取り上げ婆の災難
※中国の志怪小説和訳風味。清末に纏められた文章のつもり。
※もしかしたら微エロ・微グロかも。
康熙十七年の冬のことである。
雲南の麗江に楊鴻という名高い取上婆がいた。
彼女は夫と息子に先立たれ、町の外れに独り身で過ごしていたが、
ある晩、そのあばら家の戸をそっと叩く者がいた。
戸を開き、灯を掲げて客の顔を見上げると、其処には尋常ならざる風体の男がいた。
髪はざんばら、眼光は鋭く光り、只人とは思えなかった。
「産婆の楊鴻とはお主か」
「そうだが」
「援けが欲しい、来てくれ」
彼女は(さては羅刹か夜叉か)と警戒し、急いで戸を閉めようとしたが、
それより早く男は彼女の腕を握りしめ、外へ引きずり出した。
叫ぼうとした刹那、腹部に衝撃が走った。
***
空中に浮遊する感覚の中で意識は戻ったが、視覚は戻らず、口も四肢も思うようにならなかった。
「気付いたか」
喰われとぅない!と叫ぶことも出来ず、迫り来る死に恐懼していた彼女の背後から、男の声がした。
「すまぬが、道中は見せられぬ。お主が大任を果たしたら、帰路はもっとよい待遇で運んでやる」
大任?
どこぞのお屋敷の奥様が難産なのだろうか。
だったらもっと…立派な身形の者が来て、馬車に乗せるぐらいはするだろう。
道中は見せられぬ、とはどういうことだ。
もしや、盗賊がかどわかした女を孕ませて、根城を嗅ぎ付けられるのを恐れた結果の措置とでも言うのか。
その場合、無事に盗賊の子は産まれても、自分は口封じに殺される可能性が高い。
「心配するな。俺の家で見た事を口外せぬと約せるなら、後日多大な報酬をお主の家に寄越そう」
嗚呼、口外などしませぬから、報酬などいりませぬから、命だけは、命だけは。
ただ、ひゅうひゅうと風を切る感覚と、次第に冷たさを増していく気温を感じる事しか出来なかった。
どっかと、背に振動を感じた。
今まで自分は馬に括りつけられていたのではない、男が自分を背負って走ったのでもない。
―――男は自分を背負った状態で空中を浮遊していたのだと、おぼろげながら理解した。
「拘束は家に入ってから外す」
男が戸を開ける音がし、暫くして楊鴻の拘束は全て外された。
「手荒な真似をして済まない。部屋はこちらだ」
強く手を引かれながら、窓に視線を移すと――――
―――雪山が連なっているのが見えた。
(果て、ここはとても人の住む所ではないぞ)
掌に嫌な汗が浮かぶのを感付かれたのか、急に手を引く力が強くなった。
「大任を果たせ」
まるで、お屋敷の様な寝台。
その帳の向こうから、女の呻き声が聞こえる。
(この男の女なのは間違いなさそうだが、正式の婚姻かどうか。いずれにせよ、下界には戻れぬ身なのだろうな)
楊鴻は、帳の中へ入った。
女は、予想していたより若く、美しい事が見て取れた。
(不憫な娘じゃ)
(恐らくあの、人とも魔ともつかぬ男に下界から攫われ)
(何処ともつかぬ、男とのたった二人の世界に連れて来られ)
(身も心も嬲られ、蹂躙されて)
(挙句、その身に望まぬ胤を宿し)
(人ではないかも知れぬ子を産む羽目になろうとはな)
「ああ…言い忘れていたが」
また男の声がした。
「いまから産まれるのは人の形をしてはいない。強いて言うなら…赤子並の大きさの蚕の繭が出てくると思え」
さて、この女は今から怪異を産む事と、男の方は人の形をした怪異で或る事が確定となった。
しかし、逃げたら命はないだろう。
そもそも、ここは人の住む所なのだろうか。
楊鴻はそれでも、役目を果たそうと女に近づいた。
女は、苦しい息の下から懇願した。
「どうか…この子を見ても…傷つけないで…」
果たしてそれは本心か。
男の言う通り、大きな繭がこの女の腹から出るとしたら、脅されているのだろう。
異類を産めば気がふれる。
いや、もう既にこの女は狂っているのだろう。
やがて女の腹から出てきたのは―――人間の赤子程もある繭であった。
『母』はさぞかし愕然としているかと思いきや―――微笑んですらいた。
『父』と思しき男を呼ぶと、喜んでそれらを抱きしめていた。
女の貌からは、嫌悪の情は一筋も見られなかった。
人と人の間でも時折見られるその感情が。
更に観察すると、男は女と繭を敬う様な仕草も見せていた。
捕えて来た女にここまでする必要があろうか。
もしかすると、もしかすると。
この親達の関係は自分が思っていたのとは全く逆で。
主は女の方ではなかろうか。
そして元々人であったのは男の方で、この女は―――
やがて男は顔を上げると、楊鴻に向き直った。
「大儀であった。褒美は後ほど送ってやる」
言うなり、目隠しをされた。
***
厚手の綿布にくるまれ、再び男の背に負われ、寒風吹き付ける中を舞い跳んだ。
着地したのを感じ取る。
「何とか夜が明けるまでに戻れたな…もう少しの辛抱だ」
男は、戸を乱暴に開けると、中に楊鴻を下ろした。
「布と目隠しは、自分からは外すなよ。町の者が来るまで待て。
何か問われたら、『盗賊が押し入ったが縛った時点で盗る物がないと悟って撤収した』と言え。
真実を話したら…予想はつくよな?」
その言の葉に本能的に危機感を持った彼女は、頷くほかなかった。
戸の閉まる音と、何か大きなものが飛び立つ音がした。
***
日が高くなっても一向に出て来ない楊鴻の様子を見に来た農夫が見つけたのは、
厚手の布に包まれたまま荷造りでもされたかのように縛られ、目隠しをされた老婆の姿であった。
慌てて解くと、まだ息が合った。
楊鴻は、男に言われた通りの台本を語った。
「楊ばあさんの家に忍び込むなんて、とんだ間抜けな盗賊だなあ」
「町のはずれだから、町の真ん中の御屋敷よりは楽だと思ったんじゃないの?」
結局、この時点では楊鴻は上等な布団を一枚得ただけであった。
それから二、三日後の深夜。
落石の様な音を町の者の多くが聞いた。
その音は楊鴻の家の方角から聞こえた。
***
翌朝、楊鴻が見たものは。
とても人の手では持ち運べぬ、二百斤程はありそうな霊芝であった。
霊芝が落ちたのは楊鴻の家の敷地だったため、その所有権は彼女に帰する事となった。
誰も見た事の無い大きさの霊芝はすぐさま都へ献上されることが決まり、
楊鴻は残り少ない人生を栄華の中で過ご―――せる筈であった。
諸君、今ここに真実が記されているという事は、何を意味するであろうか?
そう、彼女は男との誓約を全う出来なかったのである。
『布団の怪事の後の慶事だ、あの婆は何かよからぬものと約したに違いない』
彼女の降って湧いた富貴を羨んだ者が、問い詰めた。
最初は楊鴻もはぐらかしていたが、とうとう男とその女の話を白状してしまった。
『妖のお産を手伝って、お代が富貴か。その妖の居場所を教えてくれ』
楊鴻は『目隠しされていた故、よくわからないが人が行き来出来る場所ではない』とだけ答えた。
かれは、『妖は見ようと思って見えるものではないのだな』と諦めた。
***
その晩、楊鴻の戸を叩く者があった。
心当たりのあった彼女は、すぐさま戸の後ろに漬物石や水瓶など、思いつくだけの重い物を配置したが、
それも空しく、戸とその背後の家財は紙の様に蹴破られた。
暫く後に、老婆の絶叫が町の全てに響いた。
後に残されていたのは、
全身の血を抜かれた楊鴻の無惨な屍と、
短時間の間に荒らされたあばら家ばかりであった。
北京から褒美の銀三百両を運んできた使者は現地に着いてから楊鴻の死を知り、
半分を彼女の墓に、もう半分を麗江の令に下賜した。
その墓は今も麗江の何処かにあると伝えられているが、確かな場所を知る者は最早いない。
霊芝も帝に献上する前に何者かに盗まれて、行方知れずとなった。
短くてすみません。
一応元ネタは《捜神記》にある虎と産婆の話です。
霊芝は古代から不老長寿の薬として珍重されて来た歴史があり、
長い間収穫されずに放置されていると100kg近い物も取れるらしいです。