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アリシャの柔らかく温かい人肌を抱いて、夢見心地になりながら適当な会話をしている時のことだった。
「そういえばあの子、身請けが決まったって知ってた?」
——は?
「あの子?」
「んー、フェルス」
夢は急激に色褪せて、現実の色彩を取り戻していく。
同時に、何か途轍もない危機が迫りくるようでもあった。
そうしてやはり、その先の言葉は続かなかった。
「前々から話はあったんだけどね。おばばが引き延ばしてたの。あの人、絞り取れるところからは容赦ないから」
誰が?
いつ?
いくらで?
……嘘かもしれない。
アリシャは何かを察したのか、俺の腕に自分の腕を絡めて体重を乗せた。力をこめれば軽くひき剥がせるはずなのに、それはひどく重たかった。
「まあ、だからこそおにーさんに当てがってたわけだけど。あ、今のは内緒ね」
「口が軽すぎやしないか」
「じゃあ寝言だったってことで」
「……寝てから言ってくれ」
「それなら、一緒に夢を見ようよ」
俺はそんな彼女の静止を振り切って、フェルスのいる4番の部屋の戸を開いた。
フェルスはパッチワークを縫っている最中だった。
ただ少し、違和感があった。隔週で通ってきた部屋は、模様替えをしたという雰囲気はない。それなのに、どこか殺風景で、知らない部屋のように思えてならなかった。そのことが、アリシャの言葉を肯定しているようでもあった。
とりあえず、他の男と寝ているところでないことにほっとしながら、ずかずかと土足で踏み込んで彼女の腕を掴んだ。
「土足厳禁ですよ」
鈴が鳴ったのかと錯覚するほどに静かな声だった。
余計に苛立ちが募るばかりであった。
「行こう」
「どこへ」
「身請けされる前に、冒険者になるんだ」
/
落ち着いてください。
何か、言いかけた言葉を飲み込んで、フェルスは自分にも言い聞かせるみたいに言って瞳を覗かせた。
「身請けの話はどこで」
「アリシャが」
「もう、あの人は……」
「じゃあ、ほんとうに」
フェルスは一瞬だけ目を伏せ視線を外した。
窓の閉め切られた暗い部屋を照らすランプの火が、風もないのに小さく揺れて影が歪む。
それが何を意味するのか察するよりも先に、再び視線を交える彼女はもう、泰然としていた。
「放してください」
フェルスの腕を掴む手に思わず力がこもる。気を抜いて、あるいは我を忘れようものなら、その細く柔らかな腕をへし折ってしまいそうだった。少しだけ力を緩めて、その分を言葉に乗せた。
「一緒に行ってくれるなら」
「できません」
「じゃあ、放さない」
「それならもう、頼みません」
フェルスが腕を引いて、手首をくるりと回す。たったそれだけで、俺は姿勢を崩し、受け身を取る間もなく床の上に転がされていた。
それは俺が教えた護身術だった。
外傷もなく、すぐに起き上がれたけれど、驚きと動揺を隠せるほど器用でも冷静でもなかった。
「言ったでしょう。私は、なんだってできるんです」
すり抜けて空になった手の平をぎゅっと握りしめる。「じゃあなんで」それは、恥や悔しさを内包した本音だったように思う。
「誰かに買われる人生なんてやってんだ」
「それを選んだからですよ」
「うそだ」
「なんとでも」
「俺が、自由にしてやる。本物の冒険に連れ出してやる」
やるなら斥候か魔法使いがいいかもしれない。近場で魔物を狩って、ギルドの依頼を受けて、慣れてきたら遠征とか拠点を移して、色んな土地や迷宮を巡ったりなんかして。いつか、本物の魔大陸にも挑戦して。そして、それから。
「私の冒険も、本物でしたよ」
今にも事切れる老人の言葉のように、彼女の心から熱が抜けて死んでいくのがその表情から分かってしまった。これではまるで、俺が殺したみたいじゃないか。
ごめん、と追い縋る謝罪しか出てこなかった。こんな、こんな会話が最後だなんて、と。
「出て行ってください。今日、あなたが買ったのはアリシャでしょう」
背を押されて部屋を出た。
背後でピシャリと戸が閉まる。
明日になればまた会えるだろうか。
そんなことを考えながら、5番の部屋に戻った。
/
昨日の雨雲を引き連れるように、翌日の空は重苦しい曇天だった。
俺は早々に仕事を切り上げて、なけなしの銀貨を握りしめたまま、娼館の前までやってきていた。
しかし、フェルスはもういなかった。
「客じゃないなら帰んな」
婆に店から締め出され、軒下で立ち尽くしていると、裏手からリツが顔を出した。
「これ、渡してって」
リツが持っていたのはフェルスの縫っていたパッチワークだった。
広げてみると、色も模様も材質もバラバラな布が、はじめからそうだったとでも言いたげに一枚でまとまっていた。
それぞれの布の端っこには、布の縫い目とは別に、刺繍が施されている。
しばらく見つめてようやく、その刺繍の紋様が魔物や迷宮や大陸などの略式記号であることに気が付いた。
そのどれもが彼女の冒険した証のようであった。
店に戻ろうとしたリツが「あっ」と声を上げて、俺も顔を上げた。
「それとね。『男の嫉妬は見苦しいですよ』って」
ぎゅっとパッチワークを握りしめ、空を見上げた。
雲間の縫い目から陽の光が漏れている。
雨にはもう、降られないらしい。
/
それから、冒険者ランクが上がった俺は四人パーティーを組んだ。
最初は方針も連携も何もない、バラバラな個の集団でしかなかった。
魔法使いは勝手に魔法を使うし、意味のない魔法を覚えて自慢するし、すぐに魔力枯渇を起こす。
斥候はいい加減なやつで、魔物の数を間違えたり、迷宮の罠に引っ掛かったり、よく道に迷う。
もう一人の剣士は脳筋で、突撃と突撃と突撃しか攻撃方法を知らず、武器防具の修繕や怪我の治療で金が消し飛んでしまう。
それでも少しずつ改善していき、難しい依頼もこなせるようになっていった。
活動に邁進して実力が評価されて、ギルドの覚えもめでたくランクがみるみる上がり、俺たちはいつしか冒険者としての最前線に立っていた。
「行きたいところがあるんだ」
満を持して、ずっと胸に秘めてきた思いをパーティーメンバーに打診した。「魔大陸に行こうと思うんだ」今の拠点を捨てるどころか、未だ開拓の進まない魔物の跋扈する大陸へ行きたいなどと、断られることも承知の上だった。
——断られたら、一人でも。
そんな考えは見透かされていたのかもしれない。
「たしかに、そろそろ次のステップに踏み出す頃合いかもね」
「魔大陸への上陸、か。次の挑戦にしちゃ、ちょうどいいじゃねぇか」
「さっそく情報を集めてきましょう」
パーティメンバーの誰一人として、嫌と言う者がいなかったことに驚いた。
「なんで提案したやつが驚いてんだよ」
呆れたような笑いが一つ起こって、全員の意思が統一された。
ポケットの中にパッチワークをしまっていることを確認する。
——ここからだ。
フェルスの辿った冒険のすべてを。
本物の冒険へ、出かけよう。




