第10話 音の記録と、呼ばれなかった声――後編――
広場を抜け、白いカーテンの家の前にたどり着いた。
霊体馬は足を止め、首を下げる。
ルイは手綱を固定し、ミナに合図を送った。
ミナは扉を少し開け、指先で中をうかがう。
空気が冷たい。
棚には割れたガラス瓶と、ひびの入った鏡。
壁には譜面が貼られている。
五線譜の線は残っているのに、音符だけが消えていた。
ルイは眉を寄せ、札を取り出した。
札は弱く光る。
まだ“呼ばれている”。
部屋の奥――椅子に腰をかけた人影。
白いドレスの女性。髪は肩まで、顔は伏せている。
体は透けていて、声もない。
ただ、胸のあたりで淡い光が揺れていた。
ミナが助手席から身を乗り出し、扉越しに女性へ手を伸ばした。
指先が光に触れると、空気が震える。
扉の向こうで、女性がわずかに顔を上げた。
光が反応する。
女性の胸から伸びる線が札へ繋がり、震え始めた。
音の残響――それが“声”の記録だ。
ルイは扉の縁に札をかざし、光を調整した。
店の中に残してきた再生機が、かすかに震える。針が動き、再び溝をなぞり始めた。
光が札を通って女性の胸元へ戻っていく。
何かが始まりそうな気配。
次の瞬間、空気が震えた。
音ではない――それでも、確かに“響き”が生まれた。
女性の口がゆっくりと開く。
声は聞こえない。けれど、その口の形で分かった。
――歌っている。
ミナは目を見開く。
空気がほんの少し、動いた。
針が震え、光が強くなる。
そして――最初の“音”が、広場に流れた。
小さな旋律。かすかで、それでも確かに聞こえる。
ルイは息を止めた。
霊体馬が耳を立て、蹄を鳴らす。
水音。風。鐘の音。世界が、少しずつ戻っていく。
ミナは両手で口を覆い、涙ぐんだ。
女性の声は柔らかく、遠く懐かしい響きを持っていた。
歌が終わると、女性の姿は静かに薄れていく。
最後に小さく頭を下げ、光の粒となって消えた。
静寂が戻る――が、もう完全な無音ではなかった。
風の音。馬の息。二人の呼吸。
音は戻ってきた。
ルイは札を見下ろす。
光はゆっくりと消えていく。
依頼完了。
ミナは涙を拭き、笑顔を作った。
喉を軽くさすり、確かめるように声を出す。
「……聞こえる」
小さな声が、部屋の中に響いた。
ルイはうなずいた。
「戻ったな」
「うん。……音って、あったかいね」
「冷たいよりはいい」
「もー、素直じゃないな」
ルイは少し笑って肩をすくめた。
「素直すぎると、仕事にならないんだよ」
ミナは笑い、肩の力を抜いた。
霊体馬が嘶く。
扉の縁が光り、帰り道が開く。
馬車がゆっくりと動き出す。
外に出ると、鐘の音が二度、鳴った。
もう誰もいないはずの街で、確かに鳴った。
ルイは目を細めた。
「礼だな」
「うん、きっと」
ミナがうなずく。
扉が閉じる。
光が薄れ、音が遠のいていく。
だが今度は、完全な静寂ではない。
帰り道を包む風の音が、確かにそこにあった。




