第1話 妖刀は聖女を救う
薄暗い室内に、一人の若い女が入ってきた。
彼女は数人の兵士に連行されている。
薄汚れた白い軍服に魔力封じの首輪。
傷んだ金髪の間からは、陰りのある眼差しが覗く。
女からは生気を感じられず、どこまでも無気力な顔付きをしていた。
まるで死体だ。
いや、死体よりも酷い。
女はすべてを諦めていた。
その姿を見ているだけで、憐みと苛立ちを覚える。
赤の他人だが、あまりにも情けなかった。
「ほら。さっさと歩けよ」
半笑いの兵士が、気まぐれに女を突き飛ばした。
女はよろめいて倒れる。
床に膝を打ったはずだが、痛がるそぶりを見せない。
さらに兵士達が嘲りの言葉をぶつけるも、女は一向に反応しなかった。
果たして内容を理解しているのか。
それすら怪しい状態である。
兵士達は、つまらなさそうに舌打ちをした。
(酷い有様だな。これが現代の英雄か)
俺はこの女の素性を知っている。
いつも物置に押し込められている身だが、噂話くらいは耳にしていた。
聖女ネア・カーシュナー。
この国で発生した内戦の中心人物だ。
長きに渡る内戦のきっかけは、先代国王の急逝であった。
実権を握った跡継ぎの息子が暴走し、十二年にも及ぶ争いの下地を作ったのだ。
新王の政治は破滅的だと聞く。
それは今も変わらないらしい。
貴族達の間では汚職と賄賂が蔓延し、過度な徴収が身分差の悪化や慢性的な飢餓を招いたという。
困窮する民が反逆を起こして、それが国内全土に波及したのは自然の摂理と言えよう。
そうして勃発した戦いは、王国からの離反を掲げる独立派と、民の鎮圧と圧政を目論む新王派による二勢力の衝突へと移行する。
戦禍に包まれた王国は、内側から分裂した。
その中でもネアは、独立派の先頭に立っていた一人である。
内戦が始まって十二年目、ネアは停戦と独立の許可を申し入れた。
双方の陣営が疲弊し、このままでは王国の存続も危ういと彼女は主張した。
新王派は提案を呑む代わりに、ネアの身柄を引き渡すように要求した。
ネアはこれを承諾し、新王派に幽閉されることになった。
自らの犠牲で内戦を終息させられるのなら、本望だったのだろう。
ところが、新王派は約束を破棄した。
聖女という柱を失った独立派へと侵攻を再開し、狂気的な攻撃性を以て独立派を蹂躙し始めたのだ。
被害を度外視した進軍で、独立派の主要人物を次々と処刑していった。
その仕上げが、ネアというわけである。
彼女は、相手の善意を信じすぎた。
身柄の引き渡しは、実に愚かな選択だった。
その高潔な精神性が仇となったのだろう。
現在、独立派は辺境の地域で最後の抵抗をしているらしい。
彼らは僅かな希望――聖女の帰りに縋っているのだ。
まだ多少は粘るだろうが、いずれ戦線は破綻する。
このままだと、新王派の勝利で内戦は終結するはずだった。
それにも関わらず、ネアの顔に焦りは見られない。
焦りどころか、すべての感情が死に絶えていた。
まるで人形のように座り込んでいる。
身柄を拘束されたネアは、今から闘技場の戦いに参加する。
奴隷同然の扱いで、殺し合いの賭け試合をさせられるのだ。
言うなれば処刑と同じである。
その命を娯楽のために浪費させられるわけだが、絶望した彼女はそれすらどうでもいいらしい。
(停戦の申し入れなんて、間抜けなことを……)
今も兵士から侮辱されるネアを見て、俺は呆れ返る。
彼女のような人間は、過去に何度も目にしてきた。
大して珍しくもない。
愚かという表現がお似合いだった。
「こっちに来い」
兵士の一人が、ネアの腕を掴んで引く。
そうして彼女を武器の並ぶ棚まで誘導した。
武器は様々な種類が用意されていた。
ただし大半が錆び付いており、血で汚れたものも多い。
品質は最悪に等しかった。
「お前が試合で使う武器だ。さっさと選べ」
兵士が催促しつつ、ネアを棚に押し付ける。
虚ろな目がゆっくりと動き、武器を眺め始めた。
言われていることは理解しているらしい。
(はてさて、どれを選ぶ?)
俺は期待を込めてネアを見守る。
この選択次第で、彼女の運命は大きく切り替わる――かもしれない。
まだ確定ではないものの、重要な判断には違いなかった。
「…………」
やがてネアは、緩慢な動きで手を伸ばす。
その先にあるのは、一振りの古びた刀だ。
地味な鞘に収められており、柄には布が巻かれている。
刀は、棚の目立たない箇所に置かれていた。
彼女が何を考えたのかは分からない。
動機を訊いたところで、まともな答えは返ってこないだろう。
ただ確かなことは、ネアがその刀――すなわち"俺"を選び取ったという事実である。
細く白い指が触れた瞬間、俺は昏い喜びと興奮を覚える。
(ようやく担い手が現れたか)
一体、何十年ぶりのことだろう。
この薄暗い部屋に閉じ込められてから、相当な年月が経った気がする。
退屈な日々を送ってきたが、それもひとまず終わりそうだった。
聖女と巡り合わせてくれた運命に感謝しなければ。
「…………」
刀を手に取ったネアは、やはり無反応だった。
俺の存在もきっと感じ取れていない。
本当になぜ選ばれたのか不明であった。
実は担い手ではないのかと不安になってしまう。
一方、兵士がネアに忠告をする。
「その刀は呪われていて、誰も引き抜けない。特に害はないが、武器としての価値はないぞ。鞘に収めたまま鈍器として使うことになるが、いいのか?」
「…………」
尋ねられたネアは、ただ佇むだけだった。
口も開かず、天井の染みを見つめる始末である。
彼女は刀を気に入ったわけではない。
そもそも戦う気がなく、武器にこだわる必要がないのだ。
ネアはひたすらに死を待っている。
(駄目だな。心が塞がっている)
早くも見切りを付けていると、兵士が部屋の奥にある門を開く。
室内に日光が差し込んできた。
門の向こうからは、大勢の人の気配が感じられる。
ネアは兵士に促されて外に出る。
彼女を迎えたのは、糾弾の嵐だった。
円形の地面を囲う観客席から発せられたものである。
観客席は後列へ行くほど高くなっており、どこからでも中央の地面を見下ろせるような設計となっていた。
ここは闘技場だ。
定期的に残酷な娯楽が実施される地である。
前方には十人の剣闘士が待っていた。
半裸の男達は各所に防具を纏い、無骨な武器を握っている。
彼らは一様に嗜虐的な笑みを浮かべていた。
此度の試合の相手だ。
ネアを嬲り殺しにするつもりなのだろう。
立ち振る舞いからは、それなりの場慣れを感じさせる。
そのような状況にも関わらず、ネアは無防備だった。
刀を持ったまま、ただ茫然と佇んでいる。
その視線は、虚空を彷徨っていた。
死にかけの子犬でも、簡単に彼女を食い殺せるだろう。
罵詈雑言が乱れ飛ぶ中、闘技場に鐘の音が響き渡った。
王の演説が始まる合図だ。
それを知る民衆は、一斉に口を閉ざす。
闘技場に張り詰めた静寂が訪れた。
最上段付近に設けられた特別席にて、不遜な表情の男が立ち上がる。
男は遠目にも分かるほどに上等な服を着ていた。
真紅のマントと、宝石のはめ込まれた杖がよく目立つ。
過度に豪華な装いは、やや持て余した印象を受けた。
言ってしまえば似合っていない。
しかし双眸に宿る野心と攻撃性は、人並み外れた強さを持っている。
その男こそ、内戦を招いた新王であった。
王は朗々とした口調で話し始める。
「聖女を騙る大罪人よ。長きに渡って王国に混乱をもたらしたその所業、万死に値する。悪の権化に等しいと言えよう」
ネアを批難するその声は、闘技場全体に聞こえるほどの大きさだった。
拡声の魔道具を使用しているのだろう。
民衆は静かな熱狂に包まれている。
「しかし、我々も鬼ではない。偽りの聖女よ――貴様に挽回の機会を与えてやろう」
ここで観客席から拍手と歓声が沸き起こる。
吐き気を催す光景だった。
俺の心境をよそに、王は話を続ける。
「この試合で勝ち残った場合、貴様は無罪放免とする。加えて巨万の富をやる。内戦に関する王国の非を認め、独立を許可してもいい」
民衆の間にどよめきが生じる。
王の提示した条件に驚いているのだ。
賭け試合の褒賞にしては、あまりにも破格であった。
もっとも、実際は試合に勝たせる気などないのだろう。
魔力封じの首輪や、この人数差が良い証拠である。
何より本人が生存を諦めていた。
これで勝てるはずがない。
一旦は驚いた民衆だが、大多数がそれを察しているようだった。
彼らは、ネアが惨殺される姿を心待ちにしている。
その愉悦を感じるためだけに、観客席を埋め尽くしていた。
「自らの正当性を訴えるのなら、武によってそれを証明してみせよ。真の英雄の力を発揮するがいい」
そこまで言い終えた王が着席し、再び鐘の音が鳴り響く。
演説の終了と、戦いの開始を報せる合図だった。
悲劇を期待する観客席が、歓声を上げて熱狂する。
十人の剣闘士は、軽快な動きでネアを包囲し始めた。
下卑た笑みは、勝利を疑っていない。
すぐに接近したりせず、武器を打ち鳴らして場を盛り上げていた。
この時間を少しでも楽しもうとする心意気が垣間見える。
「…………」
散々な扱いを受けながらも、ネアは未だ脱力していた。
置物のように静止している。
完全に殺される姿勢であった。
(この女……)
俺はどうしようもない不快感に苛まれる。
いい加減、我慢の限界だった。
ここで黙っていられるほど、俺は気の長い性格ではない。
渦巻く怒りを隠さず、ネアの心に話しかける。
『なあ、こんな扱いをされて悔しくないのか?』
「……誰でしょうか」
ネアが初めて発言する。
澄んだ声音だった。
感情の起伏に乏しいものの、上品さが感じられる。
『そんなことはどうだっていい。質問しているのは俺だ。さっさと答えろ』
俺は乱暴な口調で問い詰める。
ネアは周囲の剣闘士を一瞥した。
無表情のまま、彼女は内心を打ち明ける。
「私は、運命を受け入れます。世界に不要だと判断されたために、こうして死に導かれたのです。何も悔いはありません」
『クソみたいな理論だな。反吐が出そうだぜ』
俺は舌打ちしたい気分に陥る。
絶望で心が壊れたかと思いきや、とんだ思考の持ち主だ。
好きになれない人種である。
綺麗な言葉を並べて、動こうとしない臆病者だった。
俺が苛立つ一方、ネアは持論を述べていく。
「正義のために戦った結果が、今の状況です。これが運命だと言うのなら、甘んじて肯定する他ありません。そもそも私は、この場から生還する手段を持ちませんので」
『じゃあ、これも運命の出会いってやつだな』
「――どういうことでしょうか」
興味を抱いたのか、ネアが顔を上げる。
その眼差しは、俺の居場所を探している様子だった。
ようやく見せた人間らしい反応である。
しかし、剣闘士達がそろそろ仕掛けてきそうだ。
急がなければ間に合わない。
それに気付いた俺は、ネアに一つの提案を行った。
『あんたに生き残るための力を与えよう。対価はあるが、誤差の範囲さ。死ぬよりマシさ』
歴代の担い手達に告げてきた言葉である。
久々だったが、淀みなく伝えることができた。
『死に導かれたんだって? それなら逃れる手段をくれてやるよ。さあ、どうする』
「…………」
ネアは沈黙する。
ただし、先ほどまでとは性質が異なった。
彼女は逡巡しているのだ。
凛々しい眉を寄せて考え込んでいる。
『正義のために立ち上がった戦争が、こんな結末でいいのかよ。あんたが諦めれば、それだけ多くの命が無駄になるんだ。聖女様はそれを喜ぶってことだな?』
「いえ……」
ネアは否定しようとして、すぐに口を閉じた。
だが、出てしまった言葉は取り消せない。
俺は駄目押しの誘いをかけていく。
『もし話に乗るのなら、刀を抜け。それだけでいい』
「…………」
ネアの目に生気が宿る。
歯がしっかりと食い縛られた。
彼女の心臓は、鼓動を速めていく。
無気力な死にたがりの女は、もう消え失せていた。
そこに立つのは、逆境と対峙する聖女だ。
絶望に瀕する英雄は今、奮起しつつある。
ネアが刀の柄に手を添えた。
彼女は呟くようにして意志を口にする。
「――別に命が惜しいわけではありませんが、これも何かの縁です。たとえ死を乗り越えられなかったとしても、私はそれを肯定しましょう。もし生還できたのなら、聖女の使命に従います」
ネアは慎重に刀を引き抜いていく。
金属の擦れる音と共に、曇りなき刃が露わとなった。
その途端、彼女の身体に異変が生じる。
噴き上がる風を受けて、金髪が浮き上がった。
それが端から紺色へと染まっていく。
目も緑色から鮮やかな赤色に変わった。
刀の柄に巻かれた布が、ネアの身体に絡まっていく。
彼女は自らの変貌に驚愕する。
「これは……っ」
『契約成立だ! おめでとう、あんたは妖刀の担い手となった。さっそくだが肉体を借りるぜ』
俺は一方的に告げると、ネアの意識を抑え込むようにして、彼女の身体を強奪する。
その勢いで主導権を乗っ取った。
五感の冴えを知覚しながら、両脚で地面を踏み締める。
「ふむ」
俺は刀を抜き放つ。
手に馴染む感触だった。
こいつで数え切れないほどの人間を斬ってきたのだから当然だろう。
今では名実共に俺の一部である。
刀と鞘を手にした俺は、次に身体の調子を調べた。
手足を軽く動かして確かめていく。
(ちょいと衰弱しているが……まあ許容範囲だな)
俺が人間だったのは大昔のことだ。
もはや細かい年月すら覚えていない。
借り物とは言え、やはり肉の身体は良い。
贅沢を言っていられない身でもあった。
いつか人間に戻るためにも、大量の魂を刈り取らねば。
それこそが、俺の存在目的だ。
一方、聖女の変貌を目にした観客は騒然としている。
先ほどまでとは明らかに違う空気だった。
少なからず不安を抱いている。
それは剣闘士も同様だ。
直前の余裕が消失し、怪訝そうな目つきをしていた。
ふざけるのを止めると、こちらの動きの観察に集中する。
察しが良い連中が揃っているようだ。
「さて、どいつから斬ろうか」
左右に刀を揺らしながら、俺は剣闘士を吟味する。
少々の思案を経た後、地面を蹴って駆け出した。
狙いは、最も近くにいた剣闘士だ。
ちょうど真横にいた男である。
「うおっ!?」
その男は、慌てて斧を横薙ぎに振るってきた。
豪快な一撃は、軌道が単純で読みやすい。
俺は滑り込むようにして躱すと、半身になって踏み込む。
そこからすくい上げるようにして、男の胸に刺突を繰り出した。
刀の切っ先が胴体を突き破る。
体内を蹂躙した末、心臓の中心を捉えた。
柄を捻ることで傷口を抉っていく。
「ゴ、ガァ……ッ!?」
痙攣する男は、天を仰ぎながら血を噴いた。
真っ赤な鮮血の雨が、俺と地面に降りかかる。
懐かしい生温かさを覚えつつ刀を引き抜くと、男は崩れ落ちた。
次の瞬間、観客席から悲鳴と怒声が上がる。
予想外の展開を前に、人々は混乱しているらしい。
無力な聖女が、まさか剣闘士に勝つとは思わなかったのだろう。
直前の変貌も相まって、恐怖を植え付けることに成功したようだ。
「けっ、いい気味だぜ」
俺は特別席に注目する。
王は、目を血走らせてこちらを見下ろしていた。
明らかに怒り狂っている。
望まない光景を受け入れられないのだ。
鼻を鳴らした俺は、刀の血を振り払う。
「待ってろよ。すぐに斬ってやる」
血塗れの顔で、俺は嬉々として呟いた。
お読みくださりありがとうございます。
毎日投稿で進めていく予定ですので、よろしくお願いします。