第3話 沈まないボートと浮かぶ記憶――前編――
霊体馬のたてがみが、朝日を受けて白く光る。
記憶再送課の厩舎。ルイは手綱を点検し、欠伸を飲み込んだ。
「昨日の依頼、結局“乗車拒否ゼロ記録更新”でいいのか?」
「うん! 心はちゃんと乗ってたし!」
ミナは胸を張る。
「物理的には乗ってなかったけどな」
「だから、心が乗ってたって言ってるじゃん!」
「……その理屈、報告書にどう書くんだ?」
「“情緒的成果あり”で!」
「課の経理が頭抱えるぞ」
「でも結果オーライでしょ?」
そんな軽口を言い合っていると、棚の奥でピッ!と音。
ミナは胸ポケットを見る。
「また光った!」
「三日連続か。定期券、働き者だな」
主任が奥から顔を出す。
「タイミングいいな。今日の依頼、もう来てる。キーワードは“漂流事故”だ」
「水上系、久々だな」
ルイは肩をすくめた。
「ボートって、沈みがちだよね」
「沈まないように頼むぞ」
「了解。今回は浮きっぱなしで帰る」
ルイは笑い、ミナは再送札を取り出す。
――再送札を差し込む。
空気がパチンと切り替わり、厩舎の扉が霧の湖へ変わった。
水面に、一艘のボート。中で少年が膝を抱えている。
「今回の依頼人、だよね?」
ミナは扉の向こうをのぞき込む。
「十代か……若いな」
ルイは小声でつぶやく。
霊体馬は静かに進み、馬車は湖上を滑る。
扉の外は白い靄。水の音だけが響いていた。
ボートの少年がぽつりとこぼす。
「……動いたら、沈む」
「え?」
ミナは眉を寄せる。
「このボート、動いたら沈むんだ。だから、じっとしてないと」
ルイは顎に手を当てた。
「あー……危険認識型の未練案件だな」
「どういう意味?」
ミナが首をかしげる。
「“また同じことが起こる”って思い込みで、心の流れが止まってる」
「つまり、魔力が足りないってこと?」
「いや、流れが詰まってるだけ。力はあるのに出せない」
「ああ、つまり“渋滞”ね」
「そう。感情が合図待ちで詰まってる」
「早く通してあげて!」
ミナは扉の縁に腰を下ろし、声を張った。
「こんにちはー! 記憶再送課です! 沈んでないってことは、まだ大丈夫!」
少年は顔を上げず、かすかに答える。
「放っといて。どうせ、また沈むから」
「また、って……前にも沈んだの?」
ミナは声を落とす。少年はうなずいた。
「友達と二人で乗ってて……俺だけ助かった」
短い沈黙。霧が濃くなり、白が車体を包む。
ルイは息を吐いた。
「あー……重い」
「何が?」
ミナが小声で促す。
「“助かったほうが心を沈める”タイプ。罪悪感で動けない」
「動かないボートって、まさにそれだね」
「違う違う、ボートじゃなくて本人のほう」
「ややこしいけど分かる!」
ミナは苦笑して、少し前へ身を乗り出した。
「ねえ。沈まないボートって知ってる?」
「……あるの?」
少年はわずかに顔を上げる。
「うん。ほら、今この馬車。浮いてるでしょ?」
「おい、馬車で例えるのやめろ。説得力が……」
「でも浮いてるのは事実だもん!」
「それは魔力」
「でも、浮いてる!」
ルイは口の端を上げた。
「強引さ、上達してきたな」
少年がかすかに笑う。霧が少しだけ薄くなった。
湖面に、何かがゆらりと浮かぶ。
「……何か、いる?」
ミナは声をひそめる。
「幻影か記憶。どっちでも“浮かぶ”のはいい兆候だ」
ルイは手綱を軽く締める。
霊体馬が歩調を合わせ、扉の外に光の波紋が広がった。
ボートの周りで、かすかな声が重なる。
『……置いていかないで』
少年の肩が震える。
「それ、聞こえる?」
「……あの日の声だ。友達の……」
霧が再び濃くなり、湖面が暗く染まる。
ルイは低くつぶやく。
「深層域に入った。ここから本番だ」
ミナは真剣な顔でうなずいた。
――静かな湖の上で、止まっていた心が、少しずつ動き出す。




