表現
大学生になり湘南という土地で一人暮らしを始める事になった。
僕の中で湘南という町の印象は良くなかった。
しかし僕は海を眺めることがすきだった
海辺の照り付ける厳しい日差し
湘南の海に聳え立つ江の島
リズミカルに寄せては返す波
それは時に激しく、時に穏やかに
それはまるで人の感情のようで生々しいもの
海はまるで人間の感情の様だ
夏の湘南の日差しは肌をじりじりと焼き尽くすように照りつける。僕は日焼けするのが嫌だという女の子らしい考えをしているがなんだかんだ海辺の空気は好きだからよく足を運ぶ。もちろん日焼けをしたくないので夏の海辺に出かけるときは日焼け止めは必須だ。僕は好きなスローテンポな音楽を聴きながら江の島の影を遠くに見る角度でのんびりするのが趣味になっていた。そこでのんびりしていると湘南という土地柄肌を黒く焼いた人を海辺でよく見る、僕は人を遠目から眺めて勝手に想像をするのが好きだった。俗にいう人間観察が趣味という様な自己紹介になるのだろうか。日焼けをするのが嫌な僕はその場にいる人とは対照的に、普通よりも少し白い肌で細身の体をした僕にはないものを持っているその人たちと楽しそうな世界観に少しばかり憧れを抱いていたというのが本音ではあるが、自分にないものを持っている人を見て劣等感も感じつつ、少年のようにバカ騒ぎするその場の人たちを能天気だと見下していたという事もまた本音になるだろう。我ながら斜に構えていて本当にかわいげのない人間だとは思う。
なぜそのような感情を抱きながらも湘南という土地にいるのかと言えば、僕が湘南にある大学に通うことになった事がきっかけである。中学生の時に初めてコンピュータに触れてからというものその魅力に魅せられた僕は、コンピュータについて学びたいという思いを膨らませ、湘南にある大学の情報学部に合格し進学していた。 横浜にある高校で3年間を過ごしてきた僕には湘南という土地に最初からあまり良い印象を持っていなかった。テレビのニュースで海辺での騒音問題が取り上げられていたのを見たせいか「あまり治安が良くないんだろうな」だとか「なんかちょっと田舎臭いよな」なんて印象しか持っていなかった。実際に湘南で暮らすようになってその印象が大きく変わったかと言えばそんなことはなかったが、高校で生活していた横浜に比べれば正直田舎ではあるが生活できてちょっと遊ぶぐらいの事は満足にできるし、駅の周辺は深夜を除けば人の多さの割には大人しい空間であるし暮らすにはとてもいい街だなと思えて好きになれた。湘南の取柄である海辺に必ずしも喧しい輩がいる訳ではなく、夜などの静寂な海辺で流れる時間はとてもゆったりしていて気持ちの良いものだったし、音楽を聴きながらそこから見える江の島の灯台の一筋の光を眺める夜の時間が個人的に一番湘南の生活を感じる事ができたし、湘南という土地は自分がイメージしていたよりも素敵な生活ができる場所であった、流れる空気はゆったりしていて普段からのんびりしている僕に丁度いいし、夏の江の島周辺やお祭りにさえ行かなければ特別騒がしいこともない町であった。
僕が一人暮らしする家は駅から少し離れたところにある東海道線の線路沿いにある築30年程の小さなアパートだった。駅から少し離れてはいたが、駅から少し離れて国道沿いを歩くちょっとした時間もすごく好きだった。夕方に買い物帰りで自転車のかごに荷物を乗せ帰路についているであろう人や、国道沿いならではの横を通る車の数からくる他の人の生活音など、元々友達がそう多くない自分がこの世界に生きていて一人じゃないことを実感できる何気ない瞬間だった。元々自分の部屋にはL字型に配置した机とその上に散乱したコンピュータとその周辺機器と椅子とベッド以外に物と言える物は何もなかったので、「特別広い部屋がいい!」だとか「おしゃれな部屋に住みたい!」だとかそういった理想は特になかった、願わくば「お風呂とトイレが別ならいいな」ぐらいの要望で探した物件だった。その結果僕の家となり生活拠点となった人が一人が暮らすには程よいかな程度のこじんまりとした部屋を借りて始まる事となった一人暮らしだった。親元を離れ一人で暮らすとなると不安が多かったが、家事炊事は昔からできたし近くに安めのスーパーもあるし意外とどうにかなるものだと思った。欲を言えばもう少しスーパーの営業時間が長いと良いなと言うのと、牛丼屋とコンビニが近くにあったらもうちょっと便利かなと思うぐらいだ。 不安で心配していた一人暮らしは、いつの間にか慣れていたというか自由が手に入ったと言う気持ちが大きく、心配はなんとか杞憂に終わりとりあえずは生活をすることができていた。時々一人の時間が寂しく思える時も勿論のことながら訪れたが、好きな音楽をかけて気を紛らわせていた。音楽という物は非常に自分の感情に語りかけ何かを思わせるもので僕の生活の中心のようになっていた。家の立地上線路が目の前にあるので、電車が通過する際の音で音楽が若干聞き取りづらくなる事が度々起こったが、逆にそれがリアルで何故か心地よさを感じていた。 家から大学まではバスで20分ほど揺られたぐらいで到着する場所にある。高校生の時に大学の様子を見に初めて大学に来た時にはとても驚いた事を思い出す「終点です」と言われて料金を払って降りた場所はとんだ山奥で、周りに何もなくて誘惑が少なそうだなとか、大自然に囲まれていてリラックスして生活できて良さそうだななんて嫌味なことを考えつつも、横浜の高校で3年間生活していた僕は思わず間違えてバスに乗ってしまったんじゃないかと思い、朝起きてみたら何故かいきなり外国に居たらこんな気持ちになるんだろうななんて思っていた。そんな驚きを覚えたバスの終点も今では特に何も思うことなく日々「ああ今日も授業面倒だな」とか「お腹すいたな」だとか他愛もない事を考えながら淡々と授業に出るという正直何の面白みも感じない生活を送っていた。中学生の頃にコンピュータに魅せられて高校を卒業してそれを学びたくて大学に進学したはずなのに単位の為だけに講義に出席し淡々と日々を過ごしている現実に疑問を抱きながらもそれでもまた淡々と日々を繰り返してしまうという悪循環の中にいた。
大学というものは陽気な若者がサークルなんかで集まってワイワイガヤガヤしている印象しか持っていなかったが、これもまた覆ることはなかった。大学内で騒いでる様な人達はサークルに所属していることがステータスであるかのように振る舞い所属していない人たちを見下しているかのような空気感が伝わってくる。しかしおそらく僕のようにサークルに所属していない人間からすればサークルに所属している人間を見下す側となっているのだろう。本当にどうしようもない状態だとは思うが、ここが和解することは某お菓子のきのこ派たけのこ派の戦争が和解するほどありえないことだと思う。そんな環境の中で行われる授業はこれもまたカオスだ、少しばかり喧しい輩は教室内の後ろに陣取りちょっとおしゃべりしてみたり、定期的に抜けだしたりという状況である。しかしながらこれらの人間とかかわりを持たない人はスマホ眺めてうつむいている人が大半だ。残念ながら僕は後者の人間に近いが、大学というものに入学した意味という物が本当に見えてこない感じられないという日々のせいだ、そんな言い訳を盾にそういった日々を繰り返す。この大学を卒業して将来どうするのか、僕以外のみんなは一体何を考えて生活しているのか僕はいつも疑問だった。実際に大学院に進学などしなければあと数年でここにいる殆どの人が就職し社会で仕事をするようになる。その現実は来るべくして来るものであるが、それが来る雰囲気は今のところ殆ど感じられないし、恐らく僕以外にも将来のイメージなど全くできないという人が多いのではないだろうか。かくいう僕もたまたまコンピュータが好きでそういったものを活用する職に就ければいいかなと曖昧な考えをしている。ここだけの話、僕は中学生の時にコンピュータに興味を持ち触れてきた、独学ではあるが小学生の義務教育となるのではないかと今話題のプログラミングなどの開発分野だったり、コンピュータのハードそのものやそれを動かすためのシステム、ネットワークやセキュリティについてなど学んでいた。自分で言うのもなんだとは思うが他に言ってくれる人もいない為言ってしまうが、実際にコンピュータを利用する講義では最高評価のAAという成績を頂けるレベルではよく出来ていた。正直言ってしまえばプログラミングとは何なのかみたいな初歩的な事を教える講義や、そんなことですら理解する気があるのか分からない同学部の同期だったり、こういう時だけ頼ってくる人を食い物にするような輩など、大学生活の中で多くの事にうんざりしていた。教育の過程上、物事の基礎を知らずに学ばせれば脱落する生徒が多く出ることも分かりはするが、自分の中で納得まではしていなかった。講義によっては教授が「IT業界は技術が移り変わるので最新の技術を知っていれば、もしかするとベテランより活躍できるかもしれない夢のある業界だ」なんて言う。僕は「ああ、なんて素晴らしい教授なのだろうか他の教授もこれぐらいの事言えば、皆のモチベーションが上がるんじゃないかな」なんて思っていたのになぜか講義でご教授頂けるのは今から5年以上も前に主流として使われていた技術で、今では滅多に使われない方式のやり方を教えると断言した非常にありがたい講義もあった。しかしそれでも周りの人たちはそれがどういう事か分からないからか、教授が授業中にコンピュータでメモを取ってと言うと、どれだけ小さなことでも必死にキーボードをカタカタと打ちメモを取った。「ああ、知らないってなんて罪なんだろうか」と思う一方で、「前から知っている事だから」と講義をバカにし学ぶことを辞め教授の言うことを聞かなくなる僕、これは一体どちらが罪なのだろうかとふと思い始めると胸が苦しくなった。大学に入ってから講義の内容は大体わかったし、コンピュータを扱う講義の成績だって先ほどの通りほぼ良いものだった。でもこれまで自分がコンピュータについていろいろ学んでいた意欲は消え失せ、これまでプログラミングなどをしていた自身のコンピュータは、ほぼネットショッピング専用の電気代を食うただの大きな機械と化していた。罪なのは知っている方なのか、もしくは知らないほうなのか何となく自分の中で答えは出ていたが答えが見つからないフリをした、これについて答えを出したら自分の中の何かが壊れてしまいそうだった。知らないフリをしていただけで自分の中で答えは出ていたから、自分がどうするべきなのかはもう何となく分かっていて何故こうするべきなのかという根拠まではっきりとしてしまっていた。でもこの環境で真面目にコンピュータについて学んだところで復習程度にしかならないという事と、なによりも嫌なのは何もできない同学部の人と同じラインに立つ事だった、「自分は同学部の人よりも優れていて立ち位置が違うんだ」この絶対的で無駄なプライドが、さっきの問いの答えについて考えることを拒否させてしまった。そんなことで心と体を疲弊させた講義の時間はチャイムが鳴り終わりを告げた。今日はなんか疲れたから家に帰って音楽でも聞きながらお風呂にでも浸かろうとそう思いながらイヤホンをつけ帰路に就いた。
僕は音楽が好きだ。音楽という物は必ず作成する人がいて作成する際に必ず何かしら考えて作る、もしかすると無から音を生み出す天才も存在するかもしれないがそんな人は数少ないだろうし、無から生み出すという事実があるとすればそれはそれで天才的で終わる話だ。何気ない歌詞から情景や感情を連想するのが好きでこれが音楽の醍醐味であると僕は思っている。実際にアーティストのライブに足を運べば作詞担当のボーカルが、この曲はそんな人を思って歌いますなんてトークしてから歌いだすなんてベタな展開があるし、思いを込めた曲の真意を知って聴く曲は実に感動的で恥ずかしながら泣きそうになりながら聴いたこともある。誰かが思いを込めた音楽は人の感情を揺さぶりコーヒーに溶ける砂糖のように音と感情が混ざり合う。音楽という表現は画家がキャンバスに絵を描くのと同じことで、たまたま描くものが真っ白いキャンバスでなくて五線譜の上であるというただこれだけの違いだと思う。芸術は他の人に見られて聞かれてこそ芸術として成り立つのだからこうしてやらないと音楽に対して失礼だと思う。音楽という物はアートであり、僕が僕らしく生きるための感性を磨くために必須であるものなのだ。アートという物は自己表現をするものであり、今評価されている芸術家や音楽家はそういった形で何かしらの優れた点で評価され人々に知られている。多分僕の音楽が好きであるという事実は恐らく大きく括れば、アートそのものが好きなのだろうなんて思う。実際に写真を撮るのも好きだし、アーティストの展覧会なんかにも足を運んだりするし、音楽の分野でも好きなアーティストのライブ会場にも足を運ぶ。写真には写真家の意図や風景が納められ、絵画やイラストには画家が思い描いたものを形として残し、音楽は音に思いを込めて音を奏でられる、どれも自己表現の一環であり僕たちはその自己表現に感動し思いを馳せるのだろう。考えることが好きな僕の中では、人生はアートであるのではないかと思い始めていた。人が生まれるときに白いキャンバスとして生まれ、生きていく中で何かを思い描いてゆく一生をかけて完成させるアートなのではないかと思うようになった。芸術家という人たちは一つの作品を完成させるのに悩み抜き最後に一つの作品を生み出す。僕が大学で迷っている思っている事は、芸術家に当てはめると作品を構想している期間もしくは取り掛かり始めたころの期間なのではないだろうかと、つまりこの構想期間を経なければ作品として世の中で陽の目を見ることはないのではないのだろうか。そう考えると自分が悩んでいる事はちっぽけな事なのではないかと思えて少し気持ちが楽になった。
しかし空想しているだけで救われるほど現実はそう甘くはないものだ、次の日に目覚めて大学に行く用意を完了させ家を出た頃にはまた「大学に行くのが面倒だな、今日は休んじゃおうかな」なんて思いながら大学に向かういつもと変わらない日々なのである。湘南という土地にある大学なのに、なぜか全く海沿いを走らずに山と畑の見える景色を走り抜けてまた今日も大学に到着する。大学生活にも慣れ季節は夏で学食でご飯を食べていれば、周りの人間は海開きだから海に行こうとか、BBQをやるとか、合宿というなのお泊り飲み会の計画を立てていたりする。何の変哲もない時だけが流れていく、友人が殆どいない僕には全く縁のない話ではあるが、最近海辺に行っていないことに気づいて、今日の夕方にでも海辺に繰り出すかなんてことを考えながら授業をやり過ごし家に戻り少しくつろぎながら海辺に向かう準備をする。いつも通り歩きながら「水星にでも旅に出てみようか――」なんて歌詞を聞いて海辺に向かいながら、本当に水星に旅に出れたら素敵だろうみたいなSF的な楽しい空想とか、そもそも水星に行けるようになる頃まで生きてるのかなんて何故か現実的なことまで考えている間に海辺に到着すると、やはり自分はこういう空気が好きだなと実感する。夕暮れ時なので湘南の取柄である夏の太陽の日差しはそこまで厳しくない、日焼けの心配も殆どすることなく海辺にいることができる。夕日が沈みかけた夕暮れの太陽の赤と空の青い色が混ざったパレットのような空、遠くに浮かぶ江の島の影と海と砂浜のコントラスト、鼻に残る潮の匂い、これをアートと呼ばないなら何て呼ぶのだろうかとまで言える美しい景色だった。湘南という土地の印象は相変わらず良いものではないが、この海辺から見える景色だけは何物にも代えられないほど美しくいつまでも見ていられるような景色だった。そんな景色を眺め続けているとやがてすべてを飲み込むかのような暗い夜がやってくる。暗い闇に視界を奪われ、イヤホン越しに時たま通る車のエンジン音とさざ波の音と潮の香りだけが感じられる空間となる。真っ暗で深い闇に飲み込まれ、波の音が聞こえる暗い一人で過ごす闇夜はまるで、深海いるかのような気持ちに錯覚させる。そんな時江の島の灯台から放たれる一筋の光は闇の中を照らす道しるべのようで、どんな闇の中でも光は差すんだなと思えるような、なんとも哲学的な空間に姿を変える。そんな景色の移り変わりは見ていて本当に面白いもので飽きが来ない。なんならこのまま朝焼けが差し込む海辺を見るまでこの場にいられるだろうそのぐらい湘南の海から見える景色は無限に姿を変えるキャンバスのようで、「この世界そのものがキャンバスなんだな」またどうしようもないことを考えながら帰路に就きシャワーを浴びて僕はまた明日を迎え生きるのであった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。初めての小説で至らぬ部分も数多くあると思いますが、自分の思ったことを文学というキャンバスを利用し人に伝えることができたらなと思い書きました。大学生というものは大人になる一歩手前の状態で、必ず多くの事を悩まなければいけない時期だと思います。そんな大学生という一種の人間の感情から人の在り方について感じて頂けたらと幸いです。
お読みいただき本当にありがとうございました。
お手数ではありますが、ご意見ご感想など頂けますとより気づきが増えると思いますので、お気軽にコメント等頂けたらなと思います。