異世界化学工業・紙には鉛筆が良く似合う
さて、前回は紙を作った訳だけど、実は異世界では問題がある。質が悪いんだよ。羊皮紙と比べるとね。
木紙は、滲む。紙の構造に起因する物理的な特性でね。親水性の高い繊維を敷き詰めた構造だから、水が乗ると毛細管現象で吸い込んじゃう。つまり水性インクは滲むという訳だ。
う〜む…メモ程度ならパピルスで十分じゃないかな。どうもパピルスはあんまり滲まないみたいなんだ。パピルスの作り方は調べて欲しいんだが、細菌が繁殖して糊代わりになる粘性物質が生成されるらしい。あるいはそれが滲み止めとしても働くのかな。良くわからん。
ただ、パピルスを栽培しようと思ったら、異世界だと地域を選ぶ事になりそうでね。寒さにはやや弱くて、冬に最低気温5℃以上が条件。湿地に生える草だから水も必須。まぁやってやれない事は無いか。
欠点は2つある。1つはその栽培条件。もう1つ、折り曲げに弱い。冊子を作れない。だからメモ用紙ならどうかって話になる訳だ。バイブルサイズの大きさに統一して大量に積んでおいて、心に映りゆく由無し事をそこはかとなく書き付ける。
イケるかな?と思ったけど、どうやらパピルスもそれなりに御値段がお高めだ。材料は栽培して揃えられても、加工に人手と時間が掛かる。やっぱりね、尻を拭くのに使えるほど安く作れるのかっていうとね。
そう考えると和紙って凄い。品質もさる事ながら、人力での生産に限ると量的にも究極と言っていいんじゃなかろうか。
でもなぁ、和紙は滲みが… しかし和紙にも滲み止めの伝統がある。墨と筆で字を書く分には滲みも味の内になるけど、絵を描くなら滲みは抑えたい。そんな時は紙に礬水という液を塗る。「ばんすい」または「どうさ」と読む。何故どうさ?と思ったら、漢字では陶砂とも書くようだ。
礬水とは明礬と膠を水に溶かしたものだ。明礬は硫酸アルミニウム・カリウムの結晶で、これを膠で紙に定着させる。明礬は世界中でありふれた鉱物でね。血止めや羊毛の媒染剤としても有用。勿論ヨーロッパでも普通に使われていた。
ちなみにイスラム世界では小麦粉の澱粉糊を使ったようだ。滲み止めと同時に繊維同士の接着剤にもなり、紙を丈夫にする。これがヨーロッパにも伝わったけど、羊皮紙を駆逐する程には普及しなかった。
今ではロジンが使われる。松脂を蒸留するとテレピン油になるんだけど、その残渣がロジンだ。テレピン油の方は別に高度な使い方があるけど、今は置いとこうか。こういった紙の滲み止め薬品をサイズ剤と呼ぶ。
問題はそのサイズ剤を紙にくっつけておく定着剤の方でね。ロジンの場合は硫酸アルミニウムが使われる。硫酸塩なんで、つまり、酸性。そう、酸性紙として大問題になった原因物質である。紙の寿命が極端に短くなるんだ。50年でボロボロになっちゃう。これを使わないなら千年は保つんだけどな。
滲み止めでこれだけ苦労するなら、最初から滲まないインクを考えた方が楽なんじゃないか?
羽ペンを使う優雅な物書きの姿でお馴染みのインクは、没食子インクと言う。「もっしょくし」または「ぼっしょくし」と読む。どうも薬学系だと前者、それ以外では後者の読み方が通例のようだ。
没食子とは虫瘤の一種で、成分のほとんどが没食子酸と呼ばれるタンニンの一種。これを鉄と反応させるとタンニン鉄になり、非常に安定な黒色染料だ。こいつにアラビアゴムを混ぜて粘り気を出す。
アラビアゴムは現代の弾性ゴムとは別物で、アカシアの樹脂。但し現代日本で一般的なアカシアとは種類が違う。水に溶け易く、水溶液は粘り気があって乳化安定性が高い。そして中世ヨーロッパでも普通に採れた筈なんだけど、なぜか、エジプトからの輸入品が使われた。
そんな水性インクだから紙に滲むんだな。うん、水性インク以外ならどうかな?
その代表は鉛筆だね。要点はその芯で、炭素の粉を粘土と混ぜて焼き固めるんだけど、ちょっと難しい。鉛筆の芯に使われる炭素は特殊で、石墨と言う。
石墨は炭素の結晶なんだけども、結晶構造が特徴的で物凄く柔らかい。ダイヤモンドの対極にあると言って良い。煤と似てるって話もあるけど、そもそも煤の化学的正体がハッキリしないみたいなんだよなぁ。
石墨は黒鉛とも呼ばれる鉱物だ。地中から掘り出して、粉にして水に晒せば不純物を除ける。そして埋蔵量という制約がある。最初の鉱脈は割とすぐに枯渇した。今は大鉱脈が幾つも発見されたし、コークスから人造黒鉛を作ってる。
残念ながら人造黒鉛は難しい。3000℃近い高温が必要で、アセチレン酸素バーナーでやっと届く温度。普通は電気炉の出番だ。異世界だったら魔法を駆使して出せるかどうか、かな?
う〜ん、煤と粘土を混ぜて焼いたら鉛筆の芯にならないかなぁ。煤なら煙突掃除とかで幾らでも手に入りそうだ。でも事例が見つからないから予測できないんだよ。ああ、煙突掃除という職にも興味深いネタがある。是非調べてみてくれ。




