風変わりな友人
リオを抱えたまま、ブルーは走り続け、ついにオード帝国との国境にやってきた。森を介して繋がっている両国では、国境が判別しにくい場合もあり、特に森などでは狩猟や木ノ実の採取などの問題もあって、サフィールが王の座についた数年後から、国境を明確に示す立て札が必要な箇所に設置された。
ちょうど、ブルーがリオを下ろしたその場所には、控えめながらも威厳のある佇まいの立て札がある。銅板を縦に二分割し、右側にはロクサンヌ語、左側にはオード語で、注意書きがあった。
ブルーはなんてことない足取りで国境を越え、くるりと振り返るとリオに恭しく手を差し伸べる。
「オードへようこそ」
その場違いな仰々しさにリオが吹き出すと、ブルーは安堵の微笑みを浮かべた。
「やっと笑ったな」
「え?」
「こんな状況で能天気でいろ、なんてことは言わないけどさ。でも、おれがそばにいる限り、リオの安全は保証するから」
「あ、ありがとう……」
こんな親切なことを言ってくれる相手を、心底信じきられていない自分に罪悪感を感じ、リオの感謝の言葉はどこか所在無げになってしまう。それを、彼女の不安からくるものだと思ったらしいブルーは、軽く肩をすくめると、
「なんてな。安心しろとか、リラックスしろとか、そんなこと言われても難しいか。ま、なるようにしかならないよな。とりあえず、おれんちに行こう」
「……は?」
「おれんち。この森と、小さな町を抜けたら、そこからすぐだから」
「違う。聞こえなかったわけでも、理解できなかったわけでもないわ」
「?」
リオのこめかみがピクピクとしているのにも気付かず、ブルーは純粋そのものの表情で首を傾げる。
たしかに城への急襲を受け、今は身分を隠して逃げるリオだ。しかし、仮にも一国の王女であり、なおかつ社交界デビューを果たしたばかりの、しかも形ばかりとはいえ婚約者までいる女性を、こんなに簡単に家へと招くとは一体どういう了見なのだ。
「私、女なんだけど」
「? 知ってるよ? 女っていうよりも、少女だけどな。まだ」
「だから! そんなに軽々しく、ブルーの家になんて行けないわ。私ひとりで。そういうのって」
「ああ! 貞操の問題か! 悪い、気付かなかった。ああ、そうか。なるほど。困ったな……。宿にリオを泊めたら、顔を見られたりする可能性もあるし……」
ようやくリオの言わんとすることが伝わったらしいブルーは、さらさらのブロンドに手を入れて掻き混ぜた。ひとしきり、うんうんと唸っていたが、やおら手を打つと、
「わかった! じゃあ、こうしよう。リオは、おれんちに案内する。で、おれはその辺に野宿するか、近くの宿に泊まるよ。それでどうだ?」
「そ、それなら……。でも」
「おれのことなら大丈夫。気にするな」
ブルーの提案してくれたプランでは、リオの貞操は守れるが、しかし王女として、自分を助けてくれた人間を放り出してしまっても良いのだろうかと、新たな疑問が生じる。しかし、リオの逡巡にはそれ以上触れず、ブルーは二本の指を口に入れ、澄んだ指笛の音を森の中に響かせた。
「ここから森を抜けるまで、結構距離があるから。手伝ってくれる友達を呼んだ」
「お友達?」
「そう」
でも、そんなことしたらブルーの友人にリオの顔を見られてしまうのでは? という疑問を口にする前に、もう一度、ブルーが指笛を響かせる。先ほどとは違うメロディーのもので、どうやら何かのシグナルになっているようだった。
「お、来たぞ」
ブルーの言葉通り、足音が少しずつ近づいて来ていた。ただし、その足音は二足歩行の人間のものにしては奇妙で、でもリオには聞き覚えのあるものだった。
まさか。まさか、だよね?
はたして足音の主は、リオの危惧通り、人間ではなく、二頭の立派な雄鹿だった。頭には優美な曲線を描く角が生えていて、一頭は黒がかったこげ茶の毛並み、もう一頭はまろやかな栗色をしている。雄鹿は、ブルーの姿を認めると、一目散に彼に近寄った。
「元気にしてたかー?」
言いながら、雄鹿の顎を撫でるブルーは、優しく目を細める。同じように、雄鹿たちも撫でられて、気持ちよさそうに目を細めた。
「さ、これ以上夜が更ける前に行こう。リオ、自分で乗れるか?」
「乗るって、もしかしてこのこたちに乗って行くの?」
「そうだよ」
「ブルーの言ってたお友達って」
「こいつらだよ。まあ、正直言うと、誰が手伝いに来てくれるかはわからなかったんだけど、でも、こいつらが来てくれたってことは確かだから」
友人と呼べる存在は、この世に一人しかいないリオに言われたくないだろうが、ブルーの友人の定義は変わっていると思う。ただし、そんな議論を交わしていられるような暇はないと知っていたので、リオは曖昧な笑みを浮かべて、雄鹿に近づいた。
栗色の毛の方が、リオへと一歩を踏み出す。頭を垂れてきたので、馬にそうしてやるように、雄鹿の額を撫でてやった。馬とはまた少し違う手触りに、指から伝わる人間よりも高い体温に、少し緊張がほぐれる気がする。両手で頬を挟んで、
「よろしくね」
と言うと、黒曜石のような瞳が見返して来た。
乗馬の経験はあるし、腕前はなかなかだと先生にも褒められたけれど、鞍もなにもない雄鹿に自力で乗るのは難しそうで、どうしたものかと考えていると、後ろからブルーがやってくる。さっき、森の中で抱えられていたときもそうだったが、ブルーには下心というものを全く感じない。今も、リオの腰に両手を添えていて、もしこれが他の男性だったら、きっとすぐに振り返って、その頬に平手打ちを食らわせているところだ。
腰を掴んだまま、ブルーがその両腕に力を込める。ふわりとリオの体が浮いて、次の瞬間には牡鹿の背にまたがっていた。
「鞍がないから、尻が痛くなるかもしれないけど、それはちょっと我慢な。あと、鐙も手綱もないから。首に両手回して、脚で胴を挟んで、落ちないようにだけしてて。あとは、こいつがちゃんと走ってくれるからさ」
な? とブルーが牡鹿の首をさする。もちろんだ、とでも言わんばかりに、雄鹿が振り返る。そのまま、二度ほど首を叩いてから、ブルーは慣れた手つきでもう一頭の背にまたがった。
「よし。じゃあ、全速力で頼むな」
その言葉は的確に伝わったらしい。ぐんと体全体が後ろに引っ張られる感覚がしたかと思うと、さきほど、ブルーに抱えられて走っていたときとは比べものにならないくらいの風圧を感じる。正直、走り始められる前は、馬に比べれば鹿の出すスピードなど大したことはないだろう、首にしがみつかずともバランスが取れるはずだなどと考えていたのだが、まったくもってそんな余裕がない。
もちろん、前を走るブルーに話しかけるなど、試そうという気持ちにもならないほどの速度で、雄鹿は森の中を駆け抜けて行った。さすが動物というべきか、獣道と言えないほどのわずかな道ですら、迷うそぶりもなく一目散に走っていく。
オードとロクサンヌにまたがっている森であるのに、やはりオードの森はロクサンヌのそれとは違っていた。なにが違うのかは、具体的に説明できない。木々の香りなのか、葉っぱから透けてみえる月光の程度なのか、地面の柔らかさなのか。それとも、森自体が体験してきた歴史が違うのか。
ああ、今、自分は異国にいるのだ、とリオは雄鹿の首に摑まりながら思った。
やがて目の前がほんのりと明るくなり、それが人の住む町から漏れる灯のせいなのだと気づいた頃、ようやく雄鹿は走る速度を緩め、町の外れであろう場所で立ち止まった。
「ありがとう、すごい助かった」
ひらりと軽い動作で降りたブルーは、乗ったときと同様、雄鹿の首を優しく撫でてやりながら感謝の言葉を口にする。雄鹿は、鼻息で空気を白く染め上げながら、ブルーの手に自らの首をなすりつけるようにした。
「降りられるか?」
「大丈夫」
片足を上げて、片側に体を持ってくると、乗馬と同じ要領で地面に降り立つ。乗せてくれていた栗毛の雄鹿が、ちらりと横目でリオを見やった。首を撫でながら、その頬にキスをする。
「ありがとう。とても速くて美しかったわ」
リオの賛辞に、雄鹿は自慢げに体を震わせた。ブルーが、森から一歩出て、リオを手で招く。
「さ、ここからは徒歩で行ける。こいつらは、ここから、また自分たちの縄張りまで帰らないといけないから、ここでお別れだ」
「わかったわ。ありがとう。またね?」
振り返って、澄んだ黒目でこちらを見つめている二頭の雄鹿に手を振った。雄鹿たちは満足そうに角を下げてから、駆けてきたときの半分以下の速度で、森の奥へと、ゆったりと姿を消していく。
「ここから歩いてどれくらい?」
「うーん。そうだな、二十分もあれば着くんじゃないか?」
「そう」
森の終わりは、緩やかな下り坂になっていて、木々が徐々に減り、しだいに芝生が増え、やがてそれは頻繁に人の足に踏みしめられた道へと繋がっている。ブルーは先陣を切って歩き出し、一番初めに現れた段差を降りると、手をリオに差し出した。別に、ブルーの手に捕まらなくても歩けそうだったのだけれど、彼の親切な行為を無下に断るのも大人気ないかと思い、手を取った。段差を抜けてから、やんわりと手を放すと、
「私、体力はあまりないけれど、運動神経にはそこそこ自信があるの」
「そっか」
少し回りくどい言い方だったが、ブルーには通じたらしい。その後は、二人して黙々と坂を降りた。
町の大通りにあたるであろう、真っ直ぐに伸びた道を歩き始める。今が一体何時なのか見当はつかないが、とにかく静かな道路だった。ブルーと世間話をする気にもなれず、かと言ってこんなに静まり返った場所では、核心に触れるような話題も口にできない。
結果、修行僧のように沈黙を守りながら、足元に視線を落として歩き続けた。
そんな風にしていたものだから、ふいに頭上から、
「やあ、ブルー」
と声がして、飛び上がらんばかりに驚いた。
声は、独特の澄んだ響きをしていて、その発音は完璧にオード語だったにも関わらず、人間のものではないように感じた。
「おお、キーガンか。久しぶり」
相変わらず気さくな声音で、ブルーが片手をあげて挨拶をする。その視線の先に目を向ければ、マーガレットが描かれた看板がある、こじんまりとした、だけれども温かそうな一軒家の屋根の上にいる、小さな影が認められた。トカゲのようなシルエットだ。
「リオ、あれはキーガン。火竜だ」
「え、ドラゴンなの? トカゲじゃなくて?」
思わず心の声がそのまま出てしまい、慌てて口を押さえたが遅かったらしい。トカゲ、もとい、ドラゴンのキーガンは、月光に照らされた屋根の上で、憤慨したように首をもたげた。
ばさりと両翼を広げ、緩やかに羽ばたきながら、こちらに向かって降りてくる。月の光の下で、金というよりは銀色に輝くブルーの髪の上に着地すると、リオに向けて首を伸ばし、
「どう? これでもボクのことをトカゲだなんて呼べるのかい?」
小さく火を吹いた。
生きているドラゴンを見るのは、初めてだ。しかも、こんなに間近に見られる機会なんて、そうそうない。リオは好奇心を抑えることができず、指を伸ばして、キーガンの前脚に触れた。本当は頭を撫でてみたかったけれど、ブルーの背が高いので、彼に頭の上に乗っかっているキーガンに触れようと思うと、それが精一杯だった。
「ごめんなさい、失礼だったわね」
「わかればいいんだよ」
「お名前は、キーガン、だったかしら」
「そう。君は?」
「私は、リオ」
「君、オードの人? 色味が違うように思うけど」
「えっと……」
意外と観察力に優れたキーガンの質問に、リオは苦笑して肩をすくめた。まつ毛の本数が数えられそうなくらい近距離にいるブルーが、助け船を出してくれる。
「リオは、おれの友達なんだ」
「へえ、ブルーの。それで? 今日は、ブルーの家に泊まるの?」
「そう、そのつもり」
「君、見たところ若いけど、大丈夫? ブルーはたしかに朴念仁だけど、オオカミに変身しないとも限らないよ?」
「キーガン、なんてこと言うんだ」
「だって、本当のことじゃないか。据え膳食わぬはなんとやらって言うんだろ、君たち人間のオスときたら、都合の良いときだけ勇敢になるんだから」
勇敢、のところでキーガンは器用に目をぐるりと回した。呆れているらしい。
「キーガン、安心して。私は、ブルーの家に泊まらせてもらうけれど、今晩は、ブルーは宿屋に泊まるんですって」
「へーえ」
「キーガン。なんだ、その全然信用してませんって言い方は」
「明日までなにもなかったら、信用してあげるよ」
そう言って、キーガンはチロリと赤い舌を出した。あかんべーのつもりらしいが、毒々しいほどに赤い舌と、一緒に垣間見える牙の鋭さがシュールだ。小さなドラゴンは、やおら立ち上がると、今度はリオの眼前にやってくる。両手をお椀のようにして広げれば、そこへ座り込んだ。鱗の感触が手から伝わってくる。
「ねえ、リオ。ボクはジェントルマンだから、君のような女の子がみすみすオオカミに食べられてしまうのは見ていられない。今晩、もし困ったことが起こったら、ボクの名前を呼びながら、これを握りしめて。そうしたら、ボクが助けに行ってあげるよ」
後脚で鱗の一つを剥がすと、それを前脚で持ち変えて、リオの手の平の上に置いた。小指の爪よりも小さかったそれは、しかし今見ると、指の第一関節くらいまでの大きさに変化している。
一体なにが起きたのだろうと不思議に見つめていると、キーガンは得意げにふふんと鼻を鳴らした。
「ボクはね、本当はもっと大きいんだ。そんな大きな体だと、色々と不便だろう? だから、渋々こんな小さな体で暮らしているんだよ」
「嘘つけ。この間は、堂々と小さな体の方が面倒くさくなくて済むから楽チンだって、ふんぞり返ってたじゃないか」
面白がるような口調で、ブルーが吹き出す。眉毛があるわけではないけれど、眉間に皺を寄せるように、額に力を入れて、キーガンが心外だとばかりにブルーを睨んだ。
「ブルー。ボクは今、リオと話しているんだ。邪魔しないでよ」
「なんだなんだ? おまえ、いつもは面倒臭がりの権化みたいなくせして。ああ、あれか。おまえ、女好きなのか」
「失敬な! 言っただろ、ボクはジェントルマンなの! 紳士として、リオの役に立とうとしているの!」
「はいはい」
噛み殺せていない笑いを浮かべるブルーに、キーガンが翼をばさばさと羽ばたかせて抗議した。キーキーと声を荒げると、静かな空間には響く。それでようやく、取り乱したことに気づいたのか、小さな火竜はコホンと咳払いをして、リオに向き直った。
「とにかく。この鱗は、今から数日間だったら、ボクの体と感覚が通じているから。ボクの助けが必要なときは、この鱗を通じてボクを呼んでくれればいい。わかった?」
「うん、わかったわ。ありがとう、キーガン。あなたは、私が知る中で一番ジェントルマンなドラゴンね」
一番もなにも、キーガン以外のドラゴンと話したことはないのだが、それをキーガンが知る必要もない。リオの言葉にすっかり気を良くしたキーガンは、首を伸ばして鱗を月光に反射させた。
「ブルー! リオをちゃんと守ってあげるんだよ」
「はいはい」
「はいは一回だろ」
「はいはい。じゃあな、キーガン」
ブルーはついに笑いをこらえきれなくなったらしく、歩き始めた背中と肩が、小刻みに震えている。顔を見せるとキーガンに文句を言われると思ったのか、肩越しに片手をひらりと振った。続いてリオも歩き始めると、キーガンはふわりと翼を使って宙に浮く。そのまま、元いた屋根へと上昇しながら、リオの周りと一度、くるりと旋回してみせた。
「じゃあね、リオ」
「うん、おやすみなさい、キーガン」
キーガンの姿がトカゲよりも小さくなったころ、リオは傍らのブルーに小声で「あなたのお友達って、風変わりなひとが多いのね」と言った。
しばし考えた後、ブルーは笑って頷く。
「そうだな。みんな風変わりで、みんな大事な友達だよ。リオは? 友達はいないのか?」
「いるわ。とびっきり風変わりなのが、ひとり」
そう答えたリオには、その風変わりな友人と近いうちに再会する運命など知りえなかった。
ドラゴンのキーガンは、FTアンソロ「悠々閑々」に収録された短編に出てくるキャラです。
キーガンと飼い主?アルとブルーに初めて出会うお話になっています。
もしご興味ありましたら、活動報告の方をチェックしていただければと思います。