地味男子、推しの公爵令嬢のために立ち上がる
「セリーナ・ハートフォード!君との婚約を破棄する!」
第一王子の言葉が響いた瞬間、華やかな卒業パーティの場は凍りついた。
名を呼ばれたセリーナ様は、灰色の瞳をわずかに揺らす。
それでも、シャンパンゴールドのドレスを優雅にまとい、微塵も取り乱さぬ姿は、誰の目にも高貴な公爵令嬢そのものだった。
(・・・・・・あのアホ王子、ついにやりやがったな)
第一王子が、男爵令嬢のヘレン嬢に夢中なのは、周知の事実だった。
人目を憚らず、互いに顔を近づけて笑い合う姿を、俺は悔しさ混じりに何度も目撃していた。
セリーナ様は王子に、品性を落とす行為は慎むよう諫めていたが、王子はまるで意に介さなかった。
「ブライアン様、素敵!」
王子の隣にいるヘレン嬢の声が、会場中に響いた。
ペールピンクのドレス、小花の髪飾り、可憐さは文句なし。
でも、俺みたいな地味男子には冷たい。
優しさも可憐さも、王子だけに向けられる。
入学以来、ちょろちょろと王子の傍に寄って甘えた声で話す彼女は、生徒たちの白い目の的になっていた。
「セリーナ、聞いているのか?」
「ええ、聞こえています。しかし、今は卒業パーティの最中ですので、皆様のご迷惑にならないよう、場所を移して改めて話し合いましょう」
(さすがセリーナ様!)
常に周囲を思い遣れる彼女は、まさに次代の王族に相応しい人物だ。
卒業という祝賀の場で、個人的な問題を持ち出すなどもってのほか。
この場で婚約破棄を公にすれば、セリーナ様だけでなく、王家の威信も大きく損なわれるだろう。
それにも関わらず、第一王子の突然の婚約破棄宣言に、生徒たちのみならず教師陣も戸惑いを隠せない。
早く王子たちを退出させろと苛立ちが募る。
(・・・・・・でも、ここで婚約を破棄された方が、セリーナ様にとってはむしろ幸せかもしれない)
高身長で整った顔立ち、通称「夢の王子様」
本人は自分が称賛されていると思い込んでいるが、実際は現実を見ていない、頭がお花畑の王子を揶揄って言っているだけだ。
なぜなら、第一王子の学校の成績は最悪だ。
授業で当てられても、まともに答えたことは一度もない。
さすがに教師もアホさ加減に気づいたのか、誰も王子に答えさせようとしなくなった。
(小さい頃から、一流の家庭教師をつけてもらえる王族のくせに・・・)
兄が在籍していたころは、上位成績者の名前が玄関前に貼り出されていた。
だが、俺の代では、王子の名がないことで馬鹿にされないよう、あえて貼り出さなかったらしい。
生徒たちの間では、「忖度すぎる」と陰口を叩く者も多かった。
「ブライアン殿下、場所を・・・」
「その必要はない。ここで、君の罪を公にしなければならないからな!」
「・・・・・・え?」
「君は公爵令嬢という身分をかさに着て、ヘレンに嫌がらせをしたそうだな!」
「殿下、私はそのようなことは一切しておりません」
「嘘をつくな!昨日は、理科棟の階段からヘレンを突き落としたと聞いているぞ!」
「神に誓って、そのようなことはしておりません」
「だから、嘘をつくなと言っているだろう!」
「でも、本当に・・・」
「ヘレンがそう言っているのだ!」
(おいおいおい、馬鹿すぎるだろう・・・)
どうしてセリーナ様が嘘で、ヘレン嬢が正しいなんて、そんな決めつけ方ができるのだろうか。
会場は、重苦しい雰囲気に包まれていた。
誰もが第一王子の言葉を疑いながらも、王子の視線を恐れてセリーナ様に公然と味方する勇気はない。
誰一人口を開けず、張りつめた沈黙だけが広がっている。
だが、セリーナ様は、俺にとって唯一無二の「推し」だ。
美しい容姿だけではない。
誰にでも優しく、公平に接するその心は、俺のような地味男子にとって女神そのものだ。
大事な「推し」を侮辱されて黙っているほど、俺は卑怯な男ではない。
格好よく助けに入りたかったが、王族に異を唱えるには勇気が足りず、結果、間抜けな声で割って入ることになった。
「・・・・・・あの、セリーナ様がそのようなことをしたと示す証拠は、ありますか?」
「誰だ?お前は?」
「三年間、殿下と同じクラスだった、ルイス・フェアファックスです」
第一王子が馬鹿すぎるのか、それとも俺が地味すぎるのか、どっちなのかはわからない。
でも、三年間同じクラスだったのに覚えられていないとは、正直驚きだ。
うちは伯爵位で、国内唯一の希少金属鉱山まで持っている。
俺が目立たないにしても、顔と名前くらい覚えておくべきだろうに。
「お前のような取るに足りない者は黙っていろ」
「お言葉ですが、俺は首席卒業です。そうでしたよね、レスター先生?」
「・・・・・・ああ。ルイスは、今年の首席だ」
一気に会場がどよめいた。
卒業生代表挨拶は本来、首席が務める。
しかし今年は、体裁を整えるため学校長に頼まれ、俺が第一王子に譲ったのだ。
第一王子は、悔しそうに唇を噛んでいる。
まさか、自分が首席だから卒業生代表の挨拶を任されたと思い込んでいたのだろうか。
(・・・これで俺の話を聞かざるを得なくなったはずだ)
首席には、高い社会的価値がある。
セリーナ様が課題で困ったときに、さりげなく教える自分の姿を想像して必死に勉強してきた努力が、こんな形で報われるとは。
ただ、残念ながら、優秀なセリーナ様に教える機会は一度もなかった。
「ブライアン殿下は、セリーナ様が犯人だと断定されていますが、まずは客観的な証拠が必要ですよね?」
「証拠?ヘレンがそう言っているのだから、間違いない!」
「セリーナ様も、そんなことはしていないとおっしゃっていますよ。どうして、ヘレン様の言うことが真実で、セリーナ様は嘘をついていると断言できるのですか?」
「セリーナは、社交術を磨いてきた公爵令嬢だ。言葉で人を操るのも得意だろう。対してヘレンは、素直で嘘がつけない」
(この独断と偏見に満ちた馬鹿王子が・・・!)
だが、口先で何を言っても、この王子には通じはしないだろう。
理性を働かせ、場の空気と利害を計算し、セリーナ様の無実を証明するのだ。
「・・・ヘレン嬢を突き落として怪我をさせたのなら、それは明らかな犯罪です。裁判になれば、何より証拠がなければ話になりませんよ」
「ああ、そうなるだろうな」
(・・・・・・王子は、何か証拠を握っているのか?)
にやりと笑う顔が、思わず背筋を寒くさせる。
それでも、絶対にセリーナ様は無実だ。
王子は裏から手を回して証拠を捏造するかもしれない。
それなら、今のうちにセリーナ様の潔白を証明する必要がある。
「ヘレン嬢は、昨日の何時ごろに突き落とされたのですか?」
「・・・夕方の五時でしたわ。帰りを促す鐘の音が聞こえていたので、間違いありませんわ」
「本当ですか?事実と異なることを言えば、偽証罪に問われる場合がありますよ」
「私が嘘なんて、つくわけないでしょう!」
毛を逆立てた猫のように食ってかかるヘレン嬢だが、全く怖くはない。
セリーナ様の無実はわかりきっている。
しかし、それでも彼女にも質問を投げかける。
「では、その時間、セリーナ様は何をされていましたか?」
「私は一人で、図書館で本を読んでいました」
「ほら!セリーナに証拠などないだろう!図書館には人などいないのだからな!」
勝ち誇ったように言う王子だが、馬鹿である。
図書館を利用しない王子には理解できまいが、放課後に利用する生徒は多いのだ。
「図書館で、セリーナ様のお姿をご覧になった方はいませんか?証言していただけませんか?」
図書館にいた顔触れに目を遣るが、どうやら第一王子に睨まれたくないらしい。
互いに顔を見合わせながらも、誰も手を挙げない。
たとえ馬鹿でも、次期国王候補だと思えば逆らえないのだろう。
「では、俺がセリーナ様が図書館にいたと証言します」
「セリーナに味方するお前が言っても、信用はされまい」
「味方どころか、俺はセリーナ様を「推し」ているのです」
「・・・・・・・・・は? 『推し』?」
「熱心に応援している、とういうことです」
「余計に信用できないじゃないか!」
「ですが、セリーナ様の無実を証明する証拠があります。俺は、推しであるセリーナ様の行動を・・・日々、克明に記録していました」
「記録だと!?」
第一王子が叫んだ瞬間、この場にいた全員の視線が一斉に俺へと突き刺さった。
どよめきが広がり、蔑みと嫌悪の視線がこちらへ向けられているのが、痛いほどわかった。
女生徒たちは露骨に顔をしかめ、まるでゴミムシでも見るかのような目で俺を見下している。
でも、それでいい。
自分がどれほど歪んだことをしていたかなど、嫌というほどわかっている。
笑われてもいい。嫌われてもいい。
セリーナ様の潔白さえ証明できるのなら、俺は一生、陰で嘲られようと、後ろ指をさされようと構わない。
入学式で派手に転び、嘲笑を浴びていた俺に、セリーナ様だけが何も言わず、そっとハンカチを差し出してくれた。
そのとき決めたのだ。
彼女を、一生推し続けると。
だから、俺は嘘をつかない。
ゆっくりとポケットに手を入れ、肌身離さず持ち歩いていた分厚い手帳を取り出す。
ざわめきが広がる中、俺はそれを掲げた。
この手帳には、俺が見てきたセリーナ様の一挙一投足が、余すことなく書き留められている。
「ブライアン殿下、ヘレン嬢、どうぞこの手帳をご覧ください」
「な、なんだ!?これは・・・!」
「やだっ、気持ち悪い・・・!」
王子とヘレン嬢が驚くのも無理はない。
日時、場所、具体的な出来事。
さらにセリーナ様に関わった人物の名前まで、すべて克明に記してある。
そして、その日の俺の所感も、欠かさず綴られている。
ここまで揃っていれば、裁判になったとしても十分に証拠となるはずだ。
「最後から二ページ前を。昨日の夕方五時の項目です、セリーナ様が図書館にいらしたことは、そこに明記してあります」
「・・・・・・・・・」
「ちなみに四時半。セリーナ様は図書委員のロバートに依頼し、司書のエドマンド先生から本を受け取っている。そうだよね、ロバート?」
「あ、ああ、事実だ。セリーナ様に、書庫にあるアルディナ王国について書かれた本を持ってきてほしいと頼まれたんだ。それでエドマンド先生に鍵を借りた。間違いない」
「エドマンド先生、ロバートはそう言っていますが、事実ですか?」
「ああ、間違いないよ。確かに、私がロバートに書庫の鍵を渡した。その後、セリーナ様に貸出し手続きを行った」
第一王子は、まさか証言されるとは思っていなかったに違いない。
だが、ロバートやエドマンド先生を鋭く睨むその視線も、彼らを黙らせることはできない。
書庫の鍵を使うたび、借りた時間と名前を記録する義務があるのだ。
もし司法庁長官の耳に入ったとき、偽証したことが露見すれば、自分の身に危険が及ぶのだ。
「セリーナ様が図書館から出られた直後、ちょうど帰りを促す鐘の音が響いていました。その際、ジェーン嬢がセリーナ様に声をかけていたよね?」
「え、ええ。・・・雨が降りだしたので、傘をお貸ししようかと思って声をかけました」
あのとき、俺こそが傘をセリーナ様に貸すタイミングを狙っていたのだ。
傘を貸すことはできなかったが、王子の顔を強張らせるくらいの役には立てたらしい。
証言、記録、目撃者の一致。
どれをとっても、セリーナ様の潔白を覆す余地はない。
だが、第一王子はそれでも粘った。
「図書館から走れば、理科棟まで間に合うはずだ」
「はあ?間に合うはずありませんよ。鐘の音が何分鳴ると思っているのですか?ジャック先生、だいたい鐘の音は何分鳴るものですか?」
「・・・二分だ」
第一王子は、くっと唇を噛み締めた。
証言者は、多ければ多いほど有利だ。
ここにいる人間を、少しでも多く巻き込んだ方が勝ちだ。
「じゃ、じゃあ、セリーナが取り巻きにやらせたんだろ!」
「ブライアン殿下、それはあまりに失礼です!私の友人を侮辱なさるのですか?」
自分が貶されても怒りを見せなかったセリーナ様が、初めて怒気を含んだ声で言い返した。
セリーナ様は友情に厚く、友人をとても大事にする。
そんなのところも、俺がセリーナ様を推す理由のひとつだ。
「呼び名なんてどうでもいい!ナンシー嬢やエマ嬢なら、お前の言うことに従うはずだ!」
「私の友人になんて言葉を!今すぐ訂正してください!」
「・・・いいえ、セリーナ様。殿下に、たとえ何を言われようと、私たちは構いませんよ」
「ええ、そうですね」
(よし!ナンシー嬢とエマ嬢が味方についた!これで盤面は動く!)
一歩前に進み出たナンシー嬢の声には、揺るがぬ覚悟と誠意が込められていた。
隣に立つエマ嬢は、怒りを帯びた瞳で王子をじっと睨み返していた。
「ヘレン様が突き落とされたその時間、私たちは卒業パーティの準備をしていました。その事実は、準備を手伝ってくださった皆様方もご存じの通りです」
ナンシー嬢がそう告げて周囲を見渡すと、何人かが思わず頷いた。
これは後で証言してもらうことになるかもしれない。
俺は咄嗟に、頷いた者の名前を紙にメモしていった。
「・・・・・・そ、そうか」
「ええ、そうです。準備をしていた全員に、聞いてくださって結構ですよ」
ナンシー嬢の家、エジャートン家は伯爵位を持つ名門だ。
国内最大の金融業を営んでおり、多くの家が資金を借りている。
王家もその例外ではない。
彼女がセリーナ様の味方についたことは大きい。
「それにしても、ヘレン様は理科棟で一体何をしていたのかしら?あんな人気のない暗い場所、女性なら誰も足を運びたくないですよね?」
今度は、エマ嬢からの強烈な嫌味だ。
暗くて人気のない理科棟は、恋人同士の逢引き場所に使われている。
そんな場所に、一人で行くなんて考えられない。
「べ、別に私がどこで何をしていようと、エマ様には関係ないじゃないですか!」
「そうかしら?私たちを疑って行動を詳らかにさせるのであれば、ヘレン様も同じように説明すべきでは?」
「まあ!エマ様は、私が嘘をついているとでも言うのですか?」
「落ち着くのだ、ヘレン」
第一王子は形成が不利だと悟ったのか、ヘレン嬢を宥め、話を終わらせようとした。
「もういい。ここで言い争っても埒があかない。この件は、私が後で調べさせよう」
「その必要はございません。私から父に報告し、調査をお願いいたします」
「え、いや、そこまですることでは・・・」
「そこまですることですよね?だって突き落とされたということは、命の危機にさらされたのと同じことではありませんか」
つんと澄ました声で言うエマ嬢に、第一王子の顔が青ざめる。
エマ嬢の父は、王立司法庁長官。
身分に関係なく、正義を貫く人物として名高い。
王子がどれだけ横槍を入れようと、真実を探り出すだろう。
「も、もういいです。セリーナ様に突き落とされたと思いましたが、私の勘違いかもしれません」
「勘違いって、どういうことですか?」
「雨が降っていたし、私が足を滑らせただけかもしれません」
「あなた、まさかそのような思い込みだけで、セリーナ様に罪をお着せになるおつもりでしたの?」
「エマ嬢!もういい。ヘレンもこう言っている。この件は不問にしてやろう」
(公衆の面前でセリーナ様に疑いをかけておいて!?)
もし俺があの手帳を証拠として出さなければ、セリーナ様は名誉を汚され、傷害の罪まで着せられていたかもしれないのだ。
「・・・・・・・・・・・・謝らないのですか?」
思わず、言葉がついて出た。
胸の奥で渦巻く気持ちが、理性を押しのけて口を突いて飛び出したのだ。
自分でも驚くほど自然に、抑えきれない思いが声になった。
「何を?」
「セリーナ様に、です!公衆の面前で疑いをかけておきながら、これで終わりにするつもりですか?」
「お前ごときに、指図される覚えはない!」
(うちの三歳の甥っ子でさえ、謝る道は知っているというのに、この馬鹿王子ときたら・・・!)
俺の推し、セリーナ様を公衆の面前で侮辱するなんて、絶対に許せない。
心優しいセリーナ様が許すとしても、俺が許すわけにはいかないのだ。
どうしても、この馬鹿王子には、自分の愚かさを思い知ってもらわねばならない。
「俺は、ブライアン殿下のために言っているのです」
「はぁ?」
「来週、アルディナ王国の王太子夫妻がお見えになります。セリーナ様のご助力がなければ、ブライアン殿下お一人で対応することになりますね」
「なんだって、俺は・・・」
「殿下は、アルディナ語がお得意でしたか?」
アルディナ語の授業で、教師の問いに碌に答えられない第一王子。
王族であれば三カ国語以上を流暢に話せることが当然だというのに、この馬鹿王子は、いつもセリーナ様に頼りきりだ。
「それは・・・」
「第二王子のジョージ殿下は、お得意のようですけどね」
「なっ!無礼だぞ!」
第一王子から繰り出された拳を、軽く押さえる。
見た目だけの王子ごときに、俺が負けるわけがない。
影のような護衛が常につくセリーナ様が危険に晒されることはないだろうが、万が一に備えて、俺は毎日鍛えていた。
ただ、セリーナ様を助け、ほんの一瞬でも素敵だと思ってもらうためだけに。
「ブライアン殿下は、セリーナ様あっての殿下です。公爵家の支援、そしてセリーナ様の尽力があって初めて、王太子候補としての立場が保たれていることをお忘れなく」
「何を言っているのだ!俺は、第一王子だ!」
「第一王子だからといって、王太子の地位が自動的に保証されているわけではありません。ジョージ殿下と年齢差は三歳しかありませんし、国王陛下もお若いので、後継は流動的です」
優秀だと評判の第二王子、ジョージ殿下。
セリーナ様との婚約を破棄すれば、間違いなく後継の座は第二王子の手に渡るはずだ。
「あ・・・・・・」
「大丈夫ですよ!ブライアン様のことは、私がお支えします!」
ヘレン嬢が第一王子を励ますが、口先だけの励ましでは、どうにもならない。
大体、男爵令嬢のヘレン嬢が、幼い頃から王妃教育を受けてきたセリーナ様に敵うわけがない。
そこは、第一王子だってわかっているはずだ。
セリーナ様のありがたさを思い知れというものだ。
俺が王子を睨むと、ふわりと優しいセリーナ様の声が耳をかすめた。
「・・・・・・もう、いいですよ。ルイス様」
「え?そんな、セリーナ様」
「庇っていただき、ありがとうございました、この手帳は、私の潔白を示す証拠として、私がいただいてもよろしいでしょうか?」
「・・・・・・・・・・・・え、ええ。もちろんです」
手帳を差し出す手が、わずかに震える。
びっしりと書き込んだ推し記録。
本人に見られれば、社会的に死ねる自信がある。
それでも、彼女の力になれるなら。
俺は、その羞恥ごと差し出すしかなかった。
(・・・・・・・・・ああ、俺の人生終わったな)
用事がない限り、セリーナ様に声をかけることすらできなかった俺。
彼女の記憶にも残らない存在のはずだった。
それがこっそり彼女につきまとい、行動を記録していたなんて・・・。
さぞかし、嫌な思いをさせてしまったに違いない。
そして俺は、最低最悪の、気持ち悪い糞男としてセリーナ様の記憶に刻まれる。
それが避けられない帰結だとしても、涙が滲むほど辛かった。
セリーナ様は、顔色一つ変えずに手帳を受け取り、ゆっくりと第一王子の方を振り返った。
「ブライアン殿下。このことは、父に報告させていただきますね」
「え、あ、あの・・・」
「私たちの婚約については、後日話し合いましょう」
「ちょっ、ちょっと待ってくれ・・・」
「皆様、せっかくの卒業の日にお騒がせして申し訳ありませんでした。ナンシー様もエマ様も、私のことを庇ってくださって本当にありがとうございます。では、私はこれにて失礼いたします」
「ま、待て、待ってくれ!」
第一王子が必死に呼びかけるも、セリーナ様の耳には届いていないかのようだった。
彼女はただ、優雅にお辞儀をすると、まるで風のように静かに立ち去っていく。
その背を追おうとした第一王子の腕を、俺は無意識に掴んでいた。
それでも、できるのは彼女の背中を目で追うことだけ。
その姿が視界から消えた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
俺がセリーナ様を見たのは、あの日が最後だった。
◇◇◇
「兄さん、仕事が終わったよ」
「相変わらずルイスは仕事が早いな。助かるよ、ありがとう」
あれから俺は領地に戻り、父の仕事を兄と手伝っている。
セリーナ様が去ったあと、学校長の判断で、第一王子とヘレン嬢はすぐに退出させられた。
友人たちは、俺に卒業パーティに残るよう勧めた。
けれど、恥ずかしさが先に立ち、言葉は喉に詰まってしまった。
結局、エマ様に証言できる者の名前を書いた小さなメモだけを渡し、そのまま足早に会場を後にした。
(・・・・・・俺、少しはセリーナ様の役に立ったかなぁ)
セリーナ様は、第一王子との婚約を破棄した。
国王陛下は、事態を把握するために学校に調査員を派遣したそうだ。
卒業パーティにいた教師や生徒たちの証言により、王位に相応しくない人物だと判断したのだろう。
正式にジョージ殿下が王太子に指名された。
第一王子は再教育が必要と見なされ、王宮で勉強漬けの毎日だそうだ。
ヘレン嬢は王家から睨まれることを恐れた父親に、修道院へ入れられたと聞く。
セリーナ様のことは気になるが、俺にできることはない。
むしろ、俺の顔さえ見たくないだろうから、このまま領地で骨を埋める予定だ。
感情を表に出すのが苦手な彼女を、誰かがそっと慰め、胸の内を吐き出させてあげてほしい。
俺ではなくてもいい。
ただ、彼女が一人で抱え込まずに済むなら。
誰かが彼女の心の声を拾い、慰め、笑わせてくれないだろうか。
唇を噛み締めていると、父が焦った形相で部屋に飛び込んできた。
「お、おい!ルイス!!大変だ!!!」
「父上、そんなに慌ててどうしたのですか?」
「お前に、ハートフォード家から縁談が来ている」
「は?」
「ご息女の、セリーナ様の婿になって欲しいそうだ」
「え、えぇぇぇぇぇぇ!?」
公爵家からの突然の縁談の申し込みに、家中は大混乱に陥った。
俺は、言葉すらまともに出ず、頭の中だけが理屈の渦に巻き込まれていた。
「ど、ど、ど、どうしてですか?」
「それが、卒業パーティでお前がセリーナ様を助けたことに、いたく公爵が感心されたそうだ」
「いや、だからといって、セリーナ様のお気持ちは・・・」
「それが、なんと、お前が婿になるのはセリーナ様たっての希望だそうだ」
たとえ天地が裂けるようなことが起きても、こんなにも驚くことはなかっただろう。
推しのセリーナ様が望むなら、俺に惜しむものなどない。
たとえ、あの愚かな行動を責めるための縁談だとしても、それでもかまわない。
そう決めると、俺は即座に了承の返事を送り、公爵邸へ駆けつけた。
当然、開口一番に俺はセリーナ様に謝った。
それが、この愚かな行動の代償を少しでも償う唯一の方法だから。
「観察記録なんて、気持ち悪いことをしてしまい、申し訳ありませんでした!」
「・・・・・・驚きましたけど、別に構いませんよ」
予想外の反応に戸惑うが、同時にセリーナ様の寛大さに尊敬の念さえ湧く。
理性で分析すれば、彼女の器量は計り知れないほど大きいのだろう。
「あ、あの、本当に、俺が婿になるってことで、よろしいのでしょうか・・・?」
「ええ。どうかよろしくお願いします」
「世間での俺の評判は、最悪だと思いますが・・・」
「いいえ。『自分の尊厳より推しを守った、オタクの鑑』として、称賛されていますよ」
(・・・ちょっと待て。それは、褒め言葉か?)
だが、感情としては恥ずかしいが、合理的には、これ以上ない成功だ。
ついに、推しに「好きだ」と言える権利を、俺は手に入れたのだ。
ここまで来た以上、ためらいはない。
気持ちのすべてを、想いを、ぶつける。
いつか、言えるものなら言いたい。
頭の中で何度も何度も繰り返してきた言葉だ。
「セリーナ様。入学式でハンカチを差し出していただいたあの日から、ずっとあなたに恋していました。ずっと大好きでした。これからどうか、あなたの隣にいさせてください」
「ありがとうございます。こちらこそ、よろしくお願いします」
セリーナ様の柔らかな笑みに、心拍が計測不能な速度で跳ね上がる。
理性的には理解できないが、セリーナ様が俺を見て微笑むだけで、軽く死ねそうだ。
「・・・ルイス様。私たちは、これから婚約者になるのですから、敬語はやめてくださいね。私もそうしますから」
「そ、そんな!推しのセリーナ様に敬語を使わないなんて・・・」
「『推し』ではなく、婚約者よ」
「あ、そ、そ、そうですね。・・・い、いや、そうだね」
軽くセリーナ様に睨まれて、慌てて言い直す。
推し活三年。
ただひたすらに、彼女の幸せを遠くから願ってきた。
まさか、彼女の隣に座れる日が来るなんて、思いもしなかった。
セリーナ様の腕の位置、息遣い、柔らかな笑み。
すべてが計算外で、脳内は完全にパニック状態。
だが、セリーナ様の前でこれ以上、気持ち悪い自分を晒すわけにはいかない。
理性を最大限に働かせ、必死で心の暴走を抑え込む。
かなりの努力を要しながらも、目の前のセリーナ様に、可能な限り自然で穏やかな笑みを返した。
(・・・・・・・・・幸せすぎて、泣きそう)
推しの隣に座れること。
それだけで、恥も外聞も捨てて良かったと、心の底から理解できる瞬間だった。
◇◇◇
(ふふっ、本当に一途に想ってくれていたのね)
耳まで赤くして、一生懸命にくだけた話し方に直すルイス様に、思わず口元が緩んでしまう。
つまらない人生だと思っていた。
公爵令嬢として、常に正しく、公平であれと教えられ、実践してきた。
他人からは完璧な公爵令嬢だと称賛され、王家からもその能力を認められ、ついには第一王子の婚約者になった。
だが、表面上の栄誉や称賛は、心の満たされなさを埋めてはくれなかった。
常に国のために学び、他生徒の模範になるよう振舞ってきた私は、どこか空っぽで、感情のない操り人形のように思えた。
だから、婚約者がヘレン様に心惹かれるのを目の当たりにしても、胸に響くものは何もなかった。
それでも、理不尽な言いがかりをつけられて、危険に晒されるわけにはいかない。
父に頼み、王家の「影」と呼ばれる護衛兼報告係をつけてもらうことで、最低限の防御策を確保したのだ。
全てが、どうでもよかった。
婚約破棄を告げられたことに驚きはしたものの、これで第一王子のお守りをしなくて済むと考えれば、むしろ安堵すら覚えた。
それに、私がヘレン様を突き落としていないことは「影」がよく知っている。
後で父と話し合い、適当な落としどころを見つけて婚約を破棄すればいいと、そう考えていた。
隣にいるルイス様が、声を上げるまでは。
『・・・・・・あの、セリーナ様がそのようなことをしたと示す証拠は、ありますか?』
(・・・・・・・・・私のために、立ち上がってくれたの?)
あの瞬間、まるで世界が少しだけ開いたかのように、一筋の光が見えたのだ。
どうでもいいと思いながらも、誰も私を庇おうとしない現実が、とてつもなく悲しかった。
孤独の底に沈んだその瞬間、ルイス様だけが声を上げたのだ。
王家の威光に押され、震えながらも、彼は必死だった。
彼の覚悟を滲ませた声は、私には雷鳴のように響き、心の奥底を揺さぶった。
どうやら、私のことを一方的に想っていた彼は、克明に私の行動の記録をつけていたらしい。
そのこと自体は、正直気持ち悪く思えた。
それでも、彼が勇気を出して立ち上がってくれたおかげで、次々と友人たちが私に有利な証言を重ねてくれた。
(・・・・・・本当に、よくこんなに毎日書き続けることができたわよね)
家に帰って手帳を開いた瞬間、目に飛び込んできた光景に息を呑んだ。
登校から下校までの行動が、隙間なくびっしりと書き込まれている。
そして、その隣には、ルイス様の感想が丁寧に記されていた。
『セリーナ様が、沈丁花の香りにうっとりと目を細めていた。そんなところも可愛い』
『学食のカップケーキがお気に入りらしい。いつか差し入れしたい』
『眉を顰めながら、一所懸命にアルディナ語の勉強をしているセリーナ様が尊い』
『ナンシー嬢と湖畔に遊びに行く計画を立てているセリーナ様。いつになく生き生きしていて、見ているだけで癒される』
どのページにも、そこにいる私は、高嶺の花と称される公爵令嬢ではなく、どこにでもいる普通の女の子だった。
灰色で退屈だと思っていた毎日も、ルイス様の視線と記録によって、まるで光を帯びて輝いているかのように見えた。
読み進めるごとに胸が熱くなり、嬉しさで文字が滲んでいった。
「セリーナ様、急に黙り込まれましたが、大丈夫ですか?・・・あ、いや、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
(・・・・・・道理で、困った時にすぐ手助けしてくれたはずよね)
本当に、ルイス様は私のことをよく見ている。
自分からは決して近づかないのに、私が困ると、どこからともなく現れ、そっと手助けしてくれた。
アルディナ王国の資料がなくて困っていた私に、書庫にあると教えてくれたのも彼だ。
落ち込んでいた時に、買い過ぎたからと言ってカップケーキを差し入れてくれたのも彼だ。
高い棚にある本が取れないとき、不意にボールが飛んできたとき、教科書を忘れたとき。
いつもルイス様がさりげなく助けてくれるたび、不思議に思っていた。
だが、手帳を読んですべてを知った今、はっきりと理解できる。
あれは偶然ではなく、必然だったのだと。
(同じクラスだったのに、ルイス様の良さに全然気が付かなかったわ)
クラスでは、地味で目立たなかったルイス様。
けれど、皆から慕われ、彼のいる班はいつも教師から褒められていた。
推しだと言われて胸が熱くなる一方で、真に称賛されるべき人は、こんなにも控えめで、誰からも自然に慕われる彼自身なのだと、心の底から思った。
(・・・・・・でも、理屈じゃないのよね)
ルイス様が声を上げたその瞬間、私はもう恋に落ちていたのだと思う。
もしかすると、気づかなかっただけで、最初から彼に惹かれていたのかもしれない。
自分の気持ちに気づき「ルイス様と結婚したい」と父に告げた。
難色を示されるだろうと思っていたのに、父は意外にも喜んでくれた。
気づいていなかったが、私が自分から願いを口にするのは、これが初めてだったらしい。
どうやらルイス様には、私の心の天秤を、知らず知らずのうちに傾けてしまう何かがあるようだ。
不意に、ルイス様が意を決したように私を見つめた。
「あ、あのですね、セリーナ様」
「ルイス様、敬語はやめてと・・・」
「あ、う、うん、そうなんだけど。でも、これだけは言わせてください!」
「え、ええ」
「俺、結婚しても、君のことを一生推させてください!!!」
「推す」という言葉に、思わず心が跳ねる。
ルイス様の決意を秘めた声は、あの日と同じように、雷鳴のごとく私の胸に響いた。
あの時は、ただ驚きに震えただけだった。
けれど、今は違う。
その音は、私の未来を照らす光となり、長く閉ざしていた感情の扉を、静かに開いていった。
「・・・・・・・・・はい」
思わず、声が震える。
胸の奥から込み上げる感情が、ようやく言葉になった。
「私も、私も、ずっとルイス様のことをお慕いします・・・!」
涙がこぼれそうになり、手でそっと顔を覆う。
長い間、灰色だと思っていた私の毎日が、今、この瞬間、光で満たされた。
正しさも、公平さも、もう気にすることはない。
今はただ、自分の気持ちだけを伝えればいい。
ルイス様の前では、私は誰の目も気にせず、心のままに振る舞える。
ただそばにいるだけで、世界が優しく感じられるのだ。
ふと目を上げると、ルイス様がハンカチを差し出し、まるで私の心の動きを察しているかのように優しく見つめていた。
ハンカチには触れず、自然とルイス様の手に自分の手を重ねた。
指先から伝わるぬくもりが、彼の優しさと心の温かさを教えてくれる。
「セリーナ様・・・」
ルイス様が戸惑うように、そっと、まるで壊れものを扱うかのように私を抱きしめる。
その温もりに、胸がぎゅっと震え、大切にされ、大切に想うことの尊さに、思わず涙が浮かぶ。
「推す」とは、こんなにも愛しい感情のことを言うのだろうか。
幸せすぎて、もう涙が止まらない。
「せ、せ、セリーナ様!?ど、どうしたら・・・!さ、触ったのが、嫌でしたか・・・?ご、ごめんなさい・・・!」
「・・・大丈夫ですよ、嫌じゃないです」
「で、で、で、でも、泣いて・・・」
「ただ・・・、ちょっと嬉しかっただけです。でも、恥ずかしかったのも、本当です」
(・・・・・・・・・ごめんなさい)
幸せすぎて涙が止まらず、ルイス様を慌てに慌てさせてしまった。
ルイス様はハンカチを頬に当てたり、何度も頭を下げてくる。
その必死な姿が、なんだか愛おしくて、私は自然に笑っていた。
私の笑顔に気づいたルイス様は、少し照れたように、でも嬉しそうに笑い返してくれた。
推されていたはずの私は、いつの間にか、ルイス様を推していた。
だけど私の「推し」は、これから一生、隣で笑ってくれる人。
これから先も、きっとこんなふうに、二人で笑い合っていくのだろう。
愛しくて、幸せで、胸いっぱいに幸福の光に包まれながら、私は、これからもずっと、彼を推し続けるのだ。
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作中では「ゴミムシ」という表現を使用しておりますが、ゴミムシは害虫を捕食するため、農業においては益虫とされています。あらかじめご了承ください。




