秋の夜の夢
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ
(秋の田の傍にある粗末な仮小屋は、苫葺き屋根の目が粗いので、私の衣の袖は屋根から漏れる露に濡れそぼっている。)
『後撰集』
天智天皇
「恋する阿呆は死ぬほどばかをするもんだ」
『夏の夜の夢』
ウィリアム・シェイクスピア
休日に登山をしていると、知人と出くわすことが稀にある。
健康的な趣味を楽しんでいるからか、みんな若々しく僕の目には映る。
山の新鮮な空気や景色が、彼らとの邂逅をより神秘的なものへと仕立ててくれる。
僕が廣瀬くんと四年ぶりの再会を果たしたのは、一月ほど前の山の険しい森の中を一人で歩き回っていた時だった。
既に陽が沈みかかって辺りは薄暗くなっており、どこかテントを貼れる場所はないかと僕は遠くを見回していた。
それで、目の前の大きな石に気付かずに、あやうく躓き転びそうになった。
よろめく体を大きな木にもたれかけて、大きく息を吐くと、少し離れた場所から、誰か人が近付いてくるのが見えた。
やがて僕の目の前まで来ると、僕は懐かしさのあまり、あっと声を上げた。
廣瀬くんだった。
その姿は最後に会った時から全く変わっていなかった。
少し肥満気味だが、至って健康的で表情も昔と変わらず穏やかだった。
彼が登山をしていたことが、僕には意外だった。
彼は、僕の職場の取引先に勤めていた。
僕が彼の職場に行くと、彼はいつもニッコリと笑って穏やかに僕を迎えてくれていた。
口数は少なく、器量も特別良いというわけではなかったが、どことなく人から好印象を持たれるタイプの人間で、事実、僕も僕の職場の同僚もみんな彼に好感を抱いていた。
彼は四年前に勤め先を退職した。
僕は彼と連絡先を交換していたわけではなかったから、彼のその後について知ることができなかった。
意外なことに、彼の勤めていた職場の人間も誰も彼の連絡先を知らなかった。
彼の方も僕を懐かしんでくれた。
ちょうど近くにテントを貼れる場所を確保したから、水を探しに付近を散策していたところだったらしい。
「良かったら、今夜は一緒に寝泊まりしないか?」
僕は、彼の提案を喜んで受け入れた。
僕のテントは、一人で寝るには充分過ぎるほどの大きなサイズだった。
それで、テントは君のではなく僕のを使おう、と彼に提案した。
彼は優しく頷いてくれた。
僕たちは、近況報告を兼ねたお互いの身の上話に興じつつ、協力して仲良く一枚のテントを貼った。
夕食は、それぞれの持ち合わせの物を美味しくいただいた。
穏やかな、秋の夜だった。
夜が深くなり、それぞれの寝袋に身を包んだ頃、彼はふっと、以前の職場の思い出を語り始めた。
その様子は、つい先程とは打って変わって、暗く、沈んだ様子だった。
「入社して二年目の23歳の時、僕は女の子にラブレターを書いて渡したことがある。
相手は二つ年上の職場の女性だった。
今の時代に、それも、そのぐらいの年齢でラブレターを書くなんて風変わりだろ?
でも、当時、僕はその子と話すきっかけがなかなか掴めなくて、どうしたら仲良くなってもらえるか必死だった。」
「それで、勇気を振り絞ったんだね。」
「うん。あまり気持ち悪く思われないように、シンプルに自分の想いを書き綴ったんだ。
でも、彼女から返事がくることはなかった。」
「......仕方ないさ。そういう時だってある。」
「間もなく、 僕は彼女にラブレターを出したことを後悔した。
フラれたからじゃない。
彼女は面白がって、僕のラブレターを職場の他の同僚に見せびらかしたからだ。
周りの大人たちはみんな、僕を馬鹿にして陰で笑いものにした。僕はそれに気付いて、辛くて居ても立っても居られなかった。」
「......その女の子は、あまり性格の良い子じゃないみたいだね。」
「......そうかもしれないね。
その子も、職場の同僚たちも、みんな僕には意地悪に思えた。
振り返ると、僕は周りから嫌われていたんだろうね。あるいは、大人しかったから、馬鹿にされていたのかもしれない。
もし好かれていたなら、周りからこんな扱われ方はしないよ。
結局、僕は最後まで自分の失敗談を笑い話に変えて有耶無耶にすることができなかった。」
「いろいろと辛かったんだね。」
「陰で笑いものにされるのも嫌だったけど、仕事で露骨にそのことを当てこすられるのはもっと辛かった。
僕の上司はもともと意地悪で、最初から、なにかと僕を目の敵にしていたけど、僕が失恋したことを知ると鬼の首を取ったかのように嬉々とした表情で、ことあるごとに僕にいろいろと嫌味を言ってきた。
『廣瀬、お前はだから女にフラれるんだ。』
『お前みたいな身の程知らずが、上司の俺や好いた女の子を不快にさせるんだ。』
こんな言葉を、毎日毎日、周りの同僚に聞こえるような大きな声で言った。
みんなは、ただクスクスと僕を嘲笑っているだけだった。
その様子を見て、僕の上司はますますつけ上がってしまってね。
次第に言葉だけでなく、物を投げつけたり、手を上げるようになった。
でも気弱な僕は、ただ黙って耐えることしかできなかった。」
彼は、そっと指で目頭を押さえた。
呼吸が、少し乱れていた。
僕は、彼が落ち着くまで、合槌も打たずに黙ってテントを眺めていた。
テントは、夜露で濡れそぼっていた。
やがて、普段の落ち着きを取り戻すと、静かな口調で彼は話を続けた。
「登山は三年前に始めたんだ。
ちょうど前の会社を辞めた時だった。
僕はもう耐えられなかった。
月並だけど、新しい環境で新しいことを始めたかった。
嫌なことを、少しでも早く忘れたかった。
今では、山の上から太陽を拝むことが一番の楽しみになってる。
新しい職場でも上手くやれている。
昔のことを思い出すことはあっても、それは過去の話だって割り切ることができるんだ。」
彼はゆっくりと深呼吸して、
最後に「もう、寝ようか。」と僕に言った。
「うん。」と僕も返事をした。
僕はゆっくりと目を閉じた。
間もなく、心地良い睡魔が僕の身体を包み込んだ。
翌朝、目を覚ますと、彼の姿はなかった。
太陽の光が、テントの隙間から僅かに漏れ出ている。
僕は、急いで寝袋を脱いで、テントの外に出た。
太陽の眩しい光が、僕の顔面を照らしつけた。
森の中では、無数の小鳥がかわいらしい声で鳴いている。
空気は澄みきっていて、爽やかだ。
理想的な朝の景色だった。
僕は、テントから百メートルほど離れたところに立っている、昨夜躓きそうになった石の前まで歩を進めた。
そして、その墓石の前で身を屈め、目を瞑り両手を体の前に合わせた。
長い間、僕は故人に祈りを捧げた。