日常
私は普通の専業主婦です
夫は普通のサラリーマンです
たぶん、どこにでもいる、ごく普通の夫婦だと思っています
ただひとつの事を除いては…
結婚して2年、子どもはまだいません
結婚する前の、交際期間を入れたら、夫とは3年ちょっとの付き合いがあります
交際して、結婚が決まった頃、夫から…当時は彼でしたが
ある条件が出されました
「君の髪型に関しての決定権は、今後一切僕に持たせて欲しい」と…
最初は意味が判りませんでした
私の髪型の決定権…と言う意味さえも…
「だから、君の髪型はすべて僕が決めると言うことだよ」
夫は理解出来ない私に、そう説明しました
さっきも言ったように、夫は普通のサラリーマンで、
美容師でも理容師でもありません
その彼がどうやって私の髪型を決めるのか…
「つまり…これから先、美容院に行く時は、僕が同行して僕が指示する
一緒に行けない場合は、僕が言った通りに注文してその通りにしてくる」
ふざけているのでもなければ、怒っているような雰囲気でもありませんでした
「はい、わかりました」
私は何となく納得したまま、何となく納得しないまま、そう返事をしていました
「これは、約束だから…絶対に守って貰うからね」
夫はそう言うと、満足そうに大きくため息をつきました
とりあえず結婚式を控えていたので、その約束は結婚後からと言うことで
私は式に向けて、髪を伸ばし続けていました
結婚式も無事に終わり、私達は新婚旅行に行きました
夫の希望で結婚式が終った翌日の出発でした
新婚旅行に行く日の午前中…泊まっていたホテルから街に出ました
夫は私を連れて、ある場所に向かいました
そう…結婚前に決めた約束を実行する第一回目だったのです
とあるビルの二階に、その店…「美容院」はありました
ガラス張りの店内が、下の通りからでも見えるような造りでした
「じゃあ、入るからね」
夫はいつもと変わらない様子で、私に言うと、
階段を上り、店内へのドアを開けました
「いらっしゃいませ」
中にいた美容師達が声を揃えて言いました
私は…少しドキドキしていました…自分がどうなってしまうのかと思っていたのです
夫はフロントに行くと、予約していないけど、カットをお願いしたいと告げました
お客さんは確か2人いたと思いますが、手が空いていた美容師がいたので
私はそのままシャンプー台に案内されました
シャンプーが終わり、カットイスの所に案内されると、美容師が後ろに立っていました
「ご主人からお話は聞きましたから…奥様もご了解済み、との事で…」
私がアシスタントらしい人にシャンプーされている間に、
主人は担当してくれる美容師に、話をつけていたようです
私は、はい、と頷くしかありませんでした
鏡越しに見ると、主人は、私の姿が良く見える場所で、こちらをじっと見つめていました
その当時、私は式に向けてずっと髪を伸ばしていたので
長さは背中の真ん中…肩下20センチくらいはありました
シャンプーして濡れている髪をくしでキレイに梳かすと、カットが始まりました
私の髪は、私、そして回りのお客さんや美容師も驚くほど、
ばっさりと切られていきました
切っている美容師と、そして夫だけが、なぜか嬉しそうに見えました
バサバサと切られた髪が落ちてきて、私はその様子を見ていました
特別悲しいとか、イヤだとか言う気持ちはありませんでしたが
「自分がどうされるかわからない」と言う不安は続いていました
カットが終わり、ドライヤーで乾かされてスタイリングをして完成でした
耳は半分くらい見えていて、前髪も眉毛ぎりぎり…後ろは襟に付かないくらいの
ショートヘアになっていました
「かなりバッサリ切ったから、頭が軽くなったでしょう?」
美容師のそんな言葉に送られて、私は夫のもとに行き、そして店を出ました
夫は嬉しそうに、ショートヘアになった私を見ていました
それから今まで、私は約束した通り、
自分の意志で髪型を決めたり、変えたりしたことはありません
いつも夫が「そろそろ切った方が良いね」と言い出して美容院に行くか
出かけた先で、いきなり「あの店に行こう」と言い、
とび込みで切って貰った時もあります
夫が行かない時は、こう言う感じでこのくらいの長さで、と言われ
私がそれを美容師に伝えて、その通りにして貰います
だいたい、月に一度くらいのペースで髪を切っていました
だから、伸びるヒマもなく切っていたので、私の髪型はほとんどが
ショートから少し伸びては切って、の繰り返しでした
時々、ちょっと今回は短いなあ~とか
今回はあまり切らなかったな~と思う時はありましたが
全体的には、だいたい同じような長さとスタイルだった気がします
その日、夫は私の顔をじっと見つめていました
前回髪を切ってから、珍しく二ヶ月近く経っていたので
「そろそろ髪を切りに行こうか」と言い出すのだろう、と思いました
案の上、夫は手を伸ばし、私の髪に触れると、そう言いました
「うん」
私はいつものように返事をして、それで終るはずでしたが、話は終りませんでした
「今回は…少しだけ…いや、ちょっと覚悟しておいて欲しいんだ」
覚悟?私はそんな言葉に驚き、どういう意味なのか聞きました、が
夫は言いにくそうな様子をしています
「だから…今のような髪型もずいぶんやってきたし、
そのうち子どもが出来たらいろいろと大変だろうし
やるなら今しかないかなあと思って…」
いろいろと言っていましたが、結局何がいいたいのか、どうするのかわかりません
「やるって…」
「まあ、言うとおりにしてくれると言うのは約束だから…」
いつ行く、と言う事も、夫の気分で決めていましたから
翌日か、近いうちに行くんだろうと、思って
夫のその言葉で、その話は終りました
「今日行くよ」
珍しく平日だと言うのに、夕方早い時間に帰って来た夫が言いました
夕飯の支度を中断し、私は外出の支度をし、夫の運転する車に乗りました
美容院はいつも決まっていた訳ではなく、同じ店に何度か続けて行く時もあれば
あちこち違う店に行く時もあったので
今回はどこに行くのかな、と言う感じで私はただ外を眺めていました
やがて車が入って行ったのは床屋さんの駐車場でした
今まで美容院ばかりだったので、ちょっと驚きましたが
一人で行く訳でもなく、いつものように夫が一緒だったので、別に平気でした
「じゃあ入るよ」
夫の後に付いて入って行った店は、美容院とは違う、
まさに「床屋」と言う感じの店でした
夕方の中途半端な時間のせいか、店内にはお客さんはいなく
ヒマそうにしていた店主らしい男の人が、にこやかに迎えてくれました
「すぐ出来ますよ、どうぞ」
店主は、夫のほうが客だと思ったらしく、夫の方を見て言いましたが
「いや、僕じゃなくて妻の髪をお願いします」
と言う言葉を聞いて、今度は私の方を見ました
「はい、わかりました、どうぞこちらへ…」
三台並んだごつい造りのイスの、真ん中に招かれ、私はそこに腰掛けました
すぐさま白いカットクロスを持ってきて、タオル、クロスの順に首に巻き付けられました
霧吹きで髪を濡らしながら
「今日は、どんな感じにしますか?揃えておきますか?」
と店主が聞いてきました
2ヶ月切ってないとは言え、元々そんなに長くない私の髪を見てそう言ったんだと思います
いつものように、その時、横に夫が来て店主に話し始めました
「いきなりですけど…思い切って坊主にして下さい・・・・ええ、良いんです、やって下さい」
夫は冷静に穏やかに言いました
「良いんです」と言うのは、驚いた店主が私を見て、
夫に何か言い掛けたのを制したのでした
もちろん、さすがの私も驚いていました
今までロングからショート、それからベリーショートと言えるほど
短めのショートにされた事はあっても
まさか夫の口から「坊主にして下さい」と言う言葉が出るなんて、
思ってもいなかったからです
「あなた…」
私もカットクロスを首に巻かれたまま、夫の方を振り返って見ました
夫はいつもの穏やかな顔で、でも真剣な目をしてしっかりと頷いたのでした
「いいね」
私は、言い返すことは出来ませんでした…そう言う『約束』なのですから
例え、それが『坊主にしてくれ』と言う注文でも…
二人の間に流れる空気を読み取ったのか、店主ももう何も言いませんでした
と言うか、理解不能なお客は、早いところ終わりにしたかったのかもしれません
店主の持ったバリカンが、私の額に近づいて来ました
今日はいつもと違って『どんな髪型』になるかは判っています
でも、それがどう言う姿になるのかは、想像が付きませんでした
何しろ、自分の今までの人生の中で
『坊主』と自分を結びつけて考えた事などなかったのですから…
ちょっと冷たいような感触があり、やがて額から頭の上をバリカンが潜り込んでいきました
夫が『短めに』と言ったせいで、刈られた後は、薄っすらと青く見えるようでした
つむじの方まで刈ってしまうと、また額に戻して刈っていきます
ショートなのに、根本から切られた髪は、驚くほど多く落ちてきて
カットクロス、床は落ちた髪でいっぱいになっていました
上を刈ってしまうと、次は横…もみあげからこめかみに向けて
その次は耳の周り…音がすごいですが、痛くはなかったです
ただ、どんどん頭皮が丸出しになって行くのは、やはり恥ずかしくて
つい俯きがちになってしまいました
その俯いた私の頭を、店主が更にぐっと下を向かせました
最後に残った後ろの髪を刈るためでした
襟足から入れられたバリカンが、一気に後頭部の上まで上がっていきました
バサバサと髪が落ちていくのが見なくても判るほどでした
後ろをすっかり刈られて、私は初めて、頭が涼しくなった事に気が付きました
仕上げに、もう一度全体を刈られて、それで終わりでした
鏡に映った自分を見て、夫を責めようとか、そう言う気持ちもあったのですが
恥ずかしさの方が先にたって、そのまま店を出て車に乗り家に戻って来ました
でも・・・夫の方も恥ずかしそうでした
じっと見つめているのは判るのですが、私が見ると、ふっと目を逸らすのでした
「変な人…自分でやれと言ったのに…」
私は夫にそう言いました
あれから二ヶ月…今私の髪は2~3センチと言う感じです
外出する時は、帽子をかぶるか、夫が買ってきてくれたウィッグを付けています
これからどうするのかは、私にはわかりませんが、また夫が決めてくれると思います
このようなことが、あまり理解されることではないと思いますが
夫と私にしかわからないことでも良いんです
いつも穏やかで優しい夫…私はその夫の言う事を聞いてついて行くだけです
それが、夫と私の『日常』なのです