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KUROKOGE - クロコゲ -  作者: 気球 咲
ChapterⅠ 風ノ章
3/4

第三話|『透火港/トウヒコウ』

 此岸に打ち寄せる彼岸の白波、三途の川と亡骸の(うた)、沈む新月と夜。

「おいでおいで、こっちにおいで」と死飾(しかざ)る猿づらの鬼が手招く。


 ()らば、泡沫(うたかた)の夢。


 少女は魂に結わえたへその緒を辿って、逢いに逝く。

 久遠に咲く幽霊花の向こう、遠く向こう、黄泉の港へ。


 これは、生きるよりも遠い、

 死の果てを生きる者たちの物語である。


 ――


 師走が去り、年が明けるまであと数日。冴ゆる夜のこと――ひとり、おろしポン酢牛丼を食べる裏城の寂しい後ろ姿が、カウンター席にぽつんと置かれていた。都内某所の駅前、牛丼チェーンの染井家。ここは、日々忙殺される彼にとってのオアシスのような場所だった。疲れた体と心に、優しいつゆの味が染み渡る。束の間の極楽。


 いまこの時だけは、この一瞬だけは、管理官ではなく、ただ一人の人間として。流れゆく誰かの人生の背景に映るモブとして、人知れず生きる、ひそかに息をする。

 何気ない日常、ささやかな幸せ。裏城にはそれ以上に望むものはなかった。


「あの、すみません。となりいいですか?」


 突然そう声をかけられ、慌てて水を飲み干す裏城。声をかけてきたのは、絹のような濡れ羽色の髪を長く下ろした、背の低い女性だ。店内には他にも空いている座席がいくつもあるのに、なぜわざわざとなりに、と彼は疑問に思う。

 しかし断る理由もないので「どうぞ」と言って、軽く頭を下げる。


「ありがとうございます。……ではでは」


「(ン? この声、どっかで――)」


 ダークグレーのアランセーターに身を包んだその女性は、黒い手袋を外してふぅと一息つく。裏城は、彼女の顔に見覚えはなかったが、声には嫌な馴染みがあった。

 その声を聞くだけで胃が痛くなる、パブロフの犬のような感覚だ。


 ――嫌な馴染み、そして嫌な予感。

 その答え合わせをするように、女性が口を開く。


「まだ気づいていないようなので、こちらから自己紹介しますね。裏城管理官。……私は、水槽連(すいそうれん)葬儀会の会長を務めております水傘と申します」


 嫌味なくらいに畏まった言い方をする水傘。


「あ、あァー。これはこれは、奇遇ですね、水傘会長。こんなところで会うなんて」


 無意識のうちに、裏城の顔が引きつる。


「どうしましたか、裏城管理官。そんなに嫌そうな顔をして」


「何をおっしゃいますか、お代官様。いやァ会えて嬉しいなあ、はは……は……」 


「ふふっ、お世辞でもそう言ってもらえると嬉しいですね」


 水傘は冷たい笑みを浮かべながら、頼んでいたうな重を店員から受け取る。

 ――彼女が山椒をかけているとなりで、裏城はネクタイを締め直していた。この人が何の理由もなく牛丼屋に来るわけがないだろう、と。裏城は身構える。


 極楽よ、さようなら。

 裏城の平穏な日常は呆気なく、刹那に消えた。


「で、なんの用です、水傘会長」


「なんの用、とは?」


「ハァ……年末くらいねぇ、ゆっくりさせてくださいよ……」


「まぁまぁ、まだ何も言ってないじゃないですか。――それより、裏城管理官。私の素顔はどうですか? イメージ通りでしたか?」


「そうですね。思ったよりお若い方なんだなぁ、と思いました」


「それは良かったです。これで幾分かは、あなたのスケベ心を満たせましたかね」


「はァ? スケベ心ってなんですか。ンな気持ち、俺にはないですよ」


「ほら、最近多いじゃないですか。顔を隠して活動しているアーティストの人。そういう人の素顔を執拗に暴こうとするマスコミと大衆のスケベ心みたいな話ですよ」


「やけにトゲのある言い方ですね。なんかあったんですか、会長」


「ただの冗談です。……ではでは。本題に入りましょうか」


 うな重を一粒も残さずに食べ終えた水傘は、「ごちそうさまでした」と手を合わせてから、話を切り出す。がらんと静まり返った店内、客は二人だけになっていた。


「――実は、黄泉阿代(よみのあしろ)のふたりと連絡が取れなくなりました」


「それって。皆鳥さんと黒咲くんのことか?」


「はい、そのふたりです。クリスマスの翌日から連絡が取れず……まぁ、年末年始はもともと休みのつもりだったので問題はないのですが、如何せん、要監視対象の黄泉人(よみびと)ということもあり、野放しにはできないんですよね」


「なるほど。あのォ、会長。言っちゃあなんですけど、普通に家出とかじゃないですか。あのふたり、たしか十六と十七でしょ? 反抗期ってやつですよ、たぶん」


「私もそう考えていました。ただ、協力者に調査を頼んだところ――」


「居場所が分かったんですか?」


「えぇ。ここです」


 そう言って水傘は裏城にスマホの画面を見せる。

 ――表示されたマップアプリに映っていた場所は、「新潟深区(しんく)」だった。


「マジですか、水傘会長。ふたりはここに?」


 裏城の顔から血の気が引く。


 深区――それは、深度5の死界域汚染によって、完全にあちら側へと沈んだエリアのこと。裏城は長年の経験から、身をもって深区の恐ろしさを理解していた。

 言葉通りの伏魔殿(ふくまでん)。若気の至りでふらっと行けるような場所ではない。


「そのようですね。なのでいまから……」


「あの、水傘会長。嫌ァな予感がするんですけど」


「察しが良くて助かります、裏城管理官。言いたいことは分かりますよね?」


「いやいや。あなたの組織、俺よりも有能な部下たくさんいるでしょ」


「いたとしても、年末年始ですので。お休みを与えないと。働かせすぎはよくないと前回学びましたので――、ね?」


「えっ、俺は? 俺もただの公務員――」


「さ、行きましょう! いざ新潟へ!」


「うわぁぁああああ!!」


 夜の牛丼屋に情けない男の声が響く。



 *



 ――皆鳥先輩の言葉が、油ぎった呪いのように俺の心にべたりと焦げ付いている。

「ヒバナくんには、私と同じ傷を体験してもらいたいと思って」あの時の先輩の顔はまるで、この世の終わるその日に、生きることさえも諦めてしまったようだった。


 そういえば俺、皆鳥先輩のこと、ぜんぜん知らないな。

「あの人はなんで黄泉人になったんだろう」と、ふとそんなことを考える。――死因は自殺らしいけど、正直、いまの先輩を見ていると腑に落ちないのが本音だ。それにもし、気丈に振る舞って本心を隠しているとしたら……なんか、もやもやする。


 だってさ、先輩のあの明るさが、自由さが、ぜんぶ演技だったとしたら。俺の手を引いてくれたあの熱も、俺に教えてくれた感情も、哲学も、正義も何もかも信じられなくなるじゃないか。それは、先輩と過ごした時間がゼロに戻るみたいで、嫌だ。


 なぁ、答えてくれよ。ニケ。

 皆鳥先輩は嘘つきじゃないって。


 フィギュアケースに飾られたサモトラケのニケに問うが、当然、返ってくる言葉はなかった。昨日先輩にプレゼントしてもらってから、急いでケースを買って、こうしてそれっぽく飾ってみたわけだけど、意外と悪くない。ただ、はじめてのクリスマスプレゼントがこれだったのは、いまだに納得はしていない。

 

 部屋番号・七〇五、いま俺が住んでいるホテルの一室。

 窓からは東京の街が一望できて、遠くにはスカイツリーも見える。だからきっと、ここは良いホテルなんだろうけど、ヒーローのアジト感はこれっぽっちもない。


 ――今日はどこに行こうか、何をしようか。

 無意識に確認してしまうスマホの通知、先輩からのメッセージ。


 連絡はない。


「ひまだぁーっ!!」


 気がつけばもう正午。最近は組織の仕事もほとんどなく、あったとしても小さなものばかり。異能が使えるようになって、ヒーローにもなったのに、退屈な毎日だ。

 そうしてだらだらとベッドの上で過ごしていると。

 一瞬、ぐらっと床が揺れて、飾っていたニケのミニチュア像が倒れる。


 直後に大きな音がした。となりの、皆鳥先輩の部屋で。


 ――


「……、皆鳥先輩?」

 ドアをノックして名前を呼ぶが、返事はない。


 静寂に包まれたホテルの長い廊下、淡いオレンジ色の照明がチカチカと明滅を繰り返す。暖房が効いているはずなのに吐く息は白い。それに、磯臭い濁った海のようなにおいもする。明らかに何かよくない事が起きていると、俺はそう確信した。


 ドアを軽く押してみる。

 ――やはり、鍵はかかっていなかった。


「うっ……おぇぇ……」


 部屋に入った瞬間、吐き気がするほどの悪臭が鼻の粘膜を刺激する。

 壁には鋭い爪で引っかかれたような無数の傷が、床や天井には赤黒い血が飛び散っていた。奥へ、部屋の奥へと進めば進むほど、寒さが厳しさを増していく。


 その先で俺を待っていたのは――

 窓ガラスに叩きつけられてひしゃげた、逆禍名(さかな)の死体だった。


「なんでこんなところにサカナが……?」


 深度計を取り出して確認するが、針は動かず、ならば死界域は発生していないということ。「――ん? これは」ベッドの上に無造作に置かれたノートが目に留まる。勝手に見るのはすこし悪い気もするけど、気になって、見ずにはいられなかった。


 最初に開いたページ。始まりの一言は、ヒバナくんへ。

 そこには、アニメや映画、小説、マンガ、音楽のタイトルがずらっと、きれいな字で書き留められていた。そのすべてに、先輩の感想やおすすめの理由、好きなシーンやセリフが添えられている。まるで、一緒にその作品を共有するみたいに。


 ――先輩の感情、先輩の言葉、先輩のプロフィール。

 でもそこに皆鳥先輩はいない。あるのは、ただ残された文字だけ。


 これじゃあまるで。……まるで、遺書みたいじゃないか。


「くそっ、なんでだよ!」


 いま先輩がどこにいるのか、なにを考えているのかは分からない。でも、このままだと取り返しのつかないことになりそうな、そんな予感だけがあった。


 だから俺は探した、先輩へ繋がる糸を。


「……これは……」


 そして見つけた。ゴミ箱に捨てられていた、一枚の新聞紙を。

 発行された年は2005年。見出しにはこう書かれている。


〈新潟県で発生した特別災害は最も大きい深度5であると発表――〉


 考えるよりも先に、俺は走り出していた。


 ――


 降る神の巫女と深淵の風来坊(ふうらいぼう)

 (くら)い新月に揺らめく常世(とこよ)現世(うつしよ)の境界線。


「お願い……もう、いいから……終わらせて……」


 皆鳥羽十葉は、凍てついた時間の中で目を覚ます。


 部屋は血まみれで、傷だらけ。

 窓ガラスには潰されたサカナの死体。


 私が殺したのだろうか、なにも覚えていない。


「あいつの声が……聞こえる……」


 行かないと、あぁ帰らないと。

 死すべき定めの者が流れゆく、よすがの海へ。


 風よ、吹いて。




   第三話|『透火港/トウヒコウ』




 上越(じょうえつ)新幹線に乗って約二時間。ヒバナは、新潟県長岡市――長岡駅のホームに降り立つ。あれから皆鳥先輩に電話をかけても一向に繋がらず、居ても立っても居られなくなったヒバナは、新聞に書き記された新潟という言葉を頼りに、ここまで来た。


 本当に先輩がここにいるのかは分からない。

 ――けれど、目に見えない透明な引力が、少年の足を動かした。


 凛と張り詰めた空気と冬の匂いが、ホームを銀色に染める。人はみな厚い衣服に身を包んで、どこかぼんやりとした虚ろな目で、静かな世界に口を(つぐ)んでいる。


 勢い任せ、ゆえに行き先不明。

 

 とりあえず前に進もうとヒバナが一歩踏み出した瞬間、近くのベンチに座っていた少女が「ねぇ、きみ。名前は?」と声をかけてきた。――その少女の顔が、皆鳥先輩にどこかよく似ていて、ヒバナは一瞬ドキッとする。


「俺は、ヒバナだけど。あんたは?」聞き返すと、少女は先輩によく似たいたずらな笑みを浮かべながら、おもむろに立ち上がり、こっちこっちと手招きをする。


 この人なら皆鳥先輩の居場所を知っているかもしれない。

 ヒバナは、なぜか不思議とそう思った。


 ――


 そこは銀世界。白と灰に沈む、冬の街並み。

 消雪パイプの水で融けた雪がアスファルトを濡らしている。縦の信号機、路上の雪に残るタイヤの跡。――少女の背を追って、しばらく歩けば、河川敷に出る。目の前に広がるのは、信濃川(しなのがわ)。水面は、黄昏の空を反射して、黄金色に輝いている。


 ヒバナは、川の流れゆく先の景色を見て、思わず息を呑んだ。

 新潟市方面の世界を覆う、コールタールのような漆黒が渦巻く巨大なドーム。永遠の夜に呑まれ、黄泉に沈んだ、深度5の死界域。通称、新潟深区。


 2005年に突如として発生し、新潟市の中心部から半径35キロメートルのエリアが汚染され、いまだに浄化されず残っている、国内最大規模の死者の領域。河川敷には、「故郷を返せ! 新潟を返せ!」と書かれた立て看板が並べられている。

 雨風にさらされたことによって、その文字は所々が色褪せていた。


 少女の長い髪が、風に揺れる。


「――ヒバナくんは、あの子を探してるんだよね?」


「あの子って?」


「みなと……、いや。皆鳥羽十葉を」


「先輩がどこにいるのか知ってるのか!?」


 少女はすこし目を伏せて。

 それから、ゆっくりと新潟深区を指さす。


「――あそこ。あの子はいまも、あの世界に囚われているの」


「新潟深区……」


「お願い、ヒバナくん。あの子を――助けてあげて――」


「当然だよ! 俺はそのためにここまで来たんだ!」


「――ありがとう。ヒバナくん」


 また一つ風が吹いて、水面が揺れた途端。ヒバナのまぶたは落ちて、意識は遠く、彼方の暗闇へと落ちた。誘う亡骸の(こえ)。そして彼は流れゆく、よすがの港へ。


 緞帳(どんちょう)が上がり目が覚めると。

 ヒバナは、月明かりに照らされた、古い校舎の前に立っていた。目の前の校庭には黒いセーラー服を着たひとりの少女が、儚げな顔で夜空を見上げていた。


 皆鳥羽十葉だ。


 ――


「約束通り、御前(おまえ)の命ヲ頂戴する――!!」


 月光を背負って校庭に現れたのは、黒紋付(くろもんつき)を着た猿づらの鬼。叫び、その手に持った斧を皆鳥へと振り下ろす――刹那、火花を散らし、斧の刃をつかんだのは天使――頭蓋骨を兜に、全身の骨格を鎧に、あばら骨を翼にした黒焦げの天使だ。

 天使の両の手から、鮮血がだらだらと流れ落ちる。


 皆鳥の瞳に映る、火の赤。


「な、なんでヒバナくんがここに……?」


「皆鳥先輩が急にいなくなるからだよっ!!」


 ヒバナは、魂を剥き出しにして変身したまま、声を上げた。

 猿づらの鬼は斧を握る手に力を込めて、豪快に笑う。


「かっかっか! 来たのゥ、火葬の黄泉人!!」


 降りしきる雪が舞台を白く染め上げていく。


「俺はさぁ、どうしようもなく醜い人間なんだよっ!! 自分からヒーローになりたいって言ったくせに、いまの生活が退屈だって飢えている。そのくせ、皆鳥先輩と過ごした日常ってやつにすがって、それを失いたくないって駄々こねてんだよ!!」


「ヒバナくん……」


「ぜんぶ俺に話してくれよ、先輩!! あんたが必死で隠してる本心ぜんぶを!!」


 叫ぶ、ヒバナの喉が焼けるように熱く、熱く震える。

 黒焦げの天使の怪化した躰に血潮が煮え滾って、燃え盛るその炎は、吹く雪風さえも燃やし尽くすほど――火力暴走、オーバーヒートでメラメラと音を鳴らす。


 火々(ひび)いて、吹雪いて。

 ――だが、猿づらの鬼は山の如く不動。ヒバナの業火を押し返す。


「かっか! まだまだ此の程度か、甘いな。夜郎自大のガキが――ッ!!」


 槍で突き刺すような衝撃。鬼の足がヒバナのみぞおちを蹴りつけ――吹き飛ばされたヒバナは校舎へ、教室の窓ガラスを突き破って、廊下の壁に打ち付けられる。

 舞い散る、瓦礫と砂埃。変身が解け、ヒバナの意識が飛ぶ。


 校庭に取り残された皆鳥に近づく鬼。


 そこへ、ひとりの少女が風をまとって舞い降りる。

 その少女の顔は、皆鳥によく似ていた。


 少女は鬼に向かって手をかざして、静かにつぶやく。


「鎮め、死火猿(しかざる)(とこ)しえの夜に眠れ――」


 すると穏やかな顔で、雪煙と化して消える猿づらの鬼。皆鳥は、茫然と立ち尽くしたまま「……お姉ちゃん……」そう言って、少女に手を伸ばす。

 しかし少女が、皆鳥の手を取ることはなかった。


 ただ優しい笑みを浮かべながら彼女は言う。


「ほら、みなと。はやくヒバナくんのところに行ってあげないと」


 ふたりを照らす月明かり。

 夜を繰り返す世界に、雪は降り続ける。


 ――


 硬い木の椅子に座って、黒板を眺める。

 この光景がずいぶんと懐かしく思えるのは、十年も黄泉の国を彷徨い歩いていたせいだろう。とは言っても、死んでから生き返るまでの記憶を、何一つとして覚えてはいないのだが。……俺は、いったいどこを迷い歩いていたのだろうか。


 ――となりの、窓際の席には皆鳥先輩の姿。

 俺はなにも言わずに、先輩が話し始めるのを待っていた。新潟深区との関係とか、さっきの猿のこととか、聞きたいことは山のようにあるけど。たぶん、先輩の意志で打ち明けてくれないと意味がないような、そんな気がするから。

 

 窓の外は真っ白、ホワイトアウト。

 やがて先輩はゆっくりと立ち上がって、結露で曇った窓ガラスに、「風間湊」と指で文字を書いた。かざま、みなと……? 誰かの名前だろうか?


 皆鳥先輩は、言葉を紡ぎだす。


「私のもとの名前はね、風間(かざま)(みなと)っていうの。ヒバナくんと同じように、皆鳥羽十葉は黄泉人として生き返ってから新しく付けた名前」


「みなと、か。いい名前だな!」


「おぉ、まさか名前を褒められるとは、ちょっと変な気持ち。でも、悪くはないね。ありがとう。ヒバナくんはひねくれてるけど、ほんと良い子だ。――だから、そんな君になら話せるのかな、私のこと。2006年のある夏の日に、この学校の屋上から飛び降りて命を絶った女の子、風間湊の物語を――」


 …………


 ……

 

 中学生の時に、私とお姉ちゃんとパパとママ四人で、フランスのパリに家族旅行に行ったことがある。その時の私は思春期の真っ只中、わがままばかり言って、世の中のすべてを睨んだ目つきで見ていた。そんな私の手を引いてくれたのが、お姉ちゃんだった。芸術なんて興味ないと、訪れたルーヴル美術館でひとり退屈そうにしていた私に、お姉ちゃんは言った。「みなとに、すごいものを見せてあげる」って。

 

 そして私は出会った。出会って、しまった。

 ――頭と両腕が欠けた女神、サモトラケのニケに。


 圧巻。それ以上の言葉はなかった。


 ダリュの階段の踊り場に舞い降りた勝利の女神、ニケ。彼女はその大理石の翼を羽ばたかせ、私の心に一陣の風を吹かせた。完全じゃない『傷』という美の礼賛。――だってさ、「未完の物語は痛々しい」ってみんな言うのにさ、それでもいいって。

 ニケは教えてくれた。だから、私は彼女を醜く愛した。


「その日から私は、未完成な私自身を認めるようになった。なのに……」


 2005年。

 ――当時、私が住んでいた新潟市で深度5の死界域が発生した。朝、目が覚めたらパパとママが逆禍名に喰い殺されていた。その時、私は死というものが本当に存在するものだと知った。それは到底、美しいなどと言えるようなものではなかった。


 死とは、どこまでも残酷で、凄惨なエピローグ。 

 ニケの傷は作り物だからこそ美しいんだって、輝いてたんだって。現実は、死んだらそこで物語は終わり。第二幕なんてものは幻想。ただ、残された者だけが残る。


 私はお姉ちゃんに手を引かれて、汚染エリアの外へ、外を目指して、息を切らしながら走った。走って、走って、辿り着いた先の港で……。


「お姉ちゃんも死んだ。私の目の前で、私を守るようにして」


 漁船に乗って逃げる直前、逆禍名に襲われて。

 ――お姉ちゃんは私を庇って死んだの。


「……、なんで。なんで私だけが生き残ってしまったのだろうと、自分を恨んだ」


 呪いのような後悔と罪悪感が私の心を支配した。毎日、毎日、振り返るとそこにはパパとママ、お姉ちゃんがいて、許さない、許さない、逃げるな、逃げるな、と私に何度も、何度も、何度も語りかけてくるの。


 生き残れた奇跡を大切にしなさい、感謝しなさい。亡くなった人たちの想いを胸に刻んで、幸せになりなさい。幸せにならないと、そうじゃないと、私を庇って死んだお姉ちゃんも浮かばれないだろうって。――なんて。そんなの無理に決まってる。

 だから、私は自分の手で、自分の物語に終止符を打つことにした。


 2006年、死界域汚染から一年後のある夏の日。

 私は。風間湊は、通っていた学校の屋上から飛び降りて死んだ。


 ――


「でも、また。また……っ! 私は生き残ってしまったの! 黄泉人として生き返ってしまったの! ほんとさ、人の命を、死を、弄ぶなって話だよ。クソ創造主が!」


 叫ぶ、皆鳥先輩の声が教室に響き渡る。


「先輩……」


「ははっ。ごめんね、ヒバナくん。これが本当の私、皆鳥羽十葉だよ。どうしようもなく惨めで救えない、人間になるための儀式とか言って、狂えない自分をただ偽りながらのうのうと生きているだけの臆病者なの」


「違う、先輩は――」


 俺は続く言葉を必死に探したが、一つも見つけることができなかった。だって当然だろう。皆鳥先輩の願いはきっと死ぬことで、俺の願いは生きることなんだから。

 先輩の手を取って「生きろ」って言えれば、どんなに楽なことか。

 でもさ、そんな無責任なこと、簡単に言えるわけがないだろ。


 ――なぁ。俺は皆鳥先輩にどうしてほしいんだ?

 先輩を助けるためにここまで来たのに、あと一歩の進め方が分からない。


 あと数センチが、遠い。


「ヒバナくん、ここまで追いかけてきてくれてありがとう。でもね、私はあいつとの約束を果たさないといけないの。さっきの鬼との約束を。あいつの名は、死火猿(しかざる)。――この死界域、新潟深区の『王』であり、私が倶霊装(ぐれいそう)として契約した妖怪」


 俺のすぐ横を皆鳥先輩が通り過ぎていく。


「まって、先輩……」


「ヒバナくんは、私とは違う。二度目の人生を生き直す権利がある。だからね。もう、私みたいな悪い先輩についてこなくてもいいの。君には君の物語があるから」


 夜に溶けていく世界の輪郭。

 

 此岸に打ち寄せる彼岸の白波、三途の川と亡骸の(うた)、沈む新月と夜。

「おいでおいで、こっちにおいで」と死飾(しかざ)る猿づらの鬼が手招く。


 ()らば、泡沫(うたかた)の夢。


 少女は魂に結わえたへその緒を辿って、逢いに逝く。

 久遠に咲く幽霊花の向こう、遠く向こう、黄泉の港へ。



 *



「――はい、そうですか。えぇ、了解です」


 関越(かんえつ)トンネルを走るSUVの車内。

 助手席に座る水傘は、電話を切ってため息をついた。


 そんな彼女の様子を見て、ハンドルを握る裏城が言う。


「珍しいですね。水傘会長がため息なんて」


「どうやら裏城管理官は、私のことを血も涙もない人間だと思っているようですが、普通にため息もつきますよ。厄介事が増えた時はとくに」


「何かあったんですか?」


「……新潟深区の付近で『ヒトリガ』の構成員が逮捕されたそうです。で、軽く質問をしたところ、彼らが深区を潜伏先に利用している可能性があると分かりました」


「ヒトリガぁ?! 会長、俺マジで帰りたくなってきましたよ」


「どうぞどうぞ。その代わり、車のカギは置いていってくださいね」


「いやいや、あんた鬼ですか。ここまで来て歩いて帰れるわけないでしょう」


 裏城は深くため息をついて、アクセルを踏んだ。

 凍てつく風がごうごうと勢いを増していく。

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