第3話 沈まないボートと浮かぶ記憶――後編――
霧の色が濃くなり、周囲を包み込む。
水面の揺れが止まり、空気がぴんと張る。
湖の真ん中で、少年は膝を抱えたまま小刻みに震えた。
「……ここだ。あの日と同じ」
「見える?」
ミナは視線で促す。
「うん。あの時も霧が出てた。……笑ってたんだ、二人で」
霧の奥に二つの影。小さなボート、笑い声。
波が立ち、次の瞬間――影が傾く。
水が溢れ、“冷たい記憶”が少年の肩にしがみついた。
「……俺が、焦って動いた。だから……」
「違う」
ミナは即答する。
「焦ったんじゃなくて、助けようとしたんでしょ?」
「でも、沈んだのは俺のせいで……!」
「その言葉、何回も自分に言った?」
ミナの声は静かだ。
「“助けられなかった”って、自分に罰を与えるみたいに」
少年の手が震える。
ルイは手綱を握り直した。
「罪悪感ってのは、溺れるより厄介だ。下手に泳ぐより、まず“浮かべ”」
「浮かぶ……?」
「沈むな、って意味だ」
ミナはやわらかく笑う。
「だから、もう一度“浮かぶ”ところを見せよう」
ミナは扉を少し開け、光を湖へ通す。
水面が淡く輝き、馬車は並走した。
霧の奥から、もう一つのボートが浮かび上がる。
そこに――笑って手を振る、少年の友達。
「……!」
少年の喉が鳴る。
「どうして、そんな顔で……」
「“ありがとう”って言ってるんだと思う」
ミナは囁く。
「だって、あなた――最後まで、その子の手を離さなかった」
少年は顔を上げ、前に手を伸ばした。
霧の向こうから、もう一つの手が重なる。
――光が弾ける。
霧が晴れ、湖が陽光を反射する。
友達は微笑んで消え、ボートは穏やかに揺れ始めた。
「……沈まなかった」
少年は呟く。
「うん。ちゃんと浮かんでる」
ミナは笑い、ルイは計器を確認した。
「心も、もう止まってない」
指針は青域。
少年の手のひらに小さな光が生まれる。
「これが……」
「未練トークン。さっき渡せた“ありがとう”の証拠だよ」
ミナは目を細めた。光は風に乗って消える。
★ ★ ★ ★
――現実の厩舎。
ルイは御者台で大きく息を吐く。
「ふぅ……今日の水上運行、無事終了」
「沈まなかったね!」
ミナは手を合わせた。
「沈んだら、俺たちも溺れるぞ」
「それは困る!」
主任が顔を出す。
「おかえり。……で、報告書は?」
「もうできてます。水気たっぷりで」
「紙がふやけて読めねぇ報告書なんてあるか」
「比喩!」
ミナは慌てて手を振る。主任はため息ひとつ。
「で、定期券は?」
「うわ、また!?」
ミナの胸ポケットがピッと光る。
「連続勤務はブラックですよ!」
「未送達の呼び出し、増えてるな」
ルイは眉を上げた。
「次はどんな依頼?」
「知らないけど、きっと楽しいやつ!」
ミナは拳を握る。
「おまえ、トラウマ案件を“楽しい”はやめろ」
「だって最後はみんな笑顔になるもん!」
「……それは否定できねぇ」
霊体馬が軽く嘶く。
風が通り抜け、定期券が淡く光った。
新しい記憶の呼び声が、遠くでチリンと鳴る。




