第12話 眠れない車庫と記録の夢――前編――
夜の車庫は、静かに息をひそめていた。
明かりを落とした厩舎の奥では、霊体馬が穏やかに眠っている。
ルイは机に肘をつき、報告書の端を指でなぞった。
何度読み返しても、文字が頭に入ってこない。
胸ポケットに手をやる。
指先に、まだ温もりの残る感触がよみがえった。
――未来便で受け取った、あの真鍮の鍵。
「……眠れねぇな」
独りごちて立ち上がる。
時計の針は三時を少し過ぎていた。
空気は冷たく、紙の匂いだけが残っている。
霊体馬が気配を感じて、うっすら目を開けた。
「起こしたか」
小さくつぶやき、たてがみを軽く撫でる。
その瞬間、毛並みに小さな光が走った。
――車庫の奥で、馬車の扉が微かに揺れた。
閉めたはずの取っ手が、ひとりでに動く。
淡い光が縁からにじみ、扉の向こうに薄い道の影が浮かび上がる。
「……また勝手に、か」
ルイは短く息をついた。
配車札を差していない。呼ばれていないのに、扉が開くのはあり得ない。
馬車の足場を確かめて乗り込む。
座席に腰を下ろした瞬間、世界の輪郭がゆるやかに崩れ始めた。
厩舎の天井が淡く溶け、代わりに白い霧の道が広がっていく。
霊体馬が静かに首を上げ、歩き出した。
ルイは手綱を握ろうとしたが、指先には何も触れなかった。
車輪の音が響く。
だが、その音に紛れて誰かの声が混じっている。
『ルイ、戻って! まだ――!』
聞き覚えのある声だった。
ミナに似ている。けれど、どこか違う。
懐かしい響きが胸の奥をざわつかせる。
視界の先、扉の縁が淡く光った。
その向こうに、人の影が立っている。
制服姿の少女。ガイドの証が胸元でわずかに光っている。
ただ、その顔は霧に溶けて見えない。
「……誰だ?」
ルイがつぶやいた瞬間、馬車が大きく揺れた。
光が一気に広がり、景色が反転する。
そこは古い駅の構内だった。
床にはひびが走り、掲示板の文字はほとんど消えている。
ただ一箇所だけ、欠番の表示だけが残っていた。
ルイは息をのむ。
「ここ……昔の記録区画か?」
霊体馬が足を止め、鼻を鳴らした。
ベンチの上に封筒が一通置かれている。
淡い光を放つ紙。印字された宛名を見て、ルイは動きを止めた。
〈再送課 第九便〉
その便名を見た瞬間、胸の奥が冷たくなった。
記録上から消えた、事故の便。
誰も語らず、報告にも残っていない――“失われた依頼”。
足を踏み出そうとしたが、体が動かない。
まるで、地面に貼り付いたようだった。
「……動けない?」
ルイが眉をひそめたとき、背後から声がした。
「ルイ!」
ミナだった。
息を切らし、馬車の扉からこちらへ駆けてくる。
「お前……なんでここに」
「呼ばれた。たぶん、ルイの夢が扉を開いたんだよ」
ミナはベンチの封筒を見て、顔をしかめる。
「これ、触っちゃダメなやつでしょ」
「……ああ。未完の便だ」
「でも、宛名に“ルイ”って書いてある」
ミナの指が封筒の端をなぞると、文字が淡く光った。
『再送記録:破損。補填ガイドを呼び出します』
足元に光が走り、ミナの姿が一瞬ぶれる。
「ちょっと、勝手に起動してる!」
霊体馬がいななき、光が二人を包み込む。
視界が白に塗りつぶされ、次の瞬間、ルイは御者台にいた。
前方には崩れた街道が続いている。
風が吹き、砂が舞う。
「夢の中でも、ちゃんと動くんだね……」
「心象界の反映だ。俺の記録が動いてる」
遠くで、封筒がひとりでに宙を舞う。
ミナが手を伸ばしかけた。
「ルイ、それ――」
「触るな!」
ルイが叫んだ。
封筒は光を放ちながら弾け、灰になって消えた。
ミナが目を見開く。
「今の、なに?」
「“失われた依頼”。記録上では存在しない便だ」
「どうして消えたの?」
「俺が止めた。あの日、自分の判断で」
ルイの声は低く沈んでいた。
ミナが何かを言おうとしたが、その前に景色が揺らいだ。
扉の縁が閉じ始めている。
「もうすぐ夢が終わる。戻るぞ」
「ルイ、“止めた”って……」
ミナの声が遠のき、光がゆっくり閉じていく。
残ったのは、静かな風の音だけだった。




