路傍のぼうふら
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小学校へと続く通学路。左右に田んぼが並ぶ小道の脇に、粗末な小屋があった。
その小屋は、茅葺だったか藁葺だったかまでは定かではないが、昔ながらの趣のある屋根を被っていたのを鮮明に記憶している。
今思えば、農具や収穫物を一時保管するためのものだったのだろう。よく見れば奥の方に色々な道具があったに違いない。しかし当時の私は「めっちゃボロっちい『家』やなあ。こんなとこに誰が住んどんのやろ?」などと、アホなことを考えていた。木枠だけで組み立てられたその小屋には壁も扉もなく、屋根以外は剥き出しになっていたのに、一体誰が住むというのか。
――いや。
事実、住人は確かにいたのだ。
ある初夏の午後。小学六年生の私はくたびれたランドセルを背負い、いつもの道を通って家路についていた。
まだ青々としている稲たちに見守られながら、あたたかい風に立ち向かって歩みを進める。
この辺りの民家は平屋が多い。住んでいるのは主に、百姓さん達だ。昔から田畑を耕し、作物を育て、収穫し、人々に行き渡らせ、それを連綿と受け継いできた人々。
先生がお百姓さんには感謝しろとか言っとったなあ、などとぼんやりと考えながら歩いていると、やがていつもの『ボロっちい家』が見えてきた。
いつも通り、横目に通り過ぎようとしたが、
「あれ? こんなんあったっけ?」
と、『ボロっちい家』の中に巨大な筒が置かれているのが目についた。当時の私の胸くらいまで高さがあり、抱きついても腕を一周させることができないほどに太い、鉄製の巨大な筒だ。
一体なんだろうと思って、私は小屋に侵入してみた。もちろん不法侵入である。幼いころの私は随分と好奇心旺盛で、同時に日常とは違う何かに憧れていたものだ。いや、あるいは縄張り意識のようなものだったのかもしれない。自分の通学路に見慣れないものが置いてあるというだけで、中身の確認をする理由には十分だった。
ドラム缶の前まで来ると、蓋がしてあることが見て取れた。同じく赤錆びた鉄製のようだったが、微妙に歪んでいて、きちんと閉めることができていない。
私はわくわくしながら、それに手をかける。意外なほど重かったが、歪んで浮いている部分に指を引っかけて、なんとか少しだけズラすことに成功した。
気分はもはや、麻薬取引現場を取り押さえる捜査官だ。逸る心を押さえ、雰囲気を出すために数センチの隙間からドラム缶の中をそっと覗き込む。
果たして、入っていたのは――――水だ。中には並々と、無色無臭の液体が溢れんばかりに満たされていた。
心の中では「どうせこんなもんやろうなあ」と半ば予想していたこととはいえ、落胆は隠せない。
「つまらんなあ」
ぼやきつつ、蓋に手をかける。後始末も、麻薬捜査官には必須の仕事だ。
と、そこで水の中に何かが浮いているのが目に入った。
ただの水やない! と、好奇心が再燃する私。
戻そうとした手を止め、ドラム缶の中に光を取り入れるために、蓋を引きずって開こうとした。
「なにしとんのや」
「わっ!?」
背後から突然掛けられた声に、思わず身が竦んでしまう。
慌てて振り返ると、そこには顎鬚を生やした中年の男が立っていた。眉を寄せて険しい顔をしており、今にも怒鳴りそうな雰囲気だ。
疚しいことをしていたという自覚はあったのか、怒られる! と思った幼い私は咄嗟にこんな言い訳をした。
「地球の未来を守ってました!」
……我ながら、本当にアホな子どもだったと思う。一体何を考えてこんなことを口走ったのか、未だに謎である。
しかし、そんなアホな台詞のなにが受けたのか、顎髭の男は厳つい顔を緩和させた。
「はっはっは! なかなかおもろいやっちゃなあ」
そうやって快活に笑うと、不思議と親しみやすいとも思えてしまう。妙な『おっちゃん』だ。
「んで、何してたんや? そのドラム缶の中が気になったんか?」
問い掛けられた私は素直に頷いた。前言はどうなったのかというツッコミは、残念ながらどこからも入らなかった。
「ちょい貸してみ」
言って、おっちゃんはドラム缶の蓋に手をかける。すると、あんなに苦戦した蓋がすんなりと開いてしまった。
なんだか面白くないと感じつつも、中身に対する興味の方が勝っていた。再び、わくわくどきどきしながらドラム缶を覗きこむ。
「…………なにこれ」
そこには、一センチに満たない紐のような、半透明の物体がぷかぷかと浮いているではないか。浮いているというか、漂っていた。いや、泳いでいた?
適切な表現が思い浮かばないが、とにかく、その物体――生物は自らの力でうねうねと動いているようだった。
……一匹や二匹では、ない。見える限り、ドラム缶の中にうじゃうじゃと、水と同じ割合で存在しているのではないかと錯覚してしまうほどの大群だ。
お世辞にも気持ちのいい光景とは言い難いそれに、さしもの私も頬を引きつらせてしまう。
「うっわぁ~、また湧いとる」
おっちゃんまでも嫌そうな顔をしてそう言った。どうも、この状況は彼にとっても好ましくないもののようだ。
「この変なうねうねしてるのって、ウジムシってヤツ?」
わく、という言葉に連想され、私の口からそんな質問が飛び出した。
小学生のタメ口は気にしないらしく、おっちゃんは陽気に答えてくれる。
「蛆虫は水ん中には“棲”まんやろ」
そうなんや、といい加減に納得し、さらに質問を投げかける。
「じゃあ、この水ん中に“住”んでるのは何なん?」
「ぼうふらや」
「おーふら?」
「ぼうふら。棒みたいな形してて、ふらふらと泳いどるやろ?」
「だから、ぼうふら? ヘンな名前」
確かになあ、とおっちゃんは苦笑を浮かべる。
「それとな、そいつら蚊の幼虫やで」
「え? ぼうふらが?」
意外な言葉に目を丸くして訊き返す私。頷くおっちゃん。
「蚊って、血ぃ吸うヤツ?」
「おぅ、血ぃ吸うヤツや」
「夏になったら耳元でブンブン飛び回ってうっとうしいヤツ?」
「おぅ、うっとうしいヤツや」
「……こいつらが、大人になったら血ぃ吸いに来るんや……」
そう思うと、今すぐにこのぼうふら共を全滅させたい衝動が湧きあがってくる。
しかし、おっちゃんはそれを引き止めるようなことを言った。
「でもな、こん中には、百姓さんにとって、いや、人間にとっても役に立つヤツもおんねや」
その表情はごく真面目なもので、愛嬌はどこかへ吹き飛んでしまっている。
だが、それは見る者が怯える類の表情ではない。大人が難しい問題を真剣に考えているときのそれだ。
「『ユスリ蚊』って種類なんやけどな。ほら、川とか田んぼの近くで、蚊が一か所にようけ集まっとるの、見たことあるやろ?」
「あぁ、うん」
あの集団に誤って顔を突っ込むと、物凄く不快な思いをすることになるのだ。口の中に数匹入り込んできた経験を思い出し、顔を顰めた。
あいつらが役に立つって、どういうことやろ?
興味を覚え、私は傾聴の姿勢を取った。
「あいつらがユスリ蚊っちゅーんや。その幼虫――アカムシとかアカボウフラとも言うんやけどな、そいつらは水ん中の、汚いもんを食ってくれるんや。しかも、食った後の残りかすは、稲にとっては栄養になる。要するに、川とか池を綺麗にしてくれて、稲の栄養にもなるイイ生き物っちゅーことや。まあ、大量発生したら別やけど」
「……へえー、すごいんやな」
当時の私は話の半分も理解できなかったのだが、とりあえず話を合わせて頷いておいた。とても重要で重大なことを言っていたのだと私が気付くのは、もっと成長してからのことだ。
「ははっ、まだボウズにはちょい早かったか」
私の反応から内心を正確に読み取り、おっちゃんはまた快活に笑った。
「懐かしいなあ……」
過去を思い出すと同時に郷愁の念も呼び覚ましてしまったか、十年来使っていなかった郷里の発音が口から飛び出した。本当に、懐かしい。
今日は小学校の近くにある居酒屋で同窓会がある。もちろん、メンバーは小学校時代の同級生たちだ。十数年ぶりに会う旧友たちは、それぞれどんな人生を歩んできたのだろうか。
私はそこに向かいがてら、折角だからと、実家から小学校までの道のりを自らの足で歩んでいた。
通学路の様子は、すっかり様変わりしていた。
田んぼのほとんどは潰され、代わりに真新しい新築物件がでかい顔をして立っていた。「何をそんなに偉そうにしとるんや」と言いたくなる。
昔ながらの平屋もあるにはあるが、いかにも肩身が狭そうだ。背の高い新興住宅に頭上から見下ろされている。こちらには「もっと頑張ったらどうや」と心の中で活を入れてみた。
近道だと言って、実のところわざわざ遠回りして通っていたあぜ道も、田んぼと共にほとんどが失われている。
ふと気付けば、もう日は傾き切っているというのに、虫たちの声もほとんど聞こえてこない。
ふう、と心の中だけで溜息を吐いた。
目の前にある現実の光景は、ちっとも懐かしくない。郷愁の念なんて湧き上がって来やしない。
初夏のなまぬるい風にさらされながら、私は見えない緑の稲を探し求めた。
やがてその場所に辿り着いた時、私の胸に寂寥の想いが去来することはなかった。
「なくなっとる、か……」
真新しいコンクリートで塗り固められたマンションの前に立ち、無感情なつぶやきを漏らす。
そのマンションは、『ボロっちい家』のあった場所に、威張るようにして立っていた。
地球環境にとって、人間は害のある存在だという話を聞いたことがある。
その言葉自体が人間の傲慢だという主張はさて置くとしても、私はその話を否定したいと思う。
人間なんて、ぼうふらと同じだ。
中には益となるものも、間違いなく存在するはず。
しかし、環境の害となるものが大部分であるということまでは、否定しきれない。
……あのおっちゃんは元気やろか……
ふと、思い出したことがある。
そういえば、ぼうふらについて講釈されたあの後、ドラム缶の中の水は何に使うかを訊ねてみた。まさかぼうふらを飼育しているわけではあるまい。
おっちゃんの答えは、こうだ。
「収穫した後、米のもみ殻取るやろ? そのもみ殻とか、穂を取った後の稲の部分とか、要らん部分を集めて、田んぼで焼くんや。そうしたら、田んぼに栄養が少しは戻るっちゅーわけやな。水は、その燃やすときに燃え広がったらあかんから、防災用のために近くに置くことにしたんや。ボロいのもって来たせいでぼうふら湧きまくってるけどな」
と、陽気に笑っていた。
……野焼きは環境に悪いらしいで、おっちゃん。
あの『ボロっちい家』の住人に会うことはもう、ないのだろう。
地球の未来を守ると言った私も、もうどこにもいない。
目の前のマンションに入ろうとする老人に軽く会釈を返し、私はなまあたたかい風に押されるように歩みを進めた。
薄闇の中、アスファルトで塗装された道は、電灯に明るく照らし出されていた。
拙作を読んで、何か感じるものがあったなら幸いです。