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夕闇は瞳の中に  作者: 卯ノ花実華子
Strength for myself: 人を守るための力が欲しい
2/6

異変

 息がきれる。肺が悲鳴をあげている。足を止めて、呼吸を整えたい。大きな音を上げて叫びたい。でも、それは叶わない。そんなことは明白だ。

 だって、彼女の居住地はいま、襲撃の真っ只中にあるのだから。

 誰が。どうして。みんなは。どこに。何がどうなっているの。

 聞きたいことはたくさんあったけれど、襲撃が始まったとき、彼女は浴槽につかっていた。不穏な音が聞こえて、ずん、とお腹に響くような振動を感じた。

 いつもは浴室のすぐ傍に立って待っていてくれている侍女に声をかけた。


「いま何か聞こえた? キール?」


 返事がない。

 おかしい。


 ただ、彼女が小さいときからずっと傍にいてくれているあの侍女は、しっかり者の風体をして、とんでもなくずぼらなところがあるから、もしかしたら立ったまま居眠りしているのかもしれない。ありえる。


「キール?」


 言いながら浴槽から立ち上がり、シルクのバスローブを羽織った。脚からつたい落ちる雫がぽたぽたと床に歪んだ水玉模様を描いているけれど、気にしない。バスローブの前をリボンで閉じてから、ドアノブに手をかけた。

 いつもの場所に侍女はいなかった。しんと静まり返った自室を眺める。


 違和感。


 言葉には変換できない、肌を粟立たせるだけのこの感覚。


 もうひとつの部屋に通じる扉に目を一度向けてから、そっと浴室の扉を閉じた。そして、電光石火で服を着替える。これから着替えようと思っていた寝間着ではなく、身動きのしやすいワンピースに。薄茶の髪もまだ濡れていたけれど、キールがやってくれるみたいに見よう見まねでポニーテールにしてみる。左耳に輝くルビーのピアスに触れてから、ブーツを履いた。


 浴室の窓を開ければ、風が頬を撫ぜる。気候に恵まれたこの国は、どの季節も美しい。今だって、眼下に見える街並みも、その後に続く豊かな緑も、絵葉書のような美しさだ。ただ、今日はその美しさに何か胡乱なものを感じた。

 窓の渕に手をやって体を持ち上げると、ブーツを履いた両足を窓から出して、体全体を外へ。結構な高さにあるから、下を見るのはさすがに怖い。


浮遊レビタシオン


 言葉ではなく思考と共に、彼女の身体がふわりと重力から解き放たれる。呪文詠唱なしに魔法を発動させるのが実は上級魔法であるということを、寄宿学校に入るまで彼女は知らなかった。魔法を特別に学び、魔導士として生計を立てようとする生徒ばかりが集まっていたあの学校でさえ、呪文詠唱なしが出来たのは彼女ともう一人の女生徒だけだった。それまで完全な独学であった彼女にとってそれは新鮮であり、ひどく衝撃的だった。


 もしかして私、ちょっとは才能あるのかしら?


 そう思った日のことを思い出して、くすりと笑みが漏れる。そんな昔のことを思っている間にも、彼女の身体は建物の外を移動していく。目指しているのは、たったひとつの場所。


 目的地の部屋の窓を外側から開けようとして、まずは中の様子をみるのが得策かと窓枠よりも下へ高度を下げた。


「リオちゃん」


 窓を一瞬よぎったのを見逃さず、声をかけられる。


「お父様。無事だったのね? 何があったの?」


「リオちゃんこそ。おいで。そこでは寒いでしょう」


 窓を開け、彼が彼女を迎え入れる。部屋に入るとぼんやりと暖かく、濡れた髪で飛行していたせいで体が冷えていたのだとようやく思い至った。


「お父様。何がどうなっているの?」


 彼女、リオ・スシールは父と同じ色のヘーゼルの瞳を大きく瞬かせて聞いた。父であるサフィリア・スシールは、優雅な仕草で肩をすくめてみせる。


「うーん。難しい質問だなあ」


「どうして」


「リオちゃんには言えないことが、たくさんありすぎる」


 そう言って、彼は40代の男性とは思えない可愛らしい笑みを浮かべた。この腹黒国王。小さく舌打ちをして、リオは食い下がる。父がのらりくらりと質問に答えないのは今に始まったことではないが、今回はなんだか事態が緊急を要するように思えて仕方がない。


「そんなこと言っている場合じゃないんじゃない? なんだか上手く説明できないけど、大変なことが起こり始めている気がするんだけど」


「うん。そうだね。大変なことだよ。僕も、若干驚いている」


「どこが」


「逃げ遅れてしまっているくらいには」


「は?」


「リオちゃん。今すぐ、ここから離れなさい。城からということじゃない。この国から離れなさい。分かった?」


「ちょ、ちょっと! ど、どういうこと、それ? なんでいきなりそうなるの? 私だけ? お父様は?」


「僕がリオちゃんといたら、目立つもの。君はひとりでいるべきだよ。その方が逃げやすいし、隠れやすい。お金に困ったら、とりあえず城宛に領収書を書いてもらいなさい。うち、割と潤っているから、ツケでもしばらくは大丈夫。ただし、名前は伏せておくこと。毎回、違う名前を使用すること。それから、必然にかられたとき以外は魔法は極力使用しない。質問は?」


「どうして私が逃げなくちゃいけないの。私は誰から、何から逃げなくちゃいけないの」


「うん。良い質問だねえ。それでこそ、僕とリディアーナさんの娘」


 目を細めて、サフィールが微笑む。両手でリオの頰を包み込むと、その額にキスをする。


「さ。行っておいで。城の外までは、僕が移動させてあげるから。そこからは自力で。その方が魔力トレースをされないから逃げやすい筈」


「お父様! 質問に答えてない」


「今は、答えられない。ごめんね?」


「おと……」


 抗議の声を上げようとしたときだった。サフィールとリオがいる部屋から続き部屋になっている部屋の扉を外から開けようとする音がした。暴力的で野蛮なその音に、いよいよ不安になったリオを、サフィールがぎゅっと抱きしめる。


「だーいじょうぶ。ちゃんとシールドをかけてあるから。時間の問題だとは思うけど、リオちゃんは安全だよ、それは保証する」


「私はって。お父様は? 私を転送したあと、お父様もちゃんと逃げるんだよね?」


「うん、もちろん。ノックの仕方も知らないような無作法者には、会いたくないもの」


 感情がそのまま顔に出てしまうリオと違ってポーカーフェイスの父のその言葉は、素直に信じるのは難しかったが、疑ったらもっと怖い思いをするかもしれないと、リオは頷くことにした。そうすることで、不安を払拭できるのではないかと思っていたのかもしれない。


 リオが頷くのをみてとって、サフィールが再度、リオの額にキスを落とす。さっき彼女がそうしたように、左耳のルビーをなぞって、サフィールが離れる。


転送トランスフェール


 呪文詠唱なしに、彼も魔法発動をやってのける。リオの身体が青い粒子に包まれ、転送されるときの独特の浮遊感に占領される。今この場にいるものに意識を集中させるのが難しい。が、サフィールの口が動くのに気付いて、リオは必死に読唇を試みる。


「オードに」


 そこまで読み取れた。オード? まったくどうして、質問したくなるようなことしかこの父は言わないのか。文句を言ってやろうとしていたのに、目の前のことに悲鳴を上げた。

 サフィールを取り囲むゴーレムの群れ。数体なんてもんじゃない。そして魔導士らしい者数名。それらすべてが、サフィールの方へ向かっていた。魔導士の持っている杖が魔法発動のために鈍く光り始める。


粉塵ダスト


 まだ少しだけ残っていたリオの身体を庇うように立ち、サフィールが新たな魔法を使う。リオを隠すために、リオを守るために。でもあれでは、サフィールの身体は無防備なままなのに。


「お父様!」


 声を張り上げたけれど、一旦発動してしまった魔法を干渉することは出来ない。リオの身体はやがて、青い粒子になってサフィールの傍から離れてしまった。





 そして今。

 父に言われた通り、魔法は使わないで逃げようとするなら、必然的に己の足に頼ることになる。運動音痴なわけではないが、決して運動好きなタイプでもないリオにとっては、ちょっとしたマラソンは体力的にも精神的にも辛いものがあった。ただ、襲われる父の姿を目の当たりにしては、あれはいつもの父の冗談なのだと思うこともできず、ただただ走り続けるしかない。


「オードに」


 父は確かにそう言った。そして、その固有名詞に当てはまるものを、彼女はひとつしか思いつかない。


 オード帝国。

 彼女が王位継承者を名乗るロクサンヌ公国の隣国にあたる、馬鹿でかい帝国。気候に恵まれ、豊富な食物によって輸出業を行うロクサンヌの、一番のクライエント。というのもあの国は、隣国にありながらまったくといっていいほど気候に恵まれていない。年がら年中寒く、当然作物などはほとんど育たず、そのくせ膨大な土地に住まう国民を食べさせてやらなくてはいけないから、輸入に頼らざるを得ない。四方を深い森に囲まれ、その広大な土地のほぼ真ん中に首都をおくオードは、国自体が要塞のような作りになっている。その上、あそこの騎士団は異常に強い。一体、なにをどうしたらあんなに軍事力が上がるのか、リオは首を傾げる。


(うちだって、魔法騎士団は強いんだけどな。ていうか、魔法騎士団は長い間、うちの独占場だったのに。最近は、オードも真似して持ってるし。そもそも、何で魔法騎士団を作ったんだっけ。確かきっかけがあった筈。思い出せないけど)


 近隣国だけでなく、世界中にその名を轟かせている、オード騎士団。そこの騎士団長がまた有名人だ。なんといっても、まだ17歳。リオと二つしか違わない。しかも、彼が就任したとき、彼はまだ12歳だったという。ひとりで何百人を相手にしたことがあるとか、戦闘中に盾を一切使わないとか、騎士団長なのに馬に乗らないとか、普段は森の中で自給自足生活をしているとか、とかく噂に困らない団長を筆頭にした騎士団だけでは飽き足らず、オードは数年前に魔法騎士団を設立した。魔法能力では若干の見劣りを示していたオードだったが、魔法騎士団も強いとのもっぱらの噂だ。


(ロクサンヌがオードとまあまあ仲が良いのは良いことよね。あそこを敵に回したい国なんて、世界中探してもいないはずだもの。……〈東の虎〉を除いては)


 昨今、東の方で暴れ回っているかの国を思いついて、オードとあそこが戦争になったらどうしようと思った。ロクサンヌは高い魔法力を保有するが、基本的に争いごとを好まない。自国を守ろうとした戦いなら歴史にあるが、自ら他国を攻撃しに行った跡は見つからない。ひとえに国自体が小さく、高い魔法力を保持していても、圧倒的な軍事力で攻め入られればひとたまりもないだろう。だからこそ、オードと好意的な関係を結ぶ必要があったし、これからもオードとは持ちつ持たれつの関係を保っていかなければならない。


(お父様は、オードに行けということだったのかしら)


 オードに。だけでは、意図が完全に分かるわけではない。ただ、城からでなく、公国から逃げろと言った父の言葉と、公国に好意的にしてくれるオードが隣国であることを考えれば、合点がいく。


 (とりあえず、行ってみましょうか)


 幸い、父も、亡くなった母も語学が堪能だったおかげで、リオ自身も数カ国後を操る。オードに行っても、ロクサンヌのアクセントを見せずにオード語で話せる自信はある。


 走り続けて、体全体が疲労している。肺に空気が入る度に痛むし、城のみんなのことが心配だ。でも、とりあえず。とりあえず、私はオードに向かわなくちゃ。あのお父様のことだもの。ただでやられるはずがない。


 もう遠くにしか見えなくなった城をちらりと振り返れば、もくもくと煙が出ているのが見てとれた。あそこに何人のゴーレムと魔導士がいるのだろう。城に残っていたひとたちはどうしているのだろう。浮遊レビタシオンでサフィールの部屋へ移動していたときに、見られる窓はすべてチェックしたけれど、誰の姿も見つけることができなかった。すでにみんな捕まってしまったあとだったのか。あるいは、サフィールに言われて先に逃げていた可能性もある。リオとしては後者を信じたかったが、それを立証する術はない。それでも、ロクサンヌのキツネとして名高い父が、そうそう簡単に裏をかかれるなんてことはないように思えた。そして、父のずる賢さを信用すればするほど、リオは心が軽くなるのを感じた。


 みんな。無事でいてね。


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