302号室の遠足
一人暮らしの佐伯は古びたアパートの302号
室に住んでいる。
ある日、仕事で疲れ果ててひと駅前で電車を
降り、見知らぬ住宅街をふらふらと歩いていた。
迷い込んだのは、街灯がオレンジ色に滲む、
静かな路地裏だった。
そこには自分の住むアパートと瓜二つの古ぼ
けた建物が立っていた。
吸い寄せられるように階段を上がり、302号
室の前に立つ。
「……まさかな」
佐伯はポケットから自分の家の鍵を取り出し、
その扉の鍵穴に差し込んだ。
カチリと軽い音がして、吸い込まれるように
鍵が回った。
扉を開けるとそこは自分の部屋ではなかった。
間取りは同じだが、壁一面に色鮮やかな熱帯魚
の水槽が並び、柔らかな水の音が響いている。
見知らぬ老人が椅子に座り、穏やかな顔で
こちらを振り返った。
「おや、今日は早いね。茶でも飲んでいくかい」
老人はまるで佐伯が帰ってくるのを分かって
いたかのように微笑んだ。
佐伯は呆然としながらも、誘われるままに
ソファに腰を下ろした。
不思議と恐怖はなかった。
ただ、ずっと昔から知っている場所のような、
懐かしい香りがした。
小一時間ほど、とりとめもない世間話をして
から、佐伯は「そろそろ帰ります」と立ち上が
った。
老人は玄関まで見送り、優しく肩を叩く。
「またいつでも来なさい。鍵は、ちゃんと
持っているんだろう?」
外に出ると、そこはいつもの自分の街の見慣
れた公園のそばだった。
急いでアパートへ帰り、302号室の扉を自分の
鍵で開ける。そこには、脱ぎっぱなしの靴と、
読みかけの雑誌が転がる、いつもの冴えない
自分の部屋があった。
だが、上着のポケットに手を入れると、指先に
小さな違和感を覚えた。取り出してみると、
そこには自分の鍵と一緒に、見たこともない鮮や
かな青色の魚の鱗が一枚…キラリと光っていた。




