お父さんありがとう
仕事が忙しくて、父は普段ほとんど家にいなかった。
私が朝起きる頃には、もう会社へ行っている。
夜はいつ帰ってきたのかもわからない。
土日も仕事か、疲れて寝ていることが多かった。
学校行事に来るのは、いつも母。
塾の送り迎えも母。
熱を出した時にそばにいてくれたのも、転んで泣いた時に手を繋いでくれたのも、全部母だった。
だから私は、ずっと思っていた。
「うちって、母子家庭みたいだよね」
何気なく言うと、母は少し困ったように笑った。
「パパのおかげで生活できてるのよ」
「パパだって、本当はサヤと一緒に過ごしたいのに頑張ってるの」
「ふーん」
適当に返事をした。
本当かな、と思った。
私の中の父は、いつも遠かった。
気づけば仕事へ行っていて、気づけば寝ている。
ちゃんと顔を見た記憶さえ、あまりなかった。
中学生になり、自転車通学が始まった。
その日も、いつも通り家を出た。
前日の雨で、道路にはまだ水たまりが残っている。
少し冷たい風。
重たい通学バッグ。
眠い目をこすりながら、いつもの道を走っていた。
舗装された道路が少しでこぼこしていて、水たまりを避けようとハンドルを切った瞬間だった。
タイヤがぐらりと揺れる。
身体がバランスを崩した。
視界の端に車が見えた。
次の瞬間、大きな音が響いた。
気づけば、私は道路に倒れていた。
意識はあった。
でも、右足が焼けるみたいに痛い。
息を吸うだけで涙が出そうになる。
遠くで誰かの声が聞こえた。
「大丈夫!? 救急車呼んで!!」
周りが騒がしくなる。
ぼんやりした視界のまま、私は救急車に乗せられた。
病院へ着くと、母が走ってきた。
目に涙を浮かべたまま、ストレッチャーの横にしゃがみ込む。
「大丈夫!? サヤ、大丈夫!?」
痛みをごまかすみたいに、私は小さく笑った。
「うん……ドジっちゃった……」
そう答えた瞬間、不思議と安心した。
張りつめていたものが切れたみたいに、震えと涙が一気に溢れてくる。
「良かった……本当に良かった……」
母は何度もそう繰り返しながら、私の手を握っていた。
「事故って連絡もらって、びっくりしたよ」
涙を拭きながら、母が小さく笑う。
「お父さんにも連絡しちゃったのよ」
どうせ来ないだろうな、と思った。
仕事中だろうし。
検査の結果、右足の骨折だった。
ギブスを巻かれ、そのまま少し入院することになる。
母は着替えや荷物を取りに、一度家へ戻った。
「スマホ忘れずに持ってきてね」
そう言って母を見送ったあと、私は少しうとうとしていた。
その時だった。
病室のドアが勢いよく開いた。
「サヤ!!」
驚いて顔を上げる。
父だった。
汗でぐしゃぐしゃになった髪。
乱れたスーツ。
肩で息をしながら、病室の入口に立っている。
急いで走ってきたのが、一目でわかった。
私は、久しぶりに父の顔を真正面から見た気がした。
「無事か……?」
息を切らしたまま、父が近づいてくる。
「うん……」
「良かった……本当に良かった……」
父はその場に崩れるように椅子へ座り込んだ。
額には汗が浮かび、目にはうっすら涙が滲んでいる。
「足は痛くないのか?」
「傷は残らないか?」
「女の子だからな……」
父は私の足のギブスを見ながら、不安そうに何度も聞いた。
「仕事は?」
そう聞くと、父はすぐに答えた。
「サヤが事故ったって、お母さんから連絡きて……飛んできた」
少し震える声だった。
「サヤが怪我してるのに、仕事どころじゃない」
「心配した?」
父は少し眉を寄せた。
「あたりまえだろう」
「お前たちに何かあったらって思ったら、心配しないわけないだろう」
私は返事ができなかった。
父の顔が見れなくて、そっと横を向く。
気づけば涙が溢れていた。
興味なんて、ないと思っていた。
仕事ばかりで、私のことなんて見ていないと思っていた。
でも違った。
ちゃんと、愛されていた。
その時、父のスマホが鳴った。
ふと画面が目に入る。
待ち受けは、笑っている私の写真だった。
胸の奥が熱くなる。
また涙が溢れそうになった。
「お父さん、ありがとう」
声が少し震えた。
父は少し驚いた顔をした。
「いつも仕事、頑張ってくれて……ありがとう」
父は肩を震わせながら、下を向いたまま何度も頷いていた。
窓の外では、夕焼けが静かに街を染めていた。
その姿を見ながら、私は初めて思った。
――ちゃんと、愛されていたんだ。
父の背中は、ずっと私たちを守ってくれていたのかもしれない。
お父さん、いつもありがとう




