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 それは緩慢な夕立だった。


 依頼を終えて冒険者ギルドを出るとすぐに降り出した。傘を買う暇も惜しくて、ほとんど全速力で走っていた。


 水溜まりが跳ねて、ぶつかりそうになった人の怒声を追い越し、雨のカーテンをくぐり抜け、歓楽街から漏れる光を前に立ち止まる。


 膝に手をついて(はや)る鼓動を落ち着かせ、篝火(かがりび)に誘われる胡蝶のように、ふらりと一歩踏み出した。


 色めき立つ時刻にはまだ早く、少しの甘い匂いが舞うばかりで、(すす)けたような客引きばかりが立つ軒を袖にしながら、目的の店の前にやってきた。


 ごくり、と唾を飲みこむ。


 ——俺は、今日、男になる。


 ポケットの中に硬貨があることを再確認し、意を決して娼館の戸を引いた。


/


 その娼館の一階は飲食店という建前もあった。


 正午の手前から割高の昼飯を提供し、夜はもっぱら酔っ払いの相手をする。従業員としても働く娼婦たちは、酔っ払いの中から気に入った者たちを二階へと運び、介抱と言う名の夜遊びに興じるのだ。


 もちろん、はじめから女を抱くこともできるが、それは別の入り口が用意されているらしい。

 冒険者の先輩にはじめて連れて来られたとき、俺はその酔っ払いの一人だった。


「おにーさん見ない顔ね」


 早々に二階へと招待された先輩を恨みがましく見送ったあと、一人寂しく酒を飲んでいる俺に声をかけてきたのがアリシャだった。


「浮かない顔してどうしたの?」

「連れが二階に行っちゃって」


 俺の顔を覗き込むアリシャと目が合い、気圧されるみたいに視線が下げられる。露出度の高い服に、ことさら強調している開けた谷間が、俺の目を釘付けにした。


 視線に気付いたアリシャが胸元をさっと手で隠し、「そういうのは上に行ってから」耳元で囁かれた吐息が、否応なく妄想を掻き立てた。


「じゃあ」

「お金は大丈夫?」

「……いくら」

「おにーさん、初めてでしょ?」


 言われてたしかに、この店に来るのも二階を利用するのも、まして女を抱くのも初めてである。

 しかして、初めてかと問われて頷く恥が勝り、沈黙する俺をよそに、アリシャは話を続けた。


一見(いちげん)さんは金貨一枚なんだけど。払えないと尻の毛までおばばにむしり取られるよ」


 娼館には上から下まで様々な客が来る。中には金を払わないヤり逃げや暴行を働く者、そうでなくとも病気や妊娠などの危険性が娼婦にはあった。それらの足切りとして金貨一枚を要求しているらしい。もちろん、二回目以降は——時間や内容によって異なるが——銀貨五枚からと、二十分の一の値段になるとのことだった。


「それでも高くない?」


 他の店を知らないので相場観も何もないのだが、それでも一般的な月収の半分を持っていかれるというのは、尋常ではないことのように思われた。


「こう見えて、うちは高級なの」


 いたずらっぽく笑う彼女を見ていると、なるほどたしかに、と簡単に納得させられるほどの矜持(きょうじ)が垣間見えた。周囲の娼婦にしたって、どれもこれも見目麗しく、貴族令嬢の気品もかくやと言わんばかりである。


 普段目にする冒険者の女たちというのは、筋骨隆々で傷だらけ、男勝りの豪快な者たちが大半なだけに、余計に際立つものがある。また他方、彼女たちが時折見せる音楽や踊りは、洗練された芸術の域にあるようにも思えた。


 当然だが、男を弄ぶ技術も相当なものなのだろう。

 はたとして、期待感だけがムクムクと膨らんでいく。


「それじゃ、お金が貯まったら相手してあげる」


 ——金貨一枚。


 そう言い残して立ち去る、ドレスの開けた彼女の白い背が、瞼の裏に縫い付けられるようであった。


/


「いらっしゃい」


 煙草をふかして新聞を広げる老婆がじろりと俺を見た。


「ずいぶんと気合が入ってるじゃないか。……金は」


 俺はポケットから金貨一枚を取り出した。清貧な生活を送るなら一年を賄える価値だけに、改めて葛藤が走る。裏面に略式記号で記されたドラゴンに、覚悟を決めろ勇気を示せと吠えられているみたいだった。


「ふん。たしかに」


 走る葛藤を追い抜かんばかりに、老婆は金貨を引っ手繰ると、「リツ!」店の裏に声を投げた。


「はいはーい」


 ぱたぱたと足音を立てて奥から顔を出したのは、年端もいかないおかっぱの少女だった。


「客だよ」

「はっや。何番?」

「……4番だ」

「4番ね。じゃ、おにーさんついてきて」


 言われる間に腕を引かれて階段を上がっていく。


「おにーさん気合入ってんね」

「いや、そんなことは」

「えー、顔に書いてるよ。俺は今日男になるんだって」

「まじ?」

「服の上からシャワーなんか浴びちゃってさ、準備万端じゃん」

「これは夕立に降られて」

「それならよかったね。ここならフラれることもないもん」


 真新しいキャンバスに、色を置くことを知ったとでもいうような無垢な笑みを浮かべて、廊下の一つに立つ戸を叩いた。


「はい」

「フェルスねーちゃん、お客さんだよ」

「……どうぞ」


 静かで抑揚のない、知らない声だった。でも——そんなはずはない——、と一縷(いちる)の期待を握りしめ、少女に引かれた戸の敷居をまたいで中へと入った。


/


 地べたに膝を合わせて座る、薄明りに濡れた彼女はやはり、望んでいた美女というわけではなかった。それは稀代の絵師が積み重ねた歳月で描いた油絵というより、薄命の天才画家がキャンバスの切れ端に描く神懸かった落書きのような女だった。


「私じゃ不満ですか」

「いや、」


 にこりと微笑み直接的な皮肉を口にする女の見た目は、たしかに好みではなかったが、不思議と目を離すことができず、しかしと次の言葉が続かない。


「リツ」


 女は俺から視線を外して、どさくさに紛れて入室しようとしている少女に言った。


「言わずとも分かりますね」

「ご、ごめんなさーい!」


 少女はぴしゃりと音を立てて戸を閉め、足音を響かせながら、逃げるように消えていった。


「すみません。色事にはまだ早いと言っているんですけど、どうにも好奇心旺盛なようで」

「いや」


 俺は逃げる機会を失っていた。アリシャでなければ日を改めようと思っていたのだが、戸はすっかり閉められ、帰るという空気でもなく、またここまで来ておいて恥も外聞もなく逃げようものなら、俺はこの先の人生で女を知ることはなくなるだろうという直感があった。


「どうぞこちらに。ああ、靴はお脱ぎになってくださいね」


 言われるままに靴を脱ぎ、女の前に恐る恐ると胡坐(あぐら)をかいた。

 ランプの火がぐらりと揺れて、影が歪む。微かに煙る香の匂いに鼻先が痺れた。

 女は、俺の知っているそれとは明らかに違う生き物のように思えてならなかった。


 ランプの淡く灯る暗がりの部屋にさえ映える白々しい肌、頬に落ちる睫毛の影、陽に透けた葉脈のように浮いた鎖骨、継ぎ目のない河流(かりゅう)のような肢体を眺めていると、渦に呑まれたような、引力に導かれているような、惹かれた心が我に返ることを拒むような、そんな不思議な気分にさせられた。


/


「そんなに見つめられると、穴が空いてしまいます」


 女は照れたとも困ったともとれる笑みを見せた。「さあ、こちらに」束の間に手を取られ、敷かれた布団の上に立ち下りると、そのまま引きずり込まれてしまう。


「フェルス、とお呼びください」


 寝転がったフェルスを組み敷く姿勢になった俺の耳元で、口づけでもするみたいに囁かれる。


「フェルス」

「はい」


 吐息混じりの返事が、そのやりとりが、まるで往年の夫婦のようで、下腹の裏側がぞくりと震えた。


 そこから先は、正直、よく覚えていない。


 気が付けば全力疾走した時と同じくらい息が切れていて、布団の上に大の字になっていた。


「はじめてにしては上手でしたよ」


 俺の腕を枕にして、胸に顔を寄せたフェルスが上目遣いに言う。

 柔らかな肌の感触で、ようやく少し実感が湧いてくるようだった。


「夜はまだ明けておりませんよ」


 本音を言えば、達成感と満足感でお腹はいっぱいだったのだが、こうも煽られてから勘定と言うにはまだ、俺には少し勇気が足りなかった。


 フェルスに顔を近づけて口を重ね、指を絡める。


 先ほどは味わう余裕もなかったが、飢えの満ちた今なら、酸いや甘いの大別くらいはできるはずだ。


「フェルス」

「はい」


 艶めいた嬌声が鼓膜を打つ。


 ひび割れ渇いた喉を潤し、溺れるほどの情愛に飛び込み、俺は夜に溶け入った。

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