある。しかし、音声操作ではその内対応が追いつかなくなるだろう。
果たして、防壁・松で耐えられるだろうか。
ミサイルは白煙を上げながら飛行し、個々に異なる軌道を描いて僕の元に殺到した。そして、着弾する。
辺り一面で炸裂する炎と煙が見える。防壁・松は最初の数発まで持ち堪えたが、直後に亀裂が走るのが見え、そのまま砕け散った。
この場合「撹乱」は外向きに発動する。砕け散った防壁・松の欠片はミサイルへと襲い掛かり、次々と爆破させていく。
どうにか直撃は免れそうだが、煙で視界が塞がれてしまった。
まさか。
冷たい物が背中を走った。仮に、今の攻撃が視界を奪うのが目的だったとしたら? いや、当初の狙いがどうあれ、僕がこの状態である以上、あの男からすれば強力な一手を打つのに最高の機会でしかない。
どうする!? 次に来るのが防壁・松で防げない攻撃だったとしたら? 軽装甲・枯芒はあくまで「軽装甲」だ。信用しすぎない方が良い。
となれば、逃げるしかない。しかし、未だ落下は続いており、宙に浮いていては身動きが取れない。こうなれば、イチかバチか策馬式に賭けるしかない。だが、使い方がわからない!
「くそっ! 策馬式!」
苦し紛れにその名を叫ぶと、胸元から緑色の光が溢れだした。やった! と思うも、先程とは様子が異なるのに気づいた。
さっき、あの真っ暗な空間では緑色の光が球体となって体を包み込んだが、今は体を包むほどの大きな光は出ていない。ごく小さな、それでいて何か図形の様な光が目の前に投射されていた。
緑色の光が描く図形は徐々に明確な姿を現していき、最終的に形作られたのは。
「ライトニングブレット!?」




