異世界化学工業・石鹸はチートの夢を見るか
まず最初に謝らなければならない。石鹸製法に関する以前の文章で、油に灰を混ぜても石鹸にはならないと書いた。どうやら石鹸になる(事もある?)らしい。
無人島を開拓するアイドル番組で実際に作ってみせていた。櫨蝋に木灰を混ぜて煮込み、一晩放置。固形で、泡も立ち、ちゃんと石鹸になっていた。
色々思う所はある。しかし事実は認めなきゃね。うん。申し訳無い。
それでちょっと調べてみたんだよ。
石鹸は原料となる油脂によって性質が変わる。泡立ち、汚れ落ち、冷水への溶け易さ、香り、硬さ。
私の調査が確かならば、洗濯石鹸の原料はピーナッツ油が最高品質。オリーブ油がそれに次ぐようだな。そして櫨蝋のソーダ石鹸は60℃以上の温水には溶け易くて汚れが良く落ちる。これをカリ石鹸にすると、皮膚の汚れだけ落として必要な皮脂は残すという極めて高品質な洗顔石鹸になる模様。
残念ながら櫨は東〜東南アジアの木だ。ヨーロッパでは蝋と言えばほとんど蜜蝋だけみたい。櫨蝋はかつて日本の重要な輸出品で、 Japan Wax と呼ばれて珍重された。日本酸 Japanic acid と言う特徴的な成分が高品質の要因らしい。日本の国名を冠する物質名か、中二心をくすぐられるねぇ。
あれ、そうすると蝋燭は?教会なんかじゃ日常的にキャンドルを消費するよね?最初はどうやら獣脂を使ったらしい。うん、想像通り、かなり臭かったみたい。そのため次第に蜜蝋を使うようになったが、やっぱり超高級品だった模様。
石鹸もやっぱり獣脂から始まる。獣脂と草木灰と石灰で作ったカリ石鹸だから、臭いし軟らかいしで洗濯に使うのがやっとという有様。それでも家内工業が成立する位には量産されて、専門の職人まで居たとか。それが中世と呼ばれる時代区分の初期の頃。
これは数百年後、中世文化の花開く盛期の頃に改善される。オリーブ油と海藻灰と石灰のソーダ石鹸が、フランスはマルセイユで作られて一世を風靡する。マルセイユ石鹸の始まりだ。このオリーブオイルの香りが仄かに漂う硬くて使い易い石鹸の製法は、地中海周辺の領地が独占した。原料がその周辺の特産だったからね。
で、海藻灰と言いつつ、実際には主原料はアッケシソウの仲間の salsola soda らしい。本物の海藻も少し使われたらしいけど。海藻の成分は、ナトリウムの他にカリウムも結構含まれるんで、その意味では品質は落ちた筈だ。ただ、当時、ナトリウムとカリウムは区別していなかったらしいね。
とまぁ、石鹸の薀蓄としては面白いんだけどなぁ。困った事に、石鹸の発明はチートにならなくなっちゃった。うっかり石鹸工場を興してギルドに持ち込んだ日には、その場で捕まって処刑されちゃうかも。なんてったって最盛期の貴族の利権に正面から喧嘩を売るんだからねぇ…
可能性があるとすれば、この頃はまだ贅沢品だったって事かな。庶民向け商品としてなら交渉の余地はあるだろうか。
石鹸が庶民にも普及したのは18世紀、産業革命の頃。ソーダ灰の生産が農業から工業に転換した事による。化学的合成に成功したんだ。ルブラン法とかソルベー法だな。手軽さと公害の観点からソルベー法がお薦めだ。
食塩水にアンモニアを溶かし、二酸化炭素中に噴霧して反応させる。アンモニアによって二酸化炭素が反応し易くなる所にミソがある。そして重曹が沈殿し、塩化アンモニウム(通称、塩安)が水溶液中に残る。塩安は優秀な肥料だ。石灰と反応させてアンモニアを回収しても良い。そのとき残った塩化カルシウムは融雪剤だね。塩害が気になるけど。あるいは苦汁の代用品として豆腐を作れる。
中世で問題なのはアンモニアかなぁ。産業革命になれば石炭からコークスを作る過程でアンモニアが出るらしいんだけど、中世じゃねぇ。オシッコの醗酵しかないかな。排泄物を使うって、日本人ならともかく、中世ヨーロッパの人達は嫌がるかな。どうかな。
ハーバー・ボッシュ法って工業的合成法もあるけど、こいつは触媒と高温高圧を操る必要があってね。剣と魔法の中世風異世界だとドワーフの秘術が頼りかも。ただドワーフも嫌がるんじゃない?出来るのがアンモニアだからさ、猛烈に臭くてさ…
まぁ、そうやってソーダ灰を量産して、石鹸貴族に売り込むならイケる。と考えたいけど、これも危ないかも。ソーダ灰そのものが外交上の重要物資だった可能性がある。
当時のソーダ灰はスペインが作ってたらしい。バリラと言えば有名だ。で、フランスはこのスペインの争奪戦(スペイン継承戦争)に敗れて、それでソーダ灰を絶たれてるんだよね。困った当時のフランス王が、アカデミーと共にソーダ灰生産方法に懸賞金を…という流れでルブラン法が発明されてる。
つまりソーダ灰も利権として確立してるかも知れない。外交を熟慮しなけりゃこっちの首が危ないぞ。
という訳で、石鹸チートしたいなら社会背景をものすごく考えないと、という結論なのだった。うむむう。
2020/09/30
日本テレビの人気番組「所さんの目がテン!」2020年9月27日放送分でも、木灰と獣脂から液体石鹸を実際に作る実験を放映していた、と御指摘をいただきました。
ブナの仲間の木を燃やして灰を作り、猪の脂を熱して液状にしたものを煮込んでました。現代の固形石鹸などのように激しく泡立つ物ではありませんが、手に付けた口紅程度なら問題無く洗い落としてましたね~
石灰が無くてもちゃんと石鹸になるようです。獣脂と木灰だと液体石鹸にしかならない、との解説もありました。
 




