第二話|『逆禍名/サカナ』
〈続いてのニュースです――〉
〈十一月末に発生した世田谷区の特別災害に関して、政府は――〉
テレビの電源を切って、裏城は、また今日も一日の始まりに深いため息をついた。警視庁本部庁舎――『フルイド』のオフィス、裏城のデスクの上には書類が山盛りに積み上げられていた。裏城は書類から目を背けて、微糖の缶コーヒーを飲み干す。
だが、いくらため息をついたところで、コーヒーを飲んだところで、彼の仕事は次から次へと増え続ける。もはや、世界のバグなんじゃないかと疑うくらいに。
死界域の浄化や異能犯罪、妖怪・怪異事案に対応するため、警視庁内部に新設された特殊部隊『流動機動隊〈フルイド・プロジェクト〉』――通称、フルイドの指揮を執る男――裏城、三十七歳。死んだ魚のような目が彼のチャームポイントだ。
(そういえば、あいつが死んでからもう……)
裏城は、オフィスの端に空っぽのまま置かれたデスクを見て、心の中でそうつぶやく。そのデスクは、半年前までフルイドの隊員として活動していた仲間のものだ。
そいつは――半年前に、死んだ。
現場ではなく、自分の家でひとり、静かに。
その死因は、『過労死』だった――。
――
都内のとある民家。
一方こちらでは――警察側の組織・フルイドと対を成す政府側の組織、『葬儀会』の会長である水傘が、和室で夫婦の男女二人と、ちゃぶ台を間に挟んで顔を突き合わせていた。膝を折りたたんで正座する水傘を睨むように、あぐらで頬杖をつく男。
水傘は、鴉の面の奥に、能面のような無表情を貼り付けながら。そっと、懐から白封筒を取り出して、男の前に置く。――雰囲気は、さながら悪代官のパロディ。
どこからか聞こえてくる、「お主も悪よのう」の声。
「……なァ、ほんとに俺らの個人情報は守ってくれるんだよなぁ」
封筒の中に入った札束の枚数を確認し、男は眉をひそめながら言う。
「えぇ、当然です。我々は、あなた方、黒咲家のことに関する一切を少年には教えないと誓います。あくまで――養子縁組の手続きで、苗字をお借りするだけです」
「それなら安心だわ。ね、あなた? 死人を養子にするなんて有り得ないもの」
水傘の言葉を聞いて、安堵した様子で息をつく女。
夫婦ふたりは、「次はどこに行こうか」と旅の計画をしながら盛り上がる。蚊帳の外に置かれた水傘は、何も言わずに、無言でその場を立ち去るのだった。
物語の舞台裏、世界の真実、社会の絡繰り。
――そんなもの知らずとも。
相も変わらず、素知らぬ顔で、日常は続いていく。
第二話|『逆禍名/サカナ』
鏡の中の俺が、俺を見ていた。目元を隠していた長い前髪が、まるで憑き物が落ちるように、俺の身体を離れて――パラパラと落ちていく。こうやって髪を切るのも、随分と久しぶりな気がする。なぁ、訊くけどさ。鏡に映る君は、本物の俺なのか。
――いや、違う。本物の俺は一度死んだんだ。
俺は生まれ変わった。俺の名前は、黒咲ヒバナだ。
「長さはこのくらいでよろしいでしょうか?」
理容師の声が意識の遠くから響く。
「あ、はい。ありがとうございます」
とっさに、確認もしないでそう答えてしまったが、たぶん問題ないだろう。正直、おしゃれだとかなんだとか、よく分かっていない。今日だって、皆鳥先輩に誘われたから来ただけだ。まぁ……たしかに、頭が軽くなって、さっぱりはしたけど。
黄泉阿代に入ってから一週間、週末の土曜、午前十時。俺は――皆鳥先輩に連れられて、お台場にあるダイバーポリス東京プラザに来ていた。ユニコーンザンダムの実物大の立像があるとかなんとかで、皆鳥先輩はテンション爆上がりだった。
あの人、ああ見えて、けっこうオタク気質なところがあるんだよな。
「おぉ~、ヒバナくん。かっこよくなったねぇ!」
「……べつに。そんなにでもないだろ」
「うんうん、カッコいいよ。生意気なかんじマシマシってかんじで」
それは褒めてるのか、貶してるのか、一体どっちなんだ。
――散髪を終えた俺を待っていたのは、もはやお馴染み、違和感ゼロ、黒セーラーに身を包んだ皆鳥先輩だった。先輩は、人混みの中に紛れていても妙に目立つ、まるで太陽の黒点のような、ひとひら夜を垂らす【黒】のオーラをまとっていた。
さて、次はどこへ行くのだろうか。
何をするのだろうか。そんな期待を素直に口に出せない俺は、いまだ捻くれ者。――いつか、いつか本当の意味で殻を破ることができたなら――。
変わることは怖いけど、怖いからこそ変わりたい。
だからいまは――
「ヒバナくん、こっちこっち!」
この人についていこう。
――
人、人、人。土曜のショッピングモールは人だらけ。人波に流されながら辿り着いたのは、某アパレルショップ。真っ新な衣服の無色透明なにおいと、溢れかえるほどの色彩に呑まれる。そんな色の海に浮かぶ先輩は、揺ら揺ら輝く水影みたいだ。
――ぱっと振り返って。
その長い髪をなびかせる皆鳥先輩。
「ねね。ヒバナくんはどんな服が好き?」
「よくわかんない。おしゃれなんて、意識したことないし」
「えー。ならさ、こういうのはどう?」
そう言って先輩が見せてきたのは――表が黒で、裏が赤の、ダブルフェイス生地のジャケットだった。カッコいい「けど」と悩む俺、まぁまぁ着てみなさいなと先輩に背中を押され、とりあえず試着をしてみて。なんだかんだ言って……、買った。
組織から渡されたクレジットカードでお買い上げ。水傘会長には、本格的に仕事を始めるまでは好きに使っていいと言われているけど、まだ豪遊はしていない。
だってさ、怖すぎるだろ、好きなだけ使っていいって。裏がありそうで。
「ようやく観念したねぇ、ヒバナくん」
この冬を乗り越えるための防寒着と、下着や靴下をまとめて買って、店を出る。手に伝わる紙袋の重さが、これから始まる新生活の重さのようで、胸が高鳴る。
何も言わずに、ただいたずらな笑みを浮かべて、先輩は俺の手を引いた。
*
生まれ、産まれ、埋まれ、膿まれ、巡り巡って、死んで、生まれて、あぁ、私は、懲りもせずにまた、人間に生まれ変わってしまった。社会通念と職業倫理の英才教育に洗脳された正義のヒーロー。守れると思っていた? 当然、守れると思っていた。
君の名前はなんだっけ? いや、私の名前はなんだった。そうだ、新名だ。私は、新名マコト。「フルイド所属の機動隊員であります!」此の命、みなの為に――。
――で、ここはどこですか。
「暗くてなンにも見えないなァ」今日も仕事に行かないといけないのに。
仕事に/死事に、死事に。行き/生きましょう。心臓が痛いです、人の死を見るのが怖いです、化け物と戦いたくなんてないのです――なんて。嘘は良くないよね。
君は街ノ皆を守るヒーローなんだから。ほら、もっと働いて。働いて、働いて、己の命を削って、身を粉にして、働いて。前は前で、上は上で、北は北ですか?
人間、人間、人間、人間、人間、人間……。
「はいっ。今日も国民の安全ノ為に、個の身、最期まで捧げると誓います!」
…………
……
東京テレポート駅のホーム、反響する悲鳴。停車した電車の中から、濁流のような勢いで、人ならざる者が溢れ出す――流体の躰、四肢、揺らめかせながら、生者の命を喰らおうとする化け物――そこへ現れたのは、流動機動隊だった。
黄泉人ではない彼らは、異能を使えない。その代わりに、『倶霊装』と呼ばれる専用の武器を用いる。それは、死者の領域に潜み棲む恐怖と契約し、その身に死の力を宿した、死を以て死を浄化する神の器。
逃げ惑う人々。ホームはたちまち、戦場と化す。――黄泉より出づ化け物、人ならざる者、通称「逆禍名」を狩るスーツ姿の機動隊員たち。その先頭に立つ裏城は、首にかけていた「錨」のネックレスを思いっきり引き千切って叫ぶ。
「――俱霊装・玄天ッ!!」
刹那、空間を裂いて飛び出してきた錨鎖が、裏城の腕に巻きつく――海の底、生きるよりも遠い、死の果てから――汝、その姿を現せ。
「抜錨ォオオ!!」
錨を引き抜いて、あちら側から這い出てきた玄い影。その輪郭は、さながらダイオウグソクムシのような形をしていた。影の名は、玄天/ゲンテン。裏城が使う倶霊装に宿る、死者の領域の住人、由緒正しき妖怪だ。
玄天は裏城の右腕を喰らい尽くし、寄生し、神経、筋肉、骨格と為る。その新たな右腕を振るう裏城――打って、斬って、叩き斬って。飛び散るサカナの肉片。
……、制圧は一瞬だった。
「さすがですっ、裏城管理官!! お見事です!!」開口一番、目を輝かせながら駆け寄ってきたのは、新入りの若い隊員だった。その無垢な瞳を見て、裏城はふいに元仲間のことを思い返す。新名マコト。彼も同じように、汚れのない瞳をしていた。
(ダメだな。今日は妙にアイツのことばかり――)
客も駅員もみな逃げて、がらんどうになった駅のホーム。
裏城は、かぶりを振って何でもない話題を探した。
「そういえば。お前、彼女がいるって言ってたよな」
急に話を振られた隊員の男は、戸惑いながら答える。
「あ、はいっ。それがどうかしましたか?」
「いやァ、もう言ったのかなって。ほら。漁師のことだよ」
「あぁーっ! はい、言いましたよ!」
隊員は、裏城の言葉の意味を理解して頷く。
死者の領域に彷徨う人ならざる者を「サカナ」と呼ぶ。ならば、そのサカナを狩る者は「漁師」と呼ぼうか。これは言葉遊びではなく、情報規制のための隠語だ。
「警察をやめて漁師になったって言ったら――」
「言ったら、彼女さんはなんて?」
「びっくりしたけど応援するよ、って。正直、あまり嘘はつきたくなかったんですけど。仕方ないですもんね」
「まぁ、せめてもうちょっとカッコよければなぁ。公安のコードネームはゼロで、俺たちのコードネームは漁師、お魚屋さんだぞ」
「はは、っすね。たしかにサカナを狩る仕事ではあるんですけど」
――
「へぇー、あんたら若いのに漁師をやってるのかい。えらいねぇ、うちのバカ息子にも見習ってほしいくらいだよ。で、なんの魚を獲っているんだい?」
「あ、ホタルイカです」
(ホタルイカ……っ?!)
皆鳥先輩の言葉に思わず心の中でツッコミを入れる。もうちょっとマシな嘘はつけなかったのだろうか。――ショッピングモールの一階、フードコート。俺と先輩は、その一角にあるたこ焼き屋で聞き込みをしていた。
遡ること、二十分前。
水傘会長から電話がかかってきて。
「――君たちが今いる場所の近くの駅で、サカナが現れたみたいだ。調査してくれ」
休日のお買い物のさなか、突如として任務開始。今に至る。
「とくに変わったことはなかったけどねぇ。……あ、そうだ! あんたたち、たこ焼き食べるかい? おばちゃん奢るよ?」
「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて。ヒバナくんもいる?」
「いる! 食べたいっ!」
なんだろう、ヒーローってこんなに楽でいいのかな。かわいい先輩と一緒にショッピングして、聞き込みしながらたこ焼き食べて――俺は、こんな生活を望んで組織に入ったのだろうか。穏やかで、優しくて、凪のような時間。停滞と、そして浪費。
正直、これ以上を望むのは強欲だってわかってる。
――でも。この身を焦がして変身したあの瞬間の快感が、スリルが忘れられない。アイデンティティ欠乏症に蝕まれた俺の心。まだ、喉は渇き続けたまま……。いつか俺も、何でもない日々を素晴らしいと思えるような、そんな人間になれたらいいな。壊すより創るほうが難しいんだって、わかってる。わかってる、けれど。
皆鳥先輩は、そんなくだらないことばかり考えている俺の口に、アツアツのたこ焼きを突っ込んで言った。「もっと楽に生きなさいな」って。
「ていうかさ、ヒバナくん。なんか上のフロア騒がしくなぁい?」
「はふはうはう」
「あ、ごめん。その状態じゃ喋れないよね。ちょっと私、確認してくる!」
あの人、自由奔放が過ぎるだろ。
置いてけぼりにされた俺を見て、店のおばちゃんが笑う。
「いいねぇ、青春だねぇ。ふっふっふ」
笑ってないで、このアツアツのたこ焼きをどうにかしてくれ。
――
人間、化け物、人間、化け物、人間……。
「あれは人間か? あれが化け物か? よくわかんなィなあ」
ダイバーポリス東京プラザ、東アトリウム。交差するエスカレーターと7Fの螺旋が、人工的な空間の渦を描く。そこに流れる人々は、まるで魚の群れのよう。
その群れの中――
スーツ姿のメガネをかけた男が、独り言をつぶやきながら歩く。
「あれ、私はなンでこんなとこにいるのですか?」
男の記憶は曖昧だった。
ついさっきまで、延々と続く宇宙の彼方へ歩いていたかと思えば、気づけば光の中に立っていた。目が眩むような、生者の世界を染める三原色の光だ。
「働いて、働いて、働いて。あぁ、今日も働かなきゃです」
自動販売機に手を触れる男。すると、自動販売機にぎょろっとした、デメキンのような目が生えて、二足の足が生えて、ひとりでに歩き始める。――ベンチ、ゴミ箱、マネキン、クレーンゲーム機、ATM。男が触れたモノが、次々と歩きはじめ。
やがて、それらは一つの流れとなり、行進と化した。
「異常を発見。――会長、あれってどう見ても『異能』ですよね?」
スマホで水傘にカメラ映像を繋ぎながら、無機物たちの行進を追う皆鳥。その先頭に立つメガネの男を見て、電話の向こう側の水傘が言う。
「その男、見覚えがある。たしか、そう、新名マコト。元フルイドのメンバーだったかな。半年ほど前に亡くなったと聞いているが」
「亡くなった? つまり、黄泉人?」
「可能性はあるね。サカナも現れているようだし、近くで死界域が発生しているのかもしれない。たしか、新名マコトの死因は過労死だったはずだ」
「じゃあ、過労死の能力者ってこと?」
「本当に彼が黄泉人であれば、そういうことになるね」
「――私もそうだから言えるんだけどさ。ほんと、黄泉人のシステムって残酷だよね。自分を殺した死を異能に変えるって、そんなのマジふざけてるよ」
皆鳥の強く握った拳が、静かに震える。
目の前では、新名マコトが旗を振る行進によって、人々が呆気なく、無抵抗に踏み潰されていく。ただ歩くだけ、進むだけで、その轍に血と暴力、亡骸が積み重なっていく死ノ行進。……黄泉人として生き返ったあと、正気を失うケースは多い。
皆鳥やヒバナのように、人間のまま生きられるほうが異常だった。
来っと回って、揺れる皆鳥のスカート。
――彼女の手のひらに、黒いミズクラゲが召喚される。
「ではでは、あとは頼んだよ。私は、君たち黄泉阿代に期待しているんだ」
水傘は最後にそう言って、電話を切った。
「よし、それじゃあいくよ。重力クラゲ。……あ、ヒバナくん置いてきちゃったけど、まぁいっか。たぶんあとで来るだろうし」
黄泉人、皆鳥羽十葉。死因『自殺』――その能力は重力操作だ――宙に放たれた重力クラゲが水風船のように弾け、周囲の重力を、空間を歪ませる。魚眼レンズの如く円形を描く世界――上が下に、下が上に、あべこべな舞台の上で皆鳥が舞う。
繰っと回って、壁から天井へ駆ける皆鳥の姿は、宇宙の踊り子の如く。
天井へ真っ逆さまに落ちて、叩きつけられる新名と、パレードの軍勢――皆鳥は、再び重力クラゲを手のひらに召喚し――弾け、飛び散ったスライム状の流体を弾丸に変えて、撃ち放つ。「もう終わり?」煽る皆鳥。いや、まだ終わっていない。
弾丸に貫かれた自動販売機は、まるで生物のように血を流し、事切れる。
「あァ……!! 許してくれ、サンタマリア!! ほら、ほらもっと働いて、みんな働いて、さぁ!! 個の身、砕けるまで、パレードを続けようじゃァないか!!」
新名マコトが指揮を執れば、動き出す無ノ怪物たち。仕事は終わらない。歯車は、廻り続ける。そこにもはや、感情など無くとも。命など亡くとも。進み続ける。
自分の胸に手を押し当てる新名。そして彼は、怪化/開花する。
「ヴェアアアア!!!」
――徒花を咲かせ、黄泉人。
新名の躰に、背ヒレ、尾ヒレ、鱗が生え、頭部は赤黒く染まった金魚と化す。パレードの軍勢の屍を吸収し、ひとつになり、やがて美しく咲き乱れる死化粧。
怪化した新名は、人間離れした跳躍力とスピードで皆鳥に迫る。
「ウソでしょ、それは避けらんないかも――」
「皆鳥先輩っ!!」
玉響、火花をまとった少年の一撃。そのインパクトで、新名は近くのショーケースへと吹き飛ばされ、割れて散ったガラス片が、光り輝く。ピンチを救って、ヒーローのように登場したのは黒咲ヒバナだ。彼の全身は、揺らめく炎に包まれていた。
ここ一週間のうちに、ヒバナは、黒焦げの天使に怪化せずとも異能を使えるようになっていた。火力のコントロールができないのが、現状の課題点である。
「皆鳥先輩、こいつ敵でいいんだよな?」
「うん。――ありがと、ヒバナくん。助かったよぉ」
皆鳥は、ヒバナに差し伸べられた手を引いて立ち上がる。
「じゃあ、さっさと仕事、終わらせよっか。ヒバナくん」
新名は叫び声を上げながら、肥大化した両腕をムチのようにして、ヒバナに振り下ろす――空を切り裂く音。「今度は私が守る番だね!」皆鳥は重力クラゲを召喚し、空間を捻じ曲げ、透明な盾を生成して新名の攻撃を防ぐ。
狂っと回って、火を熾せ。
全能感に身を委ねて、火力全開で突っ走るヒバナを加速させるように、皆鳥は重力方向を、新名へと向ける。滑り落ちるようにスピードを上げ――ヒバナは、自分自身さえも焦がすほどの業火を腹の底から押し上げ、手のひらから解き放った。
炎の波動は新名のド真ん中を貫く。
――さらば、黄泉の迷い子よ。
「はぁ、はぁ……。みなとり……せんぱい……おれ……」
「あっ。あちゃー、やっぱりねぇ」
力を使い切って気絶するヒバナ。
皆鳥は、そんな少年の頬を優しく撫でながらつぶやく。
「――地獄へようこそ。ヒバナくん」
当然。彼女の声が、ヒバナに届くことはなかった。
*
昼と夜のリミナル、黄昏の淡いオレンジに沈む東京の街並み。
耳をすませば。遠くで車のクラクションが響き、通りを行く人々のざわめきが風に乗って微かに聞こえる。交差点では信号機がリズムよく色を変え、そのたびに人の流れが生まれ、消えていく。生きる音が満ちている。誰も彼も、脈打ちながら――。
どうやら今日は、クリスマスという世界規模のイベントをやっているようだ。青い惑星は期間限定、赤と緑をまとって浮かれ気分。シャンシャンと、鈴を鳴らして。
そんなお祭りの日に俺は、皆鳥先輩に連れられて、新宿にある世界堂という画材店を訪れていた。なんでも、俺にプレゼントしたいものがあるらしい。クリスマスの日にプレゼントなんて一度も貰ったことがなかった俺は、ルンルン気分で今にも踊りだしそうだった。「ちょっとここで待っててね」そう言われ、待てをすること五分。
紙袋を手に、皆鳥先輩が戻ってくる。
「お待たせヒバナくん。じゃ、近くのカフェにでもいこっか」
「あ……、うん。わかった」
――都会のカフェはどうにも落ち着かない。
世界堂をあとにして、俺と先輩が向かったのは、なんかすごくオシャレなカフェ。天井は高いし、光はうるさいくらいだし、知らない洋楽が流れている。
向かい合う形で席に着くと、先輩はさっそく紙袋を机の上に置いた。
「これ、ヒバナくんにプレゼント」
「もう見ていいの?」
「どうぞどうぞ。壊れやすいから、そっとね」
紙袋の中に手を入れる。そして指先に触れる、冷たい何か。
――踊る心。つばを飲み込んで、深呼吸をして、いざ。
「……え、なにこれ??」
頭の上に「?」がいくつも浮かぶ。
「頭のない、天使?」
紙袋の中から現れたのは、言葉通り、頭部が欠けた天使の彫刻――を模して、精巧に作られたミニチュア像だった。よく見ると、両腕も欠けているみたいだ。
皆鳥先輩は抹茶ラテを飲みながら、困っている俺をじっと見る。
「マジでなんなのこれ?」
「それはねぇ、サモトラケのニケっていう彫刻だよ」
「サモ、トラケ? なにそれ?」
「サモトラケ島で発見された女神ニケの彫刻。だから、サモトラケのニケ」
「……早口言葉?」
「ヒバナくんはいま、何でこれがプレゼントなの、って思ってるよね。なんでクリスマスプレゼントがサモトラケのニケなんだ、って」
「うん。めちゃくちゃ思ってる」
「ならよかった。私はヒバナくんにその反応を期待してたんだよ。……前にさ、コインランドリーで言ったこと覚えてるかな。これからふたりで、プロフィールを埋めながら、人間になるための儀式をしていこうって」
組織に入った日の出来事だ。もちろん、忘れるはずがない。
「覚えてるよ。先輩が俺につまんない質問してきたやつでしょ」
「そうそう。でさ、あれからヒバナくんの好きなものは根掘り葉掘り聞いたけど。そういえば、私の好きなものはあまり言ってなかったなぁと気づきまして」
「つまり、このサモトラケのニケが。えっと、皆鳥先輩の――」
「私の好きな芸術作品であり、私の人生に大きな傷跡を残した体験でもあるの――けど、それって所詮、私の主観で。他の人がこの彫刻を見ても、なにも感じないのが当たり前。……でもね。ヒバナくんには、私と同じ傷を体験してもらいたいと思って」
「難しくてわかんない。そもそも、傷ってなんだよ」
「大丈夫、いまはまだわからなくても。いずれ嫌でも理解する時がくるはずだから」
――はじめてのクリスマスプレゼントはサモトラケのニケだった。
皆鳥先輩が言うように、いつか俺も「傷」というものの正体を知ることができるのだろうか。……カフェを出る。いつの間にか降り始めた雪によって、淡い夢のように色褪せていく東京。俺の前を歩いていた先輩が、ふわっと立ち止まる。
振り返って。そして白い息を吐きながら、先輩は言った。
「ね、ヒバナくん。サンタクロースの正体を知った瞬間、私たちはこの世界の住人になったんだよ! 正体なんて知らなければ、ずっと夢の中で生きていられたのにな」
――
都市の中心部から離れた郊外にある墓地。
――裏城は、ある墓の前で足を止め、そっとその前で膝をついた。
「なァ、新名。ぶっちゃけ俺は、自分のことで手一杯でさ、お前のことなんて気にしてられなかった。だから、今さら女々しく謝るなんて、そんなダサいことはできそうにない。その代わりさ、どこまでも地獄を見てやるって覚悟したんだ」
オイルライターでタバコに火を点ける。
「……お疲れ様、新名。来世では良い上司に出会えるといいな」
吹き荒ぶ冬ノ風が――
裏城のコートの裾を揺らした。




