第二十一話 レース地イリオン島
ジャン・コメリ大佐の軍用飛行船を炎上させた後、”ゴッド・ウィング” についての情報を渡すことを条件に、ラミロはアポロン号でのファルコンとイーグルの修理を許された。
「こりゃひどいな……。俺のイーグルはまだしも、レオのファルコンは雷でエンジンが焼き切れちまってる。よくこれだけの雷受けて無傷だよな、レオ。お前本当に人間か??」
思っていたより悲惨な状態のファルコンに、ラミロが呆れかえった。
「で、直るのか?」
レオは遮熱用ゴーグルを装着したラミロの傍らに立って、そう訊ねた。
「まあ、一週間ありゃ応急処置でなんとか飛ばせるようにはなるよ。元通りって訳にはいかないけどな」
「飛ばせりゃそれで十分だ」
ポンとラミロの肩を叩き、レオはそのままアポロン号の発着用ハッチへと足を向ける。
ハッチでは、ちょうど一人の男がアポロン号の荒くれ者たちと銃口を向けたエリーに囲まれる形で、解放される場面であった。
この男は、先日エリーの手によって捕えられたヘルシオンの空軍兵だった。
「欲しがってたオリビアとかいう奴の日誌だ。持って帰って国王に伝えるんだよ。こいつは偽物で、すでに何者かにすり替えられていたとね」
空軍兵に銃口を向けたまま、エリーは乱暴に偽の日誌を男に投げ渡した。
「生きてこの ”死の雨雲” から出られたことをよく感謝するんだね」
空軍兵は何か言いたそうにしていたが、銃口を向けられているので、最低限の応急処置しか施していないぼろぼろになったヘルシオンの交戦用モーターバードに乗り込む。
エリーは敵のモーターバードを修理してやる程のお人よしでも無く、みすみす帰す程の寛大な心の持ち主でも無かったから、彼女自身は空軍兵の解放には反対だった。
けれど、レオの指示は彼女の考えとは違った。
レオの考えはこうだ。
ヘルシオン国王に真実を知らせることで、敵対心を本物の日誌を盗んだ者に向けさせるというものだった。
ヘルシオンの目がそちらへ向いている隙に、まんまと美味しいところをいただく、そういう魂胆だ。
エリー自身も、このままヘルシオン王国の追手に追い回され続けるのも面倒な話だったから、とりあえずはレオにしぶしぶ賛同することにしたのだ。
銃口を向けられたまま、空軍兵は緊張した面持ちでエンジンをかける。
「忠告しとくが、寄り道はしない方が賢明だぜ。モーターバードは応急処置だけしか済ませていないし、燃料はヘルシオン王国までのぎりぎり片道の燃料しか入れてない。無駄にエンジンをふかせりゃ、海にドボンだ」
いつの間にか後ろから近付いていたレオは、 意地の悪い笑みを浮かべ、空軍兵にそうアドバイスしてやった。
聞きなれたヘルシオンの機体のエンジン音に、レオは些か不快感を覚え。
たせいだ。
いつだってこの型の機体には追い回されてばかりだったから……。
そして、空軍兵にさっさと行けというばかりにシッシッと手で払うような仕草をするのだった。
空軍兵の乗り込んだモーターバードが、アポロン号のデッキから飛び立って行くのを見送った後、突如エリーがふんと鼻で笑った。
「ったく、人をこんだけ巻きこんでおいて、まさかあの日誌が偽物だったなんてねぇ……。お前たち、一体どいつにに一杯食わされたんだろうねぇ」
頭の上で腕を組み、レオが言った。
「まあな。だが、からっきし犯人の検討がつかねぇっつう訳でもねぇ」
おや? という表情で、エリーは腰に手をあて首を傾げる。
「オレだって、無駄にあの偽日誌をじろじろ眺めてた訳じゃねぇ。オレは専門じゃねえし、詳しくもねえが、あの日誌の紙質……。おそらくはソウシン国のものだろう」
「ほぉ……。紙質ねぇ。言われてみれば、ザラザラしてて独特の触り心地だったね。レオ、お前もただの馬鹿じゃなかったか」
レオはけっと笑い、続けた。
「って訳で、ソウシン国がどうも匂う。で、ラミロの情報によれば、タイミングのいいことに来週このファン・ドアール海上空の北にある、イリオン島っつう小せえ島で、航空学校対抗レースってのが開催されるらしい」
その言葉に、エリーがぴくりと反応する。
「各国の航空学校の自慢大会ってやつかい?」
レオは鼻を鳴らした。
「ああ。航空学校生対抗のモーターバードレースだ。表上各国の交流の為だとかなんとか抜かしてるが、事実はお前の言うように自国の航空技術と人材自慢で、自国の強さを知らしめたいだけだろうな」
エリーはふうんとあまり興味の無さそうな相槌を打って、肩を竦める。
彼女にとって、世界の情勢だとか国の動きだとかは面倒な物の中の一つであり、関心外のようだ。
が、レオの言わんとしていることに重要な内容が含まれていることにも勘付いた。
「ははん、なるほどね。そうなりゃ、そのイリオン島には、ソウシン国の政治関係者、ならびに国王陛下様もおいでになるって話だね」
エリーは皮肉った物言いで、レオの何やら企む顔を眺めた。
レオは鷹のような目を細め、エリーに視線をやった。
「その航空学校対抗レースの日に島に乗り込む気だね?」
「ああ。俺とラミロで日誌を手に入れる」
頭の後ろに回していた腕を解くと、レオはそう声を落として言った。
「お前、正気かい? そのレースってのが各国のお偉い方が集まってるってんなら、島の周囲だけじゃなく、島の内部まで相当の警備が張り巡らされている筈だ。そう簡単に日誌を盗み出せないよ。それに、その島にソウシン国が日誌を持ち込んでいるとは限らないじゃないか」
それは、レオの想定の範囲内だった。
「いや、日誌は必ず島に持ってくる。人間の心理ってのは、大切なもんは肌身外さずに持つもんだ。こういうとき、俺の鼻が利くっては、お前もよく知ってるだろうが?」
言われてみればそうだった。
子どもの頃から、こういう場面では決まってレオの予想当たったものだ。
孤児である二人の前にアポロン号が現れたときだって、元々はレオが予想したことだったのだから。
「……だけど、あと一週間で一体何ができる? お前とラミロの二人で乗り込むったって、お前のファルコンのダメージを考えると、一週間やそこらじゃ飛ぶのが精いっぱいってとこだろう?」
こう言い出したレオが、誰にも止められないことくらい、エリーだってよく知っていた。
なんせ、十五の夏、必死に止めようとしたエリーを置いて、この男はアポロン号を去って行ったのだから……。
「ああ。すでに、ビアンカ号にも後援の要求は出しておいた。一週間後、イリオン島の南、三エルカリアの地点で落ち合う約束だ」
既にこの男は動き始めていた。欲しい物を確実にその手にする為に。
「……それをあたいに知らせて、一体どういうつもりだい?」
レオの企みに気づき、エリーは険しい表情を浮かべた。
「イリオン島はおそらく火の島と化す。分け前は五分五分と言ったが、俺は良識ある人間じゃねえ。こうしようぜ、エリー。ゴッド・ウィングは先に手に入れたもん勝ちってことによ」
エリーは腰ベルトのナイフにさっと手を伸ばす。
いっそ、この男の首をここで掻き切ってやろうかと思ったのだ。
「エリー。お前は今俺をここで殺しはしねぇ。なぜなら、あの島に行って日誌を手に入れられる可能性があるのは、この俺だけだからな」
自信に満ち溢れた目だった。
エリーは悔しいが彼の言っていることが正しいと感じ、ナイフに伸ばしていた手を引っ込める。
確かに、警備の張り巡らされている中、みすみす危険を顧みずに飛び込んでいく人間はレオの他に思い当たらなかったのだ。
「……お前は本当に碌でもない男だよ、レオ。お前がそう言えば、日誌を手に入れたお前を?まえようと、あたいの船は一週間後にイリオン島の傍まで行かざるを得なくなると分かっているんだ」
レオという男は、本当に抜け目のない男だ。
「お前の計画に利用されるのは癪だけど、こうなったらあたいは力ずくでもそのゴッド・ウィングとやらをお前達より先に手に入れてみせるさ」
そう言って、エリーはレオに宣戦布告を突き付けるのだった。
チーム風鳥のメンバーは、暖かく心地の良い飛行船の簡易階段を下り、凍てつく寒さのイリオン島への陸地へと降り立っていた。
七人とも、黄土色の学校指定の防寒着を着込み、通常の二倍に膨れ上がっている。
島の上は一面の白。
積雪により、島の上は真っ白い厚い雪で覆われていた。
「うう~~っ、まさかこんなに寒いなんて……」
そう言って、フランは鼻と口までも防寒用のネックウォーマーの中に押し込んだ。
「まあ、予想はしていたが、実際に体感すると流石にキツイ部分が多いな」
ゾイは歯をカチカチ鳴らしながら、そう呟く。
メンバーが震えながら頷き合っていると、向こうから誰やら走り寄って来る男の姿が見えた。
背が高いことから、大人の男性だということがわかる。
「誰だあれ? こっちに向かって手を振っているぞ」
ラビが眉を顰めた。
分厚い手袋をしていても、凍りつきそうに寒い手を擦りあわせながら、メンバーはじっとその男を不審そうな目で見つめるのだった。
「やあやあやあ!! 君たちはヘルシオンの代表の選手達だよね?」
と、爽やかな笑顔をまき散らして駆け寄って来るその男に、ハルとゾイは見覚えがあった。
「あ!!」
ハルが驚いたように声を上げる。
「どうして貴方が!?」
疑問符を浮かべ、ゾイもハルに続いてそう言った。
ハルとゾイの様子に気が付いたのか、他のメンバーがきょとんと首を傾げて顔を見合わせている。
「おや! 君達は……!!」
男の方も二人の存在に気付き、ハルとゾイの顔を交互に見つめて目を丸くしている。
「アレン・パーカーさん、お久しぶりです」
ハルがにっこり笑って分厚い手袋の手を彼に差し出した。
「ああ、まさか君達がヘルシオンの代表選手だったとはね……。あのレースの後、それっきり見かけなくなってしまったから、とても心配していたんだよ」
ハルの手を握り返しながら、男は答えた。
この男は、以前にハルとゾイと共に世界大会でレースを共にした、あのアレン・パーカーその人だったのだ。
「アレン・パーカーって、あのモーターバードレース界の!?」
「まじかよっ!! すげえ!!!」
生憎、顔の一部を残して全て覆ってしまう防寒着のお蔭で、一目見ただけでは、あの有名なレーサーだとは分かりにくい。
けれど、目の前にそんな有名人が現れたと知った双子は、すっかり興奮するのであった。
「まあ、色々ありまして……。ところで、なぜ貴方がここに?」
ゾイは苦笑いを浮かべ、そう話した。
「そうか」
そして、アレンはやっと本来の目的を思い出し、改めて輝く笑顔を作り直すのだった。
「ああ、自己紹介が遅れたね。ハル君とゾイ君はもう知っているけれど、僕はモーターバードレーサーのアレン・パーカーだ。今回はこの航空学校生対抗のレースのゲストとして呼ばれてこの島に来ている。以後、よろしく」
それを聞いて再びニコとマルコは大興奮。
そんな二人を見て、ラビが呆れたように溜息をつく。
「貴方もこのレースに?」
ゾイはアレンに訊ねた。
「いいや、安心してくれ。今回は中継の際のゲスト出演のみだ。君達のレースは上空から中継用のモータービートルからゆっくりと観戦させて貰うよ」
「そうなのか、ちょっと残念かも」
それを聞いたハルは、残念そうに肩を落とした。
あの時の心揺さぶるスピッツバード島でのレースを思い出し、ハルはもう一度このアレン・パーカーと対戦できるのかと内心ちょっぴり期待していたのだ。
「確かに、君達ともう一度レースを共にできないのは少し残念かもしれないね。けれど、君達は同じヘルシオン王国の兄弟だ。いいレースを期待しているよ!」
アレンはメンバー全員と固い握手を交わし、爽やかな笑顔でもって軽やかに走り去って行った。
「なんなんだ、あれは……」
吐きそうな表情を浮かべ、ラビが呟いた。
彼は本来、あのキザなアレン・パーカーというレーサーがあまり好きでなかった。
代々レーサーの家系に生まれたラビにとって、女性のファンを多く取り込んだ、彼のキザで派手なパフォーマンスには、理解できない部分が多いようだ。
「それにしても驚いたな。ゾイのみならず、ハルまでもあの人と知り合いだったなんて」
「レースがどうちゃらって話していたけれど、ハルもアレン・パーカーと対戦したことあったのか??」
ニコとマルコが痛い所を突く。
今まであまり誰にも突っ込まれたことのない部分だった。
そんな質問にハルが苦笑いを浮かべ、寒さですっかり赤くなった鼻を擦りながら頷いた。
「ごめん、隠すつもりじゃなかったんだけど……。えと、四ヵ月前のスピッツバード島のモーターバード世界大会を覚えてる?」
こくんと頷いた双子に向けて、ゾイが付け足した。
「あのレースにハルも出場していたんだ」
「へ!?」
メンバー全員がすっかり目を丸くしている。
「あのレースに出ていただと? で、惨敗したって話か?」
ラビが皮肉を帯びた口調で言った。
「とんでもない。ハルがそのレースの優勝者だ」
落ち着いたゾイの言葉に、
「なんだって!?」
と、同時に何人もが叫んでいた。
「待て待て、待ってくれ。僕の記憶によると……、あのレースの優勝者は確かアレン・パーカーさん、準優勝がゾイ・ボルマン君、君だった筈だ」
ゾイは深く頷いた。
「結果的にはそうなった……。が、事実はそうじゃない。レースの勝者は間違いなくハルだ」
「じゃ、じゃあ、どうして……」
恥ずかしそうにハルは鼻を擦りながら打ち明けた。
「レースの参加資格は十六歳だったのに、僕は十三歳で出場した。簡単に言えばズルして失格になったんだよ」
驚きの表情で、メンバーはハルを見つめた。
「まさか……。ゾイ・ボルマン先輩を差し置いて……?」
「ああそういえば…、噂で耳にしたことがある。あのレースでとんでもない子どもがレースを制したって……。けれど、新聞にはアレン・パーカーとゾイ・ボルマンの名しか記載されていなかったし、記事にもなっていなかったから、何かの聞き違いかと思っていたけれど……」
しんと静まり返ってしまったその妙な雰囲気に、ハルは珍しく困った表情でメンバーの顔を見回していた。
「レースでズルするなんて、今考えたらすごく馬鹿なことしたって恥ずかくなるよ」
三ヵ月半という短い期間ではあるものの、国王の計らいにより王立ヘルシオン操縦士学校に編入してからというもの、ハルは操縦士としての心得の多くを学んできた。
そのせいで、今ならはっきりとハルには理解できる。
誰もが命をかけてレースに臨むことを。
そして、レースにおいて不正はどれだけ許されざる行為かということを……。
「で、でも、それでもやっぱり君はすごいよ、ハル! だって、たった十三歳であの世界大会で勝ってしまうなんて!!」
フランはぱっと顔を輝かせ、眼鏡ごしの目をハルに向けた。
「ああ。俺達もちょっと安心したぜ。お前みたいなチビに負けたなんてって、正直思ってたけどさ」
「世界大会での優勝者なら、俺達じゃ歯が立たないのも仕方無い」
双子はなんだか納得のいったような様子で互いに頷き合っている。
「そうだよ、ハル。恥じることはないよ。君はなんてったって、僕を救った救世主でもあるんだから」
トニーが厚手の防寒着を着込んだハルの小さな肩に、そっと手を置いた。
「そういうことだ、ハル」
そんなハルを見つめ、ゾイは深く頷いた。
「みんな、ありがとう! このレースも絶対にいいレースにしようね!!」
ハルは満面の笑顔で答えた。
イリオン島には、この日に備えて随分金と時間をかけて建造した一流ホテルが島の南端に存在した。
一見城のようにも見えてしまう程、大変に大きく立派なこのホテルは、完璧なセキュリティーを持ち合わせた、まさに夢のようなホテルであった。
レース前日のその晩、各国の代表生徒達は勿論、その関係者や家族、各国の招待客や主要人物、国王までもがそのホテルに滞在する予定となっていた。
「国王陛下、ご夕食の準備が整っておるそうです」
「ああ、すぐに行く。流石はリンベル女王、このホテルのセキュリティーは見事なものだ。それに、外はあれだけの寒さでも、建物の中はそれがまるで嘘のように暖かい。食事もきっと旨いことだろうな」
ヘルシオン国王はすっかり上機嫌に、ソファーから立ち上がった。
国王が宿泊する部屋は、中央部に位置する塔の最上階の一室である。
このホテル自体が万が一に備えて、各国に分けて宿泊できるよう、東・西・南・北・中央の塔に分けて建設されていた。
即ち東の塔にはブセラ王国の国王が、西の塔にはソウシン国の国王が、南の塔にはファンブリット王国の国王が、北の塔にはリンベル王国の女王が、そして中央塔にはヘルシオン王国の国王が、それぞれ宿泊していることになる。
自国用の塔以外には特別の許可証が無ければ入ることはできないし、ホテル内のあちこちに体格良い警備員が万全に配置されている。
「ええ、ここのホテルのシェフが腕に振るいをかけて作った自慢の料理だそうでございますよ」
執事ホーネットは、国王を食事の用意された部屋まで誘いながらそう話した。
「それはそうと、明日のレースは楽しみだな、ホーネットよ」
温かみのある高級な木づくりのテーブルに、清潔感のある真っ白なテーブルクロス。
そしてその上にずらりと並べられた数々の料理達。
スープからはほくほくと湯気が立ちのぼり、部屋中に旨そうな匂いを漂わせている。
「誠にそうでございますね」
相槌を打ちながら、ホーネットは国王の為に椅子を引く。
「あの子も出るそうじゃないか。……まあ、あの子の腕であれば、選抜レースに勝ち残るとは分かってはいたが」
ナフキンを膝に敷くと、国王はスプーンを手をにし、目の前に用意されたスープに一番に手をつけた。
「さぞやハル・シュトーレン君の成長が楽しみでございましょう? 陛下はしばらくあの子に会っておられませんし」
「うむ、このスープはなかなかだ。そうだな、楽しみじゃないと言えば嘘になる。あの子が今回のレースでどのように活躍してくれるのか……、何より、今回はゾイ・ボルマンとあの子のチームプレーが見られるのだからな」
国王はあっとい間にスープを飲み干すと、次に柔らかそうな肉料理にナイフを入れた。
まるでふかしたジャガイモでも切っているかのように柔らかい切り口に、国王は「おっ」と驚きの声を上げる。
「陛下?」
「おお、この肉があまりに柔らかいものでな、思わず声が」
笑いながら国王はそっとフォークに突き刺した肉を自らの口へと運んだ。
「……ところで陛下。あの子ですが、今後どうなさろうとお考えなのです?」
ヘルシオン国王は、ハルが航空学校を卒業するまでの間、祖父が所持していた修理工場を国の管理下に置くということにしていた。
さらに、ハルの祖父が残した二〇〇ビベルの借金まで肩代わりしてやっていた。
「美味い! あとでシェフにチップを弾んでおくように」
ホーネットは会釈すると、ヘルシオン国王のワイングラスに、高級そうな赤ワインをそっと注ぎ込む。
「まあ、お前の言いたいことはよくわかるさ、ホーネット。わたしはな、あの子の才能をあの世界大会で目にしてからというもの、一つの野望を抱いておるのだ」
ヘルシオン国王はワイングラスをゆっくりと回しながら、その香を静かに楽しんだ。
「あの子はわたしの期待を裏切ることなく、きっとこのレースで輝きを放つだろう。知っての通り、このレースには全世界の人間が大いにに注目している。あの子の才能を知り、世界は驚きと歓声に包まれるだろう。誰もがあの子の才能を欲しがる日はそう遠くはない……」
ホーネットは、国王がここまであのまだ幼さの残る小さな少年を見込んでいたことに、驚きを覚える。
「あの子は飛び級を果たし、十五歳までには更なる操縦技術と知識を兼ね備え、世に出てくる。そのときに、わたしはあの子を我が国の空軍に迎えるつもりだ」
ホーネットは、決して驚きを表情に出すことなく、ヘルシオン国王のすぐ脇で静かに頷いた。
「あの子は近い将来、我が軍にとって大きな戦力となるだろう。まさに、光るダイアモンドの原石だ」
十分に香を楽しんだ後、国王はワインをそっと口に含んだ。
なんとも言えない深い味わいが口中に広がり、国王は至福でいっぱいになる。
「そうでございますか。でしたら、このホーネット、これまで以上にハル・シュトーレン君をしっかりと見守っていかなければなりませんね」
「ああ、頼むぞホーネット。それに、楽しみはハル・シュトーレンだけじゃない。ボルマン大将の一人息子、あの子もなかなかの逸材だぞ。我が軍においてハル・シュトーレンと組ませれば、最大の力を発揮するやもしれん」
国王は、ワイングラスを一旦テーブルに置き、そう付け加えた。
「まずは明日のレースのお手並みを拝見するとしよう」
そう言った瞬間、部屋の壁に設置されてあるテレビ画面に、突如電源が入った。
「おや、どうやら通信が入ったようですね」
ホーネットが受信先をリモコンで確認すると、
「ヘルシオン城からです。通信を許可してよろしいですか?」
と訊ねた。
国王が食べるのを止めて頷いたので、画面全体にある人物の顔をが映し出された。
「どうした、ボルマン空軍大将」
そう言って、ヘルシオン国王はナフキンで自らの唇を拭った。
『お食事中申し訳ございません、陛下。緊急のご報告が……』
国王の留守を預かっているのが、この画面の向こうにいる男、サンダース・ボルマン空軍大将。
天才少年と謳われるゾイ・ボルマンの実父である。
「何があった?」
『「失礼ながら、そちらの画面や部屋に盗聴の心配はございませんか?』
ひどく警戒した様子で、ボルマン空軍大将は声を潜めた。
「その心配は無い。部屋に入る前に、部下に徹底的に部屋の隅から隅までチェックをさせている」
『先日、エール・リヒ少将から、ジャン・コメリ大佐の飛行船が撃墜された件はお聞きでしたね? 実は、あの船の空軍兵の一人が、今しがた我がヘルシオンに帰還したのです。』
画面の向こうのボルマン空軍大将は、髭面を僅かに顰め、そう報告するのだった。
「なんと?」
『空軍兵が話すには、自分は数日間、太陽のマークをシンボルとした女空賊の一味に拘束されていたが、今朝になって盗まれた日誌とともに解放されたのだと」
「おお!! 日誌とは、あの盗まれたオリビアの日誌に相違ないな!?」
北欧のワイングラスが倒れることも厭わず、ヘルシオン国王は勢いよく椅子から立ち上がった。
真っ白なテーブルクロスに、赤いワインがみるみる丸い染みを作ってゆく。
『ところが……。空軍兵が手にしていた物がどうやら偽物だったようです。中身は何も書かれてはおりません。空軍兵は、空賊が盗み出すよりも先に、何者かに既に偽物とすり替えられていたと話しております」
それを聞いた途端、国王は、
「馬鹿な!!」
と強くテーブルを拳で叩くのだった。
「だとすれば、一体どこの誰があの日誌を……!」
『すり替えられていたとすれば、ヘルシオン城に他国の国王達を招き入れたあの会談の時としか考えようがありませぬ。となれば、盗んだ者が陛下のおられるイリオン島に滞在している可能性が高くなりますね』
国王は、青くなって椅子に座り込んだ。
なぜならば、国王自身あの時に心当たりがあったからに他ならない。
「くそう、あのときにやられたか……!」
頭を抱え込んだ国王に、
『あの時とは?』
とボルマン空軍大将が間髪置かずに訊ねた。
「ソウシン国の皇帝だ……。奴に違いない……! あの会談のとき、彼だけが護衛もつけず城内を歩き回っていた!」
あの時に無理にでも部下をくっつけていれば良かった深く後悔し、ヘルシオン国王は唇を噛む。
『なるほど……。では、そちらに送った部下にソウシン国に怪しい点が無いか秘密裡に調べさせましょう。陛下は、安全の為できるだけ護衛から離れないようにしていてください』
「ああ、分かった。……が、万が一ということもある。その空賊が嘘をつき、本物の日誌を手にしているのやもしれぬ。ボルマン、悪いがその空賊とやらにもよく注意を払っておいてくれ」
国王の命令に対しボルマン空軍大将は、
「はっ」
と短く敬礼すると、通信を切った。
「ソウシン国の皇帝め、一体何を企んでおる……!!」
先程の穏やかな気分はすっかり消え去り、すっかり顔色を失ってしまった国王の為に、ホーネットは気を利かせて、倒れてなくなってしまったワイングラスの代わりに、別のグラスに今度は白ワインを注いでやるのだった。
少しでも気持ちが安らぐことを願って。