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閉じた窓の隙間から朝陽が漏れてきた。
微睡みの中にいた意識が、水面に浮かび上がるようにゆっくりと覚醒していく。
知らない天井、知らない布団、知らない匂い。
傍には戸を開けた時と同じように、膝を合わせて座るフェルスの姿があった。
「よく眠れましたか」
こちらを見ることなく、手元の針と縫い物に目を落とす彼女は、存外、くたびれたように見えた。
「それは?」
「くず切れを縫い合わせて一枚にするんです。巷では最近、パッチワークというそうです」
彼女の言う通り、手元には色も柄も違う布切れ同士が繋がれていた。
改めて「それも仕事?」と聞き直す。彼女は「いいえ」と声に出しながら首を振って否定した。
「上流階級の流行りを真似ているだけですよ」
愛おしそうに笑う顔だった。諭すでも引き込むでも煽るでもない、新しい表情である。他にどんな顔をするのか、好奇心がくすぐられるようだった。
「そろそろお時間ですね」
「また来るよ」
「次は私以外も選べますよ」
「そうするよ」
俺は服を着て靴を履き、その部屋を出た。
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次に娼館へ訪れたとき、アリシャがまた不在だったので帰ろうとしたが、情けなくも婆の剣幕に気圧され——まあ見知らぬ者よりはと——、渋々フェルスを指名した。
「レムナントさんは剣士なのでしょう」
フェルスには冒険者とだけ伝えていたが、仕事の内容はおろか自身のランクや役割でさえ教えていなかったのに、彼女はそれらもぴたりと言い当てた。
「手と、筋肉に触れれば、おおよその見当がつくんですよ」
胸板に置かれた右の手の平からじんわりと熱が伝わる。
指の一本一本を撫でる彼女の指が、時折、手の平で硬くなっている豆をなぞった。
「よく知ってるね。でも」
俺は捕らわれた指を逃がして、半分ほどまで減った水差しに水魔法を使った。
音と泡を立てて、水差しの縁までたっぷりと水が溜まった。
「すごい。魔術も使えるのですね」
「魔術?」
魔術というものは聞き馴染みがなかった。初級の簡単なものしか扱えないけれど、俺はそれらを魔法として教わっていた。
フェルスは俺の困惑を察してか、「ふふっ」と小さく笑うと、
「魔法と魔術の違いをご存じですか?」
幼子が宝物でも見せびらかすみたいに言った。
彼女の次の言葉を待っているのか、世界は音を消していた。
「実は、ヘイル・アンダーソンの『未来旅行記』から説明できるんですよ」
その著書は近年の冒険者が急増する火付け役となった物語であった。
天才魔導士で冒険者のヘイルが、転移魔法によって時間軸ごと転移してしまう。天を衝く摩天楼の建物群に、一切の凹凸のない舗装された道路、鉄の塊が規則正しく走り回り、洗練された人々がこれでもかと溢れかえっている。
ヘイルは直感した。これは未来である、と。
新たな冒険に心を躍らせるそんなヘイルに、ある事実が発覚する。それは、元の世界に戻ることができないというものだった。なんとその世界には、魔法はおろか魔力がなかったのだ。
いかに天才魔導士といえど、魔力がなければ魔法を使えない。
そうしてヘイルは東西奔走することになる。現地の人々と共に一から魔力を発見し、魔法を開発して、転移魔法を編み出し、なんとか元の世界へ戻ってくる。安堵するのも束の間、ヘイルの驚愕は続く。元の世界の魔法の歴史が変わってしまっていたのだ。
世界に魔法をもたらしたのはヘイルという青年であり、神の使いとして広まっていた。
そうしてヘイルは気付くのだ。
自分が冒険した世界は過去であり、今この時代こそが未来であったのだと。
未来旅行記は俺も読んで影響を受けた小説なのだが、魔法と魔術の違いなど出てこなかったはずである。
怪訝な顔をしていたのだろう。眉間に寄ったしわを解くように、俺の額を指でなぞったフェルスが口を開いた。
「云わく、変遷する未来を確定させるものが魔法で、定められた過去の再現が魔術、なんですって」
紅の薄れた唇から弾かれた言葉は、就寝前の幼子に絵本の読み聞かせをする母親のようでもあり、またその道の最前線に立つ熟年の魔導士の説教にも重なって聞こえた。
「世界の未来を変革してしまえるほどの偉業を、仮に魔法と呼んでいるんですよ」
そう言われると、喉に痞えていた疑問がすんなりと腹に落ちていくようだった。
なぜならば、俺たちはヘイルのような冒険と功績を夢見て、冒険者になったのだから。
「そうであって欲しいと、願いもありますけど」
俺には彼女の願いの意味がまるで分からなかった。
共通する言語を持たないばかりに、身振り手振りでしか互いの意図を察することのできない、他種族の言語を聞く時のように。
だから、大事な部分を聞き捨てるのだ。
「魔法が使えたなら、私は多分、ここにはいませんから」
フェルスと視線が重なった。
その深緑の瞳に映る俺が、捕らわれ、奥へ奥へと落ちていく。
まだ何か話したりないと口を開く彼女の唇を上から塞いだ。
頭を撫でて、唇を離すと、物惜しそうに潤んだ瞳が小さく揺れた。
髪から滑らせた手で頬をなぞると、その指を掴まれ、手の平が瑞々しい肌に吸い付いた。
彼女のわずかに紅潮した頬の熱が、手の平にじんわりと伝わってくる。
「このまま」
——ずっとこうしていたい。
何を口走ろうとしているのだろうかと、眠気も覚める勢いで口を噤んだ。
フェルスは見透かしていることを見せびらかすように微笑んで見せた。
「ここには、色々な方が来られますから」
遠い目をする彼女の瞳の奥に、囚われたままのたくさんの男たちの姿が見えて、フェルスが娼婦であるという当たり前を改めて認識させられる。
この日から、娼館を訪れるたびに、フェルスを一番に指名するようになっていた。
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二週に一度の頻度で通うようになったある日、娼館を出てやってみたいことはないかとフェルスに尋ねてみたことがあった。
「ありませんよ」
「本当に?」
「そんなに見られると、穴が空いてしまいます」
俺が納得していないとでも思ったのか、フェルスは自身の生い立ちを淡々と語り出した。
赤ん坊の時に、両親は誰か分からないまま、この娼館の前に捨てられていたそうだ。
当時からもう婆だった店主に拾われ、店の娼婦たちに代わる代わる世話をされながら育てられた。
大きくなるにつれて——今のリツのように——、自然と店の仕事を手伝うようになっていた。
芸事や床の手解きを受けながら、十四の時、初めて客をとった。
以来五年間、娼婦として働いてきたのだ。
今の仕事に嫌はない。
今の仕事以外に生きていく術を持たない。
命を拾われるばかりか、これまで面倒を見てもらい、方法はどうあれ金を稼ぐ力を与えてくれたこの店には恩しかない。
俺にはどうも娼婦であることを決めつけられているようにしか思えなくて、「窮屈だろ」と吐き捨てていた。
フェルスは毅然とした態度で「そんなことはありません」と俺を否定する。
「私は、なんだってできるんですよ」
俺から見れば、いや、誰の目から見たとしても、その人生は選択したものでないことは明らかだった。
それでもどこか誇らしげな笑みを湛えて「なんだってできる」と言った言葉の真意を理解するのに、それほど時間はかからなかった。




